過去からの誘惑
過去からの誘惑
★★★
「夏川翔子さんで間違いないと思います」
穂唖絽は部室のソファーに座り膝の上に手を置いて、はっきりと藍澤にそう言った。
「なるほどね、まぁ、今迄の説明を聞く限りでは納得行く選択だと思う」
一人掛の布張りの椅子に座る藍澤はそう言ってから足を組み替え浅く座わり直すと溜息交じりに天井を見上げた。
「次に問題になるのは夏川翔子が誰に向かって話かけているかと言う事だ」
「……それで、ちょっと教えて欲しい事が有るんですが」
「ん?」
「夏川さんって、どこの中学出身なんですか?」
「出身中学、それがどうかしたのかね」
「はい、可能性が有るとしたら中学時代の関係者なのかなって、何と無く思って」
少し自信なさげにそう言った穂唖絽の話を聞いて、彼女の後ろの壁にもたれかかって立っていた木欒子が口を開く。
「夏川さんは確か東中だと思ったけど」
「そう、ですか」
穂唖絽は少し考え込んでから、ソファーに膝を立てて木欒子の方向に向き直ると更に自信無さげにこう尋ねた。
「東中でここ最近、何か大きな事件とか無かった、ですよね」
穂唖絽の質問に木欒子は小首をかしげて見せただけだった。もしもそんな事件が有ったとすれば、ニュースやワイドショーが放って置く訳が無い。今頃連日大騒ぎになっている筈だ。穂唖絽は視線をモザイク模様の板張りの床に落とすとソファーの背もたれにだらんと洗濯物の様に引っ掛かる。この際、直接夏川に聞いてみようかとも思った瞬間、絃の言葉が蘇えり思わずはっとする。
「木欒子先生、あの席、やっぱりだだの空席なんですか?入学式直前に入学を辞退したとか病気か事故で亡くなった人とか、居ないんでしょうか。その人が座る為の席だったとしたら、夏川さんはその人に向かって話してるんじゃぁないですか?」
木欒子後ろでに組んでいた手を胸の前で組み直し、天井を見詰めて少し考え込む。
「そうねぇ、そう言う話は聞いて無いわ。でも、公になって無いだけで校長とか教頭、あと、担任の小笠原先生は何か知ってるかも知れないわね」
穂唖絽は消え入る様な声で木欒子に尋ねる。
「あの、何と無く聞いてみて貰える事って……出来ない、ですよね」
穂唖絽の縋すがる様な視線を見た木欒子は小さく溜息をついてからちょっと困った様に微笑んで見せる。
「しょうがないわね、可愛い新入部員のためならちょっと骨を折ってみますか」
「お願いします!」
穂唖絽は木欒子に向かって手を合わせると思い切り頭を下げる。
「だとしたらこの件には事件性は無し。分かった時点で終了、それで良いね庵住君」
藍澤は少し冷たい口調で穂唖絽にそう言うと椅子から立ち上がり机に向かって歩き出す。窓から差し込む夕日の紅が部室全体に差し込んで部屋全体がぼんやりと浮き上がる。穂唖絽は思った。藍澤は事件性無しで終了と言ったが何か絶対有る筈だと。
★★★
木欒子の様にクラスの担任では無く専門分野の授業だけを担当している教諭には授業が無い時限がたまに有る。そして、穂唖絽のクラスの担任である女性教諭の小笠原は音楽の教師で、木欒子と立場が同じだった。そして今、職員室には木欒子と小笠原の二人だけ、小笠原は次の時限の授業の準備で忙しそうに机に向かい何かを纏めている様だった。その様子を暫く眺めてから木欒子はさり気無く小笠原に声を掛ける。
「あの、小笠原先生」
しかし小笠原は木欒子の問い掛けに気付かなかった。彼女はかなり忙しく時間に追われているらしい。しかし、その程度で木欒子は引かない。
「小笠原先生」
木欒子の声のトーンが一つ上がり、二人以外誰も居ない職員室中に響く。
「あ、は、はい、何か?」
小笠原は大学時代声楽を専攻していたそうで40代も後半に差し掛かるのにその声は良く通る。小柄で金属フレームの眼鏡姿はいかにも音楽家と言う雰囲気を纏い、物腰の柔らかさから生徒たちの受けも良い。
「少し、立ち入った話をして宜しいですか」
妙に改まった木欒子の態度に小笠原はちょっと怪訝そうな表情で返事をする。
「え、ええ、まぁ、話の内容にもよりますけど……」
木欒子は徐おもむろに立ち上がると小笠原の席に向かってふらりと歩き出す。
「先生のクラスは教室のほぼ中央の席一つ、空席になってますよね。あれ、どうしてですか?」
そう言いながら木欒子は小笠原の隣の席の椅子に座ると彼女の顔をじっと見詰める。小笠原は突然の質問に少し戸惑いながらも予想通りの答えを口にした。
「え、あれ、ですか?あれには別に何の意味も、有りませんが」
殆ど躊躇する事無く答えた小笠原の態度に不自然な印象は感じられなかった。しかし、少しプレッシャーを与えたらどうなるか、木欒子は試して見る事にした。
「本当にそうですか?少し不自然過ですよね」
「いえ、それは……」
「ご存知のとおり、一年生の席順はあいうえお順ですよね。なら、中央に空席なんか出切る筈は有りませんよね」
「その、本当に何でも無いんです。偶然が重なっただけで……」
「偶然の起り様は無いと思いますけど?」
木欒子は机に頬杖を着くと少し顎を引き、上目遣の視線を小笠原に送る。その態度は酷く威圧的で相手を見下している様にも感じられる。しばしの沈黙の後、木欒子は小笠原の視線が泳ぐ瞬間を見逃さなかった。
「聖職者の嘘はいけませんよ、先生」
「あ、あの、本当なんです、本当に意味は……」
「有るんですよね?」
小笠原の言葉を木欒子がひったくる。その一言が小笠原の心を凍らせる。木欒子の迫力に小笠原の表情が少し蒼ざめ、ひしひしと重くなって行く重圧から逃れる為に視線を逸らそうとするのだが木欒子の術中に捉えられつつ有る彼女には、それすら出来そうに無かった。
木欒子には小笠原の唇が少し震えているのが分かる。自分の威圧に脅えているのか、それとも秘密を打ち明けようか打ち明けまいか葛藤しているのかは不明だが彼女は木欒子に屈しつつ有る。
「も、木欒子、先生……」
そこで一旦言葉を区切り辺りの様子を伺って、職員室に誰も入ってくる気配が無い事を確認してから伏目がちな視線で再び語り始めた。
「……実は、あの席に座る予定だった生徒は、入学式の直前に失踪してしまったんです」
木欒子の瞳がぴくりと動く。
「失踪?」
「はい、失踪届けは親御さんから提出済みだそうで、捜査は行われている様ですが公にしないでくれと言う事を警察には伝えて有るという事です」
「だから学校でもその事は秘密になっていると」
「ええ、校長と教頭から絶対に誰にも言わない様に釘を刺されておりまして……あの…」
小笠原は突然視線を上げて木欒子に縋すがる様な視線を送る。
「木欒子先生、この事は誰にも」
「ええ、勿論誰にも話しませんわ。私の胸の中にだけしまって置きます」
にっこりと笑って答えた木欒子の表情を見て小笠原は安堵の表情を見せる。しかしその微笑みは偽り以外の何物でもなかった。
★★★
「ならば、伝を頼りに当って見ますか」
藍澤はそう言うと制服の懐からスマートフォンを取り出すと、アドレス帳から一人の人物を選び耳にあて、その人物が出るのを待った。
「あのぅ、木欒子先生」
肩を丸め猫背で部室のソファーに座り込む穂唖絽は隣に座って今迄の経緯を説明し終えた木欒子を上目遣いに済まなそうに見上げながら遠慮がちに訊ねて見た。
「あのぉ……」
「なあに、庵住さん」
「部長はどこに電話かけてるんですか?」
その質問に木欒子はにっこりと微笑みながらこう答えた。
「警察よ」
穂唖絽の瞳が必要以上に大きく開かれ、ぱちぱちと2、3回瞬きをしてみせる。
「警察、だって、小笠原先生は黙っててって」
「ふふ、黙ってたら話が進まないでしょ」
「それはまぁ、そうですが……」
二人の会話に藍澤が割り込んでくる。
「木欒子先生、直ぐに来てくれるそうですよ」
「そう、仕事が早い人の事、大好きよ」
藍澤と木欒子がにっこりと微笑み合う。穂唖絽はその意味が分からず、二人を交互に見るしかなかった。
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