花色の還り道

「今日は何を探してるの?」


 帰り道にある行きつけの花屋。色とりどりに並ぶ花をぼうっと見ながら店内を一周したころに、顔見知りの店長のおばさんに声をかけられる。


「えっ……あ、その……特には」


「そんなことだろうと思った。なんか心ここにあらずって感じだったから。どうせ暇だし、気が済むまで見ていきなよ」


 そう笑い飛ばしながら店の奥に戻っていくおばさんに、少しだけぎこちなく笑顔を返した。


 たくさんの花が一緒くたになった香りは、みずみずしくて心地よかった。ここに通うようになってから、作られた香水とか柔軟剤の香りがなんだか物足りなくなってしまった。どれだけ再現技術が進歩したって、本物にはかないっこないのだ。




 いまだに私の思考に居座る彼の言葉に、口元がほころんだ。そうやって図々しく居座られるから、いつまでも忘れられないし、馬鹿げたことだって考えてしまうのだ。


「……あの、おばさん」


 ようやく決心が固まった私は口を開いた。作業の手を止めたおばさんが振り返る。


「花束を一つ、いただけませんか?」


「わかったよ。どの花にする?」


 カラカラとショーケースの扉が開く音。たくさんの種類がある花の中から、一つずつ指定していく。一見バラバラの組み合わせの花を包んでいるうちに、おばさんも私の意図に気づいたのかふと寂しそうな顔をした。


「………そうか、もう一年経つんだね」


 私が選んだ花は、彼がかつて選んでくれた組み合わせと、まったく一緒だったから。





私と彼はそれまではただ単なる知り合いでしかなかった。小学校も中学校も同じ地元の公立に通ってはいたが、クラスが一緒なことが数年あった他に接点はなかった。高校は別々のところに進学したし、これから先、地元ですれ違うこと以上のことはないんだろうな、と、友達未満のクラスメイトに対する気持ちしか抱いていなかった。


そんな彼と再会したのは、中学の卒業から二年が経つ頃だった。美術部に入っていた私は、ある美術展に提出する絵の創作に取り組んでいた。テーマは定められてはいなかったが、何もかもが自由という、ある意味でよりどころのないそれは反って行動をしにくくするものだ。そんなふうに真っ白なキャンバスの前で唸る日々を過ごしていたある日、何かのきっかけになるかもしれないと、ふらりと帰り道にこの花屋に立ち寄った。そしてここで、アルバイトをしていた彼と再会したのだ。


その時の私は、相当参りきった酷い顔をしていたのだろう。顔見知りということをのぞいても、個人的に話しかけてくれたのだから。あっけなく私は、その時の悩みを彼にすべて吐き出してしまい、そうして彼は今おばさんに包んでもらっているものと同じ組み合わせの花束を作ってくれたのだ。花の種類だけじゃなくて一つ一つの花言葉までを丁寧に説明する彼の知識に関心を示すと、「男が花言葉って、女々しいよね」と自虐気味に微笑まれた。自分でもなぜそこまでムキになったのかわからないくらいに全力で否定したあと、二人そろって大笑いしたんだった。


その後も何度か花屋に足を運び、彼に花のことについていろいろと教えてもらった。彼に選んでもらった花を題材に描いた絵は、美術展で金賞をもらった。そのことを報告したとき、まるで自分のことのように喜んでくれた。



 おばさんから花束を受け取り、その足で高台にあるカフェに向かう。そこも、彼とよく来た場所だった。


 カランコロンとドアにつけられたベルを鳴らし、店の一番奥の窓際の席に座る。二人席の片方に花束を置き、もう片方に座る。すぐに顔見知りの店員さんが、水とおしぼりを持ってきてくれた。


「いつものでいい?」


 その問いに、私は黙って頷く。伝票をもって厨房に戻った店員さんが見えなくなってから、私は窓の外を見た。なんてことはない、ちっぽけな街と山と遠くに海が見えるだけの、どこでも見れそうな景色。それでも私にとっては特別なもの。早くも水滴がつき始めたコップを手に取り氷の浮いた水を飲む。春先とはいえ軽い運動で軽く火照った体に、冷えた水か染み渡った。


 程なくして店員さんがコーヒーと日替わりのケーキのセットを持ってきてくれた。大きめのお皿にちょこんと乗った、彼がお気に入りだったケーキ。皿の空いたスペースにチョコとベリーのソースで猫の絵が描かれている。


コーヒーに砂糖を入れようとしたところでふと思いとどまった。そういえば、彼はコーヒーにミルクは入れてたけれど、砂糖はあまり入れなかった人だった。砂糖だけの私とは正反対だったのに今更気づく。手に取った砂糖を元の場所に戻し、代わりにミルクピッチャーのミルクを全部入れた。カップから溢れそうになったコーヒーをゆっくり混ぜ、零さないように慎重に飲む。まったりした中にきりりと残った苦みが喉を降りて行った。





 私たちが恋人として付き合いを始めたのは、美術展の結果の報告をして間もないころだった。かしこまった告白があったわけではない。花屋での逢瀬を重ねるうちにそれなりに親しくなっていた私たちは、予定が合うときに度々二人で出かけていた。そんななんてことのない日常の中、唐突に彼が「付き合おうか」と聞いてきたのだ。私はすぐに頷いた。今思い返してみても見事なまでの即答だったと思う。さすがにその時ばかりは彼も拍子抜けしていた。まさしくハトが豆鉄砲を喰らった顔で、思わず吹き出してしまった。


 恋人として初めてのデートは、お互い忙しくてほんの数時間しか時間を取れなかった。それで来た先が、このカフェだった。高台のきれいな景色と、おいしいケーキセットを私たちはすっかり気に入ってしまい、それからデートの度にここに来るようになった。



 コーヒーとケーキとをじっくりと味わった後、私はカフェを後にする。さらに高台を目指して、緩やかな斜面を登っていく。木と木の間を通り抜ける林道を見上げれば、重なった葉の隙間からきらきらと陽光が降り注いでくる。サクサクと乾いた落ち葉を踏みつぶす音がなんだか楽しい。そんな何気ない遊びは、不思議と子供時代を思い出させる。


 ふと、道端に咲く小さな野花に気付いてしゃがみこんだ。いつかのデートの時にも見たことがあった。これにも名前があるのかと彼に聞いたことがある。どこか嬉しそうに教えてくれる彼の顔と声ははっきり思い出せたのに、その花の名前は思い出せなかった。





私と彼との関係は、高校生同士の恋愛にしては非常に健全なものだった、と思う。彼は奥手な人だったし、私もそこまで肉食系というわけでもなかった。周りの彼氏がいる友達がすぐにがっついてきて困る、みたいな下世話な話に花を咲かせる傍ら、どんな顔をしたらいいのか困ってしまったことは一度や二度の話ではない。求められてないなんて、浮気されてるんじゃないの、なんて心無いことを言われたこともある。今思い返せば気に留めなくてもいいようなことだけれど、思春期で多感だった当時の私はそれにショックを受けて、それで初めて彼と喧嘩した。でも結局すぐに私の方が折れて、その日の夜中に泣きながら電話をかけ、私たちの最初で最後の喧嘩は六時間できれいさっぱり終わってしまった。


その翌日、やけに緊張した彼にされたハグの力強さに、彼が男の子だってことを改めて実感した。直後の触れるだけのキスが、学生だった私たちの最も深いつながりあいだった。


穏やかに、それでいてかけがえのない存在として私たちは在り続けた。



 森の道を抜けて、開けた場所に出る。そこは一面のネモフィラ畑だった。


 ここは地元でも有名な、昔からある花畑で、地元の学生たちにとってはちょうどいいデートスポットでもあった。今も周りには何組かのカップルがいる。昔は私もあの中の一人だったんだな、と空いていたベンチに腰掛けて思った。





 高校を卒業して、私は美術系の専門学校に入り、彼は高卒で働き始めた。社会人と学生とでは会える時間も少なかったけれど、その分重ねたメッセージのやり取りは高校生のとき以上の数になった。月に一回あるかないかのデートでは、少しでも濃密な時間を過ごそうとあれこれ考えては空回りし、結局それまでと変わらない健全でのんびりとしたお付き合いをするに留まってしまった。


私が専門学校を卒業して、働き始めて数年後、彼からプロポーズを受けた。その時も私は、すぐに「はい」と答えた。彼がいない人生は、もう考えられなかった。


 お互いの両親への挨拶を終えてすぐに籍を入れた。二人で婚姻届けを提出したとき、役所の人に「おめでとうございます」と言われて、なんだかむず痒かった。




 だけど。



 幸せと不幸せは差し引きゼロ。どこかで聞いたことのある言葉が事実であると、私は人生最高の日になるはずだった日に思い知らされた。


 二人で婚姻届けを提出した帰り。手をつないで歩く私たちに、暴走したトラックが突っ込んできた。そこで記憶は途切れていて、気付いた時には病院のベッドの上だった。


 確実に死を覚悟するような光景だったにもかかわらず、私はほんの数本骨を折っただけで済んだ。けれどそれは、あの時咄嗟に彼が私をかばってくれたおかげだった。




 彼は死んだ。即死だったそうだ。苦しむ間もなかったはずと付け加えられた言葉は、果たして慰めだったのだろうか。


 それを聞いた時、悲しいとは思わなかった。ただ、胸の内にぽっかりと大きな穴が開いたような虚無だけが、私の心を支配していた。家族や友達たちは、彼が守った命なんだから、生きないといけないと何度も何度も励ましてくれた。それに私は一応お礼を言ったけど、正直心に響いたかと言われれば否と答えるしかなかった。思えばその時から、このことを決めていたのかもしれない。



 そんなことを考えてるうちに、時間はあっという間に過ぎ去り、空は暗くなっていた。周りの人たちもみんな帰ってしまったのか、ここにいるのは私一人だけだった。




 花束を手に、花畑の中を歩く。道の切れる場所、崖の際で立ち止まった私は、空を仰いだ。


「一年も待たせちゃってごめんね。ちょっと準備に手間取っちゃって」


 そう、今日は丁度一年前彼が死んだ日。


 そして、私たち二人の結婚式の日。




 大切なものは失ってからでないと気付けない。


 泣くことすら忘れた私のそれからの人生は、その言葉一つで片付くつまらないものだった。


 事故から三ケ月経つ頃には、私は怪我なんてはじめからしていなかったんじゃないのかと思うくらいに、完全に回復していた。凄惨な事故現場には、事故直後はたくさんの献花があったけれど、今では私と彼の関係者が置いた分しかない。道行く人に尋ねても、もう誰も事故のことなんて覚えていないだろう。空っぽになった私なんて気にも留めずに、世界は普段通りに動いていく。それに合わせるために、私が笑顔の仮面を張り付けるようになったのは必然と言えば必然だった。


あんなに大きな事故を経験して、夫も失ったのに、あの子は強い子だって、慰めの言葉と誉め言葉は何度浴びせられたかわからない。


みんなわからずやだ。忘れたから笑えるようになったんじゃない。忘れられないから笑うしかないんだ。




 こんなに早くお別れしちゃうって知ってたら、二人でこの街以外のところにも行ってみたかった。


 彼と何度も来るたくさんの記念日をお祝いしたかった。


 彼の花の知識をもっと知りたかった。


彼ともっと深くつながってみたかった。


 彼との間に子供ができたら、どんなかわいい子だったんだろうな。





 からっぽの私に唯一残った愛情。そのたった一つの、心というにはあまりにも偏って歪なそれは、人の持つものではなかった。




 あの日、彼と生きた私は確かに死んだんだ。


 身の回りの物を整理し、会社には退職届を、家族には遺書と私のちっぽけな貯金の全てを置いてきた。


 私をこの世に縛るものは、もう、ない。


 夜の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。




 花束を解き、空中に花を投げる。花が落ちていく様子が、やけにゆっくりに見えた。


 これはフラワーシャワーだ。彼が一番最初に選んだ思い出の花たちなら、きっと私たちを祝福してくれる。


 花を巻き上げるように唐突に強い風が吹いた。ドレスの代わりの真っ白なワンピースが大きく揺れる。きらり、と彼にもらった婚約指輪がきらめいた。








 ああ、そこにいるんだね。


 いま、そっちに行くから。












 花に祝福された道を落ちていく。このバージンロードの先に待つ彼を思いながら。

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短編置き場 天泣馨(あまなき かおる) @K_Amanaki

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