外伝

早暁

「考える気など、ない」

 吐き捨てきる返事に、青年は深くうつむいた。

 言った者も言われた者もよく整った理知的な面立ちを、いや、まったく同じ容貌をしていた。双子という推測は誰もがつこう。しかし、あと数年すれば老いが滲むだろうという二人の顔は、今や苦悩に満ち溢れている。そうして苦悩を土台にしてその時を待っていた。そして待ちながら時々、ひび割れて今にも砕け散りそうな会話を交わしているのだった。

 周囲は静かだ。耳をすましても、せいぜい梟か雀の気配しか感じられない。けれども世界は静けさの中で太陽神アポロンの馬車を望み、アルテミスが司る月は一瞬ごとに白く霞み空に溶けて消えようとしている。

 しかし、待っているのはアポロンにあらず、人間であった。

 産声は、今もまだ聞こえぬ。予定では昨日にも聞こえてくるはずだったが、母親の身体が丈夫でないのが災いしているのかもしれず、それがために双子の青年は今宵は睡眠を取っていなかった。窶れが明らかな表情で部屋の壁に視線を投げた青年を、嘲笑うようにもう一人の青年が再び吐き捨てた。

「兄上がお考えになればいい。それが理に適った事ではないか」

「……理の是非ではない」

「ならばなんと? ――そうか、茶番か。茶番を演じきるための通過儀礼というわけか、兄上」

 「兄」に問いかけるように告げていながら、しかし彼は相手を見てもいなかった。しかし、本当は心の内で見えているからこその、とても肉親に向けるものではない凄惨な憎悪である。その顔に、そのまなざしに、その全身に兄に対する憎しみが漲り雰囲気の刃として突き刺しているのだった。

 その刃を気取ったのか、兄である青年が顔を上げた。

「――アルカリウス」

 彼は弟に対する盾のごとくに苦痛と冷静を身に鎧って、その名を口にした。

「これ以上、茶番を重ねるなど冗談ではない」

 この場にはふさわしくないような静かな声音ゆえか、弟ことアルカリウスは激しいほどの嫌悪を双眸に込めて兄を睨みつける。

「兄上が考えればいいではないか。おれは、違う、……おれではないのだから」

「アルカリウス」

 咎めを含んだ呼びかけに、アルカリウスは口の端に笑みを宿した。毒々しく、荒みきった笑い方だった。

「兄上に責められる筋合はない」

 「兄上に」という一語をことさらに強調して、彼は断言した。

「おれの立場であれば、いかな兄上とておれと同じ気持ちになるのではないか。まこと、兄上はお幸せな方だ。ご自分がどんなに残酷で無茶なことを『人道』に隠してさせようとしているのか、何一つとしてわかってはおられない」

 お幸せな兄上、と、アルカリウスはぼつりと呟いた。

 わかっていないからこそ落ち着いていられるのだと非難せんばかりに。

「神とて、己の子供でなければ夫の子供を殺しもできるのに。例えば毒蛇をけしかけるとか……」

「アルカリウス!」

 弟が提示しているのが神々の長ゼウスの妻たる女神ヘラの行為と悟り、青年は声を荒くした。神々への冒涜という惧れが、平静を保っていた彼の形相を一変させたのであろう。

 だが、アルカリウスはかえってその笑みに凄惨な影を孕ませるのみであった。

「……アルカリウス……」

 青年は、まるでそれしか言葉を教わっていない子供のように名前をしか言わない。凝然と弟を見る焦点が震えた双眸からは今にも涙が滲みそうだったが、アルカリウスは用意されていた祝い酒を呑むことで半ば黙殺した。

「葡萄のくせに苦い。それもそうだ。本来は兄上のためのもの。顔が同じでも、舌は違う」

「………」

 痛烈な皮肉のこもったアルカリウスの口調は、酒のためか徐々に破綻へと向かい崩れかかった。

 青年の眉が歪む。彼らの間の空気もまた瓦解へと変化している風に見えた。

 産声は、まだ聞こえないのか。焦りと不安を込めて青年はちらりと戸口を見やった。そこに控えていた老境の奴隷がゆうるりと頭を振ったため、溜め息と共に弟を見直した。まったく同じ姿が自分への憎悪に染まっているのを目の当たりにするのは、己の「良心」に責められているようで余りにも辛かった。

 わかっているのだ、もうとっくに、と胸中に呻いてアルカリウスから目を背けようとした、その瞬間。

 空気が、揺らいだ――そう感じさせるほどの緊張と変化が生み出された。はっと青年とアルカリウスがほぼ同時に隣室の方向を振り仰ぐ。ついに大きな大きな産声が、誰かを求めるかのように鮮明に響き渡ったのだった。

 ばたばたばたと走ってくる音が近づき、止まる。

「お、お生まれにございますっ! 男の子でございます!」

 女奴隷が金切り声で報告してきた。

「それで、――母親は?」

 問うたのは青年の方であった。アルカリウスは既にそっぽを向き、これまでよりもさらに浴びる勢いで酒を干し続けている。だが、ご無事でございます、という返答を得ると彼の背中がぴくりと動いた。

「ファリーン……」

 かすれた呟きに畳みかけるように、青年が決然とした表情と声音で語りかける。

「アルカリウス。子に罪はない。名前くらいは、おまえがつけてやってはくれまいか」

「だから言っているだろう。それは兄上がすべきことだ。兄上は、言う相手も言葉そのものも間違えておられる。名前くらいあなたこそがつけるべきだ、兄上。あなたの罪と、あなたに巻きこまれた我々のために」

 あなたの「正義」に従うならばあなたはせいぜいそれしかできまいからと、アルカリウスは酷薄なまでの凍えた顔で言い切った。

 しん、と、赤子の声さえ消えてしまったかというまでの静寂に場が襲われた。罪の意識はあるものの弟の罵倒が心身にこたえて、青年は無言でいるしかできなかった。

 そんな兄を嘲笑うように、引き裂く剣さながらにアルカリウスが言を継ぐ。

「おれたちはもう充分だ。育てるだけで。それで胸に収めようというおれたちにこれ以上、何を求めるというのだ。名前? おれが、なぜそこまでしなければならないのだ、兄上!?」

 彼は両手を広げ、双眸は兄ただ一人を食い入るように見据えていた。血を吐くような糾弾に、しかし青年は怯むどころか鉄を思わせる無表情になって、低く答えて言った。

「おまえの子だ、アルカリウス。罪はないのだ……子供には」

 アルカリウスは目を見開き、やがて、その手にしていた杯がかたかたと震え出した。

 薄紫色の液体が玉となって床に落ち、彼の衣に落ちて染みを作る。青年は弟を見返すまま微動だにしない。そんな彼の目の前で、一瞬ごとにアルカリウスの周囲は険しさと激しさとを帯びていった。

 そうして、がしゃんと陶器が砕け割れる音が響いた。

「……ふざけるな! 兄上ぇっ!」

 杯を背後の壁に投げつけ、アルカリウスが今にも飛びかからんばかりに怒鳴った。

「兄上はそれでいい! だがな、おれや、ファリーンはどうなるんだ!? 元は全部あなたのせいだったんだ! それを、『おまえの子だ』だと!? 冗談じゃない……呪われろ!! 兄弟を踏みにじってまでも正義とやらにこだわる醜い卑怯者、おまえなど、神々に呪われてしまえばいい! あの夜におまえの正義など、とうに失われているんだ……!!」

 完全に激高したアルカリウスの呪詛は、青年にとって何よりの毒刃となった。青年の拳が己が衣を握りしめ、眉間に深い皺が刻まれた。赤子の声が再び聞こえ出す。彼の「罪」がそこにある。決して消えない強さで、決して元に戻らない哀しさで、そこに集約されているのだ。

 いたたまれず、青年はとうとう腰を上げた。

 本当は誰からもこんな顔や声をされたくはなかったし、されるはずもないという矜持があった。自らが生まれ育った名門アンティオキス家やポリスに対してそれだけの働きをしてきた彼を、しかし確かにあの夜が完全に狂わせ運命をねじ曲げたのである。その帰結がこの、余りにも苦しすぎる情況だった。

 裁かれるならばまだいい。だが、これは決して露見させるわけにはいかぬ罪であり、青年はアルカリウスに「茶番」を演じさせてまで罪を隠す「罪」と苦痛をどこまでも負わねばならなかった。罪を無理矢理になかったことにしなければならない良心の仮借、愛する弟に茶番を強いらざるを得ぬ無念、憎悪を受ける哀しみ……責め立ててくるアルカリウスの変貌は、万事を背負う覚悟を決めたはずの心もずたずたに切り裂く。なぜならば、彼が叫んだ言葉は、青年の良心がもう既に絶えることなく言い続けていた。心の内と外から詰られるのはそれが「罰」であるとしても痛すぎて、最早どうにも耐えきれなかった。

 溜まりきった疲れを引きずってずるりずるりと戸口まで来た一瞬、青年は、ふと振り返る。

 そして、ぞっとなった。アルカリウスは焦点を動かしもせずにじっと青年を睨んでいた。知らず、青年は胸に手をやった。殺されるのではと思うほど、アルカリウスの目は純粋な殺気にぎらついていたのだ。

「アルカリウス」

 それでも青年は口を開いた。開かずにはおれなかった。

 びくりっ、とアルカリウスの身体が大きく震えた。

「アルカリウス……わたしは、……呪われているだろう、もう……待っていよ。必ずわたしに、神々の罰が下る……」

 それは言い訳だったのか、それとも、神々からいつの間にか下されていた神託であったのか。

 神々の御心はわからなかったものの、だからといって青年は驚きも恐れもしなかった。そう、罰は必ず下される。否、下されぬ方が余程におかしいのだ。

 自分のために、今、他ならぬ兄弟をこれほどに苦しめているのだから――。

 アルカリウスは引き留めることもなかったので青年はそのまま部屋を出、そこで蒼白になって佇んでいた件の女奴隷に小さく尋ねた。

「ファリーンは?」

「お、奥様は、ご出産なされてすぐ、眠られました。……あの、い、いかが、なさいますのでしょうか?」

 ひどくびくびくしているためだろう、彼女は吃るどころか文法さえ少々怪しくなった。その狼狽もわかる。この家の者は青年の罪を周知である。子供が無事に産まれたのはいいが、これからを思うと不安と恐れに襲われているのに違いない。彼とてそれは同じ、否、当事者中の当事者であるだけに憂いはより深かった。

 青年は女奴隷の露な狼狽ぶりに八つ当たりに近い苛立ちを覚えつつも、感情を抑えた。いちいちそんなことに神経を逆立てておれるほどに心は豊かでも貧しくもなくなって、ただすべてを受け止めるしか考えられぬ。自分が引き起こした悲劇を改めて瞼の裏に浮かべながら、青年は低く答えた。

「子供が見たい。できぬか?」

 女がさあっと顔色を青く変える。

「あの、そそ、そ、それは、その」

 彼女が難色を示すのも当然ではあった。今さらファリーンに会う顔などないが、せめて子供にだけは会いたいのだ。眠っているなら、ファリーンをこれ以上は傷つけずにすむ。己がどれほどの大罪を犯し、背負わねばならないかを目にしてからが真なる断罪だと思った。

 だから青年は退かず、さらに問うた。

「ファリーンが目覚める前に、少しだけ連れて来るだけでも、いけないか」

「あ、あ……」

 その途端、ようございます、という肯定する声が割って入った。

 ずっと戸口に控えていた、アルカリウスの奴隷頭を務めるテューロンである。彼はアルカリウスを慕い、アルカリウスの幸せだけを無上の喜びとして生きてきたようなひたむきな男だった。が、老境に差しかかった禿頭が陽光に反射する光さえ哀しみを伝えてくるように感じられるくらい、今の表情は苦渋に満ちている。半年前、アルカリウスがファリーンを娶った時には歓喜の涙に濡れていた頬をここまで痩せさせたのも己が罪ゆえと、青年は瞳を辛さに眇めた。けれども決して泣き言は吐けなかった。最早、罪に戦き悲しむだけではならぬのだ。それが結果的に彼が踏みにじることになるアルカリウスたちに対するせめてもの誠意だと思った。

 踏みにじるだけでは終わらせぬ、と。

 いや、それは誠意どころかただの自己満足でしかないかもしれぬ。が、そうだとしても他に何ができよう。もしもすべてなかったことにできるなら、それこそいかなる罪でも犯してのけられるものを。

 あの夜、と、青年は過去の己を詰った。

 なぜしたたか酔ってしまったのか、なぜ戻る場所を間違えてしまったのか、なぜ、分別や理性を失いきってしまったのか。いくつもの自責の念に押し流されかかる彼を引き戻したのは、これ、とテューロンが戸惑う女奴隷をやんわりと促す声だった。

「連れてくるがいい。奥様がお目覚めにならないようにな」

 棒立ちになっていた彼女は目を瞠ってなおも逡巡する素振りをしたが、重ねて命じられると首を勢いよく上下に振った。

「は、はは、はいっ」

 すっ飛んでゆく奴隷女の背中を見るともなしに見、青年は、テューロンに向き直った。

「――感謝する」

「いえ、わしに感謝されるより、お子様の方を慈しんではくださいませぬか?」

 そんな彼への非難どころか哀願の響きさえ込めて、テューロンは相手の礼を押しとどめた。

 青年は虚を突かれ、咄嗟に言葉を失った。老奴隷頭は背後をちらりと横目にした、奴隷女が向かって行った方を。そうして、ふっとうつむき、次に酒に溺れているかに見えるアルカリウスを見つめた。仕え、そして成長をずっと見守ってきた彼の荒んだ姿に双眸をかすかに潤ませて、テューロンは長いこと視線を固定させていたがやがて、諦めたように言った。

「旦那様は決して、愛されはしないでしょう。奥様もまた……あなた様までもが疎まれては、お子様が余りにも可哀相すぎるではありませんか」

「………」

 青年は沈痛に顔を歪めた。奴隷ながらもテューロンに対しては一目置いていた。彼は若き日のアルカリウスの学校通いの供を勤め上げた、腹心に近い存在であったからだ。だからこそ、その言葉に胸を衝かれたのやもしれなかった。もし他の奴隷がそのような口をきいたのならば、言われた己の情けなさではなく言った者の僭越に対してまさに八つ当たりをぶつけたに相違ないのである。

 そうして、近づいてくる激しい泣き声にはっとなった。テューロンの、そして青年の意識は、胸に抱いた幼子をあやしながら歩いてくる奴隷女に釘づけになり、停止した。生じた気まずい空気を変化させたのは、やはり件の赤子であった。

 赤子は泣き続ける。思いのたけをぶつけるように、場にいる者の意識を引き寄せるのだ。

「あれが」

 青年の茫然とした呟きは、誰一人として聞き取らなかった。

 おずおずと、女奴隷が、清潔な産着に包まれた赤子を青年に向かって差し上げた。余程緊張しているのか、両手が今にも手首から外れそうなほどにがくがくと大きく震えている。

「こ、この子で、ございます……」

 彼女の手元が危うかったからか、人間としての本能だったのか、青年はすぐに手を伸ばした。

 受け渡しはあっけなく終わった。もさりという布と重みの感触に、彼は一瞬気が遠くなる。知らず細まった目が、ゆっくりと見下ろした。産まれたばかりの赤子は余りにも小さく、頼りなく、汚れもなく柔らかだった。

 途端、青年は己でも信じられない驚愕と衝撃に襲われた。

 この赤子こそ自分の罪の化身だ。彼やアルカリウスたちの運命を矯正不可能にまですることのできる唯一絶対の存在が、これほどに脆く弱いとは考えもしなかった。首を少しひねれば、たやすく命など奪えてしまえよう。それこそ、誰かが疎めば赤子は無事では済むまい。やや小麦色の滑らかな肌、閉じられた瞳とまだ生えぬ髪は恐らく黒、生まれたばかりであるにも拘わらず顔立ちはぞくりと戦慄するほどに整っていた。まるで、青年が犯した罪を一身に背負った反動のように。罪を負ったからこそ神々はこの子供を哀れみ、せめて容貌はと思し召したのだろうか。

 わからない。しかし、わからずとも湧きあがる強い感情があった。

 青年は、赤子を抱き寄せた。

「この、子供、が……ファリーンの……」

 その女性の面影を浮かべて、彼はたまらず呻く。ファリーンが苦悩し、長く限りなく絶望しながらもついに命を削って産んでくれた赤子だった。

 そう、――何よりも、いとおしい。青年は赤子に頬を寄せ、その温もりを肌に刻んだ。どんな事情が横たわっていても、やはり子供には決して罪はない。既に赤子は泣きやんでいた。奴隷女のあやしが効いたのかもしれないし、泣き疲れて眠くなったのかもしれなかった。

「ファリーンと」

 この続きは、決して口に出してしまってはならない。邂逅のために崩れそうになっていた自制心が、ぎりぎりのところで働いた。

「ファリーンと、……アルカリウス、の……」

 虚ろな声の裏で、青年は真実の思いを紡ぐ。

 今、彼はこれまでの自分自身を最も徹底的に憎んでいた。自分までもが疎めば子供が可哀相すぎる、テューロンの言が皮膚の奥深くを抉る鋭い針となった。確かに嘆き疎んだ時もある。罪悪感と同時におまえさえいなければと苛立ち、不当な怒りを向けなかったといえば嘘にしかならぬ。が、それは、子供というものがこれほどいとおしいとは知らなかったからだ。

 子がなかったわけではないが、この赤子は普通の子ではないだけに特別であった。子供は通常、出生を望まれ、愛され、慈しまれ、守られて生まれる。生まれてからも親は無償の愛情を注ぎ、厳しくも優しく育むのである。が、この子供は決して愛されることはないのだ。放置すれば一日たりとも生きられぬほどに弱いというのに、青年のせいで生まれながらにして悲運を決定づけられてしまった。

 一度でも疎んでしまったのを、心底から恥じた。それでは身勝手な強者の論理になってしまう。子供は母の腹を選べないが、それは子供の責任ではないのだ。

 ――産む者の、責任であるのに。

 わかっていたつもりだった。しかし、結局、自分の身になると途端にわからなくなるのだろう。なぜ人は、弱き者にこうもたやすく責を転嫁できるのか。青年は認めているはずの己の罪に実は足掻き、心のどこかで逃れたかったし逃れようともしていた。心の醜さを突きつけられて、唇を噛む。が、己の醜さを自覚しているからこそ、より一層にいとおしかった。

 生まれ出でる場所を選べなかったこの赤子が。

 顔立ちはアルカリウスにもファリーンにも似ていた。要するに、美男美女と謳われた二人のいい部分をよりよく受け継いでいるというわけである。これほど並外れた器量の持主であれば溺愛されて当たり前だというのに、決してそうはならない。この子供が辿る命運が読めるから、青年は締めつけない程度に腕にそっと力をこめた。

 まだ何一つ知らない赤子は、いつの間にか安らかな寝息を立てている。そのたとえようもない愛らしさ、そして、哀れさに青年は一瞬、何かを叫びたいような激情に支配されかけて息を詰まらせた。

「……ゆ……」

 許してくれ、とはとても言えるものではなかった。謝ることさえできぬ立場で、だがそれでも憑かれたように呟いていた。

「わたしだけは……」

 青年はこらえきれず瞼を伏せた。

 ――アルカリウスが、ファリーンがおまえを憎んでも。愛さなくとも。

 睫の間からつうと涙が伝って落ちる。祈りに似た強さで、彼は何よりも誰よりもまず己自身にそう告げた。

 ――おまえを、愛している……!

 私だけは心から愛し、見守り、慈しもう、と食い入るように寝顔を見つめる。

 この目が開き、世界をきちんと認識する時からは、辛く寂しい日々が始まってゆくだろう。アルカリウスやファリーンに憎まれることに自問をし、その心を持て余すかもしれない。さらには、歪みさえしてしまうこともまたありえた。だから、自分がこれを支える柱となり盾とならなければならなかった。

 ――負けない。

 そのために、そのためだけに、青年は決して負けないと己の心と神々に誓した。

 そう、未だ呪われていないのはきっとこの哀れな子供を他に誰も愛しはしないから、神々が彼の命を預けておいてくれているのだ。導かれるように彼は結論する。呪いなど、本当は自分自身が真っ先に自分へかけていた。それでもおめおめと生き長らえている理由は、それ以外には考えつかなかった。

 青年はそう確信した。自分は多分、この哀れな赤子のためだけに生きている、と。

 不意に、今まで考えもしなかったある者の容姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。

 しかしながら、元はといえばこの者が強引に政界に現れ、やたらと青年を敵視してきたからだった。この罪を知れば、嬉々として追い落としにかかるであろう。そう、犯した罪の上にさらに歪みを重ねなければならないのは、その破局を防ぐためであった。彼の失脚は十部族として敬意を受けてきたアンティオキス一族の凋落をも意味する。そうなっては誰も幸せにならない、いや、さらに不幸な運命を辿るだろう。アルカリウスもファリーンも青年も、事が露見すれば今よりも深くずたずたに引き裂かれて破滅するしかない。

 愛する者たちを守るために、その彼らを傷つけなければならなかった業の深さ……せめて、あの者には勝たなければ慰めがないではないか。

 決して負けない、と再び凛然と呟いた。

「わたしの、名に、かけて……たとえ、最早『正義』に値しない罪を犯していても……」

 自分のためではなく、アルカリウスたちのためだけでもなく、まず何よりもおまえのために、わたしはこのアテナイで戦い抜こう。おまえにこれ以上の不幸は決して負わせない。

 心中、青年は赤子のために神々に願った。

 ――神々よ、照覧あれ。この子のためにこそ、我が運命を導きたまえ。

 ――我がアテナイを守護する女神、知恵深きアテナよ!

 涙のためか決意のためか、青年の瞳がきらりと強く輝いた。


  ―了―

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