死者の国・下

 その晩、今度はまた奴ら三人にまとめて犯された。三人は主人格の監督官で、奴隷をどうこうしようが自由らしい。名前はいちいち覚える気にならないけど、面はばっちりだ。夜明け前まで責め立てられ、いつか目にもの見せてやるからな、と思いながらおれは帰り道を歩いていた。

 空が白みかかってるから星は少ないが、空気は最高だった。そして、見通しもいい──ここの監視状態を調べるにはうってつけだ。呼び出されての朝帰りだから、うろついてても咎められはしない。

 おれはここを脱走するつもりでいた。マーレウスの言うように誰も助けてくれないなら、自分でやる。それだけだ。そのためには全てを最大限に利用するしかない。そして、おれが最後に生き残る! おれはわざと奴隷小屋の前を素通りし、門の方へ向かった。

 散歩だ、散歩、と心の中でうそぶきつつ、石ころだらけの地面をじゃりじゃりと踏んでいくと、出口が見えた。

 その向こうの地平線が赤く輝き始めてる。いくつかある鉱山の中でアテナイ自体にあるものは皆無。とするとここはアテナイから西方面なんだろうけど、困ったな、鉱山は有名ものしか知らない。南にあるラウリオンとか……でも、ここがアッティカとはわかる。マーレウスが来られるんだから、アテナイから遠いはずがなかった。だったら逃げきれないことはないだろう。

 問題は、見張りどもだ。おれは木陰にさりげなく隠れて見渡した。

 衛兵は背に弓矢を負っているスキタイ人ばかり、それが門と境壁に十数人もいる。門前には馬が五頭ほど繋がれていた。スキタイ人は弓持ちをやる他に、民族的に弓が得意で騎射もできるから逃亡した鉱山奴隷の追手には最適だ。おれは舌打ちした。最低でもあの馬をなんとかしなきゃ、逃げられても射殺されるに違いない。

 それに、結構な高さがある門と境壁もあった。まさかぶち破れないし、よじ登るのも目立っちまう。門を開けるよう仕向けられたらいいが、妙案は浮かばなかった。あんな食事じゃ体力も衰えて一日ごとに不利になるだろう。

 考えることが多すぎて、なんか頭が痛くなってきた。おれも翼が欲しいよ、ラルア。

 でも、脱走できなきゃおれは死ぬ。おれを守れなかったという傷をファンダレオンにも負わせてしまうんだ。そのことが、奴隷のために命を懸けてる彼にどれほど打撃になってしまうだろう。だから絶対に負けられなかった。

 そんな時、突然おれは腕を引かれた。考えてることが考えてることだったから、心臓が暴れ出す思いで飛びあがってしまった。

「おはよう、ルシアス。散歩ですか」

 振り向くとクレリクスが微笑んでいた。うなずくしかないおれに、彼が続ける。

「生きる気に、なりましたか」

 質問というより、確認のようだった。おれの顔色ってそんなにわかりやすいのかな。

 不意に、クレリクスが声を落とした。

「もう少し闘争心を隠しなさい。……その輝きは、わたしの目にも眩しすぎますよ」

 えっ、と、おれの双眸が見開く。読まれてるのか!? 思わず跳び退ったおれに、クレリクスはなぜか満足そうな表情で応えた。誇りにさえ感じてるような気高ささえ宿らせて。

「わたしはあなたの味方ですよ、運命に愛されたルシアス。やはり、わたしの目に狂いはなかった……よく、一日で立ち直りましたね」

 辛かったでしょう、と言われて、おれは頭を振った。今のおれには「死」こそ一番辛い。

 クレリクスが怪訝そうに首をかしげた。

「ルシアス?」

 そんな彼におれは改めて近づき、笑いかけた。声が相変わらず出ないから、耳の遠い人にするように大きく口を動かして告げる。ありがとう。おれはその手を取って口づけた。クレリクスが叱ってくれなかったら、きっと諦めてしまってたんだ。

 ……もしかしたら運命に愛されてるのかも、と急に感じ始める。

 そういえば、おれには必ず、助けてくれる誰かがそばにいてくれた。

 ラルア、ファンダレオン、アレウシア……ああ、おれは不幸せなんかじゃない。簡単すぎ身近すぎて今まで気づけなかったんだ。

 みんなに会いたい、もう一度会いたい。おれの瞳から、こらえきれずに涙がこぼれた。

「ルシアス……」

 あなたは眩しすぎる、クレリクスが笑った。

「強靭で、純粋で、しなやかで……きっと、皆あなたを愛さずにはいられないでしょうね」

 おれは仕草で否定した。マーレウスは、半ばファンダレオンを裏切ってまでおれを陥れるくらい、おれを憎んでおれの死を望んでる。

 マーレウスは確実に真犯人を知っていて、接触しているはずだった。でなきゃ「話はついている」とか「見張る」だなんて台詞は出ない。

 多分こんなことじゃないか。どうやってか真犯人に接近したマーレウスは、ファンダレオンの動きを見張る代わりに真犯人に手を引かせ、さらに目障りなおれを自分の奴隷として鉱山に送りこんで死なせるようにさせた。おれがファンダレオンの奴隷とばれないように声を奪って。そうだ、じじいの一人も「おれを貸したあの方に感謝する」みたいなことを言った。

 つまり、おれの今の「主人」こそ真犯人なんだ! それはここを逃げてからマーレウスに吐かせればいい。彼はファンダレオンのそばでなきゃ生きられない立場だから、おれが帰れればどうにかなる。

 とにかく今は……そうだ、クレリクスに何か訊いてみよう。彼は若いけどおれより大人だし長くこの鉱山にいるはず、と、おれが口だけで喋りかけようとした瞬間、

 おれは我が目を疑わずにいられなかった。

 門がいきなり開いたんだ。しかも、決死の形相で走りこんできたのは当のマーレウスだった。手に角材を握りしめて。おれはつい身を引いた。が、クレリクスの陰に行きかけた途端、運悪く目が合ってしまった。

 マーレウスは剣呑な顔をした。そこに生きていやがったのか、という感じに目をぎらつかせて、ずたずたと迫ってくる。おれはびっくりする余りに動けなかった。彼がおれに用があるのは明らかで、大体、今おれに会いに来るのは妙だ。生死を確かめるにしても、まだたった一日しか経っていない。

 何か、あったのか? 疑問を覚えるうちに、息を切らしたマーレウスが眼前に立った。

「ルシアス」

 突き刺すような声だった。どんな事情があれ、おれを助ける気にだけはなってない。

 いや、むしろその反対のような。と、マーレウスがいきなりむんずとおれの手をつかんだ。

「……来いっ!」

 おれを庇うように動くクレリクスを完全に無視して押しのけ、マーレウスは門の方に戻り出した。無論おれを引きずって。目を白黒させながら、それでもおれは抵抗しなかった。

 もしかしたらこのまま出られるかもしれない、そんな気がしたから。そうして、予想通り衛兵たちはおれたち二人を咎めもしなかった。こんなに簡単に出られるなんて、何が起こるかわからない。

 でも、かえって嫌な予感を覚えた。マーレウスの血走った表情がどこか脆く危うく見えて。おれは声をかけられないしマーレウスは何も言わないしで、ものすごい勢いで走らされてる今はなんともわからない。けど、彼が急に殺したいおれを鉱山から連れ出したってことは、何かの不都合が生じてすぐに殺したいんじゃないか。たとえばファンダレオンがここを突き止めたとか……あの人の頭の切れは半端じゃないから。

 希望を持つと同時に背筋が寒くなった。走り続けて足が痛いとか呼吸が苦しいとかさえ消えた。その角材でおれを、殴り殺すのか? 道からかなり外れた岩場で、マーレウスの足が止まった。おれを振り返る。そこで突然おれを殴り倒した。

「……なんで、おまえなんだよ」

 なんで、って、おれの方が訊きたいよ。身体を起こそうとすると背中に角材が打ち下ろされた。

 首をめぐらせて視線を向ける。怒りか憎しみのせいか、マーレウスは震えていた。

「ファンダレオン様は、お食事も睡眠も取られない。まだまだ養生が必要なのに、おまえなんかのためにお心を痛めて……そんなことまでお忘れになってるんだ! 口に出されることといえばおまえの名前ばかりだ。ルシアスは見つかったか、無事だろうか、ってな!」

 殴られた激痛に苦悶するおれを仰向けに蹴り転がし、マーレウスは馬乗りになっておれの首に両手をかけてきた。

 慄然と、おれは悟った。だからおれを殺すんだ、ファンダレオンのために。

 反射的に手をどけようとしたおれを押さえつけて、マーレウスが残酷な笑みを浮かべた。

「さっさとこうやっておけばよかったんだ」

 マーレウスの指が、首にねじ入れられてゆく。息が苦しい。視界が次第に霞み始めた。

「そうしたら、あの方はほんの数日悲しむだけでいられるんだ。おまえさえいなければ、僕がおまえの死体を『発見』してくれば──」

「………っ」

 冷たい、そして嬉しそうな声音におれはさらに抵抗した。

 死ぬわけにはいかない。今でさえそんな不健康な生活を送ってるのに、おれが死体で帰ったらファンダレオンはきっと一生苦しんでしまう! おれは渾身の力でマーレウスの腕に思いっきり爪を立てた。

「つっ!」

 指が緩んだ一瞬、おれはもがいてはね起きた。ぐっ、と息が大量に入って咳こみながらもおれは逃げ出した。どこへ? 太陽のある方角へ逃げれば、きっとアテナイだ!!

「ルシアス──っ!」

 恐ろしいほど怒気に満ちた叫びを背に、おれは目眩を覚えつつ走った。

 足音が追いかけてくる。気のせいか、どんどんその音は大きく高く聞こえた。だめだ、追いつかれたら、と、おれは必死に地面を踏んだ。疲れで疼く脇腹の痛みが、全身に響いた。皮肉といえば皮肉だった。マーレウスはファンダレオンのためにおれを殺そうとし、おれはファンダレオンのために生きようとしている。彼を大事に思ってるはずのおれたちがこんなにも立場が違ってしまうなんて、と悲しくてたまらなかった。

 たとえおれが生き延びても、もうマーレウスとの間のひびは元に戻らない。おれが生き残ればマーレウスは破滅する。彼が共犯と知ったらファンダレオンだっておれを庇うだけじゃきっとすまないし、それを知らせずにこの事情を説明するのも無理だった。

 が、それでも逃げきらなきゃいけない。おれもヘラスと戦うと決めた。だから殺されるわけにはいかないんだ。

 苦しい思いで自分に言い聞かせた途端、不意に足がもつれた。

 がくり、と身体が大きくよろめく。何か固いものが足に当たった。た、倒れる! 受身を取るのと同時に、おれは平板のようにばたりと叩きつけられた。

 ずしん、と全身に鈍痛が広がった。頭は打たなかったがくらくらする。

 早く、走らなきゃ……むくりと上半身をあげた瞬間だった。

 おれは大きくのけぞっていた。足首が、灼けつくように熱い。そのそばには、マーレウスが持っていた角材が転がっている。これを投げつけられて足を取られたのか。おれは足首に手を伸ばした。くじいてしまったのか、触れるだけで失神しそうな辛さが生じる。

 走れない。おれの顔面から血の気が引いた。

 じゃり、とマーレウスが肩を上下させながらおれのそばで止まった。息が荒いが、満足そうだ。獲物を仕留めようとする狩人のような目のぎらつきが、おれを射抜く。

「手こずらせるなよな。僕も、そんなに暇じゃないんだ」

 おもむろに、角材を拾いあげる。それで殴られるのかと思いきや、マーレウスはくじいた足首を力まかせに踏みにじった。

 そこから火でも吹き出たような衝撃を覚えた。悲鳴が聞けなくて残念だよ、と、激痛にのたうちまわるおれに嘲笑の言葉をかける。

「おまえだって、鉱山で辛かっただろ? 犯られたりしたんじゃないのか。死にたいと思っただろ。早く楽になりたい、って願ってたんじゃないのか? だから僕が殺してやるさ」

 気が狂うような苦しみの中で、おれでもおれはマーレウスに答えていた。昨日までは確かにそうだった、と。希望も夢も何もなくて、死者の国へ行きたいとどれほど願っただろう。マーレウスの望む通りに。

 だけど、今は違う。強い思いをこめておれはマーレウスに向かって顔をあげた。

 今は「夢」ができたんだ。ファンダレオンと一緒に戦うため、犯られようがどうされようが絶対生き抜くって誓った。

 もうおれは、死にたいとも殺して欲しいとも誰かに願う気はなかった。

 ぎっ、とマーレウスを睨みつける。

 楽じゃなくていい、どんなに苦しくても、おれは、生きる!!

 生きていくんだっ!!

 マーレウスの顔色が、完全に変わった。

「ルシアス……おまえ……!」

 どす黒い怒りに顔を染めながら、マーレウスが今度こそ角材を打ち下ろす。両肩に、頭に、再び肩に。おれはたまらずまた地面に倒れ伏した。そして背中に連続四回、背骨が軋みそうなくらい容赦ない勢いと力だった。

「おまえ……おまえ!」

 マーレウスの叫びは正気を失ったかのようで、おれは気が遠くなりつつ鳥肌が立った。

「死にたくないのか! なんでそんな目をしてられるんだ、鉱山奴隷のくせに! 殺してくれ、楽にしてくれって僕に哀願しろ! しないのか!? そうか、ルシアス、おまえ僕を、……僕を馬鹿にしてるんだな!! ああ、そうだ、おまえはそういう最低の奴だ! そうやってずっと嘲笑って……おまえみたいにファンダレオン様に近づけない僕を、そのお綺麗な面の裏で笑ってたんだろう! か弱いふりで、アレウシアどもにまで全く巧いこと取り入ってな! ほら、薄汚い根性そのままに哀願するんだ! 今さら本性を見せたってむだなんだよ! 折角、最後くらいはおまえに騙されてやって楽に死なせてやろうとしたのに、僕を馬鹿にするからこうなるんだ……!!」

 足首は踏まれたまま、角材で間断なく全身を殴りつけられる。おれは強く歯を食いしばった。マーレウスの壮絶なまでの悪意と歪みに心も傷ついてずたずたになったけど、それでも耐えた。鞭打たれて死んだおじいさんや、ろくな衣食住もあてがわれずに搾取される鉱山奴隷たち。彼らの悲惨な姿が、おれになお生きる気持ちと力を与えてくれて。

 そしてラルアの優しい声が脳裏に谺する。

『だいじょうぶ、だいじょうぶよ、ルシアス』

 そうだ──運命の扉は絶対に「死」だけじゃないはずだ。

 死んでたまるもんか、こんなところで!

「死ね、ルシアスっ!!」

 マーレウスが残忍な絶叫をあげた。

 おれは今までで一番きつくきつく唇を噛みしめる。次を耐えたら運命の扉が開かれる、そんな不気味な錯覚がなぜかした。

 何かが唸ったような音が頭上で起こる。来る……だから待っていたのに、そのマーレウスの角材は背中にもどこにも来なかった。

「うわぁっ!」

 マーレウスが狼狽している。直後、がつん、と小石と砂を巻きあげて目の前に角材が落ちた。な、何が起こったんだ? 唖然となって顔を起こしたおれは、ものすごい勢いで人が駆け寄ってくるのを見た。それも、知っている人と知らない人との両方が。

「ルシアス! 大丈夫ですか!」

 丁寧な言葉遣いを聞くまでもなく、一人はクレリクスだ。マーレウスを一発殴り倒してからおれを抱きあげ、呻くように言う。

「間に合ってよかった……ルシアス、神に定められた、わたしの運命の主。あなたこそまさしく、わたしがお守りすべき人だ……」

 え、運命の、ある、じ? おれが? 驚くおれに、別の声がかけられた。

「これはひどい。早く手当しなければ」

 いま一人は優しげな若い女の人だった。

 美人じゃないけど気品がある。そんな彼女は長槍を何本か持っていた。似合わない持ち物だけど、そうか、クレリクスがこれを投げてマーレウスの角材を落としたんだ。トラキア人は槍に長じてるんだっけ。それを置くと、彼女がおれの顔を覗きこんできた。

 そっ、とおれの喉に手を当てる。痛々しいといった風に彼女は顔を顰めた。

「すぐに手当して差し上げますわ」

「この方は味方です。安心して下さい」

 クレリクスに告げられた瞬間、おれは強烈に眠くなった。

 助かった……生きられるんだ……余程追い詰められてたのか、おれはなんの抵抗もなく二人を信じていた。安堵に、身体中がくったりと骨が抜けたみたいになる。

 周りの空気がとても温かかった。この人たちに守られてるから……彼らが何者なのか気になったが、今はただ、この温もりに包まれて眠りに沈みきってしまいたかった。

 そうして、おれはすぐに意識を失くした。

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