死者の国・上

ファンダレオンともども身体の回復に努めて五日、おれはファンダレオンに先立って元気になった。

 昏々と寝てたにもかかわらず、おれは医者から「栄養失調」の一言で片づけられた。特に後遺症もないし、別にいいけどさ。ファンダレオンの方も順調に治ってはいるが、瀕死だったんだから当然おれより時間がかかる。

 で、おれたちの養生期間中に、あの襲撃事件についてはすっかり片づいていた。

 ファンダレオンは奴隷監督役のヒュラリスを中央市庁舎に行かせたそうだ。これはアゴラにあって、他国の使節を迎えたり功績があった人をもてなしたりする場所なんだけど、彼が用があったのは常時そこに詰めてる当番評議員たちだった。

 その時の騒ぎというか事態のすごさは想像できる、気がする。事件の当事者でありながらも、面会謝絶のため今まで口を閉ざす形になっていた。それが、いきなりヒュラリスに「証言」を記した書簡を届けさせたんだから大変だったろう。

 その内容は、先日アリステイデスにすら突き通した「アテナイの敵」犯人説に加えて、「刺客の顔かたちはイオニア人のような気がする」という証言だった。

 ファンダレオンより遥かに軽傷、いや、無傷に近いアリステイデスとテミストクレスは共に、顔は見ていないと既に証言していた。まあ、言えないんだよな。どちらかが声高に告発しても、もう一人が「いや、貴様こそ自ら己を襲わせたのだ」と言い返せる状況なんだしさ。だからこそ、二人それぞれと繋がりがあるファンダレオンが「鍵」だったんだ。

 それに殺人は普通の罪じゃない。神への「不敬行為」で、流された血は犯人自身とその家族、さらに所属ポリスにまで穢れをもたらすと考えられてる。事情がどうしようもない正当殺人は例外だけど、無意でも期限つき追放で有意ならまず死刑か永久追放、未遂でも追放は免れないだろう。つまり、ファンダレオンの証言一つで二人の運命は思いのままというわけだった。伯父の政敵としてテミストクレスを陥れることもできるし、アリステイデスを陥れることはもっと簡単にできる。「甥」が自分を陥れる理由を白日のもとにさらすことは「正義の人」としては破滅に直結するから、どちらにしてもファンダレオンは傷つくことはない。

 でも、余りにもどうとでも転ぶ事態にすぎたのでファンダレオンは結局、罪をペルシアになすりつける形にした。

 イオニア人だった、と単純に断言すればイオニア系ポリスを刺激する危険がある。あくまでも「ペルシアの関与」を匂わせる程度にし、そして今の情勢ならばそれだけで充分というわけだ。それと、まだ戦争中だからラケダイモンと波風を立てるのは避けたんだろう。ラケダイモンはテミストクレスと仲が悪くて、彼を抑えるため貴族派のキモンを後押ししてたから、ラケダイモンのせいにするとアテナイに内紛が起こる可能性もある。これは余談だけど、キモンの子供には「ラケダイモス」って名前の人がいるってくらいだし。

 ともかく、傷もまだまだ痛むだろうに冷徹にここまで配慮して動いたファンダレオンに、おれにはもう恐れ入るしかなかった。とても政治嫌いとは思えない。だからテミストクレスの気に入りだろうし、アリステイデスも恐れるのだろうけど……まじにくそ度胸だよ。

 そしてその証言は疑われずに世間に受け入れられ、昨日の民会ではさらなる対ペルシア徹底抗戦決議が出された。だからアゴラはちょっとした熱気に溢れてる。やっとアレウシアのお許しが出て、おれはサラディと一緒に出かけていた。お目付役兼助手なんだそうだ。女相手の井戸端話はまかせて、と彼女はふんぞりかえった。

「アドニスは鈍感だからね。洗濯女たちはまかせてよ。アゴラが出盛ったらここでね」

 昼にここ「自由神」ゼウス像の前で落ち合う約束を勝手に作って、サラディはすぐそこの井戸に行ってしまった。目付役はしないのかなあ、とおれは苦笑した。まあ、井戸はアゴラ中にいっぱいあるし、手伝ってくれるってんだからいいか。

 からっとした暑さの下、市場の方は少し静かだった。新月の日じゃないから、今日は出てる店が少なめだ。あのくそじじいはいなかったが、いちじく売りの女の人はまだいた。ここに行くたびに、おれは財布を開けている。サラディの分も買って差し入れてあげような、とおれは今日も声をかけた。

「干しいちじくの方、二個欲しいんですけど」

 お金を払うと、相手が急におれを見上げる。

「……いつも、ありがとう」

 えっ、と息を呑んだおれに、ふわりとした優しい表情を浮かべた。

「あなたが、大きな幸せを授けられますように。あなたの幸福を、祈っています」

「あ、ありがとう」

 幸福、か。なんだか切ない気分で彼女に軽く頭を下げて、早速いちじくをかじる。おいしいけど面白い味だよな。

 ふと、買った果実を見比べた。

 確かにそっくりっていうか……おれはやっぱり、あのことを思わずにはいられなかった。

 テミストクレスは何も知らない。でもファンダレオンとアリステイデスが不仲と知ってて、それで「共犯」として引きこもうとしたんだと思う。何しろファンダレオンは、人望に勝る伯父アリステイデスでなくあえて自分についた過去がある。そして今でも彼と和解した風でもないから、自分を選ぶか静観するだろうとテミストクレスは読んでいたのだろう。それでも話はアリステイデスを失脚させる、という明らかにやばい話なんだから大胆というかなんというか……でも、ファンダレオンが断って密告したところで、

「わざわざ敵の親戚に持ちかけてから襲撃するなどと愚かな事、このテミストクレスがするとでも思うのか」

 と、証拠のないうちは笑い飛ばすのだろうけど。

 そして、アリステイデスが真犯人だというファンダレオンの推理を、今のおれは余り疑わずにいる。信じかけてるといっていい。あの強烈な話を聞いたからかもしれなかった。

 アリステイデスは政治家としてなら「正義の人」かもしれない。けど、「父親」としてはひどすぎる。一番ひどいやり方で、彼はファンダレオンを踏みにじった。サラミスから、六年──それでもなお声望を高めてゆくアリステイデスを糾弾することもできず、その意味ではどうにもできなかった長い「潜在時間」。そうして、復讐の機会が降って湧いてきた。欲目だが、おれは今や、ファンダレオンがあの人を追い落とそうとしたのは当然とも思い始めてもいた。

 それに、もしアリステイデスが本当に今回の真犯人だったら、おれだって絶対後悔させてやる。

 ラルアまで、死なせたことを。

「ラルア……」

 知らず呟いていた。その名は、楔のようにおれの心に刻みこまれている。

 命を捨てて「ペルシアからアリステイデスを守った」ラルアの葬式は、おれが倒れた翌日にアテナイの国費で行われた。今はもう埋葬されて墓碑が立っているという。銘は『テッサリアの勇気ある乙女』で、詩人たちが作品を捧げたり劇作家が悲劇の題材にするとかいう話があるらしい。すごく苛立つ。

 ラルアが望んでたのは自由に生きることだけだった。死んで、讃えられることなんかじゃないんだ……。

 その時、おれの肩を叩く奴がいた。振り返ったそこにあった顔に、おれは危うく大声をあげかけた。

「……マーレウス?」

「おいおい、そんなに身構えるなよ」

 心臓が跳ねるかと思って、胸に手を当ててしまう。マーレウスは、今は不自然に見える親しげな微笑みを浮かべていた。おれと彼の間にはもう、それぐらい深い溝がある。

 そういえば、マーレウスとはあの事件からからろくに話していなかった。彼が一体どうしていたのか想像がつかなくて、なんだか怖い。

「今までのことと今度のこととは別だよ。大変だったな、ルシアス」

 まるでおれの思考を読んだように言われた。

「ご、ごめん……」

 気にするな、という風にマーレウスが明るく笑ってくれて、おれは心から自分の狭さを恥じた。今でさえマーレウスの表情が仮面に見えたのを。大体、あんな事情を知ってたら、おれだってアリステイデスに過敏になるだろう。だから、ファンダレオンの命令だからっておれが対等な口をきいたりするのにもいい顔をしなかったんだろうし、アゴラでファンダレオンのことを訊いた時も適当に知らないふりしたんだろうな。誰が聞いてるかわからないのに本当のことを説明できるわけなんかないし。それだけ危ないんだって身に染みるのと同時に、それでもおれがアリステイデスの奴隷と喧嘩になったのを間違ってないと言ったファンダレオンが、本当にすごい人なんだともわかった。

 確かに気をつけよう。バルバロイ呼ばわりされたりしない限りは、だけど。

 すると不意にマーレウスが真剣な顔をした。

「そういえばさ、おまえ、彼女の墓には行ったのか?」

「……ううん、行ってないんだ、……まだ」

 じくり、と毒針を突き刺されたような熱い痛みが染みる。行きたくない、っていうのが正しかった。行ったらどうなるか、まだわからない。だからおれはまだ墓には行けない、そう思ったから冥福を神々に祈るだけだった。

 ──いつかは行かなきゃ、とはわかってるんだけど、まだ踏みきれなくて。

 やっぱりな、と同情する声で答えてからマーレウスがうつむいた。おれはやっぱりびびってしまった。一歳上の、つい前に憎しみにおれの首を絞めあげた彼を思い起こすと、随分と年上か別人のように見えた。いや、別人ってのは失礼な言い方だ。どうしても疑心暗鬼になるのが、恥ずかしかった。

 そして、マーレウスは続けて言ってきた。

「だったら、これから僕と行かないか? 僕もすごいと思うから──アリステイデス様を庇うなんてさ」

 おれは言葉に詰まった。マーレウスと一緒という以前にラルアの墓に行く自体が、即座に決められない。

 どうしよう? 迷うおれに、彼が追い打ちをかけるように言を継ぐ。

「友達だったんだろ? 彼女はおまえを心配してたんじゃないか。そろそろ行ってやれよ」

 噂をでも聞いたのか、容赦ないほどに痛いところを突かれた。

 そろそろ……でもたった五日。おれにとってはまだ余りにも短すぎる時間だった。断ろうとして、だけどふと考えた。

 いつかは行かなきゃいけないんだ。それなら、早い方がよくないか? マーレウスが声をかけてきたのを機会にして、いや、そうでもなければ一体おれはいつラルアの墓に行けるんだろうか。「現実」を本当に受け入れられるようになるだろう。

 おれ一人が彼女の死を拒んでも、決して生き返らない。受け入れて、面影を胸にして仇を討つしかできないんだ。

 ──なら、せめてきちんと墓碑に別れを告げよう。

 おれは、うん、とうなずいた。

「……行こう。マーレウス」

 ラルアはアレオパゴスをずっと南に下った門の外にある、共同墓地に葬られているという。少し遠出になるが、待ち合わせには遅れないはずだ。マーレウスの後ろでおれは、心のどこかで安堵していた。少なくとも、行く行かないという迷いはなくなるだろうから。



 アレオパゴスで開かれる長老会は民会とは別の組織で、陰謀や放火など重罪の裁判権がある。海神ポセイドンの息子を殺した軍神アレスや、母親を殺したミュケナイ王子オレステスを神々が裁いた場所だからだ。アテナイが王政だった遥か昔に王の諮問機関として生まれ、民主制になった今でも国政の監視権と役人の監督権も持って残ってる。アルコンが指名した人が構成員で、任期は終身。ペルシア戦争の時に三ドラクマの手当を出して船夫と兵や三段櫂船を用意したので声誉が高まった。

 もし真犯人が捕まったら、そいつはあそこで裁かれるのだろうか。結構遠くにこの丘を振り仰いで、おれはそんなことを考えた。

 そして、汗だくになって辿り着いた共同墓地の一角に、ラルアの墓がある。花輪が飾られてるというより、花輪を飾るためにあるんじゃないかってくらいで、銘も埋もれてしまってる。ちらちらと見える円柱形の墓碑は立派で、ペンテリコンから切り出したばかりみたいに真新しかった。

 その前にひざまずいて、おれも、花売り娘に作ってもらった花輪を花の上にさらに乗せた。

「ごめんな……おれ、五日も遅れて……」

 本人に、かけてあげたかった……涙が流れて止まらなくなる。

 不意に、記憶が脳裏に溢れかえった。

 おれがあの人買いのじじいに抱かれて、夜明け前に疲れ果てて船底の部屋に帰ってくると、ラルアはいつも起きて待っていた。おれがいないと眠れないみたいに、おれを見ると闇の中で目が輝いて。そしてじじいの汗やら唾液やらで汚れたおれにためらいもなく抱きついて、だいじょうぶかと心配してくれた。

『だいじょうぶ。神様は絶対に幸せをくれるわ。ね、ルシアス。だいじょうぶだから』

『だいじょうぶ。だいじょうぶよ、ルシアス』

 弄ばれ、もうどうなったっていいと荒むそのたびにおれは救われた。ラルアがそう言うなら未来はまだ信じてよう、と。だから幸せを祈ってた。おれが幸せにしたかった。

 ああ、そうだ。ラルアが好きだった。スキタイでもどこでも二人で行こう。ファレロンに着く前日、おれはそう答えたんじゃないか。痩せた身体を抱きしめて。衝撃ですっかり空白になっていた心に、彼女への想いが花壇を作り直すように埋まってゆく。

「ラルア、おれ……『幸せ』だよ、今。ファンダレオンはね、本当にいい人なんだ」

 心配しなくていいから、ラルア。おれはぼろぼろに泣きながら、精一杯笑いかけた。

「でも、ラルアも買ってくれって、言えばよかった……。おれの値段なんかより、その方がよっぽど大事だったのに……一ムナとか五ドラクマとか、そんなのより……」

 涙で目の前がぼやけた。

 ラルアと一緒じゃなきゃいやだって言えば、ファンダレオンは買ってくれたかもしれないのに。

 おれはなんて馬鹿なんだろう。ラルアだって幸せにならなきゃいけなかったんだ。それなのに、こんなにも大切でかけがえがなかったくせに、おれは結局アテナに祈るだけだった。もっとするべきことがあったんじゃないのか。現実に、するべきことが……そうだ、こんなことになるなら、ラルアを売った先を店のじじいに食い下がってればよかった。ファンダレオンにも駄目もとでラルアを捜してくれって頼んでみればよかった。どんなことだって、やってみなきゃわからなかったじゃないか!

 時の女神たち、時間を戻してくれ! せめて五日でいいから……──!!

「ラルア! ラルアあああ……っ!」

 もう顔をあげてもいられなかった。おれは地面に泣き伏した。喪失感と後悔と自責に、千々に引き裂かれそうだった。

 頭ががんがんに痛む。このまま頭が破裂したら、死者の国でラルアに会えるかな。違う、おれは、ラルアの仇を討つんだ。この辛さを闘争心に変えるんだ、そう思った瞬間だった。

 本当に破裂したのだろうか。ものすごい痛みに襲われて息が止まった。後頭部に指を滑らせると、ぬるりとした感触がした。

 血が、吹き出したのか?

 呆然となりながら、おれはすぐに気を失っていった。



 目覚めても、周りは淀んだ闇だった。鼻につんとくる臭いが漂っている。金属臭っていうか、とにかく固く鋭い臭いだ。ランプの炎が照らしているのは岩肌で、そういえばひんやりと冷えている。マーレウスと一緒にラルアの墓にいたはずが、ここは一体どこなんだろう。洞窟の中なんだろうか。でも、洞窟だとしても、どうしておれはここにいる?

 頭はまだ痛い。手を当てると、乾いて粉のようになった血が髪にこびりついていた。

 普通、血が吹き出せば死ぬだろうから、もしかしたら、おれは死んでプルトンが治める死者の国タルタロスに入りかけているのだろうか。ハデスという本名は、怖くて口にはできなかった。

 その時、聞き覚えのある声が降ってきた。

「悪運が強いんだな。殺すつもりでやったのに、まんまとまともに生き残ったのか」

 残念そうな口調も露な言葉を発する相手の正体を、おれは意外とは思わなかった。

 今ここに来たのか、冷ややかな表情をしたマーレウスが洞窟のたった一つの出入口にいる。声をかけようとして、おれは気がついた。

 喉が……おかしい、声が出ない。

 どんなに喉に力を入れても、ぜいぜいと、かすれた息の音があがるだけだ。何が起こったんだ? どうして急に喋れなくなったんだ!?

 むだだよ、とマーレウスの楽しそうな嘲笑が降ってくる。そうして支配者のようにおれの前に立った姿は、あの人買いのじじいよりも冷酷に感じられた。

「おまえはもう喋れない。助けを求めることもできないんだよ。ここで死ぬんだ、ルシアス。まあ、死に場所くらいは教えてやるよ」

 喉を手で押さえつつ見上げるおれを傲慢に睨んで、マーレウスは打算的な形相になった。

「ここはある銀山さ」

 おれの驚愕も恐怖も、なにもかもを計算しつくした声だった。

 鉱山奴隷だけはいやだ、その言葉を思い出す。そして、なぜかおれは悟った。今すぐマーレウスに殺されるんじゃなく、鉱山奴隷に陥れられたのだと。それくらい彼がおれを憎んでいたのを、改めて思い知った。

 マーレウスの手が、硬直したおれの髪をわしづかんで引きずり倒した。顔や肩が岩肌に食いこむ。視界が深紅に染まって、唇が切れた。でも悲鳴はあげられない。きっと何かされたんだ、おれが助けを求められないように。

 おれの横面を、マーレウスが踏みつけた。

「死ぬまでこの鉱山で働くんだ。死者や逃亡者が絶えない、ここでな。ファンダレオン様だって、おまえがここにいるとはわからないだろうさ。もう誰も、おまえは庇いはしない」

 ざまあみろだ、とその足に力がこもった。

「僕はおまえになんか嫉妬してない。憎んでるんだよ。それだけなんだよ。おまえはファンダレオン様を追い詰める疫病神だ。あの方は、おまえの知り合いのために必ず真犯人を追う。必ず復讐する。おまえらなんかのためでさえ危険を厭わない、優しすぎる方だから。だから、おまえを排除しなきゃいけない。あの方の周りをかき回すおまえさえいなくなれば、あの方は奴隷制と静かに戦うだけでいられるんだ」

 だからおれに鉱山で死ね、とマーレウスは言外に告げているのだ。それがファンダレオンのためだと、彼は信じている。その憎悪と怒りに、おれは胸が潰されそうになった。

 でも、違う、違うよ、マーレウス。たとえ喋れなくても唇を動かさずにはいられなかった。

 それじゃ逆効果だ。おれまでもがいなくなったら、逆にファンダレオンは絶対退かない。おれだって彼がそういう人なのはよく知ってるんだ。

 それに、確かにこんなことになっちまったけど、おれをおれでいさせてくれたのはファンダレオン本人だった。おれだって、おとなしくしろと命じられればそうした。でも、あの人が望んだのは、主人の顔色を窺ったりしない生のままのおれだった……すれ違ってしまってる、おれはもちろんファンダレオンとも。マーレウスは、おれを憎む余りにかえって歪んでしまったのかもしれない。誰がいけないのか何がいけないのかって問題じゃないからただただ悲痛で、マーレウスを憎めなかった。

 でも、彼こそ世界で一番おれの死を願っているんだ。

「安心して死んでいけよ。ファンダレオン様は、僕がちゃんと見張ってるからな」

 ずりずりと執拗に顔を踏みにじりながらの台詞に、おれは愕然となった。

 見張る!? 今、「見張る」と言ったのか!?

「ちゃんと話はついてるんだ。おまえがここで死ねば、万事おさまるんだよ。そら──おまえの新しい主人が来たぞ。せめて可愛がってもらえるといいな、ルシアス」

 マーレウスが喉を鳴らしたのと同時に、足の重みがなくなった。近づく足音にも気づかず、おれは反射的に彼の足をつかんでいた。

 不快に顔を染めてマーレウスが舌打ちする。

「離せよ、ルシアス。……離せ!」

 強烈な後ろ蹴りが額を打った。さらに手を踏みつけられる。痛みと目眩に外れかけた手に、それでも力を入れておれは彼を見上げた。

 話がついてる、って、誰と!? 必死に目で尋ねたが、通じない。通じても話しちゃくれないだろうけど、おれも必死だった。どうしてファンダレオンを守るのではなく「見張る」と言ったんだ。言い間違えられることじゃない。マーレウスは何か知ってるんだ!!

 だからおれも、この手を絶対に離せなかった。

 何が起こっているのか、彼に訊いて知らなければ……!

 そのことに全ての注意を奪われていたおれは、今になって、背後からおれを抱きすくめる両腕の存在に気づいた。

「ほう、ほほう。いい面をしてるじゃないか」

 悪夢のような瞬間だった。おれの全身が強ばり、脳裏にあのくそじじいが甦る。いやらしく笑いながら舌なめずりしたあいつに、その声音はとてもよく似ていた。

 瞬間的におれは思考を全部失った。あるのは、ただ、凌辱へのおぞまじい恐怖だけ。

「あ、……ああ……」

 振り返ることもできなくなったおれの耳元に、そいつがさらに囁きかけた。

「これから可愛がってやるぜ。おまえのような美少年を貸してくださったあの方に感謝しながら、じっくりとなあ」

 おれの頬をいきなりねっとりと舐め出す。

「トラキアだぞ」

 別の奴が首筋に息を吹きかけ、太腿をまさぐり始めた。やり方がとにかくいやらしい。

「こんな可愛いのは初めてだな」

 それはもう言葉じゃなく、獣が威嚇する唸りにしか聞こえなかった。マーレウスはいなくなっていて、代わりに三人の男たちが欲情を露におれを取り囲んでいる。これから何が起こるのか、直感するのは簡単すぎた。

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