無限の扉に向かって・下

 見事なくらいの快晴の空の下、中央市庁舎前はすごい人だかりができていた。無理もない。テミストクレスが「王室の女性」とか言っていたのは、なんとオドリュサイの新王妃だった。元は側妾で、正妃より先に王子を産んでしまったために憎まれて王宮を追われた。それが正妃が病死し、彼女に男の子供がなかったので改めて迎えたそうだ。まあ、そんな経緯があって、そのまま「新王妃」とは言いにくかったのかもしれない。ともかく、それがさらに美女ときたら、誰だって顔を見たいもんだよな。おれもだけど。

 で、おれはファンダレオンの従者ということで最前列にいる。腰の辺りに進入禁止の縄が張られてて、がら空きになってる中央市庁舎の玄関先がよく見えた。

 で、これから門で馬や輿から降りた使節の行列が来ようとしている。おれが知ってるのは、使節を待つテミストクレスとファンダレオン、アリステイデスとキモンくらいかな。キモンはどこから見ても貴族で、ラケダイモンと仲がいいとは思えない線の細いおじさんだ。確かに、無骨な兵士や三十歳以上のお役人たちの中で、テミストクレスの背後に控えるファンダレオンの美貌は目立ちまくってた。我が主人ながら、服装を整えただけで神様に見えるのがすごい。

 アリステイデスは穏やかな顔をしてた。なんとなく目線をそらすと、急に周りがざわめき始める。

「来るぞ!」

「本当に美女なのか!?」

 みんなが勝手なことを言ううちに、空けられた前の通りに行列が現れた。

 ぴったりした革の服と鎧を纏った護衛のトラキア人兵士が、ずらりと並んで進んでくる。その手には円盾と槍があって、皆鋭い目をしていた。彼らや供の女官らに守られて、白い被り布で素顔を隠した新王妃がすたすたと歩いてゆく。きらびやかな黄金の装飾品が陽光にきらめいた。トラキアは黄金細工もすごいんだった。だから、後に続く大きな真鍮の箱には黄金の贈り物がわんさか入ってるんだろう。何が入ってたか、後でファンダレオンに訊いてみようかな。

 が、周りで文句やため息があがる。布をかぶっているんじゃ王妃が美人かどうかわからない。おれも風であれが飛んだりしないかなと期待して見つめていた。と、ふと気になった。

 あの歩き方は、王妃にしては元気がよすぎる感がある。民間出身だそうだし、迎えられたばかりだからかもしれないが、まあ身分があっても性格の問題もあるか。だからアテナイまで来たのかもしれなかった。どうにしても、王妃自ら交戦国に来る度胸は並じゃない。

 そうして、行列がおれの前を通りすぎ、中央市庁舎の前で止まった。テミストクレスたちが一礼し、主席執政官が代表して歓迎する言葉を述べた。

「女性の御身で、よくぞ遠路遥々お越し下さいました。どうか、我が富貴なるアテナイに長くお留まりになりますよう」

「お気遣いは無用にお願い致します。このように迎えて頂けるだけでも感謝しております」

 王妃が答えた。

 ――え?

 おれは一人、息を呑んだ。

 このよく通った声は、他人の空似じゃ、ないのか?

 聞き覚えなんてことじゃなかった。がたがたと膝が震える。それこそ、おれが物心ついた時から慣れ親しんだものだった。

 でも、そんなはずは!

 必死に否定しようとしたおれの眼前で、王妃が被り布に指を滑らせた。

 さっ、とためらいなく外す。観衆が大きくどよめいた。三十歳前半に見える王妃は、噂に違わない美しさだった。華やかに化粧されてるせいだけじゃない、本物の美貌ってやつだ。世界中から人が集まるアテナイでは、女の人だって世界中から来る。そうして女性を見慣れたヘレネスですらあからさまに驚いて、口々に称賛した。

 おれは、呆然となった。

 確かにその美しさにも驚いた。だって、おれは、化粧した顔なんて見たことがなかった。

「あ……」

 間違いない。空似でも、ない。おれは完全に当惑した。どうしてオドリュサイの王妃になってるんだ。どうしてそんなに美しく着飾ってヘレネスに挨拶しているんだ。

 わからない、どういうことなのか!!

 ファンダレオンたちが愕然とおれを見据えている。

 ふらふらとおれは頭を振った。おれにもわからない、わからないよ。

 視線を外せないでいるおれに気づいたのか、王妃がさりげなくこちらを振り向いた。

 途端に、その表情が凍りつく。

 食い入るようにおれを見つめる彼女の瞳がいとおしげに潤み、そして、さっと変わった。

「……逃げ……て」

 恐怖に顔を歪めて、王妃が震える声で訴える。

「逃げて! ルシアスっ!!」

 必死の絶叫より早く、オドリュサイの護衛兵たちが反応していた。槍を構えたかと思ったら、どうしてかいきなりおれの方に殺到してくる!

 周りの人たちが悲鳴をあげて逃げ出し、一挙に大混乱に陥った。死ね、といわんばかりにおれに槍が突き出される。このままじゃ刺し殺されてしまう。けど、なんでおれがオドリュサイ兵に襲われるのかという驚愕と恐怖に、身体が麻痺してどうにもならなかった。

 目さえも閉じられない、その瞬間、黒い大きな影が立ちはだかって槍先を弾き飛ばした。高い音があがる間もなく、次の槍が胸元に迫る。しかしそれもまた、その影が持つ槍の柄に防がれた。

「ルシアス! ルシアス!」

 影はクレリクスだった。巧みに長槍を操って縦横無尽におれを守ってくれている。

「大丈夫ですか!? 早く、ここを逃れるのです! さあ、こちらへ!!」

 怒鳴るなりおれの手を引く。

 はっと身体の痺れが解けて、おれはクレリクスと一緒に走り出した。そうだ、殺されるわけにはいかない、逃げなきゃ……でも、だけど!

 振り向いた先で、王妃もまた槍にさらされていた。彼女を守るのはアテナイの兵とファンダレオンだった。おれの目が、王妃と合う。

「ルシアス、早く逃げて!」

 彼女が再び声を投げた。クレリクスがさらに強くおれの手首を引っ張った。

「ルシアス!」

 半ば引きずられて場を離れながら、おれはそれでも王妃を見つめ続けた。遠ざかる、遠ざかってしまう! ここは脱出しなければとわかっていつつも、おれは手を伸ばしていた。

「か、母さん……かあさあん……っ!!」

 逃げながら、おれも、叫び返した。



 追手を振り切り、アテナイ郊外の草地で一息ついた時、おれはその事実にへたりこんでいた。

「なんで、……母さんが……」

 オドリュサイの新王妃は、ほぼ四ヶ月前に別れたきりのおれの母ルーパイアだった。

 愕然と呟くおれの横に跪いて、クレリクスが悲しげに語り出した。

「ルーパイア様は、元は王テレスに見初められた側妾でした。王の寵愛を一身に受けて子を産みました。――ルシアス、あなたです」

 おれは息を詰めた。それは夢物語のような、だからこそまさに衝撃の真実だった。生粋のトラキア人だから、おれは父さんに全然似てなかったっていうのか。

「しかし、ルーパイア様は側妾。このまま第一王位継承者にしてもいいか、出産前にデルフォイに伺いを立てました。神託はこう出たのです。

『純粋な心と無限なる運命の扉を持つ、雄々しい生を歩む子である』

 と。王は喜び、そして正妃たちは憎悪したのです。ルーパイア様は、危険を感じてオドリュサイを逃れなければならなかった……それから十四年、この間に正妃が王子を産めばよかったのですが、正妃は女子しか産まないままに病死してしまいました。正妃は王弟カクレスの姪で、彼には野心がありましたから、王が別の女性を迎えた挙句に王子が産まれてはと恐れ、その前にルーパイア様たちの行方をきちんと確かめてはと進言しました。突然に姿を消したルーパイア様を今も愛する王のお心を利用して、王妃の座を空席にさせたのです。巫女は、あなた方が南トラキアに生きていると告げました。王はあなた方を愛するがゆえに、そして王弟はあなた方を殺すために行方を捜し、ついにルーパイア様が見つかったのです。しかし、あなたは奴隷として売られていた……」

 次々に明かされてゆく真実たちに、おれは目眩を覚えた。

 おれは、誰なんだ? すべてが崩れてゆく錯覚とおれそのものが押し潰される圧迫感にこらえきれず、苦しさに涙が溢れた。

 これがおれの「運命」なのか!?

 嘘だ、と叫びたかった。父さんも母さんも、どんな容貌でもおれは父さんの、ヘレネスの血も引く子だって言っていた。そんなこと、一言だって話しやしなかったんだ。

 でも叫べない。思い当たるふしが確かにおれにはあった。畑仕事しかやらせてもらえず、ポリスにも出られず……市民権や世間体なんかの問題だと気にも留めなかったことが、鮮やかに浮上しておれの全身を叩いた。

 クレリクスの話の続きは、こうだった。

 おれたちを連れ帰る途中にでも殺し、その失意からと王も死なせれば、王位は最近親者のカクレスのものになる。ペルシアと手を組んでいる強みもあってあと一息だったのが、おれが売られたせいで予定が狂った。巫女に『アテナイに在る』と告げられた奴は、『無限の運命の扉を持つ』おれも殺さないと安心できなくて王を唆した。おれにそっくりな母さんをアテナイに差し向ければ必ず反応がある、と。母さんにも懇願させて、王の許可を得た。そして、カクレスはおれが見つかった時点で始末するつもりだった。母さんは、だから逃げろと叫んだんだ。おれの顔を見たら、みんなファンダレオンたちみたいに気づく。

 いや、護衛兵たちも気づいてしまったから。

『新たな嵐が降りかかることでしょう』

 カードラが言った「嵐」は、このことだったんだ。

 おれはもう、ただのトラキア人奴隷じゃいられない。

 母さんが王妃になった。そしておれは「王子」として、否応なくオドリュサイの権力争いに放り出されてしまったんだ。愕然と、おれは自分の手を見つめた。この手さえ、自分のものではなくなったかと思った。

 その手を、クレリクスが両手で握り取る。

「そして、わたしは、あなたがアテナイにいるという神託を伺いに行った追手の一人でした。ですが、そこでカードラどのに出会い、あなたを守るべき運命を知ったのです。あの鉱山にいれば必ず出会えるという神託に従って、追手から外れて待っていました。すぐにわかりましたよ。それが、神意の証だったのです。カードラどのと心を通じる力を、あなたの守り手として授けられたのですから」

 心から幸せそうに言い、クレリクスは微笑んだ。彼がどうしておれにかまい、なぜおれが雄々しく生きられると断言したかの理屈はわかって、でも受け止めきれなかった。

 おれの父さんは父さんじゃない。

 おれは、ヘレネスの血は、一滴も引いてない。

 自分の真実が重すぎて、おれはすすり泣いていた。自分自身に疑問なんて持たなかった。その絶対的だった意識が今、粉々に砕かれて追い詰められた。

 おれは、どうすればいい?

 誰か教えてくれ……誰か、誰か……ああ、ファンダレオン!

「ファンダ……レオ、ン……っ」

「ルシアス――」

 クレリクスが庇うようにかき抱くのを振り払い、おれは顔を覆って泣き伏した。

 その途端、声が、耳に響いた。

「ルシアス!」

 はたと顔をあげると、そこに、輝くばかりの美貌が険しい顔で駆け寄ってくる。血塗れた剣を手にした彼の後ろには、衣装はおろか黄金の飾りで束ねられてた髪まで振り乱した母さんと、カードラがいた。

 カードラどのに知らせましたから、とその力を匂わせてクレリクスが告げる。

 ファンダレオン……母さん……!

 愛しい人たちの無事な姿に、おれの目からさらに涙がこぼれ落ちた。

「ルシアスっ!!」

 母さんが飛びつくようにおれを抱きすくめる。香水のつんとした匂いに混じった母さんの本当の肌の匂いを、おれは胸一杯に吸いこんだ。

 どんな事情があっても、奴隷に売られたことを思えば夢のような再会だった。



「逃げる途中で出会ったの、フィラスと……」

 おれに話したことをクレリクスが言い終えると、おれの腰に手を回したまま、母さんがかすかに笑った。

 「父親」のフィラスはオドリュサイでの商用の旅の途中で母さんに出会い、二人は恋に落ちたそうだ。

「わたしは一方的に愛されたようなものだったわ。本当に恋したのは、フィラスだけ」

 別れも覚悟で事情を全て話した時、父さんはあてがないなら結婚して欲しいと言ったという。母さんはそれを受けて赤ん坊だったおれともども一緒に南に帰り、弟たちを産んだ。

 うん、とおれは心からうなずいた。本当に父さんが好きだって子供心にもわかってたから。どんなに貧しくても母さんの笑顔は絶えなかった。プラタイアイの戦いまでは。そして、それでもオドリュサイ逃亡から、十四年が平穏に経った。

 母さんが、おれの髪を指ですいてゆく。

「追手にも出会わず、親子で無事で……幸せだったわね、ルシアス……」

「ううん、おれ、今だってずっと幸せだよ。ファンダレオンに出会えたんだから」

 そう言い返すと母さんが驚いたようにファンダレオンを見、感謝をこめた表情で一礼する。クレリクスと一緒に不慮の事態に備えて見張っていた彼が、淡く微笑して首肯した。

 でも怖かった、と視線をおれに戻した母さんが、まなざしを悲痛に歪めた。

「まがりなりにもおまえは王子。いつなにが襲いかかってくるか、幸せだったからこそ怖かった。怒らないでね、ルシアス。おまえが売られる時、安心さえしてしまった。やはり幸せなままではなかった、と……」

 無論おれは怒らなかった。父さんが死んでからは誰の保護も求められず、たった一人でどんなに不安を抱えてたんだろう。

 ただ、少しだけ寂しかった。そういう風に安心したのは、おれが父さんの子供じゃなかったから? 弟たちは本当に好きな人の子供でも、おれは、好きでもない男の子供で何よりも母さんを追い詰めた元凶だった――。

 そんなおれの感情を悟ったのか、母さんは泣きそうになって真っ向から否定した。

「おまえが『無限の運命の扉を持つ』と予言されていたからこそ、安心したのよ。おまえなら絶対に生き抜くと。そんな悲しそうにならないで、ルシアス。……おまえが売られてからほぼ二ヶ月後だったわ、追手が来たのは」

 そうして母さんは、オドリュサイに連れ戻された。

 王は大喜びで王妃に迎えたけど、カクレスはおれの行方を母さんに問い詰めた。事実とはいえ母さんは「奴隷に売った」の一点張りなので、巫女に伺いを立てておれがアテナイにいるのを突き止めた。ところがいざ捕縛するという矢先、今度は例の暗殺未遂事件が発生してしまったのだ。

 余りといえば余りに絶妙だった。アテナイを代表する政治家のテミストクレスとアリステイデスが狙われたという性質上、ペルシアとも親しいトラキア人を下手に暗躍させるわけにはいかなくなり、時間が経つのを待って「新王妃の派遣」を決定させた。おれの家族を人質に、カクレスは母さんに王に向かってこう言わせたのだ。

「ルシアスの安否を確かめたいのです。どうか、わたしを使節に加えてくださいませ」

 と。

 再会すれば両方殺されるのは、母さんもわかってた。でも母さんは人質のため王に訴えられず、他の家臣は奴の後ろにいるペルシアが怖くてどうにもできず、……この日を、迎えた。

 そして、奴らにとってはまんまとおれと母さんは再会してしまった。

「……ルシアス……」

 痛ましい目でおれを見下ろすファンダレオンに、おれは頭を振った。

「やばいんだね……相当」

 事が深刻すぎて、単純な言葉しか出ない。

「ルシアス」

「大丈夫、大丈夫だよ。もう、びっくりして泣いてなんて、いられないんだ」

 おれは力一杯腕で涙を拭い取り、無理やりだけどみんなに笑って見せた。

 悲劇の王子ぶって狼狽なんかしてられないんだ。まだ衝撃にもたつく頭で、だけどおれは必死に対処法を考え始めた。こうなったら事態は一刻を争う。おれたちは見つかったらばっさりと斬られて、新国王カクレスの誕生になる。顔も知らないし存在も今知ったばかりだが、吐気がするほど嫌な野郎だ。人質だなどと人の心の弱さを利用するなんて、あんまりにも卑怯すぎるじゃないか。

 あの鉱山でだって生き残れたのに、今そんな卑劣な奴に殺されてなるもんか、とおれは作った拳を怒りに震わせた。

 その時、ファンダレオンが母さんに急に尋ねる。

「使節の者は全員、王弟殿の手の者ですか?」

 母さんは力なくうなずいた。彼は顎に指を当てて考える素振りをしていたが、

「テミストクレス殿の力を借りるか」

 と、脈絡もなく言った。

「どど、どうするの?」

 当然おれたちは目を丸くして、ファンダレオンの美顔をじっと注目した。

 そうか、と高く呟いたクレリクス以外は。

「お二人を、保護して頂くのですね」

「ええっ!?」

「そう。事情を話せば、テミストクレス殿は大喜びで母上殿を保護するだろう。トラキアに、ペルシアと殊に親密な王が現れる――これはヘラスにとっては一大事だ。我が伯父上も『正義の人』、ヘラスのため私情を捨てて協力してくださろう」

「……あっ!」

 語尾に皮肉げな色が混じったが、今はそれどころじゃなかった。言われておれはやっと彼の真意を悟った。そうか、ヘラスまで巻きこめば奴はうかつなことができなくなる。

「これで事情を知ったテレス王がどうするか見物だな、ルシアス」

「す、すごいよ、すごいよ、ファンダレオン」

 おれは思わず興奮して手を打っていた。カクレスに不満を持っている者も多数いるだろう。全てが白日の下にさらされた時、彼らは遠慮なく動き出すのではないか。事を巧くオドリュサイ内部で解決させる、というわけだ。

 テミストクレスとしてはオドリュサイに恩を売れるし、おれたちの命も保証される。

 だが、とファンダレオンが続けた。

「おまえはどうする。王子として保護されれば、解決した暁にはおまえが次の王としてオドリュサイに帰らねばならないぞ」

「あっ、そ、それは……」

 そうだ、テミストクレスはそれこそどうしたっておれを即位させてヘラスに都合よくさせるだろう。テミストクレスは好きだ。ここで協力してもらえるなら、おれにできることだったらなんでもお礼に代えたいとも思える。でも、それだけはできないんだ。

 ちら、と、オドリュサイに行く気はあるのかと心配そうにおれを見やった母さんに、おれは深呼吸してから言った。

「おれ、アテナイが好きだ。豊かだし、ファンダレオンたちがいるし。でも、アテナイでおれが好きなところって、ほとんどが『異民族』の奴隷の犠牲の上に立ってるんだ。それが、すごく悔しいんだ」

 だから奴隷という身分をなくしたい、母さんにおれははっきりと告げた。

 それがおれの大きな夢でこれだけは譲れないから、だからオドリュサイには行けない。

「――そうね、オドリュサイの王子には、きっとできないことね」

 残念どころかむしろ嬉しそうに、母さんは初めて美しい表情を和らげた。

「すばらしい、でも遠い夢……でも、『無限の運命の扉を持つ』おまえなら見られる夢かもしれないわ。なぜ巫女がそう予言したのか、今ならわかる気がするわ、ルシアス」

「母さん?」

「おまえは、……わたしたちやオドリュサイのことは気にしないで生きられる。そう、気にしないで生きなさい。奴隷のために生きるのが、おまえが選ぶ『運命の扉』なら」

 おれの頭を優しく撫で、母さんはひっそりと微笑んだ。そしてファンダレオンを仰ぐと、

「考えてあるのでしょう? この子のことも」

 と、深い信頼をこめた口調で尋ねた。

「ルシアス、ここで少し旅に出るといい」

 ファンダレオンは、ちょっと仕事を言いつけるような軽い声で母さんの台詞を肯定した。

 絶句したおれに彼はこう説明する。

 保護していてもカクレスが黙っているはずはなく、必ず刺客を差し向けるはずだ。王妃として残る母さんはまだしも、おれがこのまま奴隷としてファンダレオンのところにいると辛い思いをするのではないか。おれは、当然ながら否定できなかった。そうだ、おれのせいでまたみんなに迷惑をかけてしまう、そしてその想像に怯える毎日になる。今度こそ本物の刺客なのだ。ラルアの悪夢が甦った。アレウシアたちが巻き添えにでもなったら……! ファンダレオンは、それでおれが傷つくことを心配してくれてる。

 でも、おれは暗い気分に沈んでしまった。

 血を吐く思いでこの手につかんだ理想のために、唯一の戦友と一時でも別れなきゃいけないっていうのか? これからって時に、と、本当は拒絶したかった。

 だけど、おれはそれでも承知していた。

「そう、だね。そう……するよ」

 いきなりの嵐、いきなりの別離。でも、そうするしかないのを、おれがよく知っている。

 不安と狼狽に、身体がびくついた――。

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