無限の扉に向かって・上

「ルシアス!」

 引きつけられるようにして最初に見たのはファンダレオンだった。

 ものすごく顔色が悪い、いやもう今にも倒れそうなのが不思議だ。なんでそんな、こっちまで辛くなるような顔をしているんだろう。おれは一瞬、戸惑って視線を泳がせてしまった。

 いつも寝起きしている奴隷用の部屋だ。周りにはアレウシアたちもいて、サラディなんかはもうぼろぼろに泣いていた。そんなサラディを見てようやく、おれは寝ぼけていたんだと悟った。

 たまらない懐かしさが胸を衝く。

 おれは、……この懐かしく温かな場所から鉱山奴隷に陥れられていたんだ。

 二日間の余りにも長くて長い戦いは、おれを陥れた人たちだけでなくおれ自身とのそれでもあった。あの絶望的な逆境の中で様々なことを感じた。死ぬこと、生きること、何ができるのか、何がしたいのか。死にたいと心底から願った。死ねないなら生きろと叱られた。無惨に死んでいった人を見た。

 そして、夢を、あの死者の国から持ち帰ってきたんだ。

 ファンダレオンのところに絶対にもう一度帰って、そうして……だんだん、おれの視界が滲んできた。だけどどうしても会いたかった彼だけは、はっきりと見えて。

 ほっと緊張の抜けた表情で、そのファンダレオンがおれの頭を何度も何度も撫でる。

「随分と遅い帰りだったな、ルシアス」

「ファンダレ……」

 言いかけて、はっと驚く。声が、出る!

 思わず喉に手をやったおれは、いきなりファンダレオンの腕に毛布ごと抱きすくめられた。

「……無事で、よかった……」

 強い力にずきりと背中が痛んだが、そんなのはすぐに気にならなくなった。

 この人がこんなに震える声を出すなんて……今でさえこんなにも心痛をかけさせてしまっているんだ。ああ、やっぱり生きて帰らなきゃいけなかったんだおれは。

 全身から力が抜けた。じわ、と涙があふれる。怒りとは別の熱さが生じて、全身に広がってゆく。

 ファンダレオン、ただいま。

 帰るべき場所に帰れたんだという万感の思いをこめて、おれは彼の首に手を回した。

「ファンダレオン……ファンダレオン……」

 帰ってこれた、運命の扉が本当に開いてくれたんだ。

 話したいことがたくさんたくさんあるってのに言葉が浮かばない。また会えたから、だから何もできなくなるんだ。おれはただただ、ファンダレオンにすがりついて泣きじゃくるばかりだった。

 すると、不意にファンダレオンがおれをそっと引き離した。

 驚いたおれに顎をしゃくる。戸口にクレリクスと、あの意識を失う寸前に出会った女の人が立っていた。着替えたクレリクスの姿は見違えるほどに逞しく、かっこよかった。

「おまえに話がある、と、今まで待っておられた。私たちは席を外すが、何かあったら呼べ」

 ファンダレオンが腰をあげると他のみんなもそれにならう。けど、アレウシアとサラディだけは戸口でふと振り向いた。目尻を拭いながらおれが笑いかけると、二人は心配したんだからという風にちょっとむっとなり、でも微笑み返してくれた。

 それと入れ替わりにクレリクスたちが入ってくる。

 おれが助けてもらった感謝の気持ちを伝えようとする前に、

「あれからずっと寝ていましたね。ご気分はどうですか?」

 と、女の人が言った。すごく澄んだ声で、着てる白い長衣にとてもふさわしい。

 そういえば、この人は何者なんだろう。クレリクスは味方だって言ったけど。

「あ、あの、ええと」

「はい? なんでしょうか?」

「あなたは……」

 そういえば自己紹介しておりませんでしたわね、と彼女が涼やかに独りごちた。

「わたくし、カードラと申します。そして、デルフォイの巫女ピュティアでもありますわ」

 おれはぎょっと目を瞠った。

 デ、デルフォイの巫女だって!? カードラと名乗った人が一生に出会うかどうかって存在だと聞かされて、おれはびっくりして絶句してしまう。

 デルフォイはアテナイから北東、フォキスのパルナッソス山の近くにあり、ここはアポロン神と特に関係が深い。

 アポロンの父はゼウスで、この方はいろんな女の人に手を出すうえ后の女神ヘラが嫉妬深い。アポロンの母「黒い衣のレト」は、つまり愛人ってことになる。それだけでもむかつくのに「レトが産む双子が一番輝かしい」と自分の子供を差し置いて予言されたもんだから、何がなんでも産ませるもんかと呪いをかけたうえ、ピュトンという大蛇まで送りこんだ。「日が照ったことのある場所では産めない」という呪い、これはゼウスが海の中に漂っていた島を引き上げて解決した。ピュトンの方は、島の周りに岩礁を投げこみ、その間に鮫を放って防いだ。

 そうしてようやく産まれたのがアポロンと妹で月の女神アルテミスの双子で、その島があのデロス島。だからあそこにアポロンの神殿があって、その聖地というわけだった。

 で、話には続きがある。

 無事に成人したアポロンの最初の仕事が、このピュトンへの復讐だった。今のデルフォイはポリスだけど、元々「デルフォイ」はパルナッソス山中腹にある洞窟群のことを指す。アポロンは洞窟の一つにピュトンを追いこみ、金の矢で射殺した。この戦いを記念してデルフォイのアポロンの巫女は「ピュトンの娘たち」と呼ばれている。

 そして、アポロンは音楽や予言なんかも司る神だから、巫女は予言をするようになった。これが有名な「デルフォイの託宣」だけど、実に出たとこまかせっていうか読み方次第らしい。

 ペルシア戦争でペルシア軍がついにアテナイ占領って時、神の聖域に立てこもった人たちには貧しくて避難できなかったほかに、別種類の人がいた。

『木の砦は不落なるべし』

 と、いう託宣を「木の柵を立てておけば自分たちが救われる」と解釈した人が。

 当然、彼らは救われなかったさ。でも、テミストクレスはこれを「木造の三段櫂船」として海軍を増強し、みんなを救った。結局は頭の使いようなんだよ――ファンダレオンに教わり、そう不信心に答えたおれである。その巫女当人が、このカードラだというのだ。

 や、やばいなあ、とすっごく冷汗をかいたおれに、カードラがやんわりと続けた。

「巫女といえども同じ人間ですわ。硬くならなくてもよろしいですわよ」

「は、はあ……すみません……」

「謝らなくてもよろしいのに」

 彼女の方がすまなそうになる。穏やかで疑いもない言葉に、心臓がちょっと痛かった。

「声の方もすっかり治っていますわね。よかったですわ。精神暗示なので喉は無事でしたし」

 ええ、とクレリクスがうなずく。喋るのに支障はありませんかと重ねて尋ねるカードラに頭を振りながら、精神暗示、とおれは思わず呟いていた。

「下手に薬を使ったり喉を傷つけたらあなたが死んでしまうから、かもしれませんね」

「え、でもだったらおれを殺した方が」

 クレリクスに言いかけ、はっとなった。

 マーレウスはあんなにもおれを憎んでる。けど、おれのせいでファンダレオンが苦しむのも嫌がってたから、最初は鉱山に送りこむだけで全部うやむやにしようとしたのかもしれない。ファンダレオンでもわかりはしない、って自信満々に言い切ったくらいだから。

 だけど、ファンダレオンが自分そっちのけでおれを案じるから逆上して、それで、殺しに来たんだ。

 マーレウス。おれを殺すのも失敗して、今はどうしているんだろうか。

 いや、どうなったのだろうか。多分、クレリクスたちが彼を取り押さえて一緒に連れ帰ったに違いないんだ!

 おれは身を乗り出していた。

「あの、マーレウスは……マーレウスは!?」

 クレリクスの表情が苦く歪む。

「あなたを殺そうとしていた、あの人ですか」

「そう、そうだよ。今、どうしてる!?」

 食いつくように叫んだ瞬間、くらりと頭がふらついた。クレリクスに抱きとめられても、おれは瞬間的に見上げる。彼はすっと目を細めていた。おれを殴打したからか、そのまなざしは好意どころか嫌悪感が露だった。

 でも、クレリクスの返答を聞いた途端にそんなものはおれの意識から吹っ飛んだ。

「アリステイデスどのの許にいますよ」

「え……っ!?」

 おれの全身が強ばった。

 まさか、いややっぱりマーレウスの後ろにはあの人がいて、今は掌を返したようにおれを殺そうとしたんだろうか。アリステイデスって、き、聞き間違えてないよな。今まで疑ってたはずなのに、おれは裏切られたみたいな衝撃を覚えてしまった。

 でも、だけど、信じたくない。やっぱり、信じられない!!

 勝手に決めつけたらだめだ。誰か、誰かにちゃんとした話を聞いて、そうだ――ファンダレオン、ファンダレオンなら絶対にすべての疑問に明快に答えてくれる。

 おれは反射的にクレリクスから身体を引きはがしていた。

「ルシアス?」

「おれ、ファンダレオンに訊いてくる」

 ぎょっとクレリクスが目を見開く。

「ルシアス!」

 そのまま立ちあがろうとしたおれの手を、クレリクスがつかみ止めた。

「待ちなさい。あなたの気持ちもわかるつもりです。ですが、まだこちらの話は終わっていないのですよ」

 鋭い声で叱られて、おれはばっと再び毛布の上に座り直した。

「ご、ごめんなさいっ」

 すぐに情けない気持ちで一杯になる。この人たちのおかげで助かったのに、話どころかお礼もしないで行こうとしてしまった。おれってどうしてこう馬鹿なんだろう。うつむいたおれに、でもクレリクスは優しいまなざしを向けた。

「あなたは、本当に真っすぐなんですね」

 カードラが微笑ましげに返事した。

「託宣の通りですわね。純粋な心の主で」

「『託宣』?」

 何だかどきりとして、おれは身を固くした。彼女の言葉からすると、まるでおれが巫女の託宣に出てきてるみたいじゃないか。

 二人が理解者の笑顔でうなずき合ってるのが奇妙に怖くて、おれは恐る恐るに尋ねた。

「それが、……クレリクスたちの話?」

 ええ、とカードラが明るく首肯した。

「あなたが生まれる前に神託が出たのです」

「しんたく?」

「巫女の予言は『神託』とも呼ばれます。神から巫女に託された言葉、という意味ですわ」

 そういえばそんなことも教わったような覚えがある。でも、いきなり神話の世界に放り出されたようで気味が悪かった。内容はともかく、生前からおれの予言があるなんて、すぐには信じられない。そんな、おれが迎えた今までの出来事は必然だったとでもいうのか? そんなことを当たり前のように告げるカードラが、突如として怖くなった。

「これからあなたに新たな嵐が降りかかることでしょう。いいえ、降りかかるのです」

 淡々と、それが事実みたいに彼女が続ける。

「けれども、このわたくしとクレリクスはあなたの味方です。そう定められているのです」

 背筋がぞっとした。定められている、という不気味な言い方は、たとえデルフォイの巫女の言葉だとしてもどうしてもまともには聞こえなかった。

「それって、神、に?」

 おれは神に運命を定められてるのか? 驚愕に、おれの声がすかすかにかすれた。

 カードラがおれの手を取り、強く握った。

「そうです、運命の女神たちモイライに」

「女神……」

「嘘ではありません。ですから、これからなにが起ころうと心を強く持ち続けてください」

 彼女は断言した。何一つ疑わない真摯で熱烈な表情に、おれは呑まれて絶句する。台詞にも増して強烈な態度だった。巫女として神の声を聞いたらおれもこんな風に「託宣」を信じきれるだろうかと、麻痺した心で自問する。答えは、出なかった。

 じゃあ、巫女じゃない、神の言葉なんか聞けないクレリクスはどうだろう?

 ふっと浮かんだ疑念のままに見つめると、彼はおれの不安をなくすように答えた。

「あなたは素晴らしい方です。運命だからではなく自分の意志であなたをお守りしたい、心の底からそう思っています。美しく誇り高い、ただ一人のわたしの主――」

 そうしておれに近づき、いきなり抱いて頬に口づけてきた。熱い唇の感触にびっくりして身を引くと、二人は話が終わったとばかりに帰り支度を始めた。なんか言いたいことだけ言って満足したようで、おれの驚きや戸惑いなんか頭にないみたいだ。

 それでは、と、カードラが優雅に礼をした。

「どのような形で『嵐』が降りかかるのかはわかりません。ですから今はこれしか伝えられませんが、どうか覚えておおきくださいませ」

「早く怪我が治るよう祈っていますよ」

 クレリクスにそう気遣われた途端、思い出した。

 あっ、お礼を言わなきゃっ! もう踵を返そうとしている二人に向かって、おれは慌てて声を張りあげる。

「あ、ありがとうございましたっ、助けてくれて――っ」

 はた、と彼らの歩みが止まる。

 肩越しに振り返られた時、おれはなんとなく返事がわかったような気がした。二人は直接には何も答えなかったけれど、ただ、目の色でこう言われた気がした。それが当然なのだから礼などいらないと。彼らの絶対的な意識に、おれは改めて恐れさえ覚えていた。

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