震える弦・7

     どんな少年かと思っていたが、見事だった。

     まこと神々は不公平、アリステイデスにばかり恩寵を授けられる。

     息子ならともかく甥までも、かく文句のつけようのない少年とはな。



 遅れて来た男の威風に、リラを抱き締めて茫とするファンダレオンはもとよりアリステイデスも未だ打たれているらしい。静まりかえる場を一人ゆっくりと見渡し、男が悠然と口を開いた。

「目を閉じれば偉大なるオルフェウスや光り輝くアポロンの御名が浮かぶ、子供とは信じられぬ演奏だった。証拠に、美を愛でる心も言葉も豊かなはずの諸君の一人として拍手も喝采もできず、私がこうして来ているのに気づきもしなかったのだからな。血の繋がったおまえですら」

 最後の一言とまなざしは、アリステイデスへ向く。

「まったく、素晴らしく珍しいものを堪能させて頂いたものだ。おまえの呆けた顔など民会ではお目にかかれんからな」

「……テミストクレス」

 ようやく発された、唸るような声にファンダレオンは我に返って、テミストクレスと呼ばれたその男を見直した。

 レオンティス族の人でガリュニスの父、テミストクレス。アゴラのあちこちで何度か見かけてはいた。だが、特に声をかけられたり、ガリュニスに引き合わされたりはしなかったので、間近に「会う」のはこれが初めてになる。アリステイデスがこの男に構わずリラを演奏させ、その際に客人が失笑したのも納得した。が、それに比例して、みるみるうちにファンダレオンの気持ちが醒め、硬くなる。誉められれば誰でも構わないと喜び続けるには、少年は悲しいまでに聡明で理性的だった。

「遅れてすまなかった、アリステイデス。おまえの甥がリラを弾くというからどうしても聴きたくなって、おまえに無理を言ったものをな。リラなどは不得手だが小国を大国にすることはできる、とは私も昔に言ったがやはり楽才は楽才。何しろ、息子がどう頑張ってもおまえの甥には勝てぬと悔しがっていたのだ、父として一度どれほどのか聴いてやりたくなるではないか。いや、演奏を聴けぬほどには遅れなくてよかったものだ」

 それでは、アリステイデスに演奏をせがんでファンダレオンを引っ張り出させたのではなく、便乗して参加したのか。ともあれ、招かれざる客であるのは間違いないテミストクレスが豪放ですまなさの欠片もない言葉を言い終えた瞬間、緊張が広間内に染み通った。傍らで伯父の気配が鋭くなるのを肌で感じ取って、ファンダレオンも息を呑み下した。

 二人の間に挟まれた状態で何もできないながらも、美しい面の内で考える。政治家として敵対していても私的には親しいという者も、アテナイにはいるだろう。が、彼らは公私共に不和であり、テミストクレスがアリステイデスに敵愾心を燃やして事あるごとに対立しているという話であった。もしかするとテミストクレスは、そんな相手の甥がアポロンなどと呼ばれ、学校で息子より成績がいいのが忌々しくてファンダレオンを無視してきたのかもしれない。しかし、それが来るとなったから、伯父は彼を盛装させて構えることにした。招いたのが気の置けない者だけであったからこそ、最初は学校から直接連れてくるようにとタルクレウスへ依頼したのに違いなかった。

 だが、そう考えてファンダレオンははっとする。テミストクレスが誉めてくれたのは、まさか――それとこれとは別、と否定しようとした。けれども、胸に影が落ちる。リラはできずとも政事があるとかつて器楽を切り捨てて豪語したテミストクレスが、評判になっているといえども六歳の少年の演奏に対して普通に興味を持つだろうか。否、いつか必ず勝てと次男に叱咤する方が余程この男らしい気がした。やはりテミストクレスには伯父を先に見据えた他意があるのだと思われて、急激に重くなる心と身体をリラの上にさらに抱える心地に陥った。

 あの存在感ゆえに本気で誉めてもらえたと疑いなく信じた。だから高名なリラ弾きを目指せばと目の前が明るくなったが、伯父とテミストクレスの諍いに引き出されているだけかと疑わしくなる。喜びが深く大きかった分だけ、落胆と失望もまた深く大きかった。

 急にすべてが寒々しく感じられ、そうしてファンダレオンは心中にぽつりと呟いていた。

(……帰りたい、な)

 途端、全身がひどくざわめいて、気持ちが悪さに思わず伯父を振り仰ぐ。心身は何よりも一人になるのを切望していた。テミストクレスに誉められたのがまったくの偽りではないとしても、自分では最高の演奏だったので、純粋に喜べない自体がどうしようもなく応えてしまった。そのせいか、これまでで一番ひどい頭痛が始まってファンダレオンは眉根を顰めた。演奏は終わったのだから、もう予定通り帰らせて欲しい。そう言い出せる立場ではないので、気づいてもらおうと表情を敢えて繕わないで伯父を見つめる。が、ファンダレオンの願いも空しく、アリステイデスはそんな甥の苦しげな様子に気づくどころかテミストクレスをさらに強く見据えた。

「なぜ、遅れてきた」

 短く質す声には苦々しさが露だった。人格者とされている伯父が悪感情を表に出すのにファンダレオンは驚いたが、伯父とて矜持がある。不承不承に招いてやった相手が堂々と遅刻した上にこの態度では、すべて許して笑顔で迎え入れるまではさすがにできぬのであろう。

 しかし、何を今さらとばかりにテミストクレスは高笑いした。そんなアリステイデスが多少の過ちを許さぬ狭量な男よと嘲るかのような、嫌味を含む笑い方であった。

「気にするな、大した用事ではない。そんなことよりもさすがはおまえの甥だ。すっかり聞き惚れてしまった」

 自分の非を「大した用事ではない」「そんなこと」などと片付ける無礼を豪快に発揮しながら再び見下ろしてくるテミストクレスを、ファンダレオンは微笑して見返す。だが愛想笑いである。最早なんと言われても喜びも希望も湧かず、心も動かなかった。愛想でなければ笑えない、呻きたいような泣きたいような失墜感に目をそらしたくなる。リラで月桂樹の冠を得られても、今と何も変わらないのだろう……ファンダレオンの愛想、そして苦衷に気づいているのか無視しているのか、満面の笑顔をいささかも揺るがずにテミストクレスが肩を竦めた。

「まこと見事なリラだった。これでは儂の血を引くガリュニスでは勝てまいし、ステシラオスが惚れ込んでアリステイデスにせがんだだけはある。正義には常に、神々は恵み深いというわけだな、アリステイデス。正義の人たるおまえには、神々が様々なものを与えてくれるものよな」

「神々が?」

「いかにも。私もおまえのようにありたいものだと今宵ばかりは羨ましく思ったぞ。名門アンティオキス族の生粋の血、名声、錚々たる友人知人、弟の妻には名高い白き腕のファリーン、弟には愛妻家の誉」

「――テミストクレス」

 瞬間、アリステイデスが鋭い咎めの声を放った。

 自分のすべては「正義の人」と女神たちから授けられた運命の糸ゆえであり、アリステイデス個人の魅力や尽力で生み出したのではないと言わんばかりの挑発的な言葉に、アリステイデスも怒ったのか。これまで曲がりなりにも温厚さの保たれていた面に、ついに朱がさした。黙れ、とまでは客人の手前か口にしなかったものの、殴りかかってでも政敵の放言を止めたいとばかりの剣呑さがあからさまになった表情に、ファンダレオンは息を詰める。伯父が眉尻をつり上げて怒気を発するなど、初めて目にした。

 だが、それをこそ待っていたかのように、テミストクレスはそんなアリステイデスをちらりと見やりはしたものの言葉を止めも遠慮も何もしない。むしろさらに言い切った。

「そして白き腕を差しのべられた、美しく才ある甥。そうそう、ケオスの美しきステシラオスもだったな」

 この事もなげで、それだけに強烈な毒を孕んだ一言に、アリステイデスは喉の奥に固い何かが詰まったのを堪える苦しい顔をした。それでもすぐに、暗い炯眼でテミストクレスをきっとねめつける。しかし彼はまるで余裕綽々と、「言いたいことがあるなら言い返してみよ」という意地の悪い挑発の色を口や目に深く浮かべてのけた。アリステイデスは歯軋りするさながらに大きく唇を歪めたが、咄嗟に応じるに応じられぬのか何も言わず、睨み合いのようになった。

(ケオスの――)

 その瞬間にファンダレオンは、反射的にステシラオスに目を向けていた。回った酔いも醒めるどころか凍る、アリステイデスとテミストクレスの間に入ることもできずに固まっている名前ひいては出身地など当然わからなかったものの、とにかくファンダレオンが知っている「ステシラオス」は一人だけだった。

 先日にリラを誉めてくれたそのステシラオスは、口を半開きにして目を瞠ったまま完全に顔を強張らせている。突然に出身地まで言われて逃げ場もなく名指しされたせいか、杯を今にも取り落とさんばかりに震える姿に、この人なのだろう、とファンダレオンは悲しく確信した。しかし客人の方は、同じくステシラオスを注視してはいるものの驚いてはいなかった。むしろどうなるのかという興味や期待が津々で、つまり静観の構えでいるのだ。ファンダレオンの口の中に不快感が湧きあがる。テミストクレスが単純にかつての美貌ゆえに「美しきステシラオス」と強いて言ったのではない含みは、生々しく露骨すぎた。確かに、アリステイデスが同性愛で浮名を流した噂を聞いたことはあった。空地で会った時は普通に知己と思い込んでいたものの、つまり流した浮名の少なくとも一つがステシラオスであり、二人の関係は今も続いているのであろう。そうして情を通わせている恋人なればこそ、せがまれて甥を饗宴に引っ張り出した。

 それがステシラオスであったのには驚いたが、アリステイデスが同性と関係するのは驚きでもなんでもない。ヘレネスは少年時代から同性愛を経験するのが茶飯事である。また、結婚適齢期も男が三十、女は十六ほどとされる。オイコスが重要視されるヘラスでは当然ながら夫婦関係も大事とされており、二十年もの苦難の旅をして妻の許へ帰還した「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスと、夫の不在の間も操を守り通した妻ペネロペが理想と言われていた。イタケの王子であるオデュッセウスまでではなくとも、アリステイデスの妻なら家にこもっていられる富貴な家庭の女性だろう。だが、外界を知らぬ上に結構な年齢差のある妻では、成熟度において釣り合わない。だから、アルカリウスのように妻一人をこよなく愛する者もいるものの、ヘレネスは結婚後も家の外に精神的に対等な恋愛を望む時がある。アリステイデスの妻すなわち伯母がどんな女性かファンダレオンにはわからないが、後継者を得るのを大事とするヘラスにおいては男であれ女であれ、浮気や恋愛は罪ではないのだ。相手が、他人の妻でさえなければ――何しろ、オデュッセウスは旅の間に何人もの独身の女と恋愛し、子をもうけた時もあったのだから。ただ、先日にタルクレウスを拒んだばかりのファンダレオンは、どうにも複雑な気持ちを覚えた。伯父への好意や尊敬は変わらないものの、こういう形で知りたくはないと思ってしまった。

 そうして、改めて胸に呟く。帰りたいな、と……抱えるリラが重みを増し、腕から逃げそうになる。ついた息も熱っぽく感じるが、テミストクレスと対峙するアリステイデスは甥を顧みてくれそうになかった。ますます顔を顰めながらも引き出された恋人を慮ってか無言で、ステシラオスに至っては対峙や膠着どころではなく、まるで怯えた兎のように震えるまなざしをしていてどこを見ているのかも危うげである。すなわち膠着の様相を呈していた、残るテミストクレスが何かしない限りは。しかし、そのテミストクレスが不意に、不自然なまでにふっと表情をやわらげて笑った。

 次いで呼びかける。ステシラオス、と。瞬間、ファンダレオンの目にも哀れに映るほどにステシラオスの面が引き歪み、容色の衰えがさらに露になった。

「そう、おまえも最後は「正義の人」アリステイデスのものになったのだからな」

 「最後は」という聞くからに意味深な言葉をファンダレオンが訝しんだのと同時、テミストクレスの一言にさらに緊迫の度を増した最中、忍び入るように平静な声が滑り込んできた。

「アリステイデス様」

 いつの間に長椅子から腰をあげて歩み寄っていたのか、タルクレウスであった。テミストクレスを睨みつけていたアリステイデスが、はっと気がついたように彼へ顔を向けた。

「お話の途中ですが、夜も更けてきております。ファンダレオンも疲れているようですので、ここは先に帰らせてはくださいませんか。明日の授業に差し支えてはいけませんから」

 いつもの抑揚で言いつつも、アリステイデスに促す双眸にはファンダレオンを案じて退かぬ意志が揺るぎなくあった。先生、と知らず小声で呟いた教え子に応えて、タルクレウスが「あれだけの演奏をしたのだから、疲れているだろう?」と穏やかに笑う。疲れもなにも前から体調がよくなかったファンダレオンは、駆け引きや装いもなく労わられてどっと力が抜けそうになってしまった。まさかタルクレウスが助け船を出してくれるとは思いもよらず、安堵と共に嬉しくなる。また、生々しい話題の渦中にいさせたくないと気遣ってもくれたのは疑いない。ファンダレオンは感謝してその好意に甘えることにし、できるだけ弱い声音で「少し……」とだけタルクレウスに返した。

 が、アリステイデスにはそれで充分、甥が帰りたがっているのがわかったのであろう。なんとも形容できない表情でタルクレウスとファンダレオンを交互に見、それからファンダレオンに心からすまなそうに笑みかける。そして深く頷いた。

「そうだな。我が甥はそろそろ帰そう。客人たちもそろそろ酒肴をお待ちかねであろうからな」

「うむ、女を楽しむにはまだ早すぎる歳だ。おお、そうだファンダレオン、これからもガリュニスとよろしく仲良くしてやってくれ。リラはまあ敵うまいが、他はなかなか見所のある奴だ。わかってはいるだろうが」

 テミストクレスも何事もなかったかのように明るく相槌を打った。つまり、引き留めはしないというわけで、ファンダレオンは開放感を覚えた。やっと解放されるのだ。そして、親友の父親に頭を下げつつ珍しく辛辣な思惟を抱いた。誉められて舞いあがり、後で伯父の政敵とわかって猜疑して落ち込んだのはファンダレオンの勝手ではあるが――確かにテミストクレスはテミストクレスでガリュニスはガリュニスである、絶対ガリュニスには越えて欲しい、と。それにしても、伯父の饗宴に無理に来て挑発的な言動を取った挙句、ファンダレオンには「息子をよろしく」と笑うのだから、聞いた話通りの傲岸さである。しかし、才気の閃く風貌ゆえか奇妙に嫌味がないテミストクレスに、ファンダレオンはつい頷き返してしまっていた。

 アリステイデスのように、もっと深く係わっていればまた別だろうが。後にこの男の従者となる未来など知るよしもない少年は、こうしてアリステイデスと広間から出ることになったものの、一緒に来るかと思ったタルクレウスは来なかった。彼はガリュニスの師でもあり、テミストクレスに捕まってしまったのである。ファンダレオンは一度、ガリュニスの話でテミストクレスと談笑している師を仰ぎ見た。

 一瞬だけ視線が交わった。

 タルクレウスのまなざしが和らぎ、ファンダレオンは軽く会釈した。そうして顔をあげた時にはもう、テミストクレスに目を戻して話を続けている。気にしないで早く帰るがいい、とばかりのその横顔に再び会釈して、ファンダレオンはアリステイデスの後について二人を後にした。そうしてリラを抱き締めて歩くごとに心は醒め、美しい顔は大人びた表情を纏う。いや、テミストクレスが遅刻してくるまでの、超然とした孤高の表情へと戻っていった。

(ありがとうございました……――)

 ファンダレオンは胸中でタルクレウスに礼を言い、己にも言い聞かせた。

 想うがゆえにファンダレオンに切り込み、抱き締めて口づけてきたタルクレウス。今日はテミストクレスとアリステイデスの間に割って入ってくれた。この場で誰よりも自分を案じてくれたと思える姿はアポロンの彫像のように眩しく、切ないまでに嬉しくはなった。しかし、だからこそ一度たりとも振り返らない。タルクレウスをひどく眩しく感じるのが、それでもその想いを受け入れられない意志は変えられない拒絶の遠さゆえであるのを、少年は悲しく悟っていた。

 だから「ありがとうございました」と終わったこととして、そしてこれで最後にする。静かに思い極めて、リラを抱く手に力を込めた。

 受け入れれば、タルクレウスはきっとファンダレオンの痛みや孤独に心を砕き、優しくしてくれるだろう。だが、彼の眩しさに惹かれるのは、イカロスが太陽に近づくのに等しいと思った。

 イカロスは太陽に近づいたために蝋の翼が溶けて墜死した。心を開いて関係を結んでも、イカロスと太陽のごとく互いに救いも救われもできない悲しみが重なってゆくだけではないのか。まして、後で両親に立ち返って打ちのめされるのが、ファンダレオンには既に見えている――目に浮かぶ涙をこらえつつ、彼は薄く笑みを湛えた。今でもなお振り返りたい揺れを心のどこかに孕む自分をもどこかで笑う、訣別の泣き笑いだった。

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