無花果が無花果に似ているより・下

「ルシアス!! 目が覚めたのね!」

「あ、あたしっ、ファンダレオンさまに知らせてくるね、アレウシア!」

 サラディの小柄な後姿があっという間に消えてゆくのを、おれはぼんやりと目で追っていた。視界は半分ぼやけてるけど、それが目覚めた時に初めて見た「現実」だった。

 記憶の破片が、急速に集まってくる。サラディが、アレウシアが誰なのか、おれはすぐに思い出した。

「……アレウシア……」

 おれが話しかけると、同じトラキアの血を引く容貌をしたアレウシアが頭を振った。

「なにも言わなくていいわ。なにも──具合は、どう? それだけでいいのよ」

「大丈夫だよ……身体、すごいだるいけど」

「二日間も寝すごしたらあたしでもそうなるわよ。お寝坊さん」

 彼女の冗談に、さっきまでの動揺や悲痛さはなかった。

 おれは、二日間も眠ってたんだ。

 ラルアが──死んだから。

 これも思い出した。アリステイデスの代わりに刺客に殺されたと聞かされて、信じたくなくてきっと倒れちまったんだろう。

 ぼっ、と目が熱くなった。

「ルシアス……」

「なんで、あいつが」

 うっ、と言葉と息が詰まる。

 ラルアはどんくさかった。アリステイデスを守るなんて器用すぎる真似をできるわけがないんだ。がたがた怯えるくらいしかできなくて、そのはずなんだ、絶対……そんな、格好いい死に方なんか……!

「どんなにみじめだっていい。生きてさえいてくれれば、そうしたら……っ」

 助けだって、できたかもしれないのに!

 おれはぼろぼろ泣き出していた。おれがファンダレオンの安否を心配している間に、ラルアが殺されたという事実が痛かった。痛くてどうにもできなくて、ただ泣きじゃくる。

 知っている顔が目の前に現れたのは、その時だった。

「よく帰って来たな、ルシアス」

 美しい表情を同情と労りに曇らせて、ファンダレオンがおれの髪を撫でた。

「ファンダレ──」

 ばっ、と跳ね起きて、目眩にふらつく。そんなおれを、ファンダレオンが胸に抱き寄せてくれた。温かい、生きた優しさ……でもおれは、冷たく厳しい「現実」に帰ってきた。

 もう闇の中にまどろめない。ラルアの声を忘れるなんてできない。

 ラルアの死を、おれは認めなければいけなくなってしまった。

『よく帰って来た』

 この人の言葉はいつだって正しくて、だけど、優しい。

 うっ、とおれはたまらず彼にすがりついた。

「ファンダレオン、ファンダレオン……っ!」

「辛かったろう。よく、帰って来た」

 アリステイデスから事情を聞いたんだろう、ファンダレオンは何も訊かなかった。だから逆に、重さやおれを受け止めてくれる強さを感じて、おれはそのまま心身を委ねた。

「こんなためじゃなかったんだ! アテナに祈ってたのは、こんな、こんな……!」

 自分でも混乱してるのがわかりながらも、おれは涙声でわめいた。

 どうしてアテナは、おれのたった一つの祈りを叶えてくれなかった!?

 さらに強くファンダレオンの衣をわしづかみにして歯がみする。

「おれが奴隷だから!? 母さんがトラキア人だから!? だから、だからだめだったのか!?」

 ファンダレオンも、これには答えてくれない。

 でも……教えてくれ! 誰か、おれに教えてくれっ!!

 おれはもう、激した余りに何を口に出してるのかもわからなくなった。

 いやあっ、と誰かが熱い震える声で呻いた。

「アドニス……もうやめてえっ、アドニス……!」

「ルシアス、落ち着け。ルシアス!」

 感情を押し殺した声の直後、おれの頬が甲高い悲鳴を立てた。

 ファンダレオン……彼が、痛ましいものを見るみたいなまなざしをしながら、でももう一度おれの頬に強烈な平手を食らわせる。また誰かが金切り声を出した。だけど、それでももう一度逆の頬を張り飛ばす。

 三発の平手打ちで完全に我に返ったおれは、しゃくりあげつつファンダレオン、と呆然と呟いていた。

 奴隷になって約三ヶ月、この人に手をあげられたのは、これが初めてだった──。

 逆上してたのを散らされて何もできないでいるおれの両頬を、ファンダレオンが赤くなった掌で優しく包みこんだ。

「──すまない。本当に、すまない」

 そうしていきなり、彼はそう謝罪してきた。

「ファンダレオン……?」

「私と伯父上のせいだ。六年も『潜在』したままだったせいで、おまえを、……苦しめた。おまえまで巻き込んでしまった」

 何が、とはおれは訊けなかった。

 苦悩と痛みと後悔を美しい表情に複雑に織りこめて、ファンダレオンはふっと半眼を伏せた。この人は何をしても人間離れしていたが、本当にすまなそうで今にも崩れそうなほどで、そう、誤解を恐れないでいうなら人間的だった。いくら逆上した後でも、この人は誰よりおれに近かったんだ。その顔で、訊くまでもないのがわかった。

 今、これから、ファンダレオンはそれを話してくれようとしてるんだ。

 おれが黙って、でも意志をこめて見つめ返すと、彼は外した手を肩に置いて人払いをした。そして、無表情に戻ってから言った。

「六年前、サラミスから話そうか」

 昏い、重い声音だった。真夏なのに、太陽の光が一瞬で凍りついたような静寂に寝室が包まれた。おれが唾を呑んだ音が異様に大きく響いたと思えるくらいに。

「私はまだ『思春期にある者』だった。訓練もまだだったが、それでも私は奴隷たちのためにこの手で戦いたかった」

「奴隷たち……?」

 ファンダレオンはかすかに微笑した。

「私を慈しみ、気遣い、裏表なく仕えてくれたからだ。彼らには、社会的地位や保証がない。ペルシアから守り、私自身も戦功を立てて仕官できる年齢になった時に彼らを引き上げたい、と、思った。心から」

 そうなんだ、とおれは納得した。

 ファンダレオンは奴隷に「感謝」しているから戦争に参加し、普段も奴隷を公正に扱うんだ。聞いてみれば単純だけど、単純だから難しい。

 それをファンダレオンがやってのける理由が、六年前、サラミスにあったんだ。

「私はテミストクレス殿に、従軍させて欲しいと頼み込んだ。なぜ伯父上に頼まなかったのか、という顔をしているな。テミストクレス殿が傑出した将軍で改革派だった、それもある。奴隷の地位を上げる事は、奴隷という身分を制度として作り、その労働によって成り立つポリスの基盤そのものへの反逆だ。伯父上たちのような保守派よりはテミストクレス殿らの方がまだましだろうと考えた。だが、それだけではなかった」

「『潜在』、してるから?」

「いや、その時はまだ何も知らなかった。何も……理由はもう一つ、伯父上が当時、陶片追放にかけられていたからだ」

 陶片追放! おれは息を呑んだ。それは前五一○年にクレイステネスが創設した、おれにとって不気味で理解できない制度である。

 一言でいうと「僭主防止制度」。もしかしたら僭主になってポリスをめちゃくちゃにするかもしれない、と思う有力な人の名前を陶片に書いて、アゴラにあるてすりで囲まれた投票場所に投げこむ。投票者が六千人未満だと無効になる。が、有効になったうえでこの陶片を多く獲得した人は、市民権や財産は保証されるけど十年間のポリス外追放になってしまう。さしもの「正義の人」も、この制度からは逃れられなかったのだ。

「サラミスの三年ほど前だ。マラトンで勝って得意になったアテナイの市民は、より人望を得た伯父上に嫉妬した。陶片追放は、死刑にこそならないのは一見人道的だが、私に言わせれば罪悪感なく嫉妬を正当化する悪法だ。民主制の美名の下に僭主を恐れる一方、ペイシストラトスを『最良の僭主』と讃える。狂言で軍隊を得、反乱まがいの方法で権力を得た者をな。つまり、『僭主』は、僭主である事が悪いのではなく彼が何をするかが重要だと、市民たちは心の底ではわかっているのだ。それでも彼らが僭主を嫌がるのはなぜか、おまえならわかろう」

 おれは、小さくうなずいた。ファンダレオンが苛烈に言ったように、嫉妬から。逆をいえば、クレイステネスたちは人間の心理をよく知ってて、それを民主制に利用したというわけだ。

 ファンダレオンがどうして彼を誉めなかったのか、今わかった。

 陶片追放が、人間の醜い部分を露骨に利用してるから──おれは嫌悪感を覚えた。綺麗ごとだけじゃ政治はできない。けど、その人が無実だった時、十年はどう償える?

 伯父上は自分が利用した感情に裏切られたのだ、と、ファンダレオンが同情の破片もなく続けた。

「そのきっかけは、テミストクレス殿が中心になって広めた噂だった。こうだったな。伯父上が法廷を専らし、独裁の準備をしていると」

「……それで、追放されたんだ」

「そう、伯父上の名声は高すぎたのだ」

 聞いて、おれの背筋が冷えた。アテナイは輝かしいだけじゃない。光が濃いからこそ闇もまた深い光と闇のポリスなんだ。気に入らなければ功労者さえ追放するような。

 ──え? テミストクレスが?

 あっ、とおれは気づいて声をあげていた。

「じゃあ、ファンダレオンは、自分の伯父さんを追放した人の従者に!?」

「自業自得だ。冷酷かもしれないが、別にテミストクレス殿を憎んではいない」

 ものすごい即答だった。

『六年前に何を求め、何を志してサラミスにいたのだ』

 あのアリステイデスの問いは、敵意を孕んでて当然のものだったんじゃないか!

 マーレウスたちの言動や周囲の異様な反応の意味、そしておれが覚えた違和感の正体がやっとつかめた気がした。

 いくら「正義の人」だって、彼だって人間だ。追放されたからといって、自分を追放させた政敵につくもやむなしと納得するか? ──しないかもしれない。無理矢理にまでテミストクレスの従者になったファンダレオンを憎むか? ──憎んでるかも、しれない。そう考えて、ぞっとした。

「それが……それが『潜在』してたから?」

 悪夢に囚われた気分で、おれは喘いだ。

 なのに、ファンダレオンはいいやと言った。

「そうではない。事の本番は、サラミスで伯父上に対面してからだった」

 そんな、と耳をふさぎたくなるのを、おれは必死にこらえた。これ以上!? どろどろした底無し沼にはまってゆくような絶望感に、おれはぐらりとふらついてしまった。

 そんなおれの思いをよそに、ファンダレオンは葡萄酒を口にしてから告げた。

「前に言ったな。『私が無花果が無花果に似るより伯父上に似ている』、と」

「……う、うん」

「私の父は「アリステイデス」の弟だ。それも、双子の。私が無花果のように似ていても不思議はない。そうだな?」

 台詞はちゃんと筋が通っている。だからおれも一応うなずいたけど、なんだか不気味な確認の仕方に感じた。

「私も、その時まではそう思っていた」

 今回は完全に婉曲した物言いだ。だけど、「思っていた」という過去形の語尾に、不気味なのを越えて戦慄さえさせられた。

「その時ってのは、サラミスでアリステイデスさまに会った時のこと? ……あれ、でも、陶片追放って十年じゃなかったっけ」

「呼び戻したのだ。追放された者がヘラスを憎んでペルシアにつかないようにな。それに、ヘラスをまとめるうえでは、人望が必要だった。テミストクレス殿の才略だけではなく」

「そんな! それって勝手じゃないか!!」

 嫉妬して追い出しておいて戦争になったら都合よく許してやる。そんなことを平気でする市民たちがまるで悪魔のように思えた。

 でもアリステイデスは、それでもヘラスの、アテナイのために戦った。だから「正義の人」って讃えられているんだ。それも、一度は自分を追放した人たちから! そして今もアテナイのために最前線で政治を執っている。どんなことになっても自分の信念を貫き通す人なんだ、あの人は。

 でも、だからこそ、サラミスに「来たのだ」、ではなく、サラミスに「いたのだ」、とあの時ファンダレオンに訊いたんだ……。

 ファンダレオンは肯定も否定もすることなく、淡々と話を戻した。

「そこで伯父上はテミストクレス殿の傍らにいた私に驚き、自分の天幕に呼び出して詰った。そして、──こう言ったのだ」

 その時の彼のことを、おれはきっと一生忘れないに違いない。

 わずかに歪められた美しい唇も、寄った眉根も、怖いくらい色が消え失せた双眸も、途方に暮れたみたいな表情も。

「『おまえは本当はわたしの息子なのだぞ』と」



 ……おれは、無意識のうちにファンダレオンの手を握りしめていた。でも、握ったのを認識すると心から強く握り直した。そうしないではいられなかった。

「ルシアス?」

 ファンダレオンの怪訝な声に、おれは何度も何度も頭を振った。

 何を、言えるっていうんだ。

 この人は、この人は、どんな思いでその事実を聞いたんだろう。

 おれには想像さえもつかない。十八年間、疑うはずもなかった根本的なことを一言で引っ繰り返されて、詰られただなんて。自分を追放した政敵に従ってた息子への、それが報復だったっていうのか!?

 信じられなかった。どんな理由があったって、アリステイデスの仕打ちは残酷すぎる。

「……ご……ごめ、ん。続けてよ、ファンダレオン」

 事実を話すだけで大変だろうファンダレオンに心配させたくなくて、おれは笑ってみた。

「痛いくらい手を握ったままでか」

「だめ?」

 ふ、とファンダレオンが息をついた。返事の代わりに、再び話が戻った。

「全て偶然だったそうだ。アンティオキス族の饗宴で供の奴隷ともども泥酔して、戻る家を間違えた。そこには美しい女がいた。一目で心を奪われ、酔いの勢いで無理矢理に契ったその女が──弟の新妻だった。女は孕んだ。だが、テミストクレスたちに攻撃の口実を与えてはならぬ、ということで事はアリステイデスと弟夫婦、そして彼らの奴隷たちの胸に収められた。子供が産まれると女は気が咎め、悩み、子供を疎みながら狂い、六年後に死んだ。その夫は哀れな妻しか見なかった。子供は世間体に触れぬ程度しか接されず、妻の死後ははっきりと憎まれた。奴隷だけがその子供を哀れみ、慈しんで育てた。やがて夫も死に、その子供が跡を継いだ」

 淡々とした口調だからこそ辛くなった。

 それじゃ、ファンダレオンが身一つで奴隷を守ろうとしたのは……まさにアリステイデスの子供だったからなんじゃないか。

 ぎゅう、とおれは手にもっともっと力をこめた。ファンダレオンは、だから奴隷に感謝したんだ。

 もしかしたら、ファンダレオンのお母さんが狂ったのは、それまではアリステイデスの子供を産んだせいじゃなく出産そのもののせいだって思ったんじゃないだろうか。お父さんだってお母さんを想う余りに顧みなくて、ついに憎んだんじゃないかって……でも……。

 おれは、衝動的に彼に抱きついた。

 皮肉とか悲劇とか、そんなもんじゃない。

「ひどいよ、そんなの、ひどい……」

 全身いっぱいに感じるファンダレオンは、今はひどく冷たいと思った。たった一人で真実と辛さに閉ざされて、でも自分のせいじゃないからどうにもできなくて凍えていって。

 なんて、──なんて可哀相な人なんだろう。

「命を懸ける」、つまり戦うのは「一度で充分」なんて言ったのは、きっと、サラミスという戦場でこんなことがあったから?

 おれは、ファンダレオンは恵まれて恵まれてるんだって信じて疑いもしなかった。才色ともに優れてて、名門で、裕福で、欠けたものなんか何もないって思ってた。才色なんかはなくたって生きてはいける。

 だけどこれだけは、とおれは悲しくなった。

「ファンダレオンは……たった一人だったの、ずっと?」

「……出会った時に、わかった」

 ファンダレオンが淡く笑いかけた。

「おまえは家族に愛されていたのだな。目が、私のように冷たく荒んでいない。そばに置いていて、私までも幸せになるようだった。弟のように思ったし、今も思っている。おまえのためにも戦いたい、心からそう思う」

「ファンダレオン? なんだって?」

 「戦う」? おれは思わず彼に問い返した。

「『命を懸けるのは一度で充分だ』」

 厳かなくらい深い強い声だった。

「全てを知った時、私はそう思った。ペルシアが勝てば皆が奴隷、誰も彼らを引き上げられなくなる。だから今はヘラスのためにも戦う。だが、これからは奴隷のためだけに命を懸ける。参政権がなく、売り買いされ、時に酷使される、そんな枷を少しでも、と」

 決然とした言葉に、おれは呆然となった。

 本気だ。本気でファンダレオンは……奴隷制に、ヘラスに挑戦しようとしてるんだ。おれは、彼がどれほど奴隷たちに感謝してるのか、そして逆に両親やアリステイデスから受けた傷がどれほど深かったかを知った気が、した。

「プラタイアイから帰った私は、奴隷を全員解放しようとした。しかし、恐らくはそれだけで終わってしまう。だから、まず自ら奴隷たちを『魂のある道具』でなく『人間』として扱う事を周囲に示した。私が先陣を切れば、やがてそれに共感する者も出るかもしれない……命を懸けた、また現在だけでなく未来に賭けた『戦い』だ。もっとも、私一人が主張しても無理なほどに奴隷制は定着しているし、誤れば私は潰される。潰されては、全ての可能性が断たれてしまう。アルカリウスの子でアロペケ区に住むファンダレオンは奴隷を己と等しく扱った、と、無事に名が残れば希望が持てる。私が一石となってヘラスという湖に波紋を立て、後に何かが変われば」

 それが私がこの世に生を受けてしまった意味になるかもしれない──大輪の華のように鮮やかな笑顔で、ファンダレオンはそう締めくくった。

 おれはただ大きくうなずき続けるだけしかできなかった。この人はなんて孤独で、それ以上になんて強い人なんだろうか。

 確かに、ファンダレオンの理想に味方する奴がそういるとは思えない。温情家だなんて誤解してる人もいる。が、それでもこの人は石になって自分を投げこむと言い切った。生きてるうちに結果が出なくて、未来でも誤解されて一生がむだに終わるかもしれないのに。

 本当に、なんて人なんだろう……。

 ぐす、と今度は感動の余りに泣き出してたのに気づいて、おれは言いながら鼻をすする。

「ファンダレオンは、奴隷に公正なんじゃないんだね」

「……何?」

「ファンダレオンは、奴隷を愛してるんだね」

 おれの返事に彼は意表を突かれたように目を瞠り、そうしておれの頭をついと小突いた。

「子供のくせに生意気な事を言う」

 怒ってるんじゃなく、楽しそうだった。相好を崩したファンダレオンは、本当に美しくて素敵だ。彼の穏やかな表情によって周りにアテナイの暑さが戻った瞬間、おれは固く心を決めていた。

 この人に、どこまででもついてゆこう。

 絶対に、この人を守ろう。

 たとえ……おれがどうなっても。

 ラルアのことさえその時はすっかり忘れて、おれはファンダレオンに笑い返しながらそう胸に繰り返し、強く強く言い聞かせ続けた。



 ファンダレオンが包帯を取り替えに出て行ってすぐ、アドニス、とおれは呼ばれた。

「サラディ、久しぶりだね」

 間抜けな挨拶だが、二日ぶりには違いない。

 アレウシアは呆れたように肩をすくめたけど、当人はいつもの勝気な態度じゃなかった。

 黙って、潤む瞳でおれを見つめてくる。

「サラディ……?」

 心配かけたから怒られるかな、と半ば身構えていたおれに、彼女は大声でこう言った。

「だ、だいじょうぶだよ、アドニスっ!」

「…………へ?」

 台詞が、……いつもと違う……よな。おれも凝然となってサラディを見返してんだろう。

 戸惑うおれに、彼女はもっと言い張った。

「あたし──あたし、ラルアって子をあんなにした奴、絶対ファンダレオンさまがふん捕まえてぶち殺してくれるよ! そう思う! だからね、アドニスはファンダレオンさまを信じてりゃいいんだよ! 絶対、絶対ね!!」

 ものすごく物騒で怖い内容だったけど、やっぱり心配してくれてるのがわかって、おれは嬉しかった。口出ししないけど、アレウシアも同意するように目を眇めた。

 ……ねえ、大丈夫だよ。こんなに信頼してる人たちだっているんだよ、ファンダレオン。

 おれのこともみんな引っくるめて、そのことが本当に嬉しかった。きっと、いや絶対、ファンダレオンのしていることはむだにはならないと思えた。市民たちだって絶対、たとえ「魂のある道具」であったとしても、こんな風に奴隷から慕われた方がいいと思うに決まってる。

「ありがとう、サラディ……おれもそう思う」

 お礼を言って、軽く笑って、気づいた。

 あんなにめちゃくちゃだったおれの感情が、凪いだ海みたいに落ち着いていたのを。

 怒りもある。憎しみもある。悲しみも喪失感もみんなある。だけど思考はもうはっきりしていた──まさか、一度おれの気をラルアからそらせて安定させるために話してくれたんだろうか? そうかもしれない。

 だったら、おれがすべきことは早く回復することだ。ファンダレオンの役に立てるようにならなきゃ。あの人もまだ重傷なんだから、おれが動けるようにならないと。

「何か食べ物ある?」

 おれが反射的に出した声に、サラディがびっくりしてのけぞった。

「た、食べ物!? ち、ちょっと待っててよね」

 よし、無理にだって栄養を取ってやる。

 元気になって、そうして……ファンダレオンを助けるだけじゃない。

 ラルアを殺した犯人も、見つけるんだ。

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