震える弦・8

 廊下に出た途端、足の裏から冷たい痺れが駆けあがってきた。粗末に一歩手前の外観をした質素な家だが、広間にはそれでも炉が備えられており敷物もあって充分に暖かい。だが、廊下には炉も敷物もなく、床も外と同じ地面だ。夜気もすっかり冷え込んで吐く息は白く、心身に寒さが凍みた。ところどころランプが置かれているが広間と比べると格段に暗く、今はそれらすべてがタルクレウスを拒むせいに感じられてしまい、ファンダレオンの気が挫けかかった。

 けれども決して誤るまい、リラもタルクレウスも何もかも。

 体調はいよいよ悪くなってきて吐気をも覚えるが、意識は澄み、冴えている。

(月は入り すばるも落ちて 夜はいま……)

 そうしてふと閃いた、学校で聞いた謡をファンダレオンは頭の中で謡吟するつもりでいたのだが、無意識のうちに声に出たらしい。サッフォーか、とアリステイデスがいつもの温厚な声音で高名な女流詩人の名を挙げる。急に頭上から話しかけられて少年は驚き、しかし瞬間的に表情を整えて伯父を見上げつつ頷き返した。言い指された通り、百五十年近く昔にレスボスという島に生まれた彼女の作品と伝えられる古い謡だった。

「家に帰って、すぐに寝ます」

 答えになっていないが、他に応じる言葉をファンダレオンは持たない。持ちようがない。

 しかし、甥の真意はきちんと伝わったのだろう、アリステイデスが同意する表情になってファンダレオンの頭を何度も優しく撫でた。その手触りに六歳の少年は、自分がどうしようもなく疲労して休息を求めているのを今さらに実感する。饗宴でリラを弾くのは初めてで、客人から好色の視線を浴びもしたから、テミストクレスが場を乱さなくともとうに緊張して心も身体も構えていたのだ。瞬くと、目の裏に重みを感じた。泥のように眠りたかった。早く自分の部屋に帰って一人になって、眠って今日にあったすべてを過去に押しやってしまいたかった。

 疲労の影ばかりはどうにも消しようがなく、ファンダレオンはさりげなくリラに顔を埋めるようにしてうつむいた。自分がテミストクレスを相手したがために甥を無用に疲れさせた、と思われたくはなかったので隠したのだが、アリステイデスは目敏く見取っていたようであった。

「――すまなかった。ファンダレオン」

 心痛と悔いに満ちた声で謝られてしまって、ファンダレオンの心が痛む。

「いえ、伯父上……」

「昔からこのかた、テミストクレスとは争っていたのだ。政事ばかりではなく」

 政事ではない他の何を、とは問うまでもない。二人はステシラオスを巡って争い、そしてアリステイデスが「最後は」ステシラオスを勝ち取ったのだろう。ファンダレオンは脳裏に思い浮かべたステシラオスの面に、今なお彼らがこだわるほどの美貌であったに違いないかつての美貌を導き出そうとした。

 しかし、できなかった。

 ――きみもいずれは。

 甦り絡みついてくるあの日の交錯に、ファンダレオンはやんわりと縛された。老いさらばえた時、自分には何があるのだろうか。考えるのが急に怖くなった。

 アリステイデスが吐息混じりに続けた。

「今宵は嫌がらせだったのだろう。才気があるゆえか、あの男にはそういうつまらぬ尖ったところがあるのだ」

 それでもテミストクレスの才幹は才幹として認めている、または認めざるをえないという姿勢がいかにも伯父らしい。そして、その言に「正義の人」の異名に違わぬ正しさを感じた。

 テミストクレスが伯父を攻撃するのは、負けないのを疑わないからだ。自身の才幹に絶大な自信があるから、攻撃して勝つというあからさまなやりようで自己顕示してのけられる。美貌であろうがリラが巧みであろうがファンダレオンには決してできまい、ある意味で非常に明瞭なあり方だった。

「あれのたっての願いでおまえがリラを初めて弾く、というのが気に入らなかったのだろうが……おまえに、辛い思いをさせてしまったな。自分の息子がおまえと親しいから会いたいと食い下がられて、断りきれなかったのだ。しかし断りきればよかった。本当にすまなかった。本当にアポロンかと思ってしまうような、伯父として誇らしくなる素晴らしい演奏だったというのに」

「いえ……伯父上から誉めてもらえて……気に、しないでください」

 ファンダレオンは微笑して、詫びてくる伯父に不快にもなんとも思っていないことをはっきり知らしめるために、努めて緩やかに頭を振った。

 テミストクレスは確かに気に入らなかったのであろう。アリステイデスとステシラオスが、恋人たちが自分をよそにアポロンと評判の美少年を引き出して饗宴をするのが。それは評判通りで感心はしたものの意趣返しをせずにおれない、今宵の顛末はそういうことでもし演奏をしくじりでもすればファンダレオンもきっと、伯父共々攻撃された。そうならなかった、いや自分が伯父への攻撃材料にならなかったのは安堵したが、そうした諸々を考えると、アリステイデスに「伯父として誇らしくなる」と誉められてもさっきのように感激はできなかった。そして、余程の事情でなければもう、人前で弾きたくない、とファンダレオンは寂しくなっていた。

 人の思惑を意識して演奏するのは、リラを純粋に好きになっているからこそ耐えられないかもしれない。月桂樹の冠を求めてみようかという気持ちもすっかり失せていた。尊敬する伯父の饗宴でもこうであれば、ポリスの面子さえかかる時もある祭典ではどうなるのか想像がついてしまう。これまでと同じに独り、中庭や空地で弾ければそれでもう充分だと思った。

「何かあったのか、ファンダレオン?」

 六歳にしてそこまで達した甥の静謐ささえ漂う気配に、アリステイデスはただならぬものを感じたのか。心配そうに顔を覗き込んできたものの、ファンダレオンは「なんでもありません」と一言で表情を変えずに振り払った。

 玄関ではヒュラリスが待ち受けており、ファンダレオン様、とファンダレオンを目にするなり喜色を浮かべた。恐らく演奏が終わった時から待っていたのだろう。待たせてすまなかった、とアリステイデスの手前ファンダレオンは小声で短く謝り、リラを渡した。手が空いたのを見計らい、アリステイデスの奴隷が外套を差し出してくる。それを受け取って着終えた時、

「ファンダレオン!」

 と、自分を呼んで叫ぶ声に、サンダルを履こうとしたファンダレオンが応じる間もなく、ぐっと力強く両手を取られた。すごい勢いで駆け寄ってきたステシラオスであった。思わず振りほどこうとしてしまうもびくともしない。が、あんな形でアリステイデスとの関係をあからさまにされたのは気になったのか、子供相手に向けるものではない真摯さで見つめてくる彼の瞳には、ファンダレオンへの熱烈な賛美と少しの気後れとが微妙に混ざり合っていた。

 それでもリラの音色を思い出して興奮が甦ったらしく、熱が出たように顔を朱に染めてステシラオスが一息にまくし立てる。

「素晴らしかった。本当に素晴らしかったよ、ファンダレオン。オデュッセウスがセイレーンの魔力を知っていながらも歌を聴いた時に抗えなかった気持ちが、わかったよ。きみが本当にセイレーンであってここが船上なら、わたしも間違いなくオデュッセウスのように海に飛び込んでいた。感動の余りに拍手も何もできなくなってテミストクレス様に先を越されてしまったけれど、どうしてもそれを言いたくて――」

「……ありがとうございます」

 以前にも自分を誉め、アリステイデスを動かした男の言葉にはさすがに何も疑う余地はなく、ファンダレオンはその絶賛を素直に受け入れられた。嬉しくなる。腕から力を抜き、ステシラオスに微笑を返した。だが、あれほど収まりの悪い事態になりながらも今わざわざ自分を追いかけてきて誉められたその嬉しさも、すぐに褪せて虚しく抜けていってしまった。

 伯父の、古くからの恋人――見つめられる時間の分だけ糸のように絡みついてくるその事実が息苦しくて、顔をそらしたくなる。二人の年齢差は五歳から十歳くらいか。きみもいずれは、と突きつけられているような不安感にじわじわと胸を冷たく冒される。ステシラオスに自分自身が、そしてステシラオスの傍らにいるアリステイデスにタルクレウスの影が見えるからだ。つまりステシラオスたちはファンダレオンの目には戒め、あるいは誘いに映る。だから伯父たちの三角関係を見てしまいたくない、巻き込まれて心を乱してしまいたくない、と三角関係になったのはステシラオスのせいでは恐らくなかろうから申し訳なくもあったが、辛く切ない忌避の思いが深く根を下ろしてしまっていた。

 それはそれとして、ステシラオスに握られている手から生気や力を吸い取られてゆくような茫とした錯覚がする。大人を相手にするには現在は何もかもが足りなかった。元々から言動が余り豊かではないファンダレオンである。体調不良もあっていよいよ言葉少なになったのは仕方なかったが、今度はステシラオスがそれをとても心配するので受け答えしてますます疲れてしまい、その美貌がさらに色を失ってしまう。それをさらにステシラオスから心配されるのを受け答えしてまた疲労する、という悪循環にしばし陥ったのをどうにか抜け出した後、ファンダレオンはやっと外に出た。

 澄んだ湿気を孕んだ夜風が、短く切り揃えた黒髪をなぶった。風も夜気もアリステイデスの邸内とは比べ物にならない寒さで、大きく身震いする。しかし、雨がやんで結構に長い時間が経っているらしく空は晴れ渡っていて、満天に無数の星々が慎ましやかに光を放っていた。疲れたファンダレオンの目にはその瞬きさえも得物を射る矢のように鋭く眩しくて、すぐ下を向いて軽く頭を振った。頭痛がぶり返してきて疼き、少し瞳を閉じた。

 そうして見送りに出てくれたアリステイデスとステシラオスと別れの挨拶を交わして車に乗る寸前、はっと反射的に振り返った。

 リラを弾いた直後に受けた、あのひたすらに強い視線をまた感じたのである。だが、松明の明かりを受ける伯父とステシラオス、伯父の奴隷たち、それにヒュラリスの中にそれらしきまなざしをした人物は見当たらない。他に見えるのは更けてさらに深くなった夜の闇ばかりで、再び見渡したけれどもやはりファンダレオンにはわからなかった。小さくため息をついた。広間に入った時に饗宴の客から受けた反応も反応だったから、自意識過剰になってしまっているのだろうか。絶対にそうではないはずだが、どうにも奇妙に割り切れない気持ちが残った。

 それは、甥を見送るアリステイデスのまなざしが今もって、哀しげな硬さを孕んでいたからもあるかもしれない。温厚で自分を慈しんでくれる伯父であるから、テミストクレスを饗宴に出してしまった自責に苛まれているのではないかとファンダレオンはかえって申し訳なく感じた。

 だが、――実際はそうではなかったのだ。

 冬ただ中の六月ポセイデオン(十二~一月)、満月の夜。ファンダレオンが伯父のこの憂えるまなざしを思い出し、思い至り、思い知るのはこれより十二年も先、それもアテナイではなくアッティカ沖のサラミス島での深夜になる。しかし、年不相応に聡くとも人身に過ぎない少年は自分の運命など見通すよしもなく、ただ車上から再び夜空を見上げるに留まった。



 深夜にまではなっていないので月はまだ皎々と浮かび、昴も明々ときらめいている。けれどもそのうちサッフォーの作と伝えられる詩のように月は入り、昴も落ちるであろう。

「……ファンダレオン様」

 天空に思いを馳せていると、声をかけられた。はっとして、遠慮がちなその声がした方に見下ろす。リラを誰からも何からも守るように抱えたヒュラリスだった。

「ヒュラリス?」

「奴隷部屋で聴きましたが、本当に、素晴らしかったです。ファンダレオン様」

 ためらうような照れたような表情ながらもしっかりとそう言い切った青年に、ファンダレオンは美しい目を大きく見開いた。

 言われて最初、自分が憂鬱な顔になってしまっているのだと思った。だから、パイダゴーゴスといえども奴隷の分を守り、ファンダレオンから尋ねない限りは演奏について口にしなかったヒュラリスが心配してしまったのではないか、とすぐさま表情を取り繕っていつものように平静に応じようとしたのである。昔は、上達すれば父が目を向けてくれるかもしれないという希望がもっとあった。それで演奏の出来を奴隷によく尋ねていたのだ。その希望もほとんど潰え、評価も学校で受けるのでもう尋ねなくなって久しかったが。それを突然ヒュラリスに誉められたので本当に驚いた。

 しかし、驚きはすぐさま鮮やかで温かい感情に染め抜かれ、強く突かれた胸一杯に広がって占める。テミストクレスより、ステシラオスより、そして伯父であるアリステイデスよりたった今、ヒュラリスが誉めてくれた言葉こそがファンダレオンに大きく深く響き、染み渡った。気遣わせ誉めさせる顔をしていたからではなく、単純に演奏が「素晴らしかった」から率直に彼の口を突いて出たのだろう。そう思い直してしまったほど心のこもった、ただ素朴に誉められたと感じられる言葉に少年は束の間言葉と息を詰まらせ、そうして、返事より先に笑んでいた。

 静かな諦めを込めて微笑するいつもとは違い、笑うのが奇妙にもどかしい。きっと巧く笑えていない、ぎこちなく歪んだ笑みになってしまって心配をかけてしまうかもしれない、とファンダレオンは不安になった。しかし、ヒュラリスが驚いた顔をしながらもすぐに笑い返してくれたからか、まあいいかと不思議と落ち着いた気持ちになってそのまま笑み続けた。

「……ありがとう。わたしも、いい演奏ができたと思っていたんだ」

 おまえにもそう言われて嬉しいな、と応じながら双眸に、不意に涙がこみあがってくる。泣き顔を見せるわけにはいかないので、ヒュラリスの目につかないよう角度に気をつけてまたも夜空を仰ぎ見た。涙をこぼすまいと瞬きするが、逆に溢れそうになってしまう。瞼で悪戦苦闘しつつ、月や昴が美しく光る姿が滲んでぶれて霞んでゆくのは、体調不良と車が揺れているからだとファンダレオンは自分に下手な嘘をついて思った。

(月は入り、昴も落ちて……)

 先程に謡吟してしまった自分の声が脳裏に谺する。

 月と、昴――リラとタルクレウスがファンダレオンの前から消えて、これから「真夜中」の時をただ生きてただ死んで、いつか死者の国へ至るのではないか。ヒュラリスに話しかけられるまで、ファンダレオンはあの詩を思い返して心の目に無明の荒れ野を見晴るかしていた。しかし、今は敢えて自分に嘘をつき、踏み止まった。いや、踏み止まれた。ヒュラリスを傍らに意識し、そして饗宴でリラを演奏する大役を終えて帰った自分を温かく迎え、寝る準備も整えてくれているであろうテューロンたち奴隷を思って。

 やはり疲れてしまっている。向けられる言動の一つ一つにこれほど大きく揺さぶられるのは、疲れて心身が弱っているからに他ならなかった。このような様では「アンティオキス族アルカリウスの子ファンダレオン」として生きてゆくのは辛く、苦しみ続けるだろう。人から揺さぶられるからこそ、癒されるのもまた人に期待してしまわずにはいられなくなるだろう。しかし絶対に自律して心身をきちんと保ちたい、保たなければならない、少年は心底から願い決意した。

(家に帰って、――すぐに寝ます)

 車上、休息と回復を求めてアリステイデスへの言葉を反芻するファンダレオンの瞳から知らず雫が一筋、音や前触れもなく流星のように滑り落ちた。



 月は入り 昴も落ちて

 夜はいま 真夜中の

 時は過ぎ 移ろいゆくを

 我のみは ひとりし眠る……――

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女神の糸 流崎詠 @nagarezaki

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