氷と文豪

 人の夢と書いて、儚いと読む。そんな原初の言葉遊びに気付いた時、ふと背筋が冷たくなったのを覚えている。恐ろしいほどに的を射ている、寧ろある種の皮肉にも感じられるほどのそれは、理由を知り頷く以外の選択肢を与えなかった。


その通りだ。人の夢は限りなく儚い。寝て起きれば訪れる明日を生きる簡単な夢すら、唐突に踏みにじられてしまうのだから。




「なんて、陳腐な言葉」


 降り積もったばかりで柔らかい雪の上に木の枝で書いた儚いという文字を足で掃う。持ったままの木の枝で手遊びをしながら桜の木の幹に寄りかかった。


 は、と息を吐く。白く曇らないそれは、舞い散る雪の軌道を僅かに逸らすだけだった。





 ある日、文字通り世界は凍り付いた。前兆も、慈悲もなく、この地球上に存在する全てのものは、等しく冷たい氷の中に閉じ込められてしまった。


ある朝、目覚めた時には世界がすっかり変わってしまったことに、初めは酷く困惑した。始めの一月は現実を受け入れられず引きこもり、次の一月は代わり映えしない現状へ悲観から退屈へと感情は移り変わり、次の一月が過ぎるか過ぎないかの頃、雪と氷の呪縛を逃れた場所を目指して旅をすることに決めた。自分から動かなければ現状を変えることなどできない、という前向きな気持ちがあったわけではない。自分を動かしたのは、ここに留まり続けていれば、いずれ自分もあの氷の中に閉じ込められてしまいそうな、漠然とした不安だった。動けるうちは動いておこう、ならついでにそれらしい理由でもつけておこう、と、動機としてはかなり不純なものだった。




氷と、雪と、自分の足音しか聞こえない静寂の中、歩いて、歩いて、歩き続ける。


行く先でいくつも見かけた氷塊の中には、大小も生死も皆等しく、一瞬を切り取った写真のように様々なものが閉じ込められていた。氷の檻がなくなれば、今にも動き出しそうな程だった。連なるその光景に「書き残さなければ」とまるで天啓のように思い立った次の瞬間に、無我夢中で目の前の氷を削り、鉛筆とノートをひっぱり出していた。


 歩いて、氷塊を見つけて、その中身を書き記す。その合間に、見つけた都度鉛筆と紙の補充をする。歩くだけの旅が記録の旅に変わって随分と経った。その証拠に、今や手で持ち切れない程の量になった文字を書いた紙は、旅の道連れの橇の上にこんもりと山を作っている。





 そんな世界にあって、自分以外に氷漬けになっていないものが存在するという事実に、この桜が咲いたままの姿で立っていることにはひどく驚いた。見た物を書き留めるという自分のレゾンテートルを忘れてしまう程度には。


 木の幹に耳を寄せ、目を閉じる。木が生きていれば聞こえる水を吸い上げる音は聞こえてこなかった。当然と言えば当然か。桜が咲く程世界が暖かかったのはもうずっと前だ。世界が凍り付いた日、ここは丁度春の芽吹きを迎えていたのだろう。なぜそんなことが起きているのかはわからないが、満開のまま内側だけが凍り、今日までその姿を保っていたのだろう。




 結果からすれば桜は死んでいたが、それでもわざわざ氷を削らなくても触れる事ができる存在は、今まで見てきたものに比べればずっと親近感がわいた。職業病なのか、追悼の言葉を考えている内に、思考が脱線しありがちな言葉を考えていた。




 あの日、唐突に世界の全てが凍り付いたように、明日目が覚めたら陽の光が降り注ぐ世界に戻っているかもしれない。その未来の可能性を踏まえて地球規模で考えれば、この程度の氷河期は〝儚い〟ものなのだろうか。


「ねえ、どう思う?」


 応える声がないことをわかっていながら、桜を見上げて言う。我ながら無機物に話しかけるなんて馬鹿馬鹿しくて、それ以上気取ることができなくなってしまった。




 言葉を考えることを止めた途端、ふと〝疲れた〟と感じ、その場に座り込む。再び立ち上がるのが酷く億劫だった。思えば旅を始めてから、まともな休息をとった覚えがない。少しくらい休んでもいいのでは、と思った刹那、急に瞼が重くなった。




細く垣間見える中ですら雪しか動かない視界の中、一つだけ白以外の動体を捕らえた。最期の力を振り絞り、手を伸ばして受け取ったのは、一枚の桜の花弁だった。

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