震える弦・1
笑わない方でございました。
微笑まれはするのですが、そのつど、胸を突かれたものでした。
……ご自分の非運に、実は気づかれているのでは、と。
母は、今日は具合がよいという話だった。
二階にある、母が療養している女部屋からは久しぶりに朝から機を織る音が聞こえてきている。機織りは女奴隷たちの仕事だが、母の病状がひどくなっている時には勿論それどころではない。だから今は病状が安定しているのだと安心して、少年は中庭で竪琴の一種であるリラを奏でていた。なぜなら、心の病を患っている母にはリラの音が耳障りなのか、それとも家中でリラを演奏する唯一の存在である少年が厭わしいのか、ともかくリラを弾いていたらカンタロスと呼ばれる飲用の杯を投げつけられたりしたことがあったからだ。だからいつもは家の裏にある空地で鳥や風を相手に練習するが、今は寒風が格別に強いので指がかじかんでしまう。中庭とて寒くなくはないものの、四方を壁に囲まれているので風はまだきつくない。そういうわけで、少年は朝からずっとリラを練習していた。今日は師の都合により学校は休みだったが、明日には完全に弾けるようにならなければいけなかった。
竪琴は、太陽神にして芸術神でもあるアポロンの楽器である。巧く弾けないとなれば叱られて罰を受けるだけではすまない。自分の容姿のゆえにも、リラの演奏についてだけは譲れないものがあった。
――ガニュメデスかアポロンか。
ひとたび会った者は、誰もが口を揃えて少年の顔かたちを賞賛する。そう、人間でありながら大神ゼウスの給仕係となった美少年や、神であるアポロンの名が出るほどに際立った美貌であった。少年の黒瞳はほどよく切れ長、表情は凛として澄んでおり、身体つきも均整が取れている。こういう者は性別が一見わからぬことがあるが、その表情には不思議と性のはっきりとした印象を与える独特の翳りがあった。
それはあるいは、「緊張」かもしれない。家長に従属し、家の内にこもりきりで家事にのみ従事する女には浮かびえぬような暗く複雑な色が、六歳になったばかりの少年の美しい顔を既に「男」の表情にしている。少年の父は、このアテナイでも名門であるアンティオキス族に連なる者である。ゆえに、その一人息子で、アポロンとすら呼ばれている自分がリラが下手などという評判が立つのは避けたかった。そしてそれは、自分の評判を損ないたくない幼い見栄や意地からではない。父の兄、すなわち伯父であるアリステイデスはアテナイに名を響かせている政治家であり、そうしたつまらぬことで揚げ足を取ろうとする者がいないとも限らぬからだった。
だから、リラだけは誰にもひけを取らぬくらいの腕にならなければいけないのだ。
かくして少年は二階を窺いながら課題の曲を弾き続けていたが、奴隷ではない人の気配が近づいてくるのを感じて弦から指を離した。
この家において「奴隷ではない気配」を放つのは、三人しかいない。少年自身と、母と、父だ。母は二階からまず出はすまいから、そうすると父だろう。自分たちと奴隷と、気配の何がどう違うのかをはっきりと言葉にして表現はできないが、ふっと感じ取れるのである。そして、父であるからこそ、少年はリラを脇に抱えてそっと外へ出た。
かちあわないようにする、そのために。
いや、少年の姿を見かけたとしても、父は声をかけてきたりはしないであろう。父は、息子を疎んじている。父と言葉を交わしたのは数えるほどしかないが、それでも少年が父にとって好ましい子供ではないのははっきりとわかった。悲しくはあったけれども、少年はおとなしく父との接触を避けてきた。物心ついた時から母は病み、父から向けられる表情やまなざしは険しかったのである。きっと何か、どうしようもない理由があるのに違いない。両親から慈しまれた記憶がない少年はすぐに淡々と現状を受け入れ、そうして、自分の家はそういう家なのだと割り切った。だから、父から呼び止められなくても、今や当たり前であるとして心のどこかで安堵するようにさえなっていた。
(しかたない……)
六歳にして、そんな諦めのため息をもつけるようになった。
かくして、少年は結局はいつもの空地へとサンダルを向けた。少しでも寒さをしのぐため、父がこの家を建てる前から生えているという老木の陰に身体を滑り込ませる。それでもやはり風を受けて外套はみるみるうちに冷え、サンダルの底から冷たくなってきて足指が痺れたが、少なくとも人目から少年の姿を隠す役には立った。もうすぐアゴラが一杯になる時間なので人通りは少なくはないが、家はアゴラへの表の道からは微妙に外れたところにある。興味を覚える者もいるだろうが、それでもわざわざ音の出所を確かめにまで来る者はいないだろうし、現に今まではそうであった。
せいぜい、饗宴に侍る遊女や弾き手と思われるくらいではないか。指に何度か息を吐きかけて、少年はリラを構え直した。再び奏で出す。練習だから誰かに聴かせるわけでもないが、寒さのせいか一人でいるのが奇妙に寂しかった。
……父は、今日はアゴラには出かける様子がない。元々、買い物や散髪などの家事の他にはほとんど外出しないのだが、今回は母の具合がいいからであろう。少年が熱を出して寝込んだ時は看病を奴隷に命じもせずに浴場やアテナイの城壁外にある農場へ出かけた父だが、母のことはとても大切にしていた。いや、母しか眼中にないといった方が正しいのかもしれない。
疑問や不満、不安は胸の奥底に沈め続けていたものの、少年は今でも時々苛まれてしまう。
なぜ母は病んでいるのか。なぜ父は彼を厭っているのか。
少年が答えを求め、答えを得たのはされど両親にあらず、奴隷だった。
『奥様を、旦那様はとても愛しておられますからな』
奴隷頭であり家内を取り仕切っているテューロンに哀しみのこもった声でそう言われた時から、少年に「しかたない」という虚しい思いが棲みついていた。
病に冒されていても、それを理由に離婚を言い渡すどころか大切に養う父。そんな父が少年を疎むのは、母が苦しんでいるのに子である自分がのうのうと健やかに生きているのが苛立たしいからかもしれなかった。
それでは、母の病さえ癒えれば両親は、自分たちの子を顧みてくれるのだろうか――テューロンに重ねて尋ねようとし、しかしその瞬間にも「しかたない」と少年はぽつりと感じたのだ。名門に生まれ、両親からも奴隷からも普通に扱われない孤独に際し、年不相応な聡明さを既に身につけてしまっていた心はその答えからテューロンの辛さがわかってしまった。思いのままに問い詰めれば、奴隷ながらもまるで祖父のように自分に厳しくも優しく接してくれるかけがえのない老爺を苦しめることになるのが、少年の心の目に見えてしまった。
『そうか。……しかたない、な』
頷いて応じたのが彼が初めて口にした、しかたない、という言葉だった気がする。
病状は全体的には悪化しているためまったく顔を合わせていなかったが、母は子供から見ても綺麗な女性であった。奴隷たちは少年を指して母譲りの美貌と言うけれども、母こそが美しいと思う。だから、父が今なお愛を注ぎ、息子を疎むほどでもまったく不思議でないので「しかたない」と諦めてしまえる。そんな自らの気持ちさえも、少年には見えてしまっていた。
(母上……)
だから、病が癒えれば両親の目は自分に向く、そう信じてその日が来るのを祈るしかないのだろうと少年は思う。医神アスクレピオスが、万病を癒すという蛇の杖を母の頭上にかざしてくださるようにと。だが、儀式や祭りのごとにアクロポリスや神域に祈りを捧げつつも、心のどこかはひどく醒めてしまっている。物心ついてから状況はずっと変わらず、それどころか母の病状は悪化してゆくばかりだから、自分を愛してくれる父母や、父母に愛される自分というものを想像や夢想をすることができないのである。すなわち、母が癒えるようにという祈りも心からではあったものの、せめてそう祈るしかないから祈るという虚しく割り切った気持ちもまたあった。
そのように不敬な心持ちだから、神々はまだ願いを聞き届けてはくれないのかもしれない。しかし、神々に一心不乱にすがるには少年は聡明すぎた。そしてその聡明さは、年不相応であるにも増して少年自身の「不幸」だった。
なぜなら、聡明だからこそ、「祈ればいつか叶う」という一途で美しい希望を抱くことが既に難しくなっているのだから――そう、叶うというのなら、父母はとっくの昔に少年の名を優しく呼び、笑顔や慈しみを与えてくれているはずであった。
ファンダレオン、と。
程なくして指がかじかんできてしまったので、ファンダレオンは家に帰ることにした。それまでにリラの方は満足いく演奏になれたから、父母と顔を合わさないように気をつければ無理に外に留まる必要もない。自分の家に、家族と会わぬように戻らなければならない悲しさは聡明でもどうにもならなかったものの、今は心身に凍みる寒さこそが一番どうにもならなかった。
家に戻り、中庭を横切って自分の部屋に戻ろうとして、ファンダレオンは足を止めて壁に身体を張りつけていた。
聞こえてくる声は、父のものだった。
「今日は寒いが、天気はよい。ほら、空も雲もないのだから」
誰に対してそう話しかけているのかは明らかすぎるほどに明らかで、ファンダレオンは苦笑めいた大人の表情を浮かべながらリラを抱え直し、踵を返して再び先程の空地へ戻った。空地といっても土地は父というかアンティオキス族の所有であり、他の者が入り込んだりすることはまずありえない。独り見上げた寒空は確かに父の言う通りに高く晴れて、薄青に澄み渡っている。その曖昧な色合いが、今の自分の複雑で言葉に困る心地のように感じられてファンダレオンはうつむいた。そして今度は、目に入る茶褐色の地面にはねつけられているようで、何度かサンダルの底で砂利と土を擦った。
ずっと、わかっていた。父が何かの原因ゆえに笑えないのではなく、ファンダレオンには笑わないということなど。
とうにわかっていたけれども、いざ父が朗らかな笑い声をあげているのを耳にするとまだ胸は痛くなってしまう。もっと我慢すればよかった。寒さを我慢して、もっともっとリラを練習しておれば今さらながらに思い知らされずにいられたのに、と冷えきった指先が知らず弦を弾いた。
乾いた音が鳴り、すぐに風の中へ消えていった。
だが、父の朗らかな声は耳の中から消えてくれなくて、ファンダレオンは白い息を吐いた。
父はきっと、母を伴って中庭まで出ていたのに違いない。よい天気だから、ずっと部屋で寝たきりでいる最愛の妻とその空を見たい、見せたいと思い立ち、先程までリラを弾いていた息子がいないのを見計らって妻の手を取り、優しい声をかけていたのだ。たとえ、妻が何も応えなくても。いや、家のどこに息子がいるかなどとは欠片すらも考えていないのであろう。
一瞬、父からの愛を一身に受けている母が羨ましくも憎らしく思われてしまい、そんな自分の醜い心にますます寒さを覚えてファンダレオンはリラを固く抱きしめた。
「すみません……母上」
呟き、謝る。母は病にかかってしまっているのに――テューロンが言うには、母も昔はファンダレオンに儚げな笑顔を向け、名前を呼んでくれもしたらしかった。なぜ「くれもしたらしかった」のかといえば、それが物心つく前だったので記憶にはまったくないからである。
しかし、四年ほど前のある日、母は突然に心の病に冒された。このアテナイにおいて「白き腕のファリーン」とまで呼ばれていた母、ファリーン。「白き腕」という、アテナイの守護女神アテナや美の女神アフロディーテなどに対する女神への美称をもって讃えられたほどの絶世の美しさから突如として表情が消え、やがてその言動からも意味が消えていった。
物をぶつけられた壁の揺れや響き。
けたたましい怒声、笑声、泣声。
引き裂かれた布や打ち壊された陶器の、絶叫。
いくつもいくつも傷や歯型をつけられた、飼っていた小猿や猫の悲鳴。
その美しい白い腕でファリーンは狂気の音響を嵐のように激しく生み出し、そして、ファンダレオンが物心ついた時にはすっかり衰弱して寝たきりの身になっていた。それからはずっと、まるで鳴き疲れて何もしなくなった小鳥のように、父や奴隷が何をどうしても無表情で受け流しているのがほとんどという……話が、テューロンから聞かされた「母親」のすべてであった。
初めてファリーンを見舞った、すなわち生まれて最初にファリーンに会うその時までの。
また、指が痺れて辛くなってきた。外套からすらりと伸びる、露になっているふくらはぎが切りつけられたように痛んで、ファンダレオンは肩を丸めてがたがたと震えた。二人に会いたいからではなく寒風のせいで、家に帰りたいと思わずにはいられなかった。
けれど、父母はまだ中庭で空を眺めているのだろうか。もし中庭でなくても家のどこかしらで目でも合ってしまえば、と想像するとどうしても足が動かなくなる。「それ」に比べればリラを弾いている方がましに感じられてならず、ファンダレオンは仕方なく両手の指に息を吐きつけると姿勢を正した。
(もう少し、ここにいよう)
気を取り直してリラを再び弾いていた時、急に頭上から声をかけられたのである。
「リラの練習か、ファンダレオン」
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