震える弦・4
それから数日、誰にとっても幸いにファリーンは落ち着いていた。
否、暴れるのに力尽きて寝込んでしまったという方が正しいのであろう。奴隷たちの話ではかなり衰弱してしまっているそうで、久しぶりに医者も呼ばれた。アルカリウスは当然ファリーンにつききりだったが、ファンダレオンはさすがに中庭やいつもの空地でリラの練習をする気にはなれなかった。母の容態が心配であるのもさりながら、そんな母を遠目からすらも見舞えない現状にどうしようもなく鬱いだ気持ちになって落ち込んだからであり、学校に通う他は父のように部屋にこもって過ごした。
学校は、アテナイでは六、七歳頃から通い始めるのがアテナイでの慣習である。ファンダレオンは六歳になった途端に通学を始めたが、それは恐らくファリーンに対する、かつ自分も自分でファンダレオンとは一緒にいたくないアルカリウスの感情やテューロンの配慮だった。都度テューロンが報告はしているのかもしれないが、女奴隷たちに育てられてきたファンダレオンがどう育って学校やアゴラという「世間」に出ても、父はなんとも思わないようだ。学校は民間経営であり、月謝を払えば通えるわけだからテューロンが手配すればそれでも問題はないが、ファンダレオンは学校でもまた浮いていた。アリステイデスの甥であり、アンティオキス家出身という出自からではない。アンティオキス家がなにゆえに「名門」かといえば、ヘラクレスを祖先とし、かつての大政治家クレイステネスが定めた「十部族」の一つだからである。つまり格を等しくする名門がアテナイには他に九つも存在するのであり、ファンダレオンはその子弟の一人に過ぎなかった。
しかし、ファンダレオンの美貌、大人びた影、聡明さ――それらは大人の目を惹くばかりではなく、同年代の子供を突き放すものでもある。おまえたちとは違う、おまえたちは相手にならないという傲慢な気持ちはまったくなかったけれども学友に歩み寄りまではしなかったファンダレオンが、仲良くなっているのは現在ガリュニスだけだった。何がきっかけで仲良くなったのかはよく覚えていないが、覚えてもいないほど当たり前に親しいということかもしれない。そして彼ら二人は、優秀とされる二人でもあった。
「親父はリラやリラは得意じゃないっていうから、まず楽器から越えてやる」
父を爽やかに見上げて張り切るガリュニスの笑顔が、ファンダレオンには眩しく痛かった。ファンダレオンが演奏や勉強、運動で人に劣るまいと努力するのは、この親友のように「父を越えようとする「自分自身」」のためではないのだ。伯父に迷惑をかけぬためもさりながら、優秀な成績を収めていれば父がいつか一言でも誉めてくれるかもしれない、という希望が胸に灯り続けてしまうせいであった。
本当に、浅はかだ。父の心には母しかいないのがわかりきっているのに。
わかりきっていてなお努力せずにいられないファンダレオンに、ガリュニスのような真っすぐな目標意識や達成感などあるはずもない。努力すれば人を抜きん出るだけの才能を以て生まれついたのも、恐らくファンダレオンの不幸だった。だから教官から賞賛されても喜べず、平然として見える言動がガリュニス以外の学友を遠ざけた。彼らが陰でガリュニスを応援しているのを知っても、悔しさも哀しみも感じられなかった。
かくして授業がすべて終わった後、ファンダレオンは教室に一人残ってリラを弾いていた。
演奏や学問の師であるタルクレウスから、話があるから残れと言われたので練習をして待っているのである。気をつけろよ、と、ガリュニスが先に帰る際に冷やかすように言ったものの、ファンダレオンもタルクレウスが少しばかり苦手だった。
三十代前半にして学校の教官の一人にまでなりおおせた、理知的な表情が印象的な才人だが、時々ファンダレオンへのまなざしに甘やかな色が宿っているような気がする。二十歳以上も年の離れた少年、それも教え子にまさか色恋の感情を向けているはずもあるまいが……それでも、何もしないでいると微妙に不安でリラを手にしたファンダレオンだったけれども、不意に、後ろからふっと両肩を押さえられたので全身が緊張してしまった。
「ファンダレオン、音が沈んでいるね」
振り向いて確かめるまでもない、タルクレウスとわかる低く抑揚の静かな声。リラを床に置こうとして身動きすると、その両手はあっさりと外れた。
「……すみません」
「授業ではないから謝ることはない。気がかりでも、あるのか?」
傍にある席につきつつ優しく尋ねてくるタルクレウスに、ファンダレオンはリラを置いてから小さく頭を振った。
「……音が沈んでいるだけです。気をつけます」
実際のところ、楽器の役割というのは歌唱の伴奏に留まっており、リラなどの演奏が「器楽」として確立してはいない。それでも音楽の授業があるのは、演奏を通して心を健やかにするのが目的とされているからだ。つまり、タルクレウスの耳に音が沈んで聞こえるということは、ファンダレオンの心は少なくとも健やかではないということである。それでタルクレウスは心配して何かあったのかと尋ねてきた。美しすぎるほどの顔に、子供らしくない微苦笑が浮かぶ。ファンダレオンが健やかなことなど、物心ついてから一時でもあっただろうか。
そうか、と頷いてさらに追及してはこなかったタルクレウスが、しかし続けて意外なことを言い出した。
「ファンダレオン。今日はこれから君の父上にお会いしたいのだが、どうだろう」
「え?」
ファンダレオンは目を見開く。タルクレウスはなぜ訪問しようというのだろう。月謝は勿論きちんと納めているし、成績も常に上位にある。すぐに思い当たるのは、学内で浮いているのが教官の間で問題視されていたのかもしれない、というくらいだが、父は聞き流すだけに決まっている。それどころか、ファリーンの看病をしている時に疎ましい息子の話をわざわざ持ち出されて、機嫌を悪くしてしまう恐れがあった。
自分が叱責されるのはかまわない、いや叱責でもいいからアルカリウスから声をかけられたい虚しい願いすらファンダレオンにはある。が、その不機嫌を宥めるのはテューロンの役割である。父が聞き入れるのは長く身近に仕える奴隷頭の言だけなので、テューロンに迷惑や苦労がかかってしまう。
できればファリーンの容態がもっと落ち着くまで見合わせてもらえないかと返事しようとしたところ、さらに意外な言を続けられて硬直してしまった。
「実は先日、アリステイデス様から饗宴のお招きをいただいた。三日後なんだが、それで、君も一緒に連れてきて欲しいと頼まれてね。饗宴にいらっしゃる他の方が、どうしても君の演奏を聴きたいというお話で……言いにくいことだが、君の父上と行き違いがあってアリステイデス様からは君の父上に頼みにくいから、私の方から君を饗宴に呼んでいいか頼んで欲しい、と」
それでこれからファンダレオンの家に行きたい、というのがタルクレウスの話であった。
数日前のアリステイデスたちとの話がこんな形になるとは思わず、ファンダレオンは言葉に詰まる。もっとも、彼がこの学校に入ることになったのは、アルカリウスが六歳になった息子を通学させると決めただけで他は何も指図しなかったため、テューロンがアリステイデスに相談して決めてもらったからだ。だから伯父とタルクレウスとの間に繋がりがあるのはむしろ当然であるが、その伯父と父の仲の悪さを改めて確信して複雑な気持ちになるのを、少年は静かに押し隠した。
実際は、「行き違い」という言葉で足りる不仲ぶりではないのかもしれなかった。「行き違い」があると言ってまでタルクレウスを仲立ちにしようとしているのだし、そもそもファンダレオンは父と伯父が顔を合わせているのを見たことさえも一度としてない。
「そうですか……」
ファンダレオンの演奏を聴きたいという「他の方」がステシラオスなのかさらに別の誰かがいるのかはわからないが、その饗宴にステシラオスがいるのは間違いなく思われた。それに、今回ばかりはアリステイデスも、「あれはアルカリウスの子だから」などとやんわりと断るに断りきれないらしいのも……ファンダレオンは苦く悟り、腹を括って承諾することにした。たとえ今日断っても、明日以降にアルカリウスの機嫌が多少でもよくなる保証もなかった。
(しかたない……な)
ならばこの件を速やかに終わらせた方がいいと諦めて、ファンダレオンは頷いた。それでも思わず、かすかに吐息が漏れ出てしまった。
「それなら……これから父に、お会いになってください」
許しというより饗宴でもなんでもどうでもいいという父の応対を予想し、湧いてくる鬱情に顔を伏せていたファンダレオンは、次の瞬間、顎を強く掴まれて否応なしに上向かさせられていた。
目と鼻の先に、恐ろしいほど真剣に彼を見つめてくるタルクレウスの顔があった。
「君はなぜ、そんなにも醒めている」
単刀直入に言い指されて、ファンダレオンは息を止めた。今のタルクレウスの双眸に、恋情を思わせる甘さはいささかもない。そこにあるのは怒りとも苛立ちともつかぬ、ただ問い質そうとする強い意志だけだった。
「嬉しくないのか? 君は皆から認められているのだぞ。そうやって。――だが、君は今まで、一度たりとも喜びや満足を表に出したことがない」
「………」
「何が、君の心を冷ますのだ」
家族です――。
そう反射的に答えてしまいそうになるほど息詰まる空気に耐えかねて、ファンダレオンは目眩と吐気を覚えた。しかし頭や胃の痛みにむかつきつつも目もそらせられなかった。タルクレウスは嘘やごまかし、逃げるのを許さぬ厳しさをもって教え子に返答を求めている。いや、返答を強いようとしていた。
けれども、たとえ師であろうが言えるものかとファンダレオンは思った。透徹したその意思を込めて、強くタルクレウスを見返した。
何がなどと、誰にも口にできるものか。名門アンティオキス家に属し、「正義の人」アリステイデスの甥で美貌と才能を「アポロン」とまで謳われてしまっているファンダレオンが、両親から愛された記憶もなく、愛しても届かず愛を求めても叶わなくて冷えきっているなどと……――!
タルクレウスにも誰にもこの心の内を明かすわけにはいかないと思ってこの時、ファンダレオンは初めて悟った。明かしてしまえば、仕方ないとすら諦められなくなるだろう。そうして愛でも優しさでも同情でもなんでも、浅はかに期待せずにはいられなくなるだろう。そうして独りでは、いられなくなるだろう。けれどもその相手も両親の代わりにはなりえないから結局はファンダレオンはまた独り、結局はアルカリウスとファリーンからは何一つとして与えられていない現実に立ち返って打ちのめされるのだろう。
『おまえとおれだけだから、他には誰もいないから』
そうであれば最初から最後までずっと独りで、いた方がいい。呼吸を取ってファンダレオンは、諦観とも決心ともつかぬ確かながらも悲しさにやるせない微笑を浮かべつつ、自分を案じて厳しく切り込もうとしてくれたのだろう師に向かって、言い切った。
ぎりぎりに引き絞った偽りを。
「母が――病気ですから」
タルクレウスの面が、何かに打たれたかのように大きく強張る。
しかし、対するファンダレオンの心も身体も、表情も平静を装って揺らがなかった。美しい顔がこの瞬間、まさに神のような静かで透き通った威厳を放ってタルクレウスを圧したのには気づかず、ただ冷静さを保ってそんな師を見つめ続けた。そしてそのうちに泉に波紋が広がるようにして緩やかに、彼への感謝の気持ちが起こってファンダレオンは瞳を細める。ありがとうございました、と、胸中に呟いていた。「ありがとうございました」と、既にこのやり取りが終わっているのにいくらかの罪悪感を覚えながらも、決して自分に動揺を許しはしない。
(ありがとうございました、……先生)
おまえは喜んでいない、満足もしていない、なにゆえか、と。
タルクレウスはそう、初めて陰口ではなくしてファンダレオンに真正面から切り込んできたのだ。ガリュニスはファンダレオンに負けるごとに悔しがったが、自分を負かして平然としている親友に文句をつけたりはしなかった。一度たりとも。何かを感じ取っていたのであろう。それは何も言わずにファンダレオンに心を込めて尽くす奴隷たちの優しさに似ていたので、ファンダレオンはすぐにガリュニスが敢えて触れないようにしてくれていると悟った。悟って、そうして自らも黙って受け入れていた。しかたないな、とテューロンに最初に言って追及をやめた時と同じ、濁りが少し混ざった気持ちで。だからファンダレオンは、優しさとはそういう遠巻きにするものとばかり認識していた。
あの時、浴場で顔を洗い続けるガリュニスのために友としてできるのは、黙って見守ることと思ってそうしたように……。
けれども、こうして単刀直入に問い質されるのもまた「優しさ」なのだろう。タルクレウスは師であるから「教わった」というべきか。だからファンダレオンは感謝しながら、そっと言を継ぐ。
「母が――心配ですから」
母のことが頭から離れません、と、今度は思ったことをそのまま口に乗せた。
事実、そうではあった。家は、家長であるアルカリウスを始めとしてすべてがファリーンを中心にして動いていた。ファンダレオンがどれほど優秀な成績を収めても、狂気に蝕まれながら二階の女部屋に君臨する「白き腕のファリーン」にはかなわない。ファンダレオンの才能も努力も、ファリーンが狂乱すれば瞬時にかき消される。彼女の一挙一動が、病状が、ファンダレオンの存在をアルカリウスの心から消し去るばかりでなく、憎しみをも起こさせている……――。
ファンダレオン、とタルクレウスが硬い声で呼びかけた。
「……はい」
「よくわかった。おまえは、そこまでも醒めているのか」
「え?」
「君」ではなく「おまえ」と呼ばれたがゆえに、ファンダレオンは驚いて身じろぎする。タルクレウスの口調や声に変わりはなかった。しかし何かが絶対に違う。ざらりとした不安に、ファンダレオンの肩が上下する。そう、師が今までとは違う何かをもってファンダレオンの内に再び切り込もうとしているのではないかと、直感した。
なぜなら、時々に感じていた甘さが、今タルクレウスの双眸に浮かびあがっている。ファンダレオンが自分の直感の正しさを確信して背筋を震わせた時だった。
「子供らしくない嘘をつくな」
悲しげな顔で、しかし叱るようにそう言った刹那。
タルクレウスがファンダレオンを引き寄せ、息が苦しくなるほどにきつく抱き締めてきた。深く広く、温かい身体。今まで誰からも与えられたことのなかった未知の温もりに瞬間的に怯えて大きくわなないてしまった少年の耳に、溜息混じりの言葉がひそやかに滑り込む。
「真実の混ざった嘘は、大人がつくものだ。ファンダレオン――」
そんなあざとい嘘のつき方を今からするものではない。
おまえには余りにも、早すぎる。
囁くその言葉をまるで体内に吹き込もうとでもするかのように、断片でも見抜かれた衝撃に声をあげかけて震えるファンダレオンにタルクレウスが唇をそっと、だが深く深く重ねてきた。
がたんっ、と、想像外の事態に反射的にもがいて蹴り飛ばしてしまったリラの悲鳴が、夜気に高く響き渡った。
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