震える弦・6

 ファリーンにまた何かあったらしく、耳をつんざくような物音や奴隷の慌ただしい気配や足音の響きを背に感じる。

 が、それも今は遙か遠く、虚しい。

 アルカリウスはそんなにもファンダレオンが疎ましいのか、いや憎いのか。

 師を見送りに出たというよりは、徹底的に拒絶されて思い知らされたのがいたたまれなくて無我夢中で逃げ出してきたのに、違いなかった。

(父、上……!)

 急激に喉に突き上がってくる嗚咽に、ファンダレオンは背を折って咳き込む。目に、じわりと滲む涙。これまで「しかたない」と諦めてきたのは、すべて受け流してきたのは、「父もきっといつか」という思いが殊の外に強い支えとなっていたからかもしれない。自覚し、それがさらに打撃となって打撃を受けて泣き出しそうになってしまった。たった今、父に存在さえ認められなかったのに。タルクレウスがいながら感情を抑えて冷静に徹しられそうにないのも追い打ちとなって、ファンダレオンはこれまでにない絶望と恐怖に襲われた。

 このまま、母のように精神を病んでしまうかもしれないのではないかとファンダレオンは青ざめて思い詰め、果てに暗い光を透かし見る。そうなった方がむしろ楽に、幸せになれる思いがかすめた。けれども、アルカリウスが見向きもしない確信が、恐らくぎりぎりで少年を淵に押し止めた。狂っても母のようには決して愛されはしないファンダレオン、捨て置かれて独りけたたましく狂乱するファンダレオン。狂えば父の反応に傷つき苦しむことはなくなるとしても、そう想像すると耐えがたかった。それに、ガリュニスが悲しむだろうし、奴隷やアリステイデスに迷惑がかかってしまう……縋るように思い直す華奢な背を、タルクレウスがゆっくりと優しく撫でてきた。しかし闇に深く囚われていて、ファンダレオン、と呼びかけられていたのにも聞こえていなかったファンダレオンには不意の刺激であった。肩が大きくはねあがる。だが声も出せずにただ震えるばかりの身体を、すぐにタルクレウスがきつく抱き締めながら痛ましげに囁いて告げた。

「なぜ、声も涙も出さずに泣くのだ。ファンダレオン……おまえは子供なのに」

 見るからに危うい様子だからといえども、大胆だった。付近に誰もおらず、ヘラスに同性愛の慣習があるとはいえ、教官が六歳の教え子をその自宅の玄関先で「そのように」抱擁するのは恥も外聞も顧みぬ行為である。それが欲情でも真剣でも、半ば失心したファンダレオンは焼けつく痛みを感じた。肌の外にも、内にも。だから反射的に力任せでもがき、驚いて腕を緩めるタルクレウスを突き飛ばして自分の部屋へ逃げ込んだ。そうしてファンダレオンはその夜の間、一睡もできずに寝具の中でじっと息を殺して身を潜めた。

 教室でいきなり口づけられたあの時も、唇の熱さや唇を通して注ぎ込まれる何かの奔流に呑み込まれる気がして怖かった。だから必死にこらえてきた。その奔流に呑み込まれ、流されて、両親の代わりにはならないとわかっていてもなおタルクレウスを受け入れたくなってしまう、刹那の甘やかな動揺を。だから、「行きましょう先生」とファンダレオンは、重ねられた唇が離れた後に一言そう促してのけた。タルクレウスが冷水を浴びせられたような表情をし、次いで怒りと痛みとが混ざった顔になりながらも抱擁を解いたのに虚しい惜しさを覚えつつ、それでも何事もなかったかのように帰宅できたのだ。しかし今回は、今回ばかりは、アルカリウスの過ぎるまでに冷淡な態度に傷ついた少年が平静に拒み通すには、細くはあるものの確かに壮年のものである師の肉体は大きく、そして熱すぎた。

 それから長い時間が経ち、一人になって少しずつ理性が取り戻せてきた最中に、ファンダレオンの瞳に大人びた微苦笑がかすめる。なりふり構わずでも、逃げられてよかった。なぜなら、民間経営ではあるものの学校もポリスの監督下にはあり、問題があれば教官は訴えられてしまうのである。教官と教え子が恋愛関係にあるとなれば父もさすがに捨て置きはしないかもしれないし、ファンダレオンがアリステイデスの甥であることからして訴えに留まらない恐れがあった。

 そう、ファンダレオンは今になって気がついて、またしても衝撃に見舞われた。自分の伯父が「正義の人」と呼ばれる政治家であること、すなわち「醜聞」を避けなければならないこと――いつものファンダレオンなら、それを真っ先に意識してタルクレウスを拒んでいたであろう。それを「両親の代わりにはならない」と拒んだということは、ファンダレオンは自覚しているより遙かにタルクレウスの想いに揺れてしまっているのかもしれない。愕然と気づいてファンダレオンは、それでも拒絶したのを悔いこそはしなかったけれどもただ、泣きたくなった。しかし、涙は一筋たりとも流れずに夜が明けた。泣いて激情に自分を委ねれば、もう一生狂ってしまう気がしてならなかったからである。本当に何もかも、誰にも表に出せないことばかりであった。

 そうして二日が経って今日、ファリーンは依然として衰弱はしているものの再び安静に戻り、ファンダレオンもどうにか通学と生活を大過なくこなせた。学校が成績を取るのは体育と音楽だけなので、他の授業は適度に力を抜きはしたが。ただし、体育では学友の裸体を目の前にしたり肌が触れ合ったりするのでどうにも辛くなってしまい、何よりガリュニスから「先生とは何もなかったか?」と訊かれたからどうにも苦い思いを味わった。

 そのタルクレウスは、基本的にこれまで通り師という以上でも以下でもない態度である。ファンダレオンの方はさりげなく避け、彼もふとした時には物言いたげなまなざしや表情をしたけれども、ファンダレオンを居残らせるなりして一連の出来事を総括するつもりはなく見えた。アリステイデスから饗宴に招かれていると言っていたから、静観しているのだろうか……昨日今日なので不安を打ち消しきれないながらも何もなく学校から帰宅すると、ファンダレオンは久しぶりに家で入浴をすませ、テューロンが用意した上等の衣服を身につけることとなった。

 テューロンが言うには、いつもより小綺麗にするのが饗宴における礼儀であるという。すなわち今夜に、アリステイデスが主催し、ファンダレオンが演奏することになった饗宴があるのだった。それで、ファンダレオンは学校から直接アリステイデスの家へは行かずに一度帰ってきたのだ。タルクレウスが連れて行くのがアリステイデスの依頼だったが、後で「子供でも饗宴に参加するからにはやはり身なりを整えなければ」となった。と、他にも色々と話しながらテューロンは、女奴隷がファンダレオンの肌にオリーブ油をすりつけて衣服を着せてゆくのを瞳を眇めて見守っていた。そうか、わかった、などとファンダレオンは微笑して相槌を打った。師が同行しないのを安堵しつつ、この老奴隷の目の色が深くなっているのには気づかぬふりをして。テューロンがこうして饗宴について話しているのは、少なくともファンダレオンが物心ついてからは父が饗宴を催したことがないので、饗宴がどんなものかよくわからないからである。ファリーンが病を得たからやらなくなったのは、尋ねるまでもない。そして、テューロンがファンダレオンにアルカリウスを見て懐かしんでいるのかと思った。それは多分に、そう思いたいし思われたい悲しい願望であるのをファンダレオン自身も悟っていたので、テューロンが実際どう見ているのかとか服装が似合っているかとかもまた、尋ねないでおいた。

 代わりに、すべて終わると女奴隷たちがため息をついて、「素晴らしいですよ」などと口々に陶然とファンダレオンを誉めそやす。香りをつけられた白い上着と下着は小麦色の肌によく映え、黒髪はオリーブ油で整えられて艶やかに光る。大人びた面差しや翳は、今はその美貌を際立たせるばかりだ。いつ神々が気に入ってオリンポス山の神域へと連れ去ってもおかしくない、まさに匂い立つ絶世の美少年ぶりであった。が、磨きがかかって輝く容姿にこれといった感慨はなく、彼はテューロンたちを退がらせて一人で自分の部屋に佇んでいた。いつも使っているリラを足元に置いて、ぼんやりと窓から外を眺める。昼過ぎから冷たい小雨が断続的に降り続く、夜への移ろいに翳る灰色の雲がたれこめる空に表情が曇った。

 まるで、ファンダレオンの心を映す鏡であるかのような。

(今日、か……)

 できれば外出したくない色合いだが、これからアリステイデスの家内奴隷数名が車で迎えに来ることになっている。ファンダレオンもファンダレオンでヒュラリスを連れては行くのだが、要するに車を使うのも、数名で来るのもファンダレオンを守るためだった。夜は悪魔たちが跳梁する時間であり、月や天空の慈しみも地上には届ききらない。それに、アテナイはファンダレオンが生まれる二年も前からエーゲ海を挟んだ東方のイオニア地方を巡ってアケネメス朝ペルシアと敵対しており、この頃もペルシアの青年将軍マルドニオスがヘラス諸ポリスに「土と水を献じさせる」ために船でマケドニアへ侵攻してきた。ペルシアでは降伏勧告の際に「土と水を献じよ」という言い方をするのだが、マルドニオスは王の娘婿であるから本気で決着をつけるつもりだったのだろう。それは幸運にも冬の嵐でペルシアの船団が壊滅的な打撃を受け、陸軍とマルドニオスもペルシアへ引き揚げたので失敗した。とはいえ、かつてペルシアに乱を起こしたミレトスらイオニア諸ポリスをアテナイが援助したという経緯があり――これはペルシアに鎮圧されたが――、さらには先年、イオニアのケルソネソスに赴いて僭主となり、ペルシアに従っていたミルティアデスがアテナイに帰国してきた。これは彼の独断であり、いわばペルシアを裏切ったことになる。この状況ではペルシアとの敵対は不可避であり、ファンダレオンがアリステイデスの甥として狙われないとも限らぬ。アテナイの城壁内といえども、護衛をつけるに越したことはないのであった。

 ふと、ヒュラリスが慌てた様子で走っているのが眼下に見えた。伴をする準備をしているのかと一瞬は思ったが、行き先がいつもリラを練習するあの空地らしいのが引っかかる。声をかけるにはいささか遠く、何かあったのかなんとはなし気になってファンダレオンは外套を身につけ、後を追って空地へと走った。

 そうして走り着いた彼は、自分の姿を隠してくれる老木の陰にそれを目にして立ち竦んだ。全身に圧迫感を受け、しかしすぐに別の木陰に身を隠していた。

 そこにいたのはヒュラリスと、――……一人の少女だった。見知らぬ顔だが、身なりや顔立ちからしてどこかの女奴隷であろう。二人はごくごく当たり前に抱き合い、満面の笑顔で何か楽しそうに語らっていた。話の内容は聞こえないが盗み聞きする気も、ましてやこっそり盗み見ている気もなく、ファンダレオンはすぐに踵を返して離れた。吐き出す白い息すらも二人を遮る気がして、口を両手で押さえる。邪魔をしてはいけない、と思った。

(……そういうこと、か)

 家へ戻るサンダルの足取りが、馬鹿馬鹿しくなるほど力なく感じられた。ファンダレオンが饗宴に出かけるまでの少しの時間だけでも、と、ヒュラリスは恋人と逢い引きしているのだ。相手の少女は可愛らしく善良そうで、遠目でもヒュラリスへの想いが溢れて輝いていた。アゴラか近所で巡り会い、恋に落ち、人目を忍んで逢うようになったに違いなかった。

 だが、「魂のある道具」は身体ばかりか心も自由ではなく、恋愛も限られている。同じ家の奴隷同士であるなら主人の裁量で、テューロンの亡妻もアルカリウスの女奴隷で許されて結婚した。違う家の奴隷でも許されぬわけではないが、その場合は両家の主人の兼ね合いがあるし、何よりヒュラリスは若すぎる。奴隷の結婚は、主人に長く忠実に仕えた功で解放された後、満を持して妻帯するのが多いという話であった。テューロンも、奴隷の身分から解放されてはおらぬものの、アルカリウスやその父親すなわちファンダレオンの祖父から大きな信頼を得て給金を蓄えるまでは、恋人の存在を明かさなかったと聞いた。ヒュラリスも結婚してからの子であるという。だから、少女がどこの誰の奴隷であるにしろ、現時点ではヒュラリスの恋はイカロスの翼である。露見すればきっと、恋の翼は現実という名の容赦ない光に蝋のように溶かされて、恋人たちは墜落してしまう。邪魔をしてはいけない、見なかったことにしなければいけない、ファンダレオンは繰り返し自分に言い聞かせた。

 ヒュラリスは、ファンダレオンのパイダゴーゴスを務めている第一の奴隷だ。それが自分も見たことのない柔らかな笑みを浮かべて恋人を抱き締めているのだから、たとえ禁忌の恋でもそっとしておきたい。なぜなら、もしも仕える少年に知られたとすれば、実直で真面目なヒュラリスはたとえファンダレオンが好意的でも自らその恋に終止符を打つ恐れがあった。見つかってはいないはずだが、気になったばかりに目撃してしまったのを少し後悔した。二人は少年の目にもとても幸せそうで、まるで既に夫婦であるかのようなほどに似合っていたから、今はまだ無理でもいつかは結ばれて幸せになって欲しかった。

 そうして部屋に戻ってからアリステイデスからの迎えが来るまで、再び窓辺にぼんやりと佇むファンダレオンの脳裏に、一昨日のタルクレウスの形相が浮かんでは消えてゆく。

 ファンダレオンの孤高を見抜き、抱き寄せて唇を重ねてきたタルクレウス。

 もしも、その想いを受け入れて密やかに関係を始めていたならば。

 ファンダレオンもヒュラリスたちのように、少しは幸せになれただろうか? 少しは、アルカリウスやファリーンから愛されない悲しみが和らいだだろうか?

 差しのべられた手を取っていた方がよかったのかと、ファンダレオンは思わず自分と運命とに問わずにはいられなかった。恋し合う二人の姿の眩しさに目を、胸を射られて――雨が、ファンダレオンの心を映すように少しばかり強くなってきた。オリーブ油を塗っているのも忘れて利き手を窓の外へ伸ばし、細くしなやかな腕に滴を当たらせる。

 冷たさが身体の芯まで沁みる氷雨。息をつき、ファンダレオンは濡れて凍えてゆく腕を引き寄せてその場に座り込んだ。瞳を閉じて、傍らにあったリラを知らずきつく抱えた。ヒュラリスたちを目にして即座に帰ってきたのは、両親であれ友達であれ恋人であれ、一片のためらいやこだわりを持つことなく心を許して吐露できる相手が自分には一人もいないのを否応なしに自覚して、どうにも辛くなってしまったからでもあるのだろう。

 だが、それでもやはりファンダレオンは最後は、暗い気持ちでぽつりと心中に呟いた。

(しかた、ない……――)

 伯父がアリステイデスであり、父がアルカリウスであり、母がファリーンであるという現実から飛び去って、男でも女でも誰かに恋をして胸中をさらけ出す日など、生涯来ないのであろう。それこそが、ファンダレオンが背にしたくても決してできないイカロスの翼なのであろう。

「ファンダレオン様、ただ今――」

 テューロンの声に顔をあげた時、ファンダレオンの面はいつもの冷静沈着な表情に戻っていた。アリステイデスからの迎えが来たというその知らせがファンダレオンには、自分が「アンティオキス族アルカリウスの子ファンダレオン」としてこのまま心身に闇を抱え、かつ抑えて生きてゆく以外にないという神々からの宣告であるように感じられて、仕方なかった。

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