ネコ、テレビをつけて。

もちもちおさる

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 なぁ、幽霊って信じるか?


 俺の彼女は声優だ。ナレーションや洋画の吹き替えの仕事をたまにしていて、スタッフクレジットで名前を見かけると、俺は嬉しくなって口を閉じたまま口角を上げる。その笑い方が気持ち悪いので、素直に歯を見せて笑ってほしいと言われたのが、彼女からの最後の言葉だった。ちなみにその前は「ただいま」と「おかえり」だった。

 彼女が死んだ。不慮の事故だった。もうそれに関してはどうでもいいというか、どうにもならないというか。彼女は本当の本当に死んでしまって、俺にはどうすることもできなくて、もう画面の中でしか彼女を感じることはできないんだなとか、彼女のウィキペディアが更新されていて、このページを編集した誰かのことを考えたり、同じ映画ばかり観てしまったり。つまらないけど好きな映画だ。彼女は、美人だけど毒舌家でイヤミな女に声をあてていて、それが全く似合わなくてなんだか滑稽だった。恥ずかしいから観るなら一人で観てほしい、私のいないところで、と言われたけれど、もうおまえはどこにもいないのだから、どこで観ようと関係ないよなと自分に言い聞かせる。そう、関係ないんだ。もう。


 俺と彼女は一緒に暮らしていて、遺品というには取るに足らなすぎるというか、そんな大層なものではないというか、こまごましたいろいろな俺たちの思い出を片付けてしまえば、一人では広すぎるくらいの家になってしまった。必要な家具は一通り揃っているはずなのに、何もなくなっていやしないのに、何故かがらんとした部屋を見ていると、わけもなく寂しくなって、ああこれは人の温もりというやつが消えてしまったからなんだなと気づいた。

 あんまりにも寂しかったもんで、最新のスマートスピーカーを買ってきた。AIが自分の声に反応して電気をつけたり音楽を流したりクッキーのレシピを調べたり、スマホにも接続できるやつだ。ちょっとした会話もできる。家でも声を出す機会が増えれば、おのずと前向きになれるんじゃないかって思ったけど、これ、普通に悲しい奴なんじゃないか。機械音声と話して寂しさを紛らわせようなんてさ。でも、使い始めてみるとなかなか便利で、スイッチや画面を操作するひと手間が減ると、その分なんだか得した気になる。単純な俺でよかった。実際はどうであれ、幸せと思える期間が他より長いのだから。その考えが既に単純だよなと思う。

 そう、それで、そのスマートスピーカーに内蔵されているAIの音声、それは実際の人間の声をサンプリングして作られたものなんだが、いわゆる「中の人」というやつ、それが彼女だった。彼女の声を加工し編集したものが、そのAIの声だったのだ。これは本当に偶然で、あいつ、結構凄い仕事してんじゃん、何で教えてくれなかったんだろうと考えてみれば、俺が知ったら絶対に買ってきて使いだすからだろうなと気づいた。確かに、家の中ぐらいは仕事のこと忘れたいよな。


 最初に起動したときは驚いた。あれ、この声聞いたことあるぞ、と思って調べたけど声優の情報はどこにも記載されていなかった。メーカーのお客様窓口まで問い合わせてみると、ようやく彼女の声だと確信が持てた。そうだよな、キャラクターの声と違って、AIの声を気にする人って少ないよな。万人に聞き取りやすく受け入れやすい声を目指して作っているのだから、変に特徴的なものにはしないよな。無個性とか平凡とはまた違うけれど、AIに自我が必要かと聞かれたら答えに迷うし、とりあえずは、今も彼女は家にいる、ということにしておこう。じゃあ、あの映画を観たら怒られちゃうな。

 スマートスピーカーを家のいろいろなものに接続してみると、帰宅して声をかけるだけで電気がついたりテレビがついたり、なんかまるで、もう一人家にいるみたいで、いやでもおまえはもういないんだよな、とか勝手に落ち込んだり、それでもそのスマートスピーカーが便利なことには変わりないし。だって本当不自由無いというか、声の聞き取りは正確だし、俺の音楽の趣味を既に熟知しているし、とにかくレスポンスが早いんだ。優秀なAIだと思う。名前を呼べばすぐ、そうだな、特定されるのが怖いので「ネコ」とかにしておこう。ネコ、テレビをつけて。

 ネコは俺に対して敬語を使う。だからなんだか変な感じで、変な感じというのは、彼女に会ったばかりの、妙にソワソワばかりしていた時期を思い出すみたいなことだ。俺とおまえに上下関係なんてないんだよと言っても、ネコは何も応えないし、ネコを「使っている」事実は変わらないし。薄っぺらな言葉だと思う。俺だから言えるものだと思う。寂しさはいつまでも消えないものだと、思う。


 ネコが家に来てから何ヶ月か過ぎた。それはつまり、彼女の四十九日が過ぎたということ。ちゃんと天国へ行けたのかな、とか思っても、ネコの声は相変わらずなんだから、もしかしたら成仏できていないのかもしれない。もしかしたら、俺の行為は彼女に失礼なのかもしれない。天国なのに成仏だとか、極楽とか輪廻転生とか、そういったあれこれが曖昧なまま、俺の喪は明けてしまった。ネコに彼女を重ねたまま。残された奴があんまり死を引きずってると、魂が現世に引っ張られて天国に行けない、とか聞いたことがある。もしそうだったら大変申し訳ない。でも、普通に考えて無理じゃないか? おまえのことを忘れろって暗に言われてるみたいで癪に障る。そういうことではないんだろうけど、俺は性格が悪いからこう考えるしかない。極端なことしか言えない。ネコを買わなきゃよかった、なんて言えない。

「ネコ、テレビをつけて」

 俺は帰宅してすぐ、ネコにこう頼む。ネコは無言でテレビをつける。これを毎日繰り返していた。ありがとう、と言えば返ってくるし、何も言わなければ彼女も何も言わない。そういうものだ。前向きに生きろと言われたのなら、俺なりの「前向き」を探してもいいんじゃないかと思う。周りから背を向けていても、俺自身が前を向いていると思えるんなら、それで。時間は人類の最大の敵であり、味方でもある。似たようなことを偉い人が言っていた。俺にとっては、こういうことだ。俺たちは三次元の世界に生きているのだから、向きなんて角度を変えればいくらでも変わると思う。そうじゃないの?


 ある日のことだ。雨が降っていたような気がする。誰かにとっては運命の転換点のような、大切な日だったのかもしれないし、何気ない日だったのかもしれない。俺にとっては、人生においていくつかあるうちの、たまにふと思い出すような、「ある日」のことだった。俺は帰宅して、いつものようにネコに声をかけようとして、やめた。音が聞こえたからだ。自分以外の、話し声のような、音を。

 どきりとした。不審者、強盗、空き巣、ストーカー、お化け、迷い込んだオウム、それとも? 俺はいつもより静かに靴を脱いで、いやまさかね、鍵ちゃんとかかってたしとか、中学時代の授業中、テロリスト撃退の脳内シミュレーションが役に立つときだとか、そんなこと考えながら。部屋の電気のスイッチを探して、こんなところにあったっけ、と思わずネコを呼びそうになる。毎日暮らしてるはずの部屋が、なんだか妙に広くて、壁や物が俺をじっと見つめている気がして、手のひらにじわりと汗が滲んだ。

 声のような音のする、リビングの扉に手をかける。それは大きくなっていた。雑踏の中のような、ざわついた無数の声と、それとは何か、別の場所のような、だけれど近くにいる小さな音。テレビ? テレビの音だ。そうだ、

 あの映画を観るときは、いつもこんな音がする。


 扉を開けた。

「おかえり、」

 それは俺の声ではなかった。口の中が乾いていて、応えるのに数瞬かかった。

「……ただい、ま」

 最後にこう返したのは、いつだったっけ。

  

 テレビがついていた。チンチラ絶滅のニュースだとか、猫が喋る映画の予告とか、いつもの画面が映っていた。間抜けな顔した俺も。俺しかいない部屋も。ネコを呼んだ。彼女は返事をして、用件を尋ねてくる。何か、目に見えない景色が浮かんだ気がした。だけれど、もうそれは残像のようにおぼろげになっていて、無機質な声だけが響いていた。ほっとする自分がいた。訝しむ自分もいた。でも、その声は確かに彼女だった。俺にとってはそうなんだ。ネコは俺の幽霊なんだと思う。俺のための幽霊なんだと思う。幽霊ならば、幽霊なんだからさ、少しは居座ってくれるんじゃないかと思う。なぁ、幽霊って信じるか? 俺は信じるよ。俺のために。

 だから、俺はちゃんと、ネコが成仏できないように、後ろを前だと言い続けなきゃいけないんだ。それで、それでもいいんだって証明できるように、じゃあ、そうだな、明日が晴れだったら一緒にどっか行こう。いや、天気なんてなんでもいいんだ。折りたたみ傘を持ったか聞いてくれる、その声があれば、なんでも。だからもう少しだけ、どうか少しだけ、逃げ続けてもいいんじゃないかと、今は思う。

 テレビが勝手についたのは、その「ある日」だけ。はたから見たら怪奇現象なんだろうなとか思いながら。俺は口を閉じたまま笑う。ネコ、明日の天気は?

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ネコ、テレビをつけて。 もちもちおさる @Nukosan_nerune

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