無限の扉に向かって・中

 運命の女神は三人姉妹で、その母で「必然」を司る女神テミスの命令を分担して実行する。クロトが機で命の糸を織り、ラケシスがその長さを測り、アトロポスがその糸を切ってゆく。定められた糸の長さが寿命なのである。

 その女神たちが、一体おれの運命の何を定めているというんだ。おれがあいのこで生まれたのも奴隷に売られたのもファンダレオンに出会ったのも、まさか、全部? 胸に溢れ返る猜疑や戦慄を持て余して、おれはカードラたちを恨んでいた。あんなことしか伝えられないんなら、いっそその時まで伝えないでいて欲しかった。こんな気持ちでおとなしく養生なんかしてられないじゃないか。

 おれを救ってくれた二人が、今度はおれを悩ませている。それがおれに開かれた「運命の扉」なのかもしれない。そうかもしれないが、これからいつ何が起こるというんだろう。怖い、すごく怖い……!

 「神託に定められた」という、忌まわしくさえ聞こえる響きに、おれは頭を振って寝転がった。

 運命なんか、未来なんか、わからない方がいいんだ――。

 二人が帰ったのに気づかず、後からファンダレオンが来るっていうのも忘れ果てて、おれは逃げるように眠りこんでしまっていた。



「まったく、ここまでまんべんなくけがされるとかえって感心してしまうわ」

 おれの身体に塗り薬をつけ、くじいた足に湿布を当てながらアレウシアが呆れ顔を作る。

「ごめん……」

「ルシアスのせいじゃないわよ」

 彼女が苦笑したけど、その原因については一言もない。みんなもそうだった。あれだけの事件だから、ファンダレオンが全部説明したんだろう。訊かれたらおれが辛いからって配慮してくれたのかもしれなかった。彼だって辛いに違いないのに。

 おれはいつもファンダレオンの足を引っ張ってばかりだ、と沈んでると頭をどつかれた。

「アレウシア」

 ぴしゃ、とアレウシアが顰め面で立て続けにおれの頬を軽くはたく。殴られた青あざに響いた痛みで、たまらず顔が引きつった。

「けがを治すことだけ考えてなさいね」

 心配の裏返しに怒りにまで達しているのか、やり方に容赦がない。

 でもあの予言が、と口にしかけておれは唇を締めた。考えちゃ、だめだ。それに、おれの目が覚めた時の彼女はどんなに悲痛な顔をしてただろう。逆らったら絶対罰が当たる。全治十日くらいと診断された傷を全身に抱えつつ、おとなしくしようと心に誓った。

 ファンダレオンが叩き起こすことはないと言ったため、おれはあれからまた一晩眠りこけてたそうだ。結局は飲まず食わずで二日も寝ていたせいで、今日の朝はさすがに胃がきつくなってた。起きるなり大麦がゆを一気に二杯もかきこんで山羊の乳をがぶ飲みする。そんなに急に食べるなってアレウシアから怒られたけど、食べ物がこんなにうまいなんて不思議だった。なんか生まれ変わったみたいだなって感じすらした。

 ファンダレオンがここに顔を見せたのは、皮をむいたぶどうをほおばってた最中だ。

 まだ包帯が多く巻かれてるけど杖で歩けるようになったそうで、だから昨夜もおれの枕元に来られたんだ。よかった、回復してきて。

 でも、それどころじゃなかった。

「ルシアス、マーレウスの事だが」

 一緒に皮をむいてくれてたアレウシアが息を呑む。おれも手を止めた。あたし向こうに行ってます、と彼女が心なしか青い顔で立ち去った。

 昼下がりの奴隷部屋にファンダレオンと二人きりで残されて、おれは大緊張した。

 マーレウスは、アリステイデスの許にいる。

 クレリクスの台詞を思い出して、息苦しくなった。

 深刻に張り詰めた表情のまま、ファンダレオンがおれの前に腰掛ける。

「クレリクスから……聞いた、よ。アリステイデスさまのところだって。ぶどう……いる?」

 おれは思わず大皿を差し上げていた。我ながら間抜けな間の取り方だ。悔やんだが、ファンダレオンはくすりと小さく笑んで頭を振った。

「今はまだいい。――ルシアス。おまえの事だ、私が伯父上の許に預けたのはなぜか、わかっているのだろうな」

 そう確認してくるのを、おれはできるなら否定したかった。

 けど、おれは即座に決めた。ファンダレオンに言わせたらもっと辛い思いをさせてしまう。それなら、おれが辛い方がずっといい。

「アリステイデスさまが、真犯人だから?」

 ファンダレオンは否定しなかった。否定しないということは、肯定なんだ。平気だなんて勘違いしそうなくらい硬く作りあげられた静かさに、おれは逆に胸を抉られた。

 この人は、言葉や表情とは裏腹にきっとひどく傷ついていると思う。命懸けで守ろうとしていたマーレウスが、実は真犯人と約定を交わしていた。たとえファンダレオンへの真心からでも、もしもおれを憎んでいなければ。こんなひどい事態になったのは、ある意味おれのせいだった。今も故郷への気持ちを翻すつもりはないけど、それでもあれからすべてが始まってしまった。

 だからファンダレオンは、おれに感情を決して見せないのだろう。

 彼の傷や痛みがおれの負担になるのを避けようとしてるから。おれはわかってて、だけど知らないふりで応えるだけ――おれのせいだから、それしか、できない。

 長く、おれたちは黙ったまま見据え合っていた。

 ややあって、そうだ、とファンダレオンがようやく半眼を伏せて言う。

「昨日、おまえが目を覚ますまでにマーレウスたちを預けた。ヒュラリスも、息子がこんなことをした以上はここにいられないと言い、伯父上も受け入れてくれた。そして、伯父上からも全て聞いた。……伯父上は、私を、愛し案じ続けていたそうだ」

 まるで他人事のようなのは、ファンダレオン自身も衝撃が深かったからだろうか。

「世間体から介入できず、せめて子供には罪がないと言っても弟は相手にもしなかった。行き場のない無念が募った末、サラミスで再会した。息子までが自分の思いを知らないでテミストクレスなどに、と、かっとなったらしい」

 ファンダレオンはうっすらと口の端をつりあげた。アリステイデスとの確執を嘲笑うような、荒んだ笑い方だった。ファンダレオンは、アリステイデス本人から聞いたんだ。彼が言わせたのか、アリステイデスから言い出したのかはともかく、アリステイデスもまた決着をつけようとしていたのは確かだった。

 そんな、と、おれは呟かずにいられない。

 愛し、案じ続けていたなんて。今さら愛情の裏返しだなんて言われたってそんな!!

 カードラが脳裏に現れる。それが、ファンダレオンに定められた運命だとでも言うのだろうか、彼女は?

「まさか、今度のことも、それで?」

「伯父上は、テミストクレス殿の奴隷の中に手の者を送り込んでいた。計画は筒抜けだった。私が協力しようとしまいと殺意を持ったそうだ。息子に刃向かわれるならば、いっそ殺そうと」

 ファンダレオンの声は低く、乾ききっていた。彼は不憫な息子であるだけでいい、そんなアリステイデスの大人としての狡さが見えて、かっと身体が火照る。

 そんなの現実逃避だ! おれは我を忘れて怒鳴っていた。

「本当に案じてんなら、ずっと黙ってればよかったんだ!! 今だってっ!」

 アリステイデスが暴露しなかったら、ファンダレオンはもしかしたら奴隷制のことだって前向きに相談したりさえできたかもしれなかった。すべての可能性を、アリステイデスが閉ざした。それも、これ以上はないくらい残酷に。

 言わない方がいいことだってある。少なくともおれにとってこのことはそうだった。

「苛立ってばらしたってんなら、ファンダレオンが傷つくって知ってたんだじゃないか! 真実を武器にして、テミストクレスさまについたファンダレオンをねじ伏せようとしたんじゃないか!!」

「伯父上はずっと負い目を抱いていたのだろう。言わずにいられなかったのだ。大きすぎる罪を生涯抱えてゆくのは、辛い事だ」

「だったらずっと背負ってくのがアリステイデスさまの罰なんだ! 辛い思いならファンダレオンの方がよっぽどじゃないかっ!!」

「ルシアス……」

 おれを見返したファンダレオンの瞳は、青春時代を振り返る老人のような切ない蔭を孕んでいた。もっと何か怒鳴ろうとしてたのが、ふっと頭から言葉が消えてゆく。

「私も、昨日までそう思っていた。おまえがそう言ったように伯父上を憎み、恨みもした」

 ――えっ!?

 おれは息を呑んで見返した。

 それは初めての、いつも慎重なファンダレオンの直接的な感情の言葉だった。

「だが、陶片追放に遭ってもアテナイの平和を祈れる『正義の人』だったからこそ、その光と私との狭間で苦しんでいたのだろう。伯父上の罪は酔ったためで、……開き直れる立場だ。それを今まで悩んできたと目の当たりにして、もう、問わぬ事にした。どうにもならぬのだし、それに」

 ふふ、と、小さく笑い声を漏らすファンダレオンの表情が寂しげに和む。

「私はそれでも尊敬しているのだ。『どこでも正義の人と聞くから腹が立った』と、字を書けない者に陶片を渡されても黙って自分の名を書いてやり、都合よく許されてからも恨み一つ言わずに尽力した、それが伯父上の本質だから。そんなあの方を」

 元から憎みきれなかったのだ、とファンダレオンはまなざしで語った。

 おれは喉に詰まる嗚咽を必死にこらえた。尊敬してたからこそ傷が深かったんだ。ファンダレオンだって辛さと親愛の間で苦しんでたんじゃないか、と悲しくなったが、もう言えなかった。どうして殺されかけたのになお尊敬できて、相手の苦悩まで思いやれるんだろう。

 おれにはアリステイデスを尊敬まではできない。鉱山に陥れられたからじゃなくて、どうしてもファンダレオンに対する仕打ちが許せなくて。

 ――けど、行き場がなくなったマーレウスたちを引き取ったのは、考えてみればすごいことじゃないか?

 見張るって計算もあるだろう。でも、失敗して用済みになっても悪いようにしないのは、アリステイデスの良心や本来の性格の方が強いからだって思いたくなっていた。

 ファンダレオンが、そう言い切るから。

「ファンダレオン……」

「喉が渇いた。葡萄をもらうぞ」

 実際にファンダレオンはぶどうを食べたものの、この切り替えは絶妙だった。

「え? あ、うん……」

 それから彼が話し始めたのは、ラルアのことだ。

 彼女は、アリステイデスを守ってとかおれの知人だからとかいうのでなく、まじに巻きこまれてしまったせいという。刺客と示し合わせた時刻に床掃除をしてたせいで、アリステイデスばかりか女奴隷も無事じゃ怪しまれるからと手にかけられた。そう、床掃除は手を滑らせて壷を割ってしまったからで、やっぱり、どんくさかったんだ。そんなラルアが彼を庇ったことにしたのは、せめてもの償いだったのだろう。

 偽りの名誉なんか意味はない、今まではそういきり立ったに違いない。でも、アリステイデスは、彼だからこそ無意味でもそうせずにいられなくて、そしておれに謝った。どう疑われてもこの気持ちだけは伝える、きっとそんなけじめをつけたのだと、思う。

 ラルアをむざむざ死なせたのは絶対許せない。けど、おれたちが異民族で奴隷だって考えれば、奴隷の命も人間の命とちゃんと意識してるからすまなく思って謝りもしたんだと、それだけは認めてもいいと感じた。だからってラルアはもう二度と戻らないけれど……おれもまた、自分とファンダレオンの感情に挟まれている。誰かを怒り、憎みきれない。そんなきつい思いに締めつけられた。

「今は怒鳴らないのか?」

 うってかわって無言で聞き入ってたおれに、ファンダレオンが冗談混じりに尋ねた。

「――おれだって、本当は、憎みたくないんだ。アリステイデスさまを」

「ルシアス?」

「一度憎んだら、他が全部消えちゃう気がするんだ。おれもさ、やっぱり、無実を確かめてもらったのが忘れられないから……ファンダレオンのこととか、ラルアのことは許せないさ。許せないけど、でも……」

 言葉を詰まらせたおれに、ファンダレオンが目線で続きを求めた。

 他人の奴隷にも公正に接する人だって知ってるから、こんなことがなければって残念にさえ覚え始めてる。素直にそう答えると、ファンダレオンがおれの頭にそっと手をやった。

「……そうだな」

 今にも崩れ落ちそうで脆いぎりぎりの無表情が、一瞬だけふらりと揺らいだ。眉間に皺を寄せて、彼は深く深く息をついた。

「尊敬だけしていたかった。――伯父上は」

 それはおれにとっても、決して叶わない願いだった。ファンダレオンの伯父で「正義の人」。アリステイデスが普通なら尊敬に足る人だからこそ現実が痛くて痛くて、おれは知らずファンダレオンにすがりついていた。

 そして彼を見上げた瞬間、おれは息を止めてしまった。

「ファンダレオ……」

 その黒瞳が、濡れ、光る。

「この六年の区切りのような気がする、な」

 氷のように固い水面の下で感情が微妙に流動している、真冬の湖みたいな声と顔だった。

「ずっと憎まれていたと思っていた。だから親はいないと思っていた。だが、たとえ苛立ちや殺意であれ、それは父親としてだった。

 ――それでいいと、考えられるようになった」

 流れる涙を拭いもせずファンダレオンが微笑んだ。ふっ切れたような曇りのない清々しさが、逆に痛ましかった。

 こんな形でしか「親子」の繋がりを自覚できない、ファンダレオン……。

 うつむく姿がたまらなく切なくて、おれは話を変えた。

「おれもね、変わったんだよ。……鉱山にいたのは一日足らずだったんだけど、あれは、人間の生活じゃなかった。夜も交替で働かされて、鞭打たれて……おれも、ファンダレオンと一緒に戦おうって誓ったんだ」

 ファンダレオンの目が驚きに見開く。ちょっと誇らしいいい気分で、おれは胸を張った。

「その誓いがおれを救ってくれた。絶対に帰るんだって諦めずにすんでさ。おれ、何かあるとすぐにくじけて死にたくなってたんだけど、いつでも死ねる時になって目覚めたんだ」

 そうしておれは、ラルアの墓参りから残らず話した。クレリクスに叱られたこと、鉱山の待遇、知り合いのおじいさん……なんていろいろあっただろう。おれが改めて慨嘆するくらいだから、ファンダレオンに至っては呆然としていた。鉱山奴隷のひどさに驚いたか、それともおれがそんな体験や決意を身につけたのに驚いたのか、一言も口を挟まない。

「ファンダレオン」

 お互いに浅くない痛みを負って再会したからこそ、どうしても今伝えたかったんだ。

 おれたちは一緒に戦える、どんなことがあってもファンダレオンのそばにいる、と。神の容姿の美しさと人間の心の美しさを持っているこの人が、おれは恋愛感情と同じくらいに大好きだった。

 足を引っ張るばかりかもしれない。だけれど、せめて同じ理想を見つめていける。そう、彼に言いたかった。

「……おれは、『奴隷』って身分をなくしたい。『魂のある道具』なんて言葉を使われたくない。おれもヘラスと戦う。違う、おれは、ファンダレオンと一緒に戦いたいんだ」

 そう告げて締めくくってから、ファンダレオンはしばらく無言のままだった。

 けど、何か見知らぬものを対するようなぼんやりしたまなざしが、やがて、親しい誰かを出迎えるような温かい光を宿しておれに向けられた。

 そうか、とファンダレオンが嬉しそうに何度も何度も呟く。

「前は子供のくせにとからかったが」

 なんだか眩しげに瞳を細めて、彼はいきなりおれをその胸に押しこめた。

「それから数日しか経っていないのに、おまえはもう私の戦友になったのだな。まったく、オリーブもこんなに早くは実らないぞ」

 冗談ぽく表情をきらめかせて言った瞬間、真剣になったファンダレオンの腕に力が加わった。痛いくらいに抱きしめられてぎょっとなったおれの耳に、

「おまえに出会えて、よかった――」

 という彼の最高の台詞が滑りこんできた。

 うん、おれもだよ、ファンダレオン……!

 大好きな人に認められた満足と幸福感に、おれは自然と目を閉じる。どんな予言がされてても、この広い世界でこの人にめぐり会えたことだけは運命の女神たちに無条件に感謝した。どんな嵐が降りかかっても。そう感じたのは、予感だったのか怯えだったのか。

 が、それから半月は静かに過ぎ去った。



 風が冷たく湿り、夜が肌寒くなってゆくのに比例して具合が快復していたファンダレオンが、ようやく復調した。

 全快と言えないのは激しい運動はやめておけと医者に言われたからだ。けど、包帯は取れたし杖を使わずに動けるようになった。

 おれは九日くらいで全快して、だけど外出は控えさせられたため所有地の畑で山羊の乳をしぼったりしてた。おれが出かけると必ず何かあるから回復するまで出歩くな、というファンダレオンのありがたい配慮だった。その通りなんだけど、露骨すぎないか。文句を言うと、みんなに当然だと一斉に怒られた。

「わかってないの!? ファンダレオンさま、アドニスを本っ当に大事に思ってるんだよ!」

 おれだって疑っちゃいないけど――そんなこんなで、ようやくファンダレオンと一緒にほぼ一月ぶりにアゴラに出た。もうすぐ雨季に入るからかこの頃は曇天が多いが、今日も雲が垂れこめている。ファンダレオンは特に久しぶりで、まあ声のかかることといったらない。一人に挨拶して五歩と行かないうちに別の人が「具合はどうか」と訊いてくるんだ。

 もてまくりだね、と、おれがからかうとファンダレオンが人の悪い笑みを浮かべた。

「おまえも事件に愛されているだろう」

 好意ある、でも突っかかりだった。相変わらずの毒舌合戦ののろしである。なまじ心を許し合ってしまったから、互いに遠慮や容赦なんて美徳はちっとも残っていない。

「幸福に嫌われてるよりはましだよ」

 おれが憮然とすれば相手が肩をすくめる。

「どうだか。愛されすぎていて、いつかこちらまで大変なことになりそうだ」

「なんだよそれ。おれたちは一心同体なんだから、おれの事件はファンダレオンの事件だろ。今さら他人事って顔しても遅いんだ。おれは絶対ファンダレオンについて行くからな」

「それは困る。やっと治ったのに」

「いいじゃないか。病気じゃなくてけが」

 なんだから、そう反駁しようとした一瞬、おれはぎくっと背筋が震えていた。

 いつかこちらまで大変なことになりそうだ。

 ただの毒舌として受け流すには、おれには余りにも重大な心当たりがある。脳裏にある、いや脳裏から消えないのは「予言」のことだった。おれの「運命」は、ファンダレオンたちをも巻きこむのだろうか。それとも既にもう巻きこんでしまってるのだろうか。クレリクスたちとも全然会わないし何も起こらないしで、不安が積み重なっていた。

 だから、なにげない言い合いでおれは簡単にびくついてしまう。

 このまま平穏であってくれ、いや逆にはっきりしてくれ、相反する願いに今もおれの心が軋んでいる。ファンダレオンには、怖くて話せないままでいる。戦友として負担になりたくなかったから。

 そして、一昨日に……アゴラで、アリステイデスに会ったことも。



 おれはやっぱり、アリステイデスにじかに会いたかった。ラルアのことを、そしてマーレウスのことをあの人の口から直接に聞きたかったんだ。その機会を逃すことができなくて、おれはあの人に声をかけられても避けることができずに言葉を交わした。

 アリステイデスはどこかやつれたようだった。

『久しいな……』

 ファンダレオンが話したのか、と、彼はおれの顔色から悟ったのか寂しそうに告げた。

 おれは何を言おうか迷って、結局は、

『ラルアが、好きでした。おれは』

 と、なんだか関係のあるようなないようなことを、口走っていた。すべてを覚悟しておれに対面しているに違いないアリステイデスの面に、圧倒されたのかもしれない。

『わたしも、気に入っていた。死んだから美化しているわけではない。おまえと初めて会った時――おまえがファンダレオンに仕える「ルシアス」だと知った時、ラルアが言っていたのはおまえの事と思った。だから、おまえが迎えに来るというならそれまで大事にしていようと、していた』

 衝撃に息が詰まった。聞かなければよかったほどの言葉に、おれは身震いしながら頭を振っていた。

 ラルアを、そしておれのこともそこまでも想っていてくれたなんて。でも、ラルアはただ一人の犠牲者になってしまった。たった一人、あの墓の下に。ああ、本当に、本当に尊敬だけ、できたならっ!!

 アリステイデスが、おれの返事を待たずに言を継ぐ。

『すまなかった。わたしはいつもそうだ。大事にしようと決めた者に限って、失わせてしまう』

『アリステイデス、さま……』

 ファンダレオンも大事にしようとしていたのかとおれは訊きたかったけど、訊けなかった。大事だからこそ、愛していたからこそ、サラミスでは憎まずにはいられなかった……そのことを誰よりも悔やみ、傷ついているのは他ならぬこの人だと、低く沈んだ声が何よりも語っていた。

『ファリーンは、美しかった。輝いていた。わたしの弟の……わたしと同じ顔の、隣で』

 「ファリーン」がファンダレオンを産んだ悲運の女性の名前なのを、おれはこの時は知らなかった。でも、訊ける雰囲気じゃなかったし、その言葉でファンダレオンのお母さんのことなんだろうって想像がついたから、黙っていた。

『よく似ている。サラミスの頃は、特にそうだった』

 アリステイデスのまなざしがふっと揺らいで、だけどアリステイデスはおれを見てなかった。

 似ているっていうのは、ファリーンとファンダレオンのことだろう。今アリステイデスが「見て」いるのは、きっと、サラミスにいたファンダレオンだ。よく似てたから、だから憎んだっていうのだろうか。この人はそうやって傷つけたファンダレオンばかりか、おれまでも殺そうとした人だったはずなのに、おれはなぜか……慰めたいと、思ってしまった。

 たとえ悪意であっても暴力であっても、アリステイデスが凶刃を生み出してしまったのは、悲しみとか無念からなのだろう。だったら何をしてもいいというわけじゃない。だけど、人目があるアゴラだというのに感情を露わにしているこの人の信じられないくらいの脆さを目の当たりにすると、おれも他に何を言うことはないと感じてしまう。ファンダレオンもこの姿を目にしたから、「父親としてだったと思うことに」したのかもしれない。

 この人は、充分に心を痛めている。そう思ったから、おれももういいって気がしていた。おれにもファンダレオンにも叶えたいものと越えるべき戦いがあって、そこにはアリステイデスへの憎悪は必要ではないから。拘泥しても切なさが重なるだけでどうにもならないから、この人とのことは越えていける思いが、した。

『ファンダレオンは、おれが守ります』

 安心して欲しいと言外に告げたつもりだった。

『ルシアス』

『おれにも、大事な人ですから』

 アリステイデスは、表情を辛そうに歪めた。

『――頼むなどと、わたしに言えた義理はない。あれを見張る代わりにおまえを鉱山奴隷に落として欲しいと言ってきたマーレウスに、協力をしたのだからな』

『でも、あの鉱山があったからこそおれは、……ファンダレオンを守りたいんです』

 あの地獄があったからこそわかったことが多い。今は全部いい意味で考えようとした、というよりおれは楽観的なのかそういう風にしか感じられなかった。

 だからおれは、

『頼む。ファンダレオンを』

 と、アリステイデスが言った時に即座に笑顔でうなずくことができた。ファンダレオンがそれでも尊敬しているのと同じにアリステイデスもまたファンダレオンを愛しているんだと思うことが、できるから――。

「ルシアス? どうした」

 ファンダレオンの怪訝な声に、はっと我に返る。

 隠し事があるってばれたかな? 心配したけれど、そんな感じではなかった。まあ、言わなきゃいけないような時に言えればいいことだ。ファンダレオンだって、マーレウスのこととか全部話してないこともあるんだから、おれは一種のおあいこだと考えることにしたのだった。やっぱり心のどこかでは後ろめたいというかためらいがあるからだろうけども。

「え、う、ううん、もうすぐディアシア祭だろ? アテナイってずっと祭ばっかりだからさあ」

「確かにそれはそうだ。私はアテナイ育ちだからそれが当然のものだが」

「ま、まあね。おれ、ああいう雰囲気苦手だし……」

 ディアシア祭はゼウスのためのもので、来月三月(九―十月)には他にも大地の女神デメテルを祀るエレウシニア祭などもある。今月だって三日にわたる枡の祭を始め祭ずくめだった。ごまかしではあれ、嘘じゃない。

「準備を考えて嫌になったか」

「犠牲の、あの血の匂いを嗅がずにすむ祭って、ないのかなって思うよおれ」

 各家庭には必ず神々に犠牲を捧げる祭壇があり、時と場合で豚や牛や犬やと違えども殺すのは同じだ。何かあれば祭りをやって犠牲を捧げる、それはヘラスで共通だそうだった。

 しかしな、とファンダレオンが瞳を細めた。

「それだけではないようだ。さっきそこで会ったガリュニスに聞いたが、どうやら、来月始めにオドリュサイから使節が来るらしい」

 オドリュサイ!? 

「オドリュサイ、って、あれだよね? ペルシアに従わさせられたトラキアの……」

 おれは目を丸くしていた。思いがけない名前だった。

「それも、かなり身分の高い者がいるそうだ」

「もしかしたら、……貴族以上ってことも」

「ありえるな。友好関係を築くのが目的だというから、相当の身分なのは間違いない」

 友好関係もなにも、六年前にも戦ったオドリュサイ王国――復興して発展の一途を辿るアテナイの機嫌を取ろうってわけかな。尋ねると、ファンダレオンがおれの推測を裏づけた。

「ヘラスにとって、異民族とはいえ仲良くする価値はある。トラキア沿岸のポリスを圧迫しているし、地域的に対ペルシアの壁にもなりうる。邪険には扱えないだろうな。向こうも、ペルシアが圧迫してきた時の後ろ盾にしようと考えているだろうが」

 どちらがより利用するか見物だな、と、彼は不謹慎なくらいとてもおかしげに呟いた。

 さすが頭が切れる人の言葉は説得力があった。この辺でペルシアを撃退したのはヘラスだけだし、アテナイがその中心だ。なるほど、互いにもしものための布石ってわけか。

「なんか、今も戦争が続いてるみたいだね」

 ファンダレオンがすまして応じる。

「戦争は、実は軍隊が戦うまでが勝負なのだ」

「戦術より戦略ってこと?」

「おまえは本当に飲み込みが早くて嬉しいぞ」

 嬉しそうに思えないいつもの冷静な声音でファンダレオンが褒めてくれた直後だった。

 あっ、とおれはつい声を投げていた。どんな人垣の中にいても、この人だけは絶対すぐにわかる。テミストクレスが奴隷を連れて一直線にこっちに歩いてくる。帰ろうとした矢先に、とファンダレオンが本当に嫌そうに舌打ちした。

「ファンダレオン、傷は治ったのだな」

 行く手を遮るように立ちふさがって、例の豪快な大声で訊きながら破顔する。不思議だ、とおれは改めて感じた。結構陰険だし態度もでかいのに変に厭味がないんだよな。やっぱり天性かと羨ましくなると、世間話もそこそこにオドリュサイのことを口にしてきた。

「実はだな、ファンダレオン。その使節を出迎える時にわしのそばで出席してもらいたいのだ」

 その申し出にはおれも度肝を抜かれた。

 ファンダレオンも意外だったのか、ご冗談を、とぽつりと言い返すだけだった。

 無論、そんなんで引っこむテミストクレスじゃない。

「おまえが公事嫌いなのは承知しておる。ただ、わしの横で微笑んでその美貌でトラキアの山狸どもの目を奪っていればいいのだ。それに、王室の女性もやってくるそうだからな」

 承知してるからには何がなんでも諦めないんだろうなあ。おれと同じ思いだろう、ファンダレオンがため息をついた。

「それで、テミストクレス殿が私とその女性の仲人となられるのですか」

「いや、相手は夫持ちでな。とりあえずアテナイに美しい男がいる、と自慢したいのだ」

 テミストクレスは悪びれもせずに暗に認めた。げっ、相手が独身でさえあったら絶対にその気だったんだ! それに、自慢ったって、ファンダレオンの自慢は彼を連れてるテミストクレスの自慢にもなるんだよな。つくづくの老獪さに、おれは呆れる気も湧かなかった。

 この人、本物だよ。おれとしては今度はファンダレオンの返事が見物になったけど、なんとあっさりと承知した。

「私の顔などでよろしければ」

 すっごく棘がある言いようでびびったが、テミストクレスは動じず上機嫌に高笑いした。後でなんで承知したのか訊くと、断りきれなそうだということだった。まあ顔だけだし、第一、顔じゃ他に代わりもいそうにない。それで渋々うなずいたんだろう。

 ファンダレオンの絶世の美貌にトラキア人がどう反応するか、心配なのと同時になんだか楽しみな気分がした。結局、この人はおれにとっても自慢の主人で、……ちょこっとだけ、テミストクレスの気持ちがわかる。

 それから、ファンダレオンはおれを連れておとなしく打ち合わせなどに出ていたが、饗宴で結婚をほのめかされるのだけは辟易してるようだった。ごまかしの天才みたいな彼の困りきった姿が妙におかしくて、からかっては撃退される毎日が流れた。

 でも、一度も勝てなくてよかった。こうして平和なら。いつまでもこのままだったら。

 幸せと淡い不安が胸を占める中、そのオドリュサイ王国からの使節が無事アテナイに到着したのは三月に入ってすぐだった。

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