電灯を嫌う詐称者

山田湖

或る男の話

「人の心って、案外単純なんですよ」

 隣の男はグラスの中のドロッとした液体を見やりながら呟いた。それはまるで独り言なのかと思うほど小さく、私はつい横目で隣の男を見やる。彼はグラスをワインを飲む直前のようにくるくる手首だけで回している。グラスの中の液体はこぼれるかこぼれないかの狭間で渦を作り、くるくるぐるぐる回っていた。

「それ、ウイスキーだぞ」

「僕はこの粘性の液体が回るのを見るのが好きなんです」

 今流れているのはドビュッシーの『月の光』。その穏やかな旋律は薄暗いバーの雰囲気とは合ってはいるが、客の人相とはかけ離れすぎて不協和音を奏でている。私は目の前でシャカシャカと名前のわからない金属を振りまくっているバーテンダーを眺める。きっとこいつは夢の中でもカクテルを作り続けているのだろう。


「私にできることなら、何でも言って。力になるから」

「ありがとう。なら、新しく事業を始めたいんだ。お金のほう。よろしく頼むよ? これが終わったらふたりで海外旅行に行こう」

 私の後ろのテーブル席では、なにやら年の離れた男女が何やらこそこそ話し合っている。女のほうは何やら緊張しているのか、もう氷しか入っていないグラスにちびちび口をつけている。一方の男は意気揚々といった風にカキの燻製をフォークで突き刺していた。男のほうは結婚詐欺師、女のほうは騙されている被害者だろう。後ろの男の顔は私の仲間内でも出回っている。

「はは。あれは2000は軽くいかれますね」

 隣の男も後ろの二人の話を聞いていたようで、小声で気の毒そうに、だが少し楽しそうに囁いた。

「まあ気の毒だな。それで話の続きは?」

「あ、どこまで話したんでしたっけ?」

「人の心が単純ていうところ」

「あ~そうだそうだ」

 どうやら隣の男は話が行ったり来たりする質なようだ。


「僕は昔、詐欺師だったんです。それで今は足を洗っているんですが、やっぱり単純ですよ。人って」


 私は隣の男の印象を変えなければならないようだ。ナマケモノのようだと思っていたその瞳は狐の目のように鋭く、相手の隙に付け入ろうとしているように見えてきた。

「あ、今警戒しましたね」

「よくわかるな」

「まあ、顔色を見るのが仕事ですので。少しでも雲行きが怪しいなと思ったら逃げるのが吉です」

「まあそうだろうな。それで続きは?」

「人の心は救いなしには、そして一人ではただただ腐っていくばかりなんです。だから……偽のおまじないだとか壺だとかに引っかかる人がいて、自分の心に平穏をもたらしてくれる人がピンチならお金を払う。人の心は植物みたいなものなのです。栄養がないと生きていけない。あ、そういえばこれ面接的な何かですよね。お話しましょうか? 僕の、過去の経歴について」

 私はグラスの中のソルティードックを一口飲み、舌の上で転がした。グラスの上の塩のしょっぱさを感じた後、グレープフルーツの酸味が洪水のように押し寄せてくる。どうやらこの後の話は、この飲み物無しには聞くことが精神的に大変になりそうだった。


「僕はまあ、恥の多い人生を送ってまいりました。もともと裕福でない家庭だった上に父がギャンブラーだったんです。いや、仕事はしっかりしてたんです。僕たちのために金を使わないみたいな」

 隣の男のグラスを持つ手に力がこもる。この男が私に初めて見せた強い感情の現れだった。

「あげく、負けて帰ってきた日には不機嫌で不機嫌で、僕たちを殴りはしなかったものの、家の空気は最悪でした。せっかく母が作ったご飯も食べずに酒におぼれていたんです」

「……ある意味、殴ってくるより面倒だな」

「でしょう?」と男は困ったように微笑んだ。私はソルティードッグに口をつけたが、私の味覚が感じ取ったのは、グラスの淵に残された食塩の塩味だけだった。

「母はある意味、植物のような人でした。僕の前では涙一つも見せず、ただ父のやることも仕方がないねと笑って受け流している、そんな人だったんです。でもたまに、母はぼくにおまじないをしようと、外に連れ出したんです」

「おまじない?」

「はい。紙に嫌なことを書いて、紙飛行機を作って屋上から飛ばすんです。母は紙の中を絶対に私に見せようとはしませんでした。多分、母が唯一笑い以外の感情を出したのはここ以外ない気がします。まあ、そんなこんなで放置気味だった父親に構わなければ平穏だったんです」

 私は「平穏」と過去形で表現しているあたり、彼の人生の転機はここだろうとぼんやりと考えた。後ろの男はジンをちびちび飲んで、自分がいかに金を稼ぐ才能があるのかを隣の女に意気揚々と説明している。私の目の前にホワイト・レディが置かれたのを見た彼はチーズを一枚咀嚼するとまた話し始めた。

「平穏というのは長く続かないもので、僕が中学3年生になってすぐ父が詐欺にあったんです。あの時はすごかった。父は家で暴れまわり、母は失った分のお金を取り戻そうと今までにも増して必死に働きました。今考えれば母の行動は手放しで賞賛できるものでしょう。でも当時の僕は母を恨んだ。なぜなら学校から帰れば父がいたからです。母親という防波堤もなしに父と向かい合うことは僕にはできなかった。だから、僕は繁華街で遊んではできるだけ父と一緒にいる時間を減らして過ごしていたんです」

「詐欺の伝手もそこから?」

「ええ。少しガラの悪い友人から紹介されまして。まあそうやって父と一緒にいる時間を減らしたのはいいもののある日、私が夜10時くらいに帰ると血走った眼をした父が玄関前に立っていたんです。そして父は私の首を絞めながら酒臭い口でこう言ったんです。『お前が取り戻せ。なにがあってもお前が奴らを地獄に叩き込め。殺せ殺せ殺せ殺せ』とね。怒鳴るわけでもなくただただ静かな声でそう言い続けた。この時、もう父親は狂いきっていたんだと思います。その次の日、父は首をつって自殺しました」

 私はバーの空気が冷たく、暗くなっていることに気が付いた。後ろで騒いでいる男はそんなこと気が付かないみたいだが、彼が話を始めた途端に澱んだ空気が私を包んでいる。この男が詐欺師というのは嘘ではないらしい。場の空気を支配する話し方を心得ているのがよくわかった。

「まあ、あんな奴のために復讐するなんて絶対嫌だと思っていた僕は当然何もせず、ただいつも通りの日々を送りました。でもあのくそ野郎はそんなこと許してくれなかった。毎日、毎日毎日毎日あの時の言葉が父の血走った眼と共に思い出されるんです。授業を受けているとき、トイレに行っている時、友達と話している時……どんな時でも思い出されるんです。もしかしたら父は幽霊となって僕を見ているのではないか、そんな馬鹿げたことも本気で考えた。それくらい、ひどかったんです」

「それで……詐欺グループに入ったのか」

「はい。正直、父の呪いを解くためにはそれしかなかったんです。それで繁華街をぶらついていた時の伝手で詐欺グループに入りました。運がよかったんでしょう、彼らのリストを見たら父の名前が書いてあったんです」

 運がよかったというより必然的だろうと私は彼の言葉を聞いて思った。この手の詐欺グループは地域ごとで組織の根を張っていることが多い。ある程度広範囲で詐欺を行ってしまうとほかのグループだったりと競合したり、警察や大規模な反社会勢力に目を付けられかねないからだ。

「入ってから1週間ほどは『受け子』の練習をしていたんです。その時に、『掛け子』が掛けていた電話の住所を暗記して、そこの被害者を装って通報しました。そのすぐあと、そいつらのアジトの隣の住人を装って隣がうるさいと通報したのです。日本の警察は優秀ですね。それだけで関連性に気が付いて、そのグループは壊滅しました」

「お前は捕まらなかったのか?」

「はい。かなり離れた場所で電話をかけたので」

 彼はそうあっけらかんとしているが、なかなかにやっていることはえげつない。かなり頭が回る人間だけに敵に回したらなかなか怖いなと私は心の中のメモ帳に注意書きをする。

「それでもうあとは普通に生活したのか?」

「いいえ。ここからが本題です。僕はもともと裕福な暮らしをしてこなかったうえに、父の血は僕にもしっかりと流れていたのでしょうね。憑りつかれてしまったんです。あんなに簡単にお金が入ってくるおまじないに。おかしいですよね。おまじないを売る人間がおまじないにはまるなんて。僕は高校に入学した後、別の詐欺グループに入りました。そこで詐欺のノウハウを学び、ぐんぐん成長していったんです。そして組織の中核を担うようになった時、僕は独立して新たな詐欺グループを立ち上げたのです」

 彼はマスターにマティーニを頼むと口をもごもごと動かした。長い間話したので口の筋肉が疲れたのだろう。それにしても、嫌いな父親を破壊した詐欺師に息子である彼がなるとは事実は小説より奇なりというやつだろう。

「それくらいからインターネットが発達して、僕はネット詐欺にも手を出し、それそれは大儲けできました。正直、あの時が一番人生でお金が入り込んでいたと言っても過言ではないほどです。でもね、やっぱりどこかどんどん乖離していくものだと思います」

「乖離?」

「はい。最初はゲームのような感覚だったんです。あの時は良心が麻痺していたものだと思ったんです。もう自分には躊躇が無くなっていて、ただただ人々からお金を毟り取るだけの機械になっていたと思っていました」

「機械か」

「昆虫学者が昆虫を殺すのに罪悪感を覚えにくいのはなぜか? それは今後の研究に役立てるという大義名分があるからです。僕が詐欺をするのはただただ生きるためという大義名分があるから。だから罪悪感を消し、ゲーム感覚でやってると思い込んでいた。しかし、あくまで罪悪感は乖離しただけだったのです。そして被害にあって泣いている人を目にする度にそれは気が付かないうちに大きくなっていった。悪人にとって罪悪感は腫瘍のようなものなのです」


「僕はある日、捨てられていた子猫を拾いました」


「僕はある日、妊婦の方に優先席を譲りました」


「僕はある日、盲目のおばあさんを助けました」


「そして、そのおばあちゃんに、貴方のような人がいるならこの国はまだ大丈夫と言われました」




「……なるほど。無意識に、心のバランスをとっていたのか」

 よく聞く話だ。だが私は彼以外にそういった人物を見たことがなかった。私の職業は彼らのような犯罪者を多く見るはずなのに。

「ええ。その言葉を聞いて、ずきりと胸が痛んだ。でも僕のすることは変わらなかった。人々からお金を毟り取り続けました。それから3年後、母が倒れました」

「……」

「そんな顔しないでくださいよ。今もぴんぴんしているんですから。……母は僕のやっていることを知らなかった。ただのサラリーマンとだけ伝えていましたし、本当に徹底的に隠していましたから。それで僕は母の搬送された病院まで駆けつけました。母は風邪をこじらせて肺炎になっていたんです」

 後ろで騒いでいた男は酔ってきたのか呂律が回らぬ舌を必死に回転させてまだ女に自分がいかにすごいのかを力説していた。私は後ろの男が金髪で、耳に華美なピアスをしていることに初めて気が付いた。


「僕は母が寝かされているベッドわきで本を読んでいました。人間失格という本で偽の商談を持ちかけた社長からおすすめされたものでした。それを読んでいると母が目を覚ましたんです。母は僕を見た途端に近くにあった裏紙で


紙飛行機を、作ったんです。昔やった、あのおまじないです。


そして『押しつぶされそうな顔して、ほらこれで吐き出しなさい。いい、大事なのは仕事でも何でもないの。ただ自分と身の回りの人たちが穏やかなら、それでいいの。たまには逃げなさい』と言ったんです」


「……それがきっかけとなったのか」

「はい。なんかもう、やめようという気になったんです。まず僕は構成員に逃げるなら逃げろと伝えました。構成員の中には恵まれない少年少女もいて、彼らをこっち側に引き込んだのはまず間違いなく僕です。そのあと僕は警察に自首しました。その時逃げ出した構成員のことは話さず、僕についてきて一緒に自首してきた数人のみで行ったと警察には伝えました。それが正しいことではないのは分かっています。でも僕には彼らを売ることはどうしてもできなかった」

「そして出てきて今に至る、か」

「はい」

 彼はすべてを語り終えると一息ついて、もうぬるくなったマティーニを飲み干す。私は正直、彼を軽蔑すべきか否かまだ判断ができずにいた。いや、そもそも人の人生に軽蔑や賞賛を与えて評価をつけるなんて、海の水を飲み干そうとするより無駄な行為だ。

「それで、お前はなぜ、私のところで働きたいと思ったんだ? 俺はただの探偵だ。世間一般に知られているような普通の探偵だぞ?」

「それは貴方がよく少年犯罪の事件解決に携わっているからだと聞きしたからです。彼ら少年は、まだ照らされる光がないと飛び立つ方向が分からない雛鳥です。この現代には彼らを間違った光で照らして悪用しようとする大人が多くいる。実際僕もその大人のうちの一人でした。僕は彼らに光を当ててあげたいのです。飛び立つものの判断力を失わせ、間違った方向に誘導する人口の光ではなく、すべてを温かく包む月のような明かりを」

 彼の口調こそ冷静そのものであったものの、紡がれる言葉の一つ一つに熱がこもっているのがよくわかる。

「……そうか。まあお前のその話術や人を見る能力は役に立つだろう。しかし、大事なのは今お前が語ったその意志だ。意志さえあればいいっていうもんじゃないが意志がないとひとはなんもできない。泥臭い理想を掲げるならなくてはならないものだ。……努めゆめ、その在り方を損なうな」

「ということは」

「採用だ。今日からよろしく頼む。早速だが、お前に一つ仕事を任せよう。……分かるな?」

 私は彼を見て笑みを作る。この表現だとこの笑みは偽物のように思えてしまうだろうが、私は本心から愉快に思っていた。きっと彼は私以上の何かをこれから成し遂げるだろう。ならせめて私は彼の歩む過程を特等席で見せてもらおうではないか。


「はい。わかりました」

 彼は私の言ったことを理解したのか、にやりとした笑みを顔に浮かべた。


 そして、席を立ちあがると、後ろの金髪ピアス男の顎を思い切り殴る。男はそれだけで気絶したのか、カキの入った皿にその頭を沈めた。

「なんだ、見た目に反して案外弱いな。マスター、こいつ縛り上げといて」

「かしこまりました」

「ちょ、ちょっと!! いきなりな、なにを!?」

 男の隣に座っていた女は突然の展開に理解が追い付いていないようで、彼を怯え切った眼で見つめて、小鹿のように震えている。彼はそんな女の前に膝をつき、目線を合わせると、手品師がトランプを取り出すように指の間から一枚の白いカードを出現させた。


「こ、これは?」

 女は手汗の滲んだ手でそれを受け取る。その白いカードには、警察の詐欺被害対策窓口の電話番号が書かれている。

 彼はまだ震えている女に、柔らかい笑みを向け、きざったらしく言った。


「おまじないを解くための、おまじないです」







《了》

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電灯を嫌う詐称者 山田湖 @20040330

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