探偵倶楽部
★★★
旧校舎の廊下の窓から見える中庭に有る大きな桜の木はとても力強くかつ繊細で、とても印象的に感じられた。それはおそらく彼女の名前が『
ただ、惜しまれる事に花の盛りは既に過ぎ、殆どが散ってしまっていた。だが、風が吹く度に大量に舞い上がる花弁たちの群れはまさに桜吹雪。中庭を舞い飛ぶその儚くも雄大な景色を彼女は一人佇み見詰め続けていた。諸外国では入学式と言えば秋が定番。春が入学式と言う国はおそらく少数派の筈だ。
以前、日本も入学式は世界標準の秋にしようと言う案件が国会で議題になった事が有ったが『日本の入学式には桜が似合う』と
温暖化が進む昨今、桜の開花は年々早くなる一方で、そのうち二月中旬あたりに開花宣言が出る様な事態になる可能性が無いとは言えない。そうなったら日本の入学式は二月になるのだろうか。日本の政治家たちの事だからやるかも知れない。と、言うどうでも良い考えが脳裏を過ったその瞬間……
「見つけた、穂唖絽!」
不意に聞こえた自分を呼ぶ声に反応して、その方向に振り向こうとしたのだが、いきなり肩をどつかれて、よろよろっとニ、三歩よろめき、転びそうになるのを何とか耐えたその拍子にちょっと度の強い黒縁眼鏡がずれ、ノームコアショートの前髪がふわりと揺れた。
「な、何するんだ
「入学式が終わったって言うのに何の意味も無く、ぼさっと中庭見詰めて突っ立ってるからだ」
穂唖絽が絃と呼んだ少女は微妙に茶色いセミロングをふわりと靡かせ彼女に背中からべったりと抱きついた。
「ねぇ穂唖絽」
「なによ、暑苦しいから離れろ」
「あなたがしてるその髪型のノームコアってどう言う意味か知ってる?」
絃は穂唖絽の肩越しに抱き付きながら彼女の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「こ、こら、何をする!」
ヘアスタイルを乱された怒りで穂唖絽は思わず叫んでみたが絃は全く反省の様子が無い。
「ノームコアって言うのは『究極の普通』って言う意味よ。あんた何時まで普通を極めるつもりなの?高校生になったんだから少しは変わりなさい」
穂唖絽は絃を何とか振り払うと彼女に向き直り、ぜいぜいと肩で荒い息をしながら彼女を睨み言い放つ。
「私の何処が究極の普通だって言うのよ。私はね、高校在学中に文壇にデビューすると言う大きな野望が有るのっ。髪型は究極の普通でも夢は異次元級の大きさなんだからね」
絃は穂唖絽の前に仁王立ちすると両腕を胸の前で組み顎を引き、少し上目遣いで不敵な笑顔を浮かべると穂唖絽をじっと見つめた。
「何時も聞いてる話だけれど、それは確かに異次元級、究極の普通の対極にあると思う。でもあなた、部活はどうするの?」
穂唖絽は部活の事に触れられた途端肩を落とし、はぁっと大きな溜息をついた。
「それがさぁ、困ってるんだわ、この学校、文芸部が無いんだって」
この、一七夜月かのう学園には生徒全員が部活に所属しなければいけないと言う校則が有る。だが、この学園に文芸部が無かった。穂唖絽は文芸部に入部して小説を書きまくるつもりだったのだが、どうやら別の部に所属しなければいけない事になりそうで悲嘆に暮れていた。運動は苦手だから運動部は有得ないし、他の文化部と言われてもどうもピンと来る物が無い。
そもそも何故、文学部が無いのか。部活が生徒の自主性と行動力を育てると言う学校側の方針なのだが、相反して部活なんかやりたくないと主張する生徒も数多く存在する。その隠れ蓑になったのが文芸部と言う訳なのだ。
在籍人数は多いが殆ど活動の実態は無く文化祭での催し物も開催されない。やる気の無さが目に余ると言う事でかなり昔に廃部になってしまったのだ。
余りにも落胆する穂唖絽の姿を見詰める絃は少し斜に構え直すと右唇を引き再び含むところが有りそうな微笑を見せる。
「穂唖絽、この学校には探偵クラブって言うのが有るんだけど、知ってる?」
穂唖絽はかくんと垂れた頭をゆっくりと上げ、怪訝そうな表情で絃に視線を移す。
「探偵、クラブぅ?」
「そうよ。良く知らないけど、推理小説やら映画やらの同好会みたいなもんなんじゃないのかな。文芸部じゃなくて不本意かもしれないけど、あんたの野望の足しにはなるんじゃない?」
穂唖絽の表情は一瞬呆け、直ぐに瞳に輝きが戻る。
「う、うん、うん、うん、うん、一度見に行ってみる、ありがとう、絃」
「野望を果たせよ穂唖絽」
絃はそう言うとくるりと踵を返し、右手でピースサインを作りながら穂唖絽の前から立ち去ろうとした。
「ところで、絃はどうするの?」
絃は首だけ少し後ろに向けながら穂唖絽に答えた。
「私は吹奏楽続行よ。この学校の吹部は弱小だそうだから
そう言って立ち去った絃の姿が何故か物凄く雄々しく見えた。彼女には中学時代、有るんだか無いんだかよく分からない吹奏楽部を引っ張って、二年でコンクールで金賞を受賞するまでに成長させた実績が有る。
その絃が言ってるんだから三年に成る頃にはきっと県内でも有名な部になっているのだろうなと漠然とでは有るが想像できた。
中学時代、なにをどうしたらそうなったのか詳しい経緯は聞いていないが、改めて絃の事を頼りになる奴だと思った。
★★★
絃の言った探偵倶楽部の部室は西側に有る部室棟では無く旧校舎の一番奥に有った。その入り口に立った瞬間、穂唖絽は得も言えぬ違和感に一瞬たじろぐ。その入り口はまるでお城の重厚なドアを連想させ時代の片鱗すら感じられる高校の備品としては不必要に立派な物だったからだ。
そして、銅製のプレートにはゴシック調の欧文フォントで『探偵倶楽部』と刻まれていた。この扉の風格はこの学園創立以来ここに有る物だと言う事を容易に想像させ、放たれる重いプレッシャーは穂唖絽の心を押し潰し、このまま引き返して何も無かった事にしようかとも考えさせた。
しかし、彼女には野望がある。そう、高校時代を小説漬けの状態で過ごし、文壇にデビューする。何故、高校時代拘るかと言う理由について絃が尋ねた事が有ったが、穂唖絽は何も言わなかったそうだ。何れにしてもここは野望への第一歩、躊躇している訳には行かない。穂唖絽は腹を括って重そうな鉄製のドアノッカーを徐に掴むと、控え目にこんこんと2回ノックした。
「はい、どうぞ」
中から男性の声がした。穂唖絽はドアを開こうとしたのだが見た目通りで非常に重く中々開けない。これは試練だと考えて、身長148センチの体全体を使って渾身の力で抉じ開けると、まず目に飛び込んで来たのは部屋の奥に置かれたペデスタルデスクと呼ばれるアンティークの両袖机、部屋の左脇には4人掛けくらいの皮張りのソファー、右脇には一人掛けの布張りの椅子、中央には木製のローテブル。天井には控え目で年代を感じさせるシャンデリアが吊るされ、壁際にはオープンブックケースがセンス良く何台か配置されていた。
それ程広いとは言えない室内だがその雰囲気はまるで中世ヨーロッパの探偵事務所を思わせる。
ドアをノックした時に返事をしたと思われる男性はデスクに向かい、顔を上げる事無く書類に何か書き込む手を止める事は無く、穂唖絽は無視されているのではないかと言う感覚に襲われて、思わずむかっ腹が立った。
「あのぉ!」
少し強めの声で男性に声をかけたがやはり書類に向かい顔を上げる事は無かったが、彼は穂唖絽の存在には気が付いてるらしく、彼女に対してこう言った。
「どうぞ、お座りください」
その態度にカチンと来た穂唖絽はずかずかっと部屋の中に入ると大きなソファーの真ん中にばふんと大きな音がしそうな勢いで座って見せた。その勢いに気が付いたのか、書類書きに勤しんでいた男性が、ようやく顔を上げた。
「失礼、時間が無かった物でつい、御用件は?」
如何にも愛想笑い的な笑顔を作る男子は細いアンダーフレームの眼鏡越しに穂唖絽に対して観察でもする様な冷たい視線を浴びせた。
「あの、」
穂唖絽がそこまで言った所で後ろでドアをノックする音がした。
「どうかしら、
「ああ、
「そんなに急ぐ事無かったのに、警視庁の役人なんか少し待たせた方が世の為になるわよ」
机に座る男子が木欒子と呼んだ女性は穂唖絽が座るソファーの反対側を通り、彼女が藍澤と呼んだ男子の前に進む。藍澤は彼女を上目遣いに見上げると、今迄書いていた書類を机の上で束ね直してから彼女に渡した。
「キャリア組みだの高級官僚だの何だのかんだ言っても宮仕えの辛い所ですよ。上手くいけば当たり前、失敗すれば罵声を浴びる。そんな生活の中で私たちを頼って来るんですから少しは可愛いと考えてあげるのも筋違いでは無いと思います」
「ふふ、相変わらず優しいわね」
木欒子は受け取った書類に一通り目を通すと、脇に抱えていたバインダーにそれを綴じ、腰まで有る豊かな黒髪を靡かせて、ウィンクでもしそうな勢いの妖艶とも言える表情を藍澤に残しながら部屋を出て行こうとしたのだが、その際に穂唖絽と目が合って、その場で一瞬立ち止まる。
「藍澤君、この子は?」
右目の目尻に有る小さな
「ん、ああ、そうでした。そう言えばまだお話をまだ聞いていませんでしたね」
藍澤はそう言って椅子の背もたれに掛けて有った制服のブレザーを羽織り、椅子から立ち上がる。それ程身長が高い訳では無いが極端に低い訳でもない。軟らかそうな髪の毛と細い眼鏡のフレームが華奢と言う印象を強調している様に感じられたが、どこか偏屈で理屈っぽそうな側面が有る様にも感じられた。
藍澤は穂唖絽の座るソファーの向かい側に置かれた一人掛けの椅子に腰を下ろすと彼女の顔を一度見詰め、何かを告白でもするような口調でこう尋ねた。
「え、と、どの様な事件の御依頼ですか?」
「入部しに来ました」
藍澤は一瞬絶句して膝の上で組んだ両手に視線を落とした後、暫く考えてから再び視線を上げて穂唖絽の瞳を見詰め直す。
「……それは大事件ですね」
藍澤の言葉と同時に木欒子は前髪をを掻き揚げながら小さく溜息をついてみせる。
「失礼ですが、お名前は?」
「一年の庵住穂唖絽と申します」
「私は
木欒子は穂唖絽を見下ろしながら妖艶な大人の笑みを浮かべて見せる。
「木欒子です。この学校では科学と物理を担当しています。授業が始まれば会う事も有るわね」
どちらかと言うと銀座のクラブにでも居そうなも木欒子の雰囲気に穂唖絽は圧倒される。
「それで、ですね庵住さん、その、入部の件ですが……」
そこまで言ったところで木欒子が藍澤の言葉を遮り二人の間に割って入る。
「そう、入部希望ね。それならこれを……」
木欒子は抱えていたバインダーからB5位の大きさの用紙を取り出すと、それを穂唖絽に手渡した。
「入部届、ですか」
穂唖絽が渡された用紙を見てタイトルを棒読みすると、藍澤は少し鋭い瞳で木欒子に抗議する様にこう言った。
「ちょ、ちょっと待ってください先生、良いのですか、新入部員なんて?」
「大歓迎よ。庵住さん、それに記入したら藍澤君に渡しておいて。藍澤君、後で取りに来るからちゃんと保管しておいてね」
藍澤は極めて不満そうな表情を見せたが、彼女はにっこりと微笑んで見せただけで何も答えず探偵倶楽部の部室から出て行った。ばたんと閉じられた扉の音を聞いてから藍澤は椅子に浅く腰掛け天井を見上げて足を組む。
「君はここがどんな部なのか知っているのかい?」
少し飽きれた口調で尋ねる藍澤に穂唖絽は強気の笑みを浮かべて見せる。
「推理小説とか映画とか、そう言う類のトリックなんかを批評し合う倶楽部でしょ?ひょっとしたらオリジナルのトリックなんかも考えたりするんですか」
藍澤は目を閉じ天井を見詰めたまま大きく溜息をついた。
「そんな認識だと思ったよ。いいかい、この探偵倶楽部と言うのは世間で実際に起きた事件に関わる倶楽部なんだよ」
穂唖絽はきょとんとした表情のまま藍澤の顔を見詰め、秒針がきっかり3回転程するまでそのお見合い状態が続いた。そして、穂唖絽が均衡を破る。そこまで付き合った藍澤の精神力もかなりのものだと思われた。
「は?」
「だから、探偵として本当に事件を解決するんだよ」
「浮気の調査とか人探しでもするんですか?」
「うちは殺人事件専門だ」
「殺人?」
「そう、だから中学を卒業したばかりの女の子が付いて来れらる様な倶楽部じゃない。入部は考え直す事をお勧めしますが如何ですか?」
投げ捨てる様にそう言った藍澤は顔を逸らし左手で扉の方を指し示した。
「でも、藍澤部長、殺人事件なんてそんな滅多に起こるものじゃないでしょう?」
「ここ近年のの日本の殺人事件の発生件数を知ってるかい?」
「……じゅ、十件くらいじゃないですか」
「933件を超えてるだそうだ」
「きゅ、933件?」
「ピークだったのは1955年の2119件、それに比べれば半減しているがそれでも年間この位の事件は起きてる、テレビやネットで紹介されるのはそのごく一部でしかない。それに、押し並べて現場は血の海、訳の分からない変死体も多い。それを君は直視出来るのかい?絶対に正直諦めた方が良い。これは君の為に言っている事だ」
そう言って再び穂唖絽に視線を合わせた藍澤の目の前を一枚の紙切れが覆う。
「じゃぁ、入部届けの記入終わりましたもで、よろしくお願いします」
穂唖絽はそう言うとバネ仕掛けの人形の様にぴょこんと立ち上がり、これまたひょこっと一礼した。それに合わせて究極の普通がふわりと揺れる。彼女は拒まれると突っ込みたくなるという厄介な性格の持ち主だから藍澤の態度にかちんと来てしまったのだ。それに、入りたい部活も無い。ならば、この妙な探偵倶楽部とやらで3年過ごしてやろうと心に決めたのだ。
「悪いが、新入部員の相手をしている時間は無いんだ」
藍澤は入部届けを眺めながら溜息と共にそう言ったが穂唖絽はそれを気にする事は無かった。
「大丈夫です、自分で適当に何とかしますから」
顔を上げた穂唖絽は極めてお気楽にそう言ったが、これが苦悩と紆余曲折の3年間の始まりとはこの時まったく考えていなかった。そして、事件は既に起きていたのだ。
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