死者の国・中

 おれを抱いていた男が、不意に腕を緩めておれを降ろす。抵抗できる精神状態じゃなかった。震えるおれの肩に手を置き、直後、一気に服を引き裂いた。叫べないとかえって恐怖を増幅されることが、初めてわかった。動けないおれを荒々しく押し倒し、奴らは三人同時に襲いかかってきた。愛撫なんてなまやさしいやり方じゃない。寄ってたかって好きにされ、身体中に指と舌が伸び、暴力さえ容赦なくふるわれた。

 その後は、もう何もわからない。ただ、途方もない長い時間がすぎた、それだけをぼんやりと感じた。まるで、大海原を漂流する、帆も櫂もなくした小舟のように。

 そして不意に張りきったおれの気が抜けて、遠く薄くなっていた。

 漂っている。温かい夜の波間を、ゆらゆらと……。

 それからさらにどれくらい経ったろう。視界を取り戻した時、おれは毛布の中でぐったりしていた。表現が変だけど、頭から下をすっぽりとくるまれてたのだ。

 そんなおれを、包むように抱いている男がいた。

 おれを犯した奴じゃない。でも、誰だろうと考える気はしなかった。あの時と、同じだ。身じろぎするだけで全身にだるい痛みが走るのも、今も未来も何もかも見えなくなるのも。でも、もう誰も平気だなんて、言ってくれない。

 ラルアももういなくて、そして、おれの死を望んでる奴が少なくとも二人いる。罠に落ちたおれは、これから彼らの望み通りに死んでゆくのだろうか。

 何もわからない。ただ眠りたい。ずたずたに傷ついて、疲れて、痛くて、辛くて、みんな忘れられるなら死ぬまで目覚めなくていい。

 後のことなんか、何も、知らない──。

 胸に吐き捨て、とろとろとした暗いけだるさの中に投げこまれようとした瞬間だった。

「気がついたんですか」

 おれを抱いてた奴が、目を閉じたままいきなり声を出した。とても優しい声におれは顔をあげてしまった。

 目が合うと、そいつは笑う。

「わたしはクレリクス、あなたと同じトラキア人です。あなたはルシアス。彼らが言っていたので、名前は知ってますよ。ひどい目に、遭いましたね」

 これからもだよ。暗がりでおれをさらに引き寄せるクレリクスに、知らず呟く。多分死ぬまで、おれは奴らの相手をさせられるんだ。嫌悪と嘔吐感に胃がむかついた。

 ふ、とクレリクスが、その口調や表情と一致しない逞しい顔に痛々しいものを浮かべる。

「あなたにそんな顔は似合わないですよ」

 似合わなくたってどうしようもないじゃないか。

 きざな気休めに、おれは目で皮肉った。ああ、もう、こんな話もしたくない。そう思うのに、おれはなぜかクレリクスの穏やかな言葉に耳を傾けてしまう。

「あなたは運命に愛されている。必ず打開する時が来ます。それまで心を強く持っていなさい。新しい運命の扉をくぐれるように」

 もちろんそれは死ではありませんよ、と念を押すみたいに言い足された。

 ふと疑問になる。おれはそんなにひどい面をしてるのだろうか。運命に愛されてるだなんて嘘をついてでも立ち直らせたい、と思うくらいに。

 いや、きっとこの人が優しいだけだ。おれは運命に愛されてなんかない。マーレウスのあの自信たっぷりな態度。用意された扉はきっと死で、それ以外は多分みんな閉ざされてるのだろう。

 おれの心はひどく干からびていた。凌辱は、おれにとって死そのものだった。蹂躙されるといつも、おれはレテ川の水を飲んだみたいになる。希望も思考もみんな忘れ去って、みんなおとなしく受け入れて死にたいと心底思う。

 あのじじいに初めて抱かれてから事が終わるつど、海に身を投げたくなった。そうしなかったのはラルアがいたから。一生懸命慰めてくれたラルアのためだけに自殺の衝動を耐えられた。おれは彼女に生かされて、やっとアテナイに着けたんだ。

 だけど、ラルアもいなくなった。

 違う、ラルアは死者の国でおれを待っている。

 早く逝きたい。

 ラルア、早く逝きたいよ……。

 目を伏せた途端、力と意識が急激に抜けてゆく。おれを癒せるのはレテの水だけだった。

 そしてそれは、生きてては飲めないのだ。



 もう二度と起きないと感じながら気を失ったのに、おれはクレリクスに揺り起こされてしまった。夜明けで、これから仕事だという。

「朝食をとりに行きましょう、ルシアス」

 毛布を剥がされ、おれは上半身を強引に引きあげられた。寝るふりもできない。仕方なく起きるだけは起きることにした。うん、と答えようとして声が出なかった。

 出せなくなってたんだ。これじゃあ生きた屍だな、……おれ。

 クレリクスをぼんやりと見上げてると、彼は沈んだ面持ちでため息をついた。

「早く死にたい、そんな顔ですね」

「………」

「ですが、あなたはそれでも雄々しく生きられると思います。絶対に」

 ──買いかぶりだ。もしくは、気休めだ。

 あんたは男に寄ってたかって犯されたことがあるか。歪むほど人に憎まれたことがあるか。そんなの嘘だ。それに、おれはもう生きたくもない。こいつの説教がましい台詞をこれ以上聞きたくなくて、おれは立ち上がって小屋を出ようとした。

 途端、背中に鋭く厳しい声がかかった。

「あなたは昨夜にも死ねたはずです。奴らに抱かれてすぐ、舌を噛んででも」

 おれは思わず戸口で立ち止まる。

「今だって噛めたはず。死ねないなら、生きなさい。自分で死ぬには、生きるよりずっと勇気がいるのです。死ぬ勇気を持てなければ、生きなさい」

 おれは、そう叱咤するクレリクスを、──振り返れなかった。

 確かにおれは「死」を考えて、だけど実行はしなかったのだ。早いうちに死にたいと願ったのは、裏で死を恐れていたから自分では願っただけだったのかもしれない。

 目が、涙に潤んでいた。

 なんて残酷で強い真実だろう。願うだけなら生きろと、生きたくないのに死にもできないでいるおれの半端さを、クレリクスはちゃんと見抜いていた。おれ自身が何も気づかずにいたのが恥ずかしくて赤面して、だから振り返れなかった。

 でも、だからってすぐに生きようとも生きたいとも感じられなくて、おれは半ば途方に暮れて戸口を出た。

 外はまだ薄暗くて夜の涼しさが濃く残ってる。炊事係の奴隷が、木の椀を手にして一列に並ぶ奴隷たちに食物を配っていた。クレリクスに椀を手渡され、おれも並んだ。死にたいのに腹が減る、そんな自分にむかついた。

 今ここにいる奴隷は二百人くらいってところだろうか。少なすぎるのは、食事する場所や時間をずらしてるからだろう。見るからに鉱山で朝から晩まで働いてる、というひどい身なりの人ばかりで、泥と身体の臭いのものすごさに鼻が痛くなった。髪の毛もばさばさ、ふけや虱も見える。

 ようやく順番が回ってきて、おれは係の女に椀を差し出した。

「あんた、新顔だね」

 薄汚れた中年女の問いにおれはうなずいた。

「ご主人さまに貸されたのかい? 国有奴隷なのかい? あんたみたいな子供、七日ももてばいい方なんだよ」

 そうか、おれの命はあと七日、か。いっそ知らせたいくらいだ、と皮肉も痛みもなく思った。おれへの憎しみに歪んでしまった、可哀相なマーレウスを。

「あんたほどの器量なら、なにもここでなくたってねえ。気の毒だよ」

 哀れむような彼女の言も煩わしい。おれは苦笑して、椀とパンを受け取った。

 みんなはそこら一帯に座りこんで朝食を貪り食っている。おれも岩陰に落ち着いたものの、食欲がなかった。パンはともかく椀のスープは、いわゆるラケダイモンの黒スープってやつだろうか。ち、と正体のわからない熱いものが胸の奥に兆した。栄養だけで味なんか考えない、馬の餌みたいな食事……おれたちは奴隷だから栄養も怪しいし、匂いも食物とは思えない。

 スープはどうしてもすすってみる勇気も湧かず、やたら固いパンだけ食べた。これが鉱山奴隷の食事か。当然の扱いっていったらそうだろうけど、やっぱり嫌な気分になった。

 不意に、耳が裂けるような笛の音が響いた。

 みんながのろのろと立ち上がって鉱山に歩き出す。これが仕事開始の合図かな。従わなかったら罰で死ねるかもしれない。そんなことを思いながら周りを見回した。

 男が、老人を背負って一人で逆方向に向かっている。だからおれの目が止まり、釘づけになった。

 その人は! おれは彼の行く手に駆け寄っていた。

 びっくりする相手に構わず、おれは老人の顔を見つめる。痩せこけてぐったりしてるけど、間違いない、あの船で一緒だったエウボイアからのおじいさんだった。

 こんな、こんな形で再会するなんて!

「知り合い、なのか?」

 おじいさんを背負ったその男が陰鬱に尋ねる。おれは何度もうなずいた。そうか、と男が若い面に悲しみの色を浮かべる。

「昨日、この人は息を引き取ったんだ」

 ──えっ……?

「奴隷監督に鞭で叩かれたんだ。この人も、好きで仕事が遅かったわけじゃない。歳が歳で、働けなかったんだ。なのに……奴ら……」

 歯がみして、彼は涙ぐんだ。死んだ……おれはおじいさんの死顔を凝然と見直した。

 記憶にある表情は快活なのに、今は苦悶の形相になっている。

 鞭打たれて、死んだ? おれの身体が大きく震えた。

 でも、戦慄からじゃなかった。おじいさんが死んでいたという驚愕と、それ以上の燃えるような衝動がおれの中に目覚めて蠢いていた。かなり偏屈だったけど陽気で、おれとラルアに説教くさい昔話をしたり、船の上で歌い出したりしたこの人が、たった三ヶ月くらいでこんなに面変わりしてしまった。いつ斃れてもおかしくない人まで、奴隷ならこんなに残酷に扱えてしまうのか。アテナイは、そしてヘラスは。

 虐待も死も、ここでは簡単に与えられるんだ。

 突然、あと七日、どう生きようと思った。

 何もしなくたって、運命の女神たちが定めた寿命の糸がなくなるまでは生きられる。

 死ぬのを待つだけなら、それまで、死者の国のようなこの銀山でどうする?

 人の死を実際に目の当たりにしたからか、悲しみともどかしい思いに挟まれて苦しくなった。当たり前だけど、死ねば何もできなくなるしやり直しもきかない。何かを突きつけられてる、何かをつかみかけてる、おれの心身がそんな焦りにきつく締めあげられた。クレリクスに腕を引かれ、それであの二人が遠ざかっていっても、その苦しさはずっとずっと残った。

 死ぬまで、そうだ、死ぬまでには──。

 空に広がってゆく曙光が奇妙に眩しかった。



 おれに割り当てられた仕事はとても単純だった。他の人夫が掘り出したものをざるに詰めて運び出す、ただそれだけだ。大の男からおれみたいながきまでが暗く沈んだ表情でやっている。

 鉱山内は空気が濁り、臭いがすごく、じめついてて生寒い。裸の足裏に岩や砂利が食いこむ。奴隷たちの疲れのこもった息づかいが始終聞こえる。元気なのは監督官だけで、みんな壊れかけた仕掛人形みたいに動作が鈍い。疲労と倦怠と絶望が濃く渦巻いて、おれにまとわりつく。

 ここも立派な死者の国だった。光は薄いランプの灯、音は石や砂利がどうにかなるものか鞭や棒で暴力をふるうもの、人間の声といったら監督官の罵声と奴隷の悲鳴や呻きだけ。こうしてやたら重いざるを運んでると、ヘルメス神のように生と死の世界を往復してるんじゃないかって気がする。外は明るくて、空気もきれいで、風も爽やかだ。つい最近までおれが生きてた場所は素晴らしいところだったんだ、って心から思う。こんな形で知りたくないけど、こんな形でなきゃわからなかったに違いない。どっちが幸せなんだろう?

 がしゃ、と、おれの腕の中で、採掘された土砂がざらけた音を立てた。

 これで何十往復目だろう、手足が石にされてしまったようだった。そろそろ昼じゃないか。おれも目の前がふらついてた。そういえば全然休ませてもらってない。おれだって病みあがりなんだ、栄養失調だけど。

 ああ、時間の流れが遅い……まだ半日もすぎてないのか? 七日という言葉が、想像もつかない遠さをもっておれの脳裏に点滅する。

 その時、

「なにをしてるんだ!」

 ビシッ、と肉体が傷つく音が奥から響いた。

 かすかな苦鳴。おれは耳をふさぎたくて、でもそうできない辛さにぎゅっと目を閉じた。

 ここは死者の国だ。支配するのがヘレネスかプルトンか、違いはそれだけなんだ。

「なにこぼしてる! そこには銀が含まれてるんだぞ! おまえなど二十人は買えるわ!!」

 ぞっとなるような侮蔑の台詞の後に、忌まわしい音が続く。どうやら誰かがざるを落としてしまったらしい。

「早く拾い集めろ! おまえがこの鞭で死ぬまでにはなあっ」

 瞬間、おれの歩みが止まった。

 ──そうか。

 おれは反射的に心に呟いていた。

 そうか、これを落としさえすればおれは、殺されて、死ねるんだ。

 腕がぶるぶると震え出した。このまま力を抜けばいい。抜いて、ちょっと我慢するだけで、ステュクス川を渡って本当の死者の国に逝ける。ラルアに会える。

 あと少し力を抜けば、と、全身が緊迫に張り詰めて数十秒。

 おれは、……できなかった。

 おれは再びのろのろと歩き出した。ものすごい無力感みたいなものを覚える。生きるためにはこうして動けるのに、死ぬためには身体が動かなかった。生きたくないのに死ねなかったのだ。やっぱり死ねない。おれの心がどんなに望んでも身体が、本能が、安らかな死を拒んでることを思い知らされた。

 こんな、死の直前まで追い詰められてるのに、諦めもできない。生きるしか、ないのか?

 雄々しく生きられる、クレリクスはそう言っていた。

 さっきは皮肉と思った。が、今は死以外の運命の扉がまだあると信じたかった。生きるしかないなら、やっぱり生きたい。生きられたら。運命の扉はちっとも見えやしないけど、おれは周りを見回していた。

 瞬間、おれの足元でビシと音が鳴る。

「ぐずぐずするな! ルシアス!」

 いきなりの名指しにおれは振り向いた。知ってるどころかあの三人の一人だった。ひげがごわごわして肌が痛かった、老年の男。おれが出会うじじいはほとんどろくなのがいない。

「おまえは鞭でなくてもいいんだぞ? また、夜にたっぷり可愛がってやってもな」

 下品な物言いに、かっ、となる。なぜかあの恐怖を覚えなかった。それどころか心で言い返したのだ。やれるならやってみろ、と!

 生まれだけで特権や身分を勝手に保証され、その上にあぐらをかいてる奴らなんかに負けてくたばってたまるか。おれは本気で思い、相手を睨み返した。

 なに、とじじいが目を瞠り、いきなり鞭をふるった。肩に強く当たってよろめいたが、視線はそらさない。おれの目の色に怯んだのか、じじいはぎょっとした。

 が、それから酷薄な表情をたたえる。

「生意気な目だ。だからこそこんな場所に回されたんだろうがな……いいだろう。夜とは言わん。荷物を置いて来いや! くそがき!」

 おれが従うのを信じて疑わない、傲岸な声音だった。確かにそうだ、おれも逆らう気はない。でも、昨夜とは違う。不思議な高揚感がおれの全身に満ち満ちていた。今なら何にも負けない、そんな熱さと自信があった。

 がしゃんっ、とざるを叩き落とす。

 やれるものならやってみろ。おれは昂然と胸を張ってじじいの後について行った。

 鉱山を出、その麓にある監督官小屋に入っておれは嫌悪を覚えた。奴隷小屋とは天地の差がある豪華さ清潔さが、全ての象徴に思える。その奥に突き飛ばされて寝台に倒れたおれに、奴の脂ぎった肢体が覆いかぶさってくる。そんな必要のない暑苦しい面と図体のくせに、ぷん、とオリーブ油の匂いがした。ばかでかい手がおれの太腿を撫で回し、まさぐる。気持ち悪さにもがくと髪をつかまれ、いきなり唇をふさがれた。ねとねとした舌が入り、おれは吐き気に瞳を閉じた。昨夜のように意識が揺らぎかかるのを、シーツに爪を立てて必死に耐えた。平気……平気だ! ラルアはだいじょうぶとは言ってくれないけど、身体はどんなに犯されても生きられる。奴の口が首に、そして乳首に移った。

 普通ならこの辺で意識が途絶えるのが、今日は自分が何をされてるのかわかる。乳首をしゃぶられたり後ろから突っこまれたりするのから、逃げてはいなかった。死への望みや恐怖も感じない。そして、凄まじいくらい熱い思いが目覚めていた。

 おじいさんの死顔を見た時に兆したものが、凌辱されてる中からはっきりとわかった。

 四つん這いにさせられて後ろから犯されながら、おれは唇を噛みしめた。痛みからだけじゃない、舌を噛んで命を絶つためでもない、いくつもの決意をこめて──!

 合計四度も犯してから、奴は満足げにおれを解放した。だが、息を乱しつつもおれがすぐに立ち上がったのを見て、その皺顔に驚きが浮かんだ。昨夜は怯えて失心したおれがそうするとは思いもしなかったんだろう。ざまあみろ、という気分でおれの口元が緩む。

 疲れが全身に沈んでいたが、快いくらいだった。

 おれは乗り越えたんだ。凌辱の悪夢を、その悪夢に囚われてた自分自身を、死に逃げようとする心を。

 ……おれは、生きられる。

 そして、自分が生きる理由も見つけられたから。

 監督官小屋から鉱山に戻ると、その入口周辺では女たちが土砂を洗って鉱石を選りすぐっていた。鉱山内からは悲鳴と怒号が響いてくる。おれは恐れずに足を進めた。改めてこの惨状を見聞きするおれの胸に、深く強い感情が染み渡ってゆく。

 おれは怒っていた。当然のように奴隷を虐待する奴、そして虐待してもよい「奴隷」という身分を作ってるポリスそのものへ。

 鉱山にいる奴隷は、市民がポリスに貸してる賃貸奴隷かアテナイの管理下にある国有奴隷だ。前者が死んだ場合は補償されるけど、結局その金でまた新しい奴隷をアゴラで買って送りこむだけだろう。だから、ファンダレオンが言っていたのが脳裏に甦る。

『ヘラスにいる奴隷の幸せとは、温厚な主人に出会う事だけなのだ』

 おれは「幸せ」だった。初めからファンダレオンに出会えたから、他の奴隷がどうかなんて余り想像がつかなかった。アテナイでの奴隷の扱いがわりとましなのは、力で抑えつけるラケダイモンと正反対で、そしてより上手に奴隷を支配するため。奴隷が下仕事全般をやってるから、逆らわれたらポリスの機能が狂ってしまうからなんだ。

 だけど、このたった一日でおれははっきり悟った。

 奴隷はやっぱり奴隷だ。扱いがましならいいんじゃない、人の運命や命をどうこうする権利自体が間違ってるんだ、と。

 ファンダレオン。今は懐かしいくらい遠く思えるおれの主人の名が浮かぶ。

 悲劇的な出生ゆえに奴隷を深く想い、自らの生涯そのものでポリスという巨大な奴隷社会と戦っている、ファンダレオン。

 ……おれも。

 おれも、アテナイと戦いたい。

 心底から決意した。おれも戦って生きるんだ。だから死ねない。絶対この銀山を出て、なんとしてもファンダレオンの家に帰るんだ。

 たった一人の、「戦友」のところに。

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