無花果が無花果に似ているより・中

 アリステイデスには、肩から腕にかけて手当された証があった。

 おれは同席を命じられ、ファンダレオンの傍らに座っていた。

「重傷と聞いたが、具合は悪くないようだな」

 安心したようなまなざしを向け、アリステイデスが用意された席につく。連れの奴隷は室外に待たせたらしく、寝室にはおれたち三人しかいなかった。おれは不気味な当惑を必死で隠しながら客人に礼をした。

 人払いをしろ、とは言われなくて、おれはついほっと胸を撫で下ろす。逆に、甥の看病ご苦労だなとおれに温かい顔をしてくれた。あんな話の後なので、複雑な気分だ。

「どのような噂が飛び交っておりますか」

「普段から人嫌いのおまえが、巧く人避けをしている。実は重傷でもないのでは、と」

「それが心配ですか、伯父上には」

 人嫌いという発言を特に否定せず、ファンダレオンが薄く笑った。「人嫌い」じゃなくて人を選んでる気が、おれはしてたけど……まあ、話がそれるから言わないんだろう。

 うむ、とアリステイデスが即座に応じた。

「甥の将来がな。おまえもいずれは世に出るだろう」

 うまくかわしたように見えたのは、ついさっきまであんな会話をしてたから? 思えば、ファンダレオンもそんなことはおくびにも出さない。すごい精神力だ、とその穏やかな顔におれは内心はらはらした。

「生憎ですが、その気はありません」

「おまえが色々な者にそう言っているのは有名だが、何よりテミストクレスが放っておくまい。無論、わたしもだが」

 ファンダレオンが、凄みがあるとしか形容できないような低い笑い声を立てた。

「前置きはその程度にしましょう、伯父上」

 おれは危うく悲鳴をあげかけさえした。

 一瞬──おれはもちろんのこと、アリステイデスの笑顔までもが止まった。本当にあるんだ、美しすぎるから怖くなる顔が。そしておれは、確かに何かが「潜在」してるのがわかる恐ろしい暗さを実感した。

 ただ一人だけ平然と、ファンダレオンが続ける。

「本日のご来訪の目的を。世間話をしている気は、伯父上にもありますまい」

「……では、そうしよう」

 完全に呑まれた形で、心なし青ざめたアリステイデスが呻くように応じた。

「この事件を、おまえはどう思っている?」

「ラケダイモンかペルシアの陰謀でしょう」

 ぴくりとアリステイデスの眉が動く。

 ……はああっ!?

 すました返答に、真相を多少は知ってるおれはぎょっと目を瞠ってしまった。そりゃあ、いきなり「伯父上ではありませんか」と詰め寄りはしないだろうけど、それにしてもそこまで冷静沈着に言い切れるファンダレオンが、まじに化け物かと思った。

「テミストクレス殿と伯父上と私が同時に襲われました。普段は敵対している二人を襲うのは、アテナイの敵かヘラスの敵に思います。私をまず狙ったのは内紛を招くためでしょう。互いが互いの保険のために自分と私をも刺客に狙わせたのだと、いらぬ憶測を呼ぶために」

 実はなんだかんだ言ってもそう思っていたんじゃないか、と突っこみたくなるくらいファンダレオンの口調は滑らかだった。

「彼らからすれば、私は必ず死ななければならなかったのでしょう。私が死ななければ、単にアテナイの敵が内紛を狙って全員同時に襲ったという話に落ち着いてしまいます。しかし、私が死ねば伯父上もテミストクレス殿も黙ってはおられません。その上でどちらかでも死ねばさらに混乱が広がりますし、死ななくてもあの民会でのことがあります。疑心暗鬼で内紛が起これば充分だったのでしょう」

 しかし、とファンダレオンが言を継ぐ。

「誰も死ななかったことは大いなる幸いでした。この幸運を神々に感謝しましょう。刺客どもの黒装束の下にあったのはラケダイモン人か雄々しいペルシア人、または、ペルシアの息のかかったミレトスらイオニア植民市の者の顔かもしれませぬ」

 アリステイデスは何も言わない。言えない、といった感じで甥をただただ見据えている。

 なるほどと納得して、おれは慄然となった。

 ファンダレオンは、テミストクレスにもアリステイデスにも近い自分の立場の微妙さを逆利用して、巧みに話をすり替えた。無論、本当のことなんて言えない。だけど互いに潜在的な敵だというなら、アリステイデスも疑ってるかもしれないんだ。大体、今だって探るために見舞いに来たかもしれないんだ。互いに牙と思惑とを隠し、親しげに向かい合い──そう考えると、恐ろしいほど鮮やかなかわし方に自分の主人ながら怖くなる。

 これは、戦い。水面下の戦いなんだ。

 とんでもないことに係わっちまったんじゃないか? とてつもない確信におれの身体は芯から冷たくなり、震えた。

 事情を把握してはいないけど、にわかに微笑や柔らかさが失われ、思惟が汲み取れなくなったアリステイデスの顔が妙に怖かった。

「……そうだな。わたしもテミストクレスも、刺客の姿形を断言できないのだからな」

 そして、ファンダレオンも。たとえ見ていたって、彼はしらを切り通すだろう。

 アリステイデスが、ふっと顔色を改めた。

「ファンダレオン、今日はその事があってな」

 そうだと思いました、と得心するファンダレオンの美貌は変わらず冷たい。

「テミストクレス殿の仕業にしたいのですか」

 非難ではなく質問の口調だ。

 そう、とごくあっさりとアリステイデスは陰謀を認めた。

「彼は卑劣にも、己が疑われぬために気に入りのおまえをもあえて傷つけ、そしてわたしを狙ったのだ。おまえが今、そう言ったではないか」

 「正義の人」の台詞かと思うほど、狡猾な論法だった。

 今やおれにはこう聞こえた。この事態はどうにでも転ぶ。不名誉な噂を立てられる前に私に従え、と!

「ええ、そう言いましたが、それで?」

「テミストクレスはおまえを脅したのだ。わたしがおまえを襲わせることで身の安全をはかったのだ……そう、自分に訴えるように、とな」

 その後はテミストクレスが民会を巧く動かし、哀れ私は再び追放されるという計画だったのだ、と続けて、アリステイデスは苦笑した。あの男も私を陥れようとおまえを見舞いに来るのだろう、と彼が誰にともなく続けた時、おれはたまらずファンダレオンを見上げていた。

 今日の今朝、おれは起き抜けにファンダレオンに言われたんだ。

 テミストクレス殿も伯父上の仕業にさせようとするだろう、と。

「『正義の人』らしからぬ策略ですね」

「テミストクレスは平地にわざわざ乱を起こす男だ。金銭癖も悪い。しかもそれは、アテナイのためでなく己のためだ。あの者は、己が第一人者とさえなれればいいだけなのだ」

「それでもテミストクレス殿はよい案も出しますよ。伯父上が潰した事とてあるでしょう」

 きりっ、とアリステイデスの目が鋭くなる。

「あの者が手に負えなくなるくらいなら……」

「アテナイの利害の一つや二つは潰す。それが伯父上の『正義』の限界でしょう」

「ファンダレオン」

「伯父上はわかっておられるはず。敵がいるからこその『第一人者』なのだと」

 平然とうそぶいて、ファンダレオンはさらなる無表情になる。

 恐ろしすぎる「戦い」だった。そう、アリステイデスは先手を打ちに来たんだ。ファンダレオンが握る大きな鍵を掌握するために。

 違う、ファンダレオンをも掌握するためだ。テミストクレスと転落するか自分の片棒を担ぐか、アリステイデスはそれをも迫っていた。その双眸は鋭かった。敵を威嚇するみたいな、想像もつかないぎらつきを放っていて、おれは肌寒さを覚えた。もしかしたらとっくに真相を悟っているんじゃないかというほど、今の彼には隙や甘さがない。

 やはり改革期を、そして鋭敏なテミストクレスとの政争を乗り越えてきた「政治家」なんだ、アリステイデスは……!

 ファンダレオンが、不意にその表情を和ませた。

「テミストクレス殿を陥れる事は、お断りします」

「何……?」

 アリステイデスが意外げに目を見開く。

「敵はまだいます。南にラケダイモン、イオニアの向こうにはペルシアが。敵の策に乗って彼らを喜ばせてやる必要はありますまい」

 淡々と告げて、手振りで葡萄酒のおかわりをおれに注がせる。そのくそ度胸におれは驚愕した。あそこまで威圧されてなお、ファンダレオンは切ったしらを切り通す気だ!

「伯父上もまた自分で言われたではありませんか。私はテミストクレス殿の気に入り。しかし、政に係わる気のない身に、あの方を追い落とすやら伯父上に荷担するやらと面倒な所作は必要ありません。私自らのためにもアテナイのためにも誰を陥れることもできません。それが、私の答えです」

 余りにも凄まじすぎる言い分だった。

 この状態では、当初の計画通りにアリステイデスを陥れるには都合が悪すぎる。アリステイデスもまた襲われたことで、この陰謀の方向性というか可能性が複雑に増えてしまったからだ。そこでファンダレオンは、話をこじらせるよりは「誰も陥れない」という態度を示して立場保持を選んだのに違いない。アリステイデスを失脚させるのは今回は諦めた、ということだ。

 本当は、それでもファンダレオンは、自分からアリステイデスを追い落とそうとしたのだけれど……。

 内心どう思ったかはともかく、アリステイデスはうなずいた。ここまで言われたら、さしもの彼もつけいれないだろう。

「──よかろう。確かに、まだペルシアやラケダイモンの脅威は消えたわけではないからな。テミストクレスの仕業であろうが、わたしも追及はすまい。今は生き延びたことを神々に感謝し、おまえの早い回復を医神アスクレピオスに祈ることにしよう。神々も、いずれは真実を報いとして示されようからな」

「お帰りですか。申し訳ありません、ヘラスの美風に背いてしまい何もおもてなしできず」

「無理に見舞ったのだから気にせずともいい」

 虚礼といっていいくらいの社交辞令に手を振り、アリステイデスは立ち上がりざま突然に、気づいたようにおれを振り向いた。

 そうして続いた言葉に、──心が止まった。

「そう、神々は示されよう。……我がために殺された、哀れなラルアの魂のためにも」

 その瞬間、おれは、意識が波のように闇の中へ引いてゆく気がした。

 身体が自分のものじゃなくなって、とっさに喋れなくなる。

 卓上に戻そうとした、葡萄酒に混ぜるのに使った水差しが両手の中から逃げ出した。

 鈍い破砕音。異様に冷えた、足にかかった水。

「な……ラル、ア……?」

 おれと同じ船でアテナイまで連れてこられた、テッサリアの、……あの、ラルア?

 ルシアス、とファンダレオンが声をかけてくるが、それさえももう遠い。ラルアの顔さえ、とっさに思い浮かべられなかった。

 アリステイデスを守って女奴隷が一人死んだ、そうは聞き知っていた。

 だけど、でも!

 その、名前、は──。

 呆然と震えるおれの眼前で、アリステイデスが残酷なほどに沈痛な面持ちになった。

「知っているだろう。テッサリア生まれで小柄な、小麦色の肌の少女だ。おまえを買った相手がファンダレオンだと知ってもおまえの事を気にしていたと、女奴隷たちが言っていた。ルシアスは無事か、いつか会いたい、と。──すまぬ事をした。本来は、主としてわたしこそが守らなければならなかったのに」

「あ……、そんな、いや、だ……」

 いや、だ。謝罪なんかいらない。

 おれは何度も何度も、全身で頭を振っていた。

 謝るならたった一言、人違いだったと訂正して欲しかった。

 おれを知っている「ラルア」は、おれを心配する「ラルア」はあいつしかいない。あいつだけなんだ……!

「ルシアス!」

「うそだ……嘘だ! 嘘だあぁぁ──っ!!」

 ラルア!

 おれは衝撃に泣き叫んだ。誰かが両肩をつかんだ気がしたけど、もう何も感じられなかった。みんな、みんな、おれから閉ざされる。何も見えない。何も聞こえない。何もわからない。何も……信じられない。

 そして、

 闇の中で、気が、遠く、なった。



 ──わたし、鳥になりたいの。イカロスみたいな蝋の羽根でいいの。飛べれば。ここから逃げて、自由になれればなんでもいいの。

 声が聞こえる。誰の声だろう? すごく懐かしい。少し舌足らずであどけない訛りを、おれは確かに知っている。でも、あともう少しなのになぜか思い出せない。

 そんなおれに構わず、闇の奥からその女の子が語り続ける。

 ──でね、ルシアスを背中に乗せてく。ルシアスの行きたいところに行くの。ルシアスといっしょだったら……わたし、ルシアスが好き。大好きな、ルシアスとだったら。

 ──ずっと、ずうっといっしょにいたいの。 君が鳥になれれば、一緒にいられる?

 その想いの強さに知らず声をかけたおれの問いは、だけど無視されてしまった。

 ──ルシアスは、わたし、きらい?

 ──きらわないでね。

 ──きれいな鳥になれたら、いいな。ルシアスが好きになってくれる、白い鳥。

 ──ルシアス!

 ──ずっとずっと北にあるスキタイってところはね、草原がずっと広がってるんだって。行ってみたいね。行きたいな……。



 泉から清水が湧き出すみたいに、彼女の声は止まらなかった。おれを本当に想ってくれてるんだ……なのに、おれはちっとも思い出せない。その情けない現実に、心が悔しさにしめつけられた。

 君は誰なんだ?

 君は──え、現実? おれは息を呑んだ。

 この闇は「現実」なのか?

 ここは、どこなんだ? おれは、おれは、一体どうしているんだ!?

 この現実に疑問を呈し、そう思い巡らし始めてからかなりの時間が経った時、

 再び、女の子の声が響いた。相変わらずの完全な闇の中なのに、なぜかその声はおれの耳元でしたってわかった。

「アレウシア! もう二日だよ! アド……ルシアスが、全然気づかないなんて!」

 どういうことなんだよ! と、食ってかかって怒鳴る。多分アレウシアという人に。そして答えたのも多分、アレウシアなんだろう。悲痛な声音で、彼女は落ち着きなさいと相手を宥めた。

「お医者さまは心の病だと言ったわ。サラディ……よっぽど、辛かったのよ。あたしも一度だけ、聞いたことがあったわ」

「あの子の、ことをかい?」

「いつか会えるように、アテナに祈ってるって。あたしたち奴隷はアクロポリスには上がれないから、アクロポリスに祈っていたって。もしかしたら、好きだったのかもね」

「そんな、そんなのひどすぎるよ! その結果がこれだなんて、あんまりだよっ!!」

 サラディと呼ばれた女の子が、激しく泣きじゃくるのがわかった。おれの身体に覆いかぶさって、……ああ、そうだ、おれは眠ってて、ここは夢という闇の中なんだ。

 でも、なんでおれは二日も眠り続けて、サラディやアレウシアに心配をかけてるんだろう。わかっているはずなのに、眠ってるせいかつかめない。もどかしさに、目覚めたくなった。

 途端に、おれの何かが浮上する感触がした。

 戻るんだ、という言葉が不意に浮かぶ。そう、戻るんだ……本物の、「現実」へ。

 そうしておれが目覚めた先に、全てに対する答えがあるに違いなかった。

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