震える弦・5

     一目見た時から、君は何かを抑えていると思った。

     だからどれほど優秀な成績を収めても平静なのだと。

     しかし、子供らしくないというのは、何よりも悲しいことだ。



 奴隷が毎日掃除している自分の部屋が今は寒々しく、他人の部屋かとすら思ってしまった。

 しかしこの部屋に、ファンダレオンはほとんど閉じ籠もって過ごした。奴隷がまだ暖を入れていなくて室内が冷えていても、奴隷部屋へ行って叱るどころか毛布にくるまり、震えつつ寒冷をしのいだ。その二日間、ファンダレオンは荒れがちな唇を噛み、呼吸の気配一つ放たない。口が少しでも緩めば何かが濁流となって溢れ、周りを汚してしまう恐怖心があった。そして、明かりを灯すなり食事を運ぶなりで奴隷が来るまで身を縮めてその恐怖を内に押し込め、時の女神たちが司るままにじっとしていた。

 寒さで体調を崩したと思われたのだろう、奴隷たちは常よりももっと尽くしてくれる。実際、身体の不調までは隠しきれず、ファンダレオンの麦色の肌は不健康に紅潮し続けていたのである。どんなに聡明で醒めていても、身体はまだまだ脆い少年のものだ。熱を孕む息苦しさや悪寒の中、意識を失ってしまう時も多々あって心細くはあったものの、ヒュラリスすら長く傍に留まらせなかった。ヘレネスの子供の通学に付き従い、護衛ともなる奴隷は「パイダゴーゴス」と特に呼ばれ、多くは年輩の奴隷がこれを務める。父がテューロンの言にだけは耳を貸すのは、自分のパイダゴーゴスとして少年時代に絆を築いたからなのだろう。ファンダレオンの時にはテューロンは老齢だったので、ヒュラリスがパイダゴーゴスとなった。パイダゴーゴスは「監視役」として遊び盛りの子供からは嫌われていたものの、ファンダレオンはテューロンの一人息子である二十歳のマケドニア青年に好意を抱いて信頼していた。それでも、「少し疲れているだけだから」と否定して身も心も閉じこもろうとする。

「何を言います!」

 と、だからヒュラリスだけはファンダレオンに食い下がった。自分たちが至らなくてファンダレオンが無理をするのではないかと、テューロンにも事々に気遣われていたのでファンダレオンは熱でふらつく頭を小さく振る。心持ち、目をそらした。奴隷の悲しげな表情には、弱い。胸にある、彼らに慈しまれてもなお消えぬ闇を見透かされているのではないかという呵責を感じさせられるからだった。

「大丈夫だ。伯父上の饗宴の時はしっかり演奏する」

「そ、そんな心配ではっ」

 そんな心配ではないと言いかけ、饗宴ひいてはアリステイデスを侮辱する暴言になると慌てて口を噤む。そんなヒュラリスの無骨な温もりに笑いながら、しかしファンダレオンはこの時も最後は退けた。突き放したのでは勿論ないし、弱音を吐きたい衝動がまったく起こらないわけでもなかった。ただ、ファンダレオンは物心ついて間もなく、父から嫌われているとわかった時から奴隷をできる限り使役すまいとしてきた。奴隷には一日中、なんらかの仕事がある。自分が徒に何か用事を命じたせいで本来の仕事が遅れ、アルカリウスの不興を買わせてはいけないと思い立ってであった。奴隷は「魂のある道具」であるというが、その魂にファンダレオンがどれほど救われてきただろうか。

 否、どうして道具などと扱えるだろう、両親に顧みられぬファンダレオンを慈しむ奴隷を。

 ゆえに、ヒュラリスもパイダゴーゴスであることだけが仕事ではないのだからと、ファンダレオンは病んだ辛さに黙って耐えた。自分の体調や感情で、ヒュラリスたち奴隷を煩わさせまいとして。六歳の少年が下すには痛々しいまでの、孤独だった。家の外、親友のガリュニスにはなおさら言えはしない。オイコスすなわち「家」がアテナイひいてはポリスを構成する第一の基であり、子は親を尊敬し親もまた子、特に家を継ぐべき嫡男をきちんと育て上げるのが市民の規範とされる。そうであるのに、愛妻ファリーンが産んだファンダレオンをアルカリウスが疎み、それがためにファンダレオンが魂のある道具に好意を抱いているなどと話すのはためらわれた。ファンダレオンの伯父とガリュニスの父とは、政敵同士である。ガリュニスは胸の内に収めてくれるだろうが、それでもアルカリウスの冷遇やらを家の外に悟られたくはなかった。

 だが、既に当の奴隷たちがかつてそんなファンダレオンを恐らくは拒絶した。昔の彼は屈託を押し殺すのが今ほど巧くはなく、ヒュラリスにそれを指摘されて告げたことが一度あった。奴隷たちがよくしてくれるから、自分も奴隷たちに余り命じたくはない、といったことを――だが、ヒュラリスは驚いた顔をした。そうして「もったいないお言葉です」などと平伏して、いつでもなんでも命じてください、我々は奴隷ですから、と熱のこもった表情と声音で言い足したのだった。

 なぜ恐縮されて感謝されるのか、ファンダレオンの方が驚愕した。

 ……奴隷だから? 物心ついた時から父母より余程に家族らしかった奴隷たちに感じ入り、報いたいと思うのは当然ではないか。奴隷であるのに慈しんでくれるからではなく、慈しんでくれるのが奴隷であるからただ自分なりに気遣いたかったのが「ファンダレオン様は市民で自分たちは奴隷ですから」と線を引いて拒まれてしまった、切なく深い痛みを感じた。ゆえにファンダレオンは他の奴隷にも二度とそれを言わなかった。言えば、ヒュラリスたちが身分にこだわって自分から遠ざかってしまうのではないか、そして自分に向けられているのが奴隷としてのただ「奉仕」なのではないか、と、足元が崩れ去ってしまうような恐れに囚われたからである。学校に通い始めてからは、「卑しく、市民に奉仕するべき運命にあるのが奴隷である」という世間の通念がヒュラリスを遜らせたのであり、自分が突き放されたのではないと思い直しはしたものの、やはり納得はできずにいた。ヒュラリスたちがあってこそアルカリウスとファリーンの態度を「しかたない」とやりすごせるのを既に悟っているファンダレオンには、奴隷が「卑しい」とはどうしても認識できなかったのだ。が、かといって奴隷に対する通念自体を否定するまでには至らず、結局は自分が通念に違和感を覚えるほど浮いているという孤独感に行き着いた。

 かくしてファンダレオンは、家族とも友とも奴隷とも分かち合えぬ孤独を心身に押し込め、大人びた表情に時には醒めた微苦笑を浮かべて、向けられる言動を子供らしくなく捌いた。達観とも諦観ともつかないその有様では、美貌や才知に恵まれなくても学友から敬遠されていたであろう。ともかく「アルカリウスの子ファンダレオン」として、いつでもどこでも体裁を保ってきた。

 しかし、そんなファンダレオンも今は様々な形で心身に綻びを得てしまっていた。教室でタルクレウスから饗宴の話を聞かされ、アルカリウスの許しをもらうために共に帰宅した後、そうなってしまうだけの成りゆきがあったのであった。



 何しろ、愛妻家という評判やその妻の病を憚って客人というものが絶えてない家である。それが急にタルクレウスが同道するとなってヒュラリスも浮き足立ってしまい、出迎えたテューロンでさえも戸惑いを隠しきれぬ様子だった。

 が、当のアルカリウスだけが、息子の師をごく穏やかに迎え入れた。

 ファリーンの病状が安定していたからか、饗宴にファンダレオンを出させるための面談はこうして何事もなく始まった。双子の兄の名が出ても、アルカリウスは少なくとも表面では静かな態度でタルクレウスの話を聞いていた。

 ファンダレオンは末席に座っていたが、父の近くに長時間いることになるのはこれが初めてであった。話の焦点が自分だからだろう、同室を許されたのだ。許さざるをえなかったからに過ぎなくても、それでもファンダレオンは緊張しつつも家族として父の傍にあれるのが嬉しくて、アリステイデスとそっくり同じ端正な顔を瞬きもせずに見つめ続けた。これが最初で最後かもしれない不安や緊張、何より必死な衝動に突き動かされて、乞う気持ちを露にした強い瞳で。年不相応な翳をかなぐり捨てて、一瞬でも、偶然でもいいからその目が向いてくれるのを願った。願わずにおれなかった。ちちうえ、と一度も口にしたことのない呼びかけが胸に溢れる。今だけでも息子への目で見て欲しい、とひらすらに訴えた。

 わかりました、と、アルカリウスが恐ろしいまでに温厚な声音で頷く。

 その日はよろしくお願いしますと、続けてタルクレウスに一礼した。すなわち、それで話は終わった。いや、きっとすべてが。言葉には決してできない衝撃に、ファンダレオンは叩きのめされて茫然自失した。アルカリウスは話題の焦点である息子を見やるどころか、最初から最後まで疎んじる素振りすらしなかった。存在自体、黙殺されたのである。価値も思い入れもないが、捨てるのも面倒でただどうでもよく置いてあるだけの彫像ででもあるかのようだった。だがタルクレウスに対する父の態度は端然としていた。落ち着いて息子を認めているように見えた、いや、そう見える態度を作ったのを、ファンダレオンは疑いなく直感した。

 それはつまり、アルカリウスが自らの意志で息子の存在を排するということだ――衝撃からふっと立ち返った時、ファンダレオンはタルクレウスと二人きりで玄関に立っていた。

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