エピローグ

 優しい方ですね、とクレリクスが言った。

 どうにか中央市庁舎に帰り着いて水を飲んでいたおれは、突然の台詞にびっくりした。

「ファンダレオンどのは、あなたを巻きこむまいとしているのですよ。この醜悪な政争に」

「ファンダレオンが?」

 そのファンダレオンはいない。隣室でテミストクレスたちと対策を講じてる最中で、この来賓用の豪華な奥室にはおれと母さんとクレリクスとカードラが軽く夕食を取っていた。緩やかな曲線を基調にした椅子や卓、銀の燭台にペルシア絨毯やらの高級さに呑まれて気分が落ち着かなかった。カードラや着替えた母さんはともかく、おれは普段着だからどう考えてもこの部屋にはそぐわない。

 また、今この中央市庁舎にはオドリュサイの使節が軟禁されている。ヘラスは、ファンダレオンの策によれば母さんや彼らを「証人」にしてカクレスを公式に告発するそうだ。

 で、結局、おれはさっきの暗殺騒ぎで「行方不明」になるということだった。テミストクレスが納得するかと思ったが、逆におれの不在はヘラスに有利になるという。手を尽くしておれを捜し回る刺客を捕らえれば証人が増える、と……そう言われたら、誰もおれを無理に引き留めようと主張できないだろう。

「あなたは奴隷のために戦おうとしている、それなら始めからオドリュサイに係わらない方がいい、そうお考えなのでしょうね。あなたは立派に認められているのですよ、あの方に」

「それって、戦友として……?」

 当たり前でしょう、といわんばかりにクレリクスが笑みを漏らした。

 瞬間、おれの目前で何かがぱっと弾け散った。

 ファンダレオン――おれは泣きそうになってうつむいた。何も気づかなかった。あの渦中であれほどの対策を考えてくれてたのは、頭がいいからだけじゃない。真実を知らされる衝撃を知ってるから、おれが立ち直りやすいように道を示してくれた。さらにおれを旅に出して、この政争から庇ってさえもくれてるのだ。

 大きすぎる優しさだった。陽光みたいにさりげなく、でもおれを包みこむ……。

 すばらしい方ね、と母さんも口添えした。

「しっかり旅していらっしゃい」

「うん、……うん」

 おれは何度も何度もうなずき返事した。自分が幸せすぎて、かっと身体が熱くなった。こんなことにはなったけどクレリクスが同行してくれるし、お金もヘラスが出してくれる。母さんもヘラスが守ってくれるんだ。みんなファンダレオンたちのおかげだった。アレウシアたちに挨拶できないのが寂しいし帰ったらまた怒られるだろうけど、きっとわかってくれる。

 たくさんお土産を買おう、と呟いた時、ファンダレオンとテミストクレスが入ってきた。

「ルシアス、どこに行きたい」

 いきなり卓上にエジプト紙の地図を広げて、ファンダレオンがおれに尋ねる。

「どこにって……」

 どこでもいいよ、と答えると、

「クレタを経由してエジプトに行く船がちょうどあるぞ。これでどうかな」

 テミストクレスがそう提案してアテナイから下に指さし、エジプトで止めた。

「しかし、エジプトもペルシアの支配下にありますが」

「なに、オドリュサイやペルシアの王族が直接君臨するわけでもない。奴らの本拠から遠ざかる方がよかろうし、ペルシア領に逃げることで裏をかく事にもなろうよ」

 ファンダレオンに笑い、彼は付け加えた。どこの領土でも、ヘレネスは必ずいるのだからと。

 南か。どうせ行ったこともないから悪くないな。

 四ヶ月前に下ってきた海を、今度はまたもっと南へ行く。アテナイを離れることは、そのさらに北のオドリュサイからも離れることになる……父さん……。

 不意に、おれは「父さん」を思った。オドリュサイ王テレス、顔も何も知らないおれの本当の父親。皮肉だな、対ヘラスということでは同じ方向を見据えてるなんて。彼には、憎いというよりは怒りや苛立ちがあった。一番偉い王のくせに愛していたはずの母さんを守れなかった、そんな嫌な思いが。

 それも、でも母さんに関してだけで、おれはよかった。十四年前の母さんには父さんの助けが必要だったけど、今のおれには必要ないし母さんも無事にいられた。だから恨んだり復讐しようとか考えずに、おれは理想を追ってだけいけるんだろう。

「そうします。あ、あの……」

「ん?」

「すみません、おれのせいでご迷惑……」

 途端、テミストクレスが大笑いした。

「迷惑をおかけするのはこちらだ。後で立派なオドリュサイ王になって頂かねばな、王子」

 おれに顔を突き出して、冗談にならない冗談を言ってくれる。げっとファンダレオンに助けを求めようと見上げると、彼も苦笑いした。ま、まさかそんなつもりはありませんとは言えない。それはとりあえず、無事にアテナイに帰ってから考えよう。おれは曖昧に笑っておいて、それから気持ちを引きしめた。

「母さんと人質にされたみんなのこと、よろしくお願いします」

 深く頭を下げる。ほう、とテミストクレスがまじまじとおれを見下ろした。

「いい顔つきになった。――承知した、ルシアス王子。『正義の国家』アテナイとこのテミストクレスの名にかけて、ご家族をお守りする事を誓約する」

 今度は冗談とは思えない言動で、だからかえって困ってしまった。でも、とにかくこの人たちを信じるしかない。そして、絶対に信じられる人たちだ。

 おれは信じるだけでいい。それはとても幸せな安心感で、旅立つ力が湧いてくる。

「ルシアス、そろそろファレロンに行かなければな。クレタ行きの船ならもうすぐ出る」

 ファンダレオンが告げた。隠密行動から、中央市庁舎からはもうクレリクスとの二人旅になるので、彼ともここでお別れだった。

 ファンダレオン……いつかまた会えるのに、ぼろぼろと涙がこぼれ出した。

「ファンダレオン、ファンダレオン……っ!!」

 おれはファンダレオンに飛びついて、力いっぱい抱きしめた。

 出会ってから四ヶ月間、おれはどんなに守られてただろう。甘えてただろう。学んだだろう。これからこの人がそばにいなくなる時になって、ファンダレオンの大きさがわかった。

 だから、この美貌が見られなくなる、この、心に棲む喪失感だけは埋めきれない。それくらい大好きだった。尊敬するよりなにより、まずファンダレオンが大好きだったんだ!

 でも、それでも別れなきゃいけないおれにできることは、ただ一つだけだった。

「おれ……おれ、絶対いい旅する! だから、ファンダレオンも気をつけて、生きてて!」

 広く温かい胸、おれを抱き返す細身の腕、この美しすぎる顔、深い翳のある黒い瞳。おれは、ファンダレオンの温もりを全身に灼きつけるつもりでできるだけ身を寄せた。

 絶対に忘れない。帰るまでは記憶の中でファンダレオンと一緒だ。エジプトやフェニキアに行きたがってたファンダレオン。うん、一緒にいろんなところに行こうよ。おれが見たものを後で現実の彼と共有できるような実りある旅にしよう。それが、そばを離れてしまう今のおれにできるせめてものお礼だと思った。

 今までありがとう、とは言わない。おれたちにはこれからがあるから。お礼は言葉じゃなくて態度でちゃんと見せたいから。

 必ず帰れ、とファンダレオンが囁いた。

「いつまででも待っている。おまえが戦列復帰してくる時を」

 おれはがばりと顔をあげた。彼は寂しさと親愛をこめた微笑を向けてから、不意におれに顔を近づける。額を、その唇が優しくかすめた。突然のことに目を丸くしたおれを立たせ、からかうように笑った。

「おまえは『無限の運命の扉』を持っているそうだが、おまえがこれからくぐる扉が私と同じになればいい、そう思う」

「馬鹿。おれは、そのために旅に出るんだよ」

 なに言ってんだよ、とおれは強がって口を尖らせた。ファンダレオンと同じ、奴隷のために戦う「運命」の扉のためでなきゃなんにもならないじゃないか。でも、念を押すように改めてそう言われ、鼻の奥がつんと痛くなった。それをあえて告げるところに、彼の温かさやおれへの期待を切ないくらいに感じて。

 みんなによろしくね、と伝言を頼むと、しゃりんと金属がすれあう音が響いた。母さんが不意におれをぎゅうっと抱きしめる。温かく柔らかな胸の感触に、全身が包まれた。

「おまえと生きて会うことはもうない、と思っていたわ」

 きつく引き寄せられてるからその顔は見えなかったが、明らかな涙声だった。

 おれもそう思ってた。誰かいい人に見初められればなんて漠然と考えてたのが、まさか王妃だなんて何がどうなるかわからない。

 母さんは嗚咽混じりに言を継いで告げた。

「おまえに会えたこと、それだけは、どんな形であれ嬉しかった。いえ、だからこそ、殺されるとわかっていてもおまえに会いたかった……許してね、なにも告げなくて。でも、あの人の子として生きて欲しかったの。わたしがただ一人愛した、フィラスの――」

「母さんっ!」

 ごめん、……ごめん、母さん。おれは心で謝って謝って、恥じ入った。

 おれは誤解してたんだ。本当の父親がオドリュサイ王だからって母さんの子供には変わりないのに、母さんの心を疑ってしまった。おれが自分の生まれなんかに疑問も覚えないくらい懸命に守ってくれてたのに。歌ってくれた子守歌や叱ってくれた言葉、それが弟たちと比べられるわけがないのに!

 自分の馬鹿さかげんにすすり泣いて、でも、おれはすぐに涙を拭いた。

「王子だなんてわからなくてよかったよ。わかってたらびくびくしてどうしようもなかったと思うから、ありがとう、母さん」

「ルシアス……!!」

 母さんが離れがたいようにおれに頬ずりした。王妃だろうが王子だろうがおれはおれで母さんも母さんだ、心底から、そうわかった。

 また会えるよね。一緒にオドリュサイには行けないけど、絶対アテナイで会えるよね。

「ルシアスどの」

 不意に、今まで沈黙していた一人が呼んだ。

「カードラさん」

「カードラでよろしいですわ、ルシアスどの」

 デルフォイの巫女が笑顔を見せた。おれのためにクレリクスを導きわざわざアテナイまで来た彼女の微笑みは、たとえようもないほどに清らかだった。

「あなたが『無限の運命の扉を持つ』のは、恐らく、あなたが王子だからこそと思います」

「……え?」

「あなたは故郷からも家族からも引き離されています、生まれながらにして。親に命じられることもなく、故郷に縛られることもなく、あなたは真に選べるのです。自分の道を」

 あ、とおれは目を瞠っていた。

 そうだ、おれは生まれてすぐにトラキアから離されたんだ。振り回されるようにしながらも、おれは何かに定めきられはしなかった。奴隷にはされたけど、転機になっただけで。そうして、奴隷のために戦うという、王子という生まれからすれば途方のない理想を手にできるんだから。

 理想のために、おれは生きられる。アポロンの予言はきっと当たってるんだ。おれはカードラに同意して、そっと笑い返した。

「おれ、もう選んでるよ。頑張るから。アポロンや運命の女神たちに恥じないように」

 カードラが表情をほころばせる。

「クレリクスを通してあなたを見守っておりますわ。わたくしにとっても、あなたは運命の主なのですから」

 彼女がそう言い終えると、クレリクスがおれに手を差し伸べた。

「行きましょう。ルシアス」

「――うん」

 その手を取って、おれは母さんのそばから離れてふと見渡した。涙に濡れている母さん、瞳を眇めているファンダレオン、微笑んでいるカードラ、テミストクレス、クレリクス、……こんなにもたくさんの人に守られている自分が、なんだかとってもいとおしかった。

 だからおれは胸に誓っていた。この人たちや選んだ理想にも恥じない生き方ができるようになろう、運命の扉を雄々しく開けられる人間に成長して再会しよう、と――。

 胸に刻んで、おれは、一歩を踏み出した。

「じゃあ、またね」


―第一部 了―

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