震える弦・2


 演奏をやめて見上げた先にあったのは、見知りすぎているほどに見知っている顔だった。

「伯父、……うえ」

 丈の長い外套を身に纏い、穏やかに微笑して自分を見下ろしている壮年の男は、ファンダレオンの伯父のアリステイデスである。背後に、綺麗に整った顔立ちをした男を連れていた。初めて見る顔だったので誰かは当然わからなかったが、こちらを見下ろしてくる瞳はアリステイデスに負けず劣らず優しい。が、ファンダレオンは束の間いやな気持ちを覚えた。アリステイデスを嫌いだからではなかった。それどころか、「正義の人」と高潔さを人々から讃えられているこの伯父が好きだからこそ、リラについて誰にも文句を言わせない腕になりたいと思って、こうして毎日練習しているのだ。けれども、彼のそんな伯父への反応は少し止まってしまった。

 アリステイデスは、兄は兄でも父の双子の兄なのである。伯父はファンダレオンに対していつでもどこでも優しくて温かい、弟とは正反対に……少年の全身が疼いた。母を、そして父を思っていたから今は、特に。父とまったく同じ顔が、父が決して向けてくれそうにはないものを湛えて見つめてくるのを正面から受けるのはどうしても切なく、辛かった。

 その屈託を知るか知らずか、アリステイデスは微笑んだまま甥の頭をそっと撫でてきた。

「並のリラ弾きなどには出せぬ、よい音だ。ファンダレオン。近所ではおまえのリラは結構に有名なのだぞ。わたしの饗宴におまえを呼んで欲しい、と、これまで色々な方からずっと頼まれてきていたのだが、確かに素晴らしい」

「ありがとう、ございます」

 誉めてくれる言葉が、冷えきった髪に伝わる温もりが、寒さとは別の痛みをファンダレオンにもたらした。

 これが、父であったなら――しかし、抱いたそばから感傷はすぐさま冷めてぼやけて、虚しくなってゆく。無花果が無花果に似ているようにそっくりな父と伯父だが、それがあくまでも顔だけだという並ならぬ冷静さが、もう既にファンダレオンの心には宿っていた。目の前にある無花果が父か伯父かという感傷に、その美しい顔を彩る大人の表情が揺れを起こさない程度には強く、深く、静かに。なぜなら、饗宴を開いてファンダレオンにリラを演奏させて欲しいと父に頼む者など、アテナイにはいないからだった。

 父は、ファリーンが病んでからは饗宴どころか人づきあいも絶え、アゴラにすら必要最小限にしか出かけない。そして、それとてファリーンに何かあれば、アゴラへの用事はテューロンに任せてファリーンの傍についていた。そんな父は、アテナイでは「愛情豊かな夫」と賞賛されているという話である。そういうわけでアテナイの市民たちは、父ではなくアリステイデスの方にファンダレオンのリラを所望するのだろう。ファンダレオンには、愛情どころか視線のひとかけらすら与えない「父」だけれど……だが、アリステイデスもアリステイデスで、ファリーン以外は眼中にない弟に気を遣っているのかどうか、甥を自分の饗宴に呼びたいと言ってきたことは恐らくないはずであった。

 まったく、それにしてもだ。そうしてアリステイデスの言葉を反芻したファンダレオンは、改めて驚いた。

(わたしのリラは、そんなに知られていたのか)

 それも、評判になっていてアリステイデスに希望されているというのである。確かに学校では誉められてはいるものの、あくまで授業だから外でそこまで評価されているとは思いもしなかった。もっとも、ファンダレオンが高名な政治家であるアリステイデスの甥だから、過大な評価になってしまっているのかもしれないが。それでも自分が思いがけず伯父の饗宴、すなわち伯父の人づきあいに一役立てそうではあると知って喜びも覚えた、が、それもまた覚えたそばから薄らいでしまう。それはファンダレオンの聡さであり、聡さは美点ではあった。しかし、それが必ずしも喜びをもたらすわけではないという事実をも、少年はとうに思い知ってしまっていた。

(――知らなかったな)

 もしも自分のことで何かあれば、息子を疎み放置している父に代わってテューロンが教えてくれているはずである。ファンダレオンのリラが評判であるのも、伯父にその演奏を求められているのも。しかし、人々から頼まれていながらも、アリステイデスは今まで一度も甥の評判を確かめたことがなさげな言葉を口にした。つまり、甥を饗宴に招くつもりはさらさらなかったのだとファンダレオンは悟り、そして、納得してしまった。

 テューロンなど、ある程度年を取った奴隷たちは皆「色々ありましたから」と言葉を濁すけれども、やはり、父と伯父は余り仲がよろしくないのだろう。幼い子供である自分を人づきあい、つまり政治の場に引き出したくなかったのかもしれないがそれでも、一度くらいはファンダレオンのリラを聞くのではないか。優しい伯父だからこそ、敏感に感じ取れてしまうのだった。

 そうなると、いよいよ饗宴に呼ばねばすまなくなりそうな状況になったため、ファンダレオンに会いに来たということか。ふ、と息をついた時、アリステイデスがさらに言ってきた。

「そしてこの者も、おまえのリラを気に入った一人だ。どうしてもおまえに紹介して欲しいと言うゆえ、今日はこうして連れてきたのだ」

 そうしてファンダレオンの前に進み出、口を開いたのはアリステイデスと一緒にいる男であった。

「わたしはステシラオス。アリステイデス様とは昔から親しくさせていただいているが、今後はきみとも親しくなりたい。前にこの辺りを通りかかって、聞こえてきたきみのリラにすっかり虜になってしまってね」

 セイレーンの歌を聴いた船乗りのような気分はこのことかもしれないね、と、ステシラオスと名乗ってその男が笑った。十数年前には美少年と騒がれたのは間違いない整った面差しだが、今の彼を「美男」と呼ぶ者はいないであろう。単純明快に、容色の衰えだ。年月という名の紗や影がその美貌を歪め、損なわせている。それも、かつての美しさがいまだ窺えるせいで無惨さが増して、むしろ醜男とさえ言い切れてしまうかもしれなかった。

 時が四季を繰り返して過ぎてゆくこと、オリンポスを統べる大神ゼウスと法の女神テミスの間に生まれた三人の時の女神たちが司る摂理である。だからファンダレオンは、そんなステシラオスに優越感や嫌悪感、あるいは危機感を抱いたのではない。ただ、身内以外の者と係わることがほとんどなかったので、人に出会った珍しさからついじっと見ていただけだったのだが、ステシラオスは一瞬、「美少年」から哀れまれたとでも感じたのか瞳を細めて微苦笑した。

 ――わたしも昔は美しかったけれどね。

 ――きみのように。

 ――けれどね、きみもいずれは。

 ――わたしのように。

 そうまなざしで言われた気がして、ファンダレオンは相手を傷つけてしまったかもしれない罪悪感にリラを握る手に力をこめた。だが、そうした交感とも交錯ともつかない思惟の連なりは、冬風の神ボレアスのひと吹きと共に消え去った。

「本当に、さすがはアリステイデス様の甥だね。どうあっても、葡萄酒を飲みながらじっくり聴きたくなったよ」

「いえ……そんな……」

 何事もなかったかのようにリラの技量を絶賛してくるステシラオスの笑顔はそれでもとても綺麗で、ファンダレオンはほろ苦さに口ごもり、うつむいていた。

「次の饗宴には必ず彼を呼んでください。アリステイデス様」

 どこか物でもねだるような甘い声音に、アリステイデスが気の進まない表情を浮かべながらファンダレオンを見直す。

「よいのか? ファンダレオン」

 嫌であればステシラオスひいては自分に構わず断ってよいのだぞ、と彼が鷹揚に意を尋ねてくる裏に、遠慮なくこの場で断って欲しいという消極的な期待が潜んでいるのにファンダレオンはやはり敏感に気づいた。気づいて、胸にあったほろ苦さが本格的な苦さに変わった。

 ファンダレオンが饗宴でリラを弾いてよいかどうかではなく。

(父上と伯父上が、なんだろうな)

 アリステイデスは恐らく、ファンダレオンのことで父と接触を持つのを避けたいのだ。だから、昔から親しいというステシラオスに言われるまで、ファンダレオンに会いに行くことをも避け続けた。つまり、伯父に迷惑をかけたくなくてリラを練習してきたのが、かえって伯父の悩みの種になってしまっている。皮肉といえば皮肉な成りゆきに、ファンダレオンは意識して首を傾げて困った素振りをしつつ、頷いた。

「父の、――お許しがあれば」

 父から許しをもらえなければ、伯父上の饗宴にリラを持って出ることはできません。アリステイデスの期待に沿った答えをすらすら返して、ステシラオスに微笑を浮かべた。

 アテナイやラケダイモンなどポリスの区別なしに、ヘラスでは「父」の権限は絶対である。たとえ成年にあたる十八歳に達しても、独立しないで家にいるうちは無力といっていい。まして、ファンダレオンは成年まで十年以上もある幼い子供だ。実際は疎まれて放っておかれていても、父の意思を差し置いて饗宴に行くなどと決められないのはヘレネスとして至極当然であるし、アリステイデスにも断って欲しいと思われているのだから、ファンダレオンは遠慮なく断れる。いや、断らなければならない気持ちだった。

 そうか、と、あくまでも残念そうにアリステイデスが応じる。

「そうだな。今は運動しに行かねばならないのだが、近いうちにアルカリウスに話しに行こう」

 これから行くともやはり言わず、アリステイデスはそう応じて話を完全に打ち切った。

 アルカリウス、そう、父の名を口にするのに躊躇がかすかに生じて聞こえたのを何も感じなかったふりで流しやり、ファンダレオンは「わかりました」とだけ言って頷き返した。でも本当は話しになんか行かないのだろうな、と醒めて思いながら、それでも残念でもあった。

 ファンダレオンにも、無邪気で子供らしい嬉しさとてあるのだ。自分のリラが評判になっていると聞かされて、じかに誉めてきたステシラオスに演奏をしてみたい気持ちも……しかし、「行きたいです」と素直に言ったとしても、アリステイデスが「しかし、弟はなんと言うか」とでも遮って話を収めにかかるのだろう。そう想像がついてしまったので、口にするだけしてみる気も起きなかった。

(しかたない……な)

 とりあえず、今まで心配していた迷惑はアリステイデスにかけていないのがわかったのだから、とファンダレオンは寂しいながらも自分に言い聞かせた。父がアリステイデスと仲が悪くなければ、と少し恨みめいた気持ちも心のどこかで覚えるが、 ファンダレオンは吐息をつく。師が「イリアス」やイソップの説話について口癖のようによく言っているのを、ふと思い出していた。

 繋がりがある血ほど、澱みやすい――兄弟、いや家族もいないに等しいファンダレオンにはわからないけれども、双子という、年どころか顔までも同じくして三十数年を生きてきたアリステイデスとアルカリウスの間が不仲になってしまっていても、不思議ではないのかもしれない。

(しかたない……)

 アリステイデスが父に饗宴の話をする日を期待しないで待つしかないだろう、と割り切って、ファンダレオンはアゴラに向かって去ってゆく伯父とステシラオスの背中を見送った。

 それからしばらく、ファンダレオンはまたリラの練習を続けた。が、そろそろ本当に寒さが辛くなってきたので、恐る恐る家の様子を見に行ってみる。父母が中庭から部屋に戻っていれば自分の部屋にこっそり帰って身体を暖められるし、まだ中庭にいても奴隷部屋に行こう、と。さすがに再びリラを抱えて外に舞い戻りたくはなかった。普通の市民は奴隷部屋になど行くまいが、ファンダレオンはファリーンのことなどで居場所に困ると奴隷部屋に行き、奴隷と話をしたりその作業を眺めたりしていた。彼らもアルカリウスが妻しか眼中にないのをわかっており、そんなファンダレオンを礼儀を払って迎えるだけでなくとても優しい。

 その優しさに、ファンダレオンは自分を「不幸」と感じてしまう時があるけれども。

 そうして家のすぐ前まで戻ってくると、テューロンの息子であるヒュラリスが人待ち顔で戸口の前に佇んでいた。

「ヒュラリス?」

 声をかけると、青年は「あなたをお待ちしておりました」という顔になった。

「ファンダレオン様、お帰りなさいませ」

「どうしたんだ、ヒュラリス。わたしを待っていたみたいだが」

「は、はい……それが」

 言い淀んだヒュラリスが答え終えないうちに、がしゃん、と陶器が砕け散る音が響いた。

 家の、中から。

 ファリーンっ、アルカリウスが泣きそうな声で叫ぶ。

 ファリーン、ファリーン。

 もう誰もおまえを傷つけないから。

 おれだけだから、他はもう誰もいない、誰もいないから。

「ファリーン……っっ!!」

 悲痛すぎる叫びに重なり、時にかき消すのは陶器の断末魔と涙混じりの甲高い笑い声だった。傍らでヒュラリスが顔色を変えて身を強張らせたのに気づかず、蒼白になったファンダレオンの膝が、次いで全身が、そして心が、痺れて震えた。大神ゼウスの雷に打たれて灼け死んでゆく罪人の気持ちは、もしかしたらこういう痛みかもしれなかった。この世から消え入って、レテ川の水を飲んで大神ゼウスに憎まれ罰された罪も記憶もすべてを忘れ去ってしまいたい、そして新しい自分として再び生まれたい、そう願わずにいられない衝撃、絶望、悲嘆……――大きく、足元からあがった音はリラが地面に落ちた音だったが、ファンダレオンにはそれが自分を打ち砕く雷の轟きに聞こえた。

 ――他には誰もいないから。

 いないのか、と少年は茫然と胸中で呟く。病み衰えた母の心は仕方ないとしても、父の心には、愛する妻が産み落としたはずのファンダレオンという息子など、どこにもいないのか。

 強烈な吐気にファンダレオンは腹をきつく抱え、唇を噛みしめる。どんなに頭でわかっていて、言い聞かせていてもじかに思い知らされるのは別で、慣れることはできない苦痛であった。そのままふっと意識が遠のきそうになるのを必死に耐えて、彼は声を押し出した。

「母上、か」

「はい。しばらく、お戻りにならない方がいいと父が言いましたので――ファンダレオン様、浴場にでも行きませんか?」

 リラを拾いあげて遠慮がちに訊いてくるヒュラリスに、ファンダレオンは否やもない。同意した拍子に喉に、だが吐気が突きあがって軽く咳き込む。何がきっかけになったのかはともかく、ファリーンが一転して激しく狂乱してしまっているのはヒュラリスに確かめるまでもなく明らかである。それでテューロンは息子に、ファンダレオンが何も知らずに家に入らないように玄関前に張らせて、ファリーンが落ち着くまでファンダレオンをどこかに行かせよと言い含めたのに違いなかった。まったくもって正しく、優しい判断に少年はテューロン父子に感謝した。

 けれども、奴隷も含めて皆が大変な時に一人家を離れてアゴラに行くのが正しいという、そんな自分は一体なんなのだろう。

 そう、ファンダレオンは誰にともなく問いかけずにいられない。が、答えの出ない問いはすればするほど辛くなるだけなので、そこで思考を閉ざした。そして、目の前で自分の返事を待つヒュラリスの顔色が悪くなっているのに気づいて、首を縦に深く振った。

「そうだ……な。寒いのに、待たせて、すまなかったな」

 取ってつけたように優しい言葉をかけている虚しさや愚かしさを自嘲しつつ、ファンダレオンは強いて笑顔を作った。今、作り物であろうとも笑顔でヒュラリスをねぎらい、黙ってその言う通りにするのがきっと「アルカリウスの子ファンダレオン」として自分がこの家にいる資格であり、義務なのだ。そう、悲しく……仕方なく感じながら、ファンダレオンはヒュラリスがリラを家の中に置いて戻ってくるのを待ってじっと立ち尽くしていた。



 奇しくもその時、アゴラへの道すがら、ステシラオスが同行者に話しかけた。

「アリステイデス様。アルカリウス様が……アンピドロミアの祝をしなかったというのは、本当ですか?」

 訊かれたアリステイデスの顔が、みるみる固く強張った。

「ステシラオス。それは――ただの噂だ」

 だが彼はすぐさま表情を消して否定した。弟の愛妻家ぶりを脚色して人が立てた噂に過ぎない、と、ステシラオスがさらに重ねて問う間を与えはしないとばかりに。

「確かにあれは難産だった。だから、産まれた時はそれどころではなかったが、アンピドロミアの祝をしなかったというのまでは、噂に過ぎぬ」

「そうですか。それを聞いて安心しました。あなたから伺っておりましたが、あれほどの器量でしたので本当であれば可哀相といいますか……納得いかないと思いましたので」

 まさかとは思いましたが気になってしまいましてね、と他意のない笑みを浮かべて本当に安心したらしいステシラオスに、アリステイデスはうっすらと笑い返した。

 ――それがファンダレオンがヒュラリスに作った笑顔にとてもよく似ているのを知るのは、神々だけであったろう。

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