震える弦・3

    あいつはいい奴だよ。

    最初怖くて話しにくそうな奴だって思ったけどな。

    おれにはわかるよ、あいつにはどうしようもないことがあるんだってさ。



 「ファンダレオン、おまえなんだか顔色悪くないか?」

 ヒュラリスを伴って公衆浴場に行くと、アテナイ人とどこかの混血と一目で察しのつく顔立ちをした少年が、そう驚いた声をあげて浴場内からわざわざ駆け寄ってきた。

 親しい友人のガリュニスだった。外套を着たままでいるから、ガリュニスもまた浴場に着いたばかりだったのだろう。ふとファンダレオンを見つけ、顔色の悪さを心配して声をかけてきたのは疑いない親友に、ファンダレオンは曖昧に微笑した。母が家で暴れているせいとは言えない複雑な気持ちと、ガリュニスの大声のせいで周りにいた市民たちから一斉に注目された恥ずかしさからであった。

「……寒いから、少し」

 無意味とわかっていつつも、ファンダレオンはつい声を潜めた。美貌ゆえにアゴラを歩けば様々な視線を受けるのは慣れているものの、これから衣服を脱ぐという時に人目を引くのには慣れられはしない。否、慣れるどころか辟易していた。自分を見るまなざしに、恋や欲情を感じる時には特に――ヘラスの慣習には同性愛があり、アテナイよりも禁欲的で厳しい生活をしているラケダイモンでも「神聖な友情」として重んじられる。「正義の人」アリステイデスもかつては浮名を流したことがある、といつか少し聞いた覚えがあった。それでも現在、「アリステイデスの甥」にあからさまに声をかけたり手を出してくる者はさすがにいないが、ファンダレオンには熱い視線を向けてくる誰かに応えたいという願望はなかった。

 そうした噂が立てば伯父に迷惑がかかるかもしれない、という心配もさりながら、欲しいのは他者の恋情ではないという悲しく冷静な意識が根ざしている。だから、おまえが愛しい、受け入れて欲しいという望みを市民たちのまなざしや表情から感じれば感じるほどにファンダレオンは辛く、虚しくなった。自分とて情を乞うまなざしを父アルカリウスに向け、そして拒絶されていると突きつけられている気持ちにもなるのだ。しかし、嫌な顔をして避けるのもそれで悪く言われるかもしれないので、ファンダレオンは表情を余り出さないよう心掛けるようになっていた。そして幸い、表情の乏しさで文句を言われたりしたことは今までにはない。自分自身では、かえって平然としている方が「アポロンのような美少年」らしいと好意的に受け取られるのではないかと考えているのだが。

 そんなファンダレオンにとって、ガリュニスは家の奴隷に次ぐ心地よい存在だった。この一歳年上の少年に感じるのは、穏やかな友情だけである。ファンダレオンは知らず微笑した。

 その微笑に安心したのか、ガリュニスの表情がほっと緩んだ。

「そうか? ならいいけどな。おまえも身体を洗いに来たんだろう? なら一緒に行くぞ」

「ああ……」

 答えながら、ファンダレオンはヒュラリスを待たせておいて浴場内に入ると、すぐに衣を脱いだ。身体ばかりはさすがに六歳の子供らしくて筋肉もまだついていない、細すぎるほどに細い肢体であった。膝や足に、大きくはないながらもいくつかついた傷が痛々しいくらいに。だが、周囲には吐息とも嘆息ともつかぬいくつもの流れが生じ、それを見慣れているはずのガリュニスでさえもが一瞬、眩しそうに目を細めて友を見やった。顔も身体もすべてが際立って美しいからこそ、敬虔なアテナイ市民たちはファリーンを「白き腕」と呼ぶようにしてファンダレオンを「アポロン」と呼ぶ。母に対してアフロディーテとまでは呼ばなかったのは、美の女神として気位の高いアフロディーテの不興を恐れたからかもしれないが、アポロンは美神ではないから呼ぶくらいは許してもらえるだろうということか。その辺り、不謹慎だがファンダレオンは内心、自分の呼ばれ方を奇妙におかしく感じてしまうのだった。

 今はアゴラが盛っている時間なので、浴場内は人が多い。浴場は社交場でもあるから、自宅に浴槽があっても市民は皆ここへ通って談笑したり論を交わしたりしているのである。実際、ファンダレオンの家にも浴槽があり、ファリーンに付ききりで人づきあいのないアルカリウスはそちらを多く使っている。ファンダレオン自身は学校への行き帰りに浴場で身体を洗うことにしているので、逆に自宅の浴槽をほとんど使っていなかった。運動してかいた汗を流すためにも、父を避けるためにも。

 水に身を浸からせると、ふっと心が軽くなる。思わず深く息をついてしまった。

「やっぱり体調悪そうだな、ファンダレオン」

 隣りから顔を覗き込んでくるガリュニスの怪訝なまなざしに瞬間はっとなり、すぐに頭を振る。

「なんだよ、けど暗い顔してるぞおまえ。ちゃんと寝てんのか? 変な夢とか見てないか?」

「寝てるし、夢も見た覚えがない」

 覚えてないのだから大した夢ではないのだろう、そういう意味を込めてファンダレオンは否定する。よく次々と心配するところが思いつくな、と半ば呆れてしまいながらも、まるで兄弟として心配されているようで少しくすぐったくなった。

「じゃ、なんか悩んでるか?」

「いや、寒かったから……」

「そうだな、今日はほんと寒いよなあ。学校休みでよかったよ。こんな日に何スタディオンも走ってなんてられないよなあ」

 ばしゃばしゃと水を首筋に引っかけながらガリュニスがぼやくのに、ファンダレオンは小さく笑った。学校にある運動場、あるいは成人した市民が通う公営の体育所の運動場は方形で、教官の指導の下で徒競走や円盤投げといった競技を行う。スタディオンは距離の単位であるが、それぞれポリスによって一スタディオンにおける長さは異なっている。ファンダレオンも寒さは苦手で、外套を着てリラを弾くのも辛かったのだから裸になって徒競走をするなどもってのほかだ。ガリュニスの言葉に心から同意した。

 そうして笑い合いながら、しかし同時に自分だけがこうして穏やかに落ち着いているという切ない罪悪感が心に滑り込んできて、ファンダレオンの表情がふっと遠くなる。家の、ファリーンの方はどうなっているだろう。今は鎮まっていればいいが。ともかくも、きっとアルカリウスが彼女を抱き締め、たとえ理解されなくても構わないで声をかけ続けてずっと傍についているのに違いなく、周りにはテューロンら奴隷も控えているはずであった。けれどもファンダレオンはヒュラリスを連れて独り、アゴラの浴場にいる。ガリュニスにはたまたま会ったものの、どうしようもない寂しさを覚えて顔が大人びた翳りに染まった。

 ファリーンやアルカリウスに接しない方がいいのはよくわかっていた。テューロンも「顔を合わさない方がよろしゅうございますよ」と、ファンダレオンがファリーンに初めて会った後にそう言った。テューロンが父母だけではなくファンダレオンのためを思ってそのように言ってくれたのもよくわかっているし、そのすぐ後にアルカリウスから母には会うなと厳しく言い渡された。状況からして、それはもっともだと思った。

 しかし、二人はそれでもファンダレオンの両親だ。両親と一緒にいない方がいい、いてはならないという家がアテナイの、いやヘラスに他にあるのか。それとも自分の家だけなのか、……やはり……不意に、家に帰りたくてならなくなった。

 家の外から少しだけでもいいから、様子を一目見ておきたい。それが家族としての最低限の努めだとファンダレオンは強く思い立った。帰れるようならそのまま帰ればいいし、家の中に入れなさそうであればまたアゴラに戻り、どこかで時間を潰せばいいだろう。その意味では学校が休みだったのが痛かったが、学校があればあったでやはり家に帰りたくて、リラだってきちんと弾くどころではないに違いない。身体を適当に洗っていると、ガリュニスが「もう出ちまうのか」と察してファンダレオンの腕を掴んできた。

「もっとゆっくりしてけよ。おれの愚痴を聞いてくれ。今日もくそばばあに苛められてるんだよ」

 そうやって引き止められてしまうと、ファンダレオンの意志が鈍りかかる。

「ガリュニス……」

 何かあったのか尋ねようとして彼はやめた。口にすればガリュニスを置いて先に帰れなくなりそうだから、ではなくガリュニスから滲む苦い気配から踏み込めない固さを感じたからだった。

 ガリュニスはカリアの奴隷腹で、一人いる兄は「くそばばあ」こと正妻の子である。アテナイでは生まれた時と六歳の審査時に父親が認知すれば、混血や奴隷との子であってもアテナイ市民として認められる決まりだ。だから、父親もカリア人との混血なので自分の奴隷であるカリアの女に情が動き、自分にも情が動いて我が子と認めたのだろう、と、ガリュニスは自分の出生について話した時はファンダレオンに負けず劣らず沈着な表情を浮かべたが、アテナイは一夫多妻制ではなく身分の別もあるから、ガリュニスの母の方は妻とは認められていない。彼女は恐らく家に居続けているはずだが、これまで「くそばばあに苛められている」という以上の話をガリュニスは口にしないのでファンダレオンも詳しくは尋ねなかったし、尋ねる気もなかった。

 奴隷として自分にもまた仕えていたカリア女が夫の情を受けて子をもうけ、それが認知されているとなれば腹立たしくて母子を苛めたくもなる、かもしれない。種類は違っても複雑な事情を抱えているのは決して自分だけではない、改めてそう認識するファンダレオンの心から帰宅への望みがやや薄らいだ。知らず知らず身体をこする手が止まっていた。

 なんてな、とガリュニスが笑って続けて言った。

「おれだって生まれたくて生まれたんじゃねえって言ってやったけどな、それはいいんだ……けど、母さんが聞いちまっててさ。それ」

 ばしゃばしゃと両手で顔を洗い流し始める彼の横で、ファンダレオンは胸を突かれて返す言葉をなくした。それで浴場にでも行こうと思ったのだろうか、ガリュニスもまた。それがいつだったのか、はっきりと尋ねるには親友の声音は余りにも事もなさげに過ぎていたので、もうその時機を逸してしまった気がしてやはりかける言葉が見つからなかった。

 それでもなお、義母に言い返したためではなく、言い返した言葉を母親に聞かれたがために家を出てきたのかもしれないガリュニスに、ファンダレオンは何か言いたいと思う。だが、どんなに顧みられていないとしてもファンダレオンの母は正妻であり、父もアテナイで愛妻家とまで讃えられている。顔を洗っているのを止めてまでもかけるに値する言葉がどうにも浮かんでこなくて、彼はじっと友の横顔を見つめているしかできない。それに、元々ガリュニスに対するいくらかの「遠慮」があって、突っ込んだことを口にするのにためらいもあった。

 ガリュニスとは学校で知り合ってから一年も経っていないが、今や親友と素直に思える大切な存在である。ただ、親友だからと気の置けないつき合いをするには、ガリュニスの父親に引っかかりがあった。ガリュニス自身は何も気にしていないようだが、その父親の名はテミストクレスという。政治家で、民会で常にアリステイデスと論を戦わせているのだ。いや、アリステイデスと敵対しているといっても過言ではなかった。しかもテミストクレスはただの政治家にあらず、前のアルコンとしてアテナイを動かしていたほどの人物である。アルコンは一年の任期ながらも強い権限を行使できる執政官の地位で、要するに並の敵手ではないのだった。

 アリステイデスはそれでも特に「ガリュニスとは仲良くするな」などとは言っておらず、アルカリウスに至っては息子の友人関係どころか政治にさえ無関心な風であるから、これは気にしすぎかもしれない。だが、やはり自分がアリステイデスの甥であること、そしてガリュニスがテミストクレスの子であることがファンダレオンの頭の隅に深く刻まれてある。そうして、心のどこかで構えずにはいられなかった。だから、今ではガリュニスに限らず誰かから話しかけられたりすると一瞬、どんなにたわいないことでも相手の顔色や口調を探るようになり、そしてその探る間が空くことによって、ファンダレオンは言いたいことをそのまま口に乗せられない大人びた慎重さが身についてしまっていた。

 こんな時ですら、「大丈夫だよ」などと友情のままに慰めの言葉をかけることもできない辛さにファンダレオンは苛まれつつ、しかし掴んできた腕をそっと握り返すしかできなかった。

(しかたない……)

 ガリュニスも、自分に愚痴の聞き役を求めていても気休めの言葉は欲していないと思い込んで割り切って、せめて傍にいる。それが今ファンダレオンにできる精一杯だった。

 その時ガリュニスが急に、また何気なく言い出した。

「――ん、ってさ」

「なんて言った? ガリュニス?」

 くぐもった声は水音にかき消されたので、ファンダレオンは訊き返した。いつまで顔を洗い続けているのだろうという怪訝な思いも込めて、ガリュニスに聞こえるようにやや大きめの声で。

 そうして、次の瞬間、――……訊かないでおけばよかった、と後悔してしまった。

「すみませんガリュニスさま、って、言われてさ」

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