無花果が無花果に似ているより・上
「ファンダレオンどのはご無事か!?」
……アゴラでファンダレオンの安否を問われたのは、もう十七人目にもなった。
おれが彼の奴隷なのは知られてるみたいで、応対だけで疲れ果てた。大丈夫です、ご無事ですからと何度言ったろう。それに、みんな一回言って納得してもらえた、ってわけじゃない。ぐたぐた悩み出す奴まで現れて、その時は十回からは数えるのを放棄した。
さすがはアリステイデスの甥で、とんでもない美貌の人だ。中には、顔は無事かと詰め寄ってきた彫刻家までいたんだから。
ともかく、すごい大騒ぎになっていた。ファンダレオンとテミストクレスとアリステイデスが三人同時に襲われれば当然だけど、どこに行っても声をかけられるし、どこでもその話で持ちきりだし……そして、おれもちゃんとファンダレオンの命令をこなしてた。
「アリステイデスさまたちも襲われたと聞いて、ファンダレオンさまが心配してるんです。何かご存知でしたら、教えていただけませんか?」
我ながら口が巧くなったなと、嬉しくより怖く思う。ともかく、そう尋ね返すと、ファンダレオンが面会謝絶と知ってるから「彼に伝えてくれ」とみんな教えてくれるんだ。
こうして、アゴラが出盛る頃には、おれの頭の中では昨夜の事件のあらましが大分はっきりしてきた。
まず、これは今朝ファンダレオンに聞いたことだけど、テミストクレスがあんな謀略を実行したのはこういう背景からだったらしい。
プラタイアイの戦いでクセルクセスが退却したものの、それでペルシアとの戦い自体がなくなったわけじゃない。
前四七八年には、アリステイデスとキモンがアテナイの将軍として戦った。キモンはミルティアデスの息子だ。ちなみに祖父の名もキモンで、祖父の異父兄弟の名もミルティアデスだからややこしい。
ミルティアデスはマラトンの戦いの翌年、パロス遠征に失敗した。これで五十タラントンもの罰金を課せられたうえ、この遠征での戦傷が悪化して死んでしまった。こういう気の毒な人っているんだよな。おれには想像もつかないミルティアデスの「遺産」を、キモンは全額払ってのけた。トラキアの南で食糧輸送の要衝、ケルソネソス半島南端にあるケルソネソスの名門とはいえ、すごい経済力だ。
で、その時、このキモンとアリステイデスは、ラケダイモンの王族に連なる将軍パウサニアスと一緒に戦った。結果としては今回も勝ち、トラキア西端の都市ビザンティオンを占領した。さらに、パウサニアスが威張りくさった乱暴者だったから、声望が一気にアリステイデスに集まった。ラケダイモンは、根拠地ペロポネソス半島を中心とするペロポネソス同盟の盟主をやってるんだけど、これに嫌気がさしたこの同盟の将軍たちがアテナイに寝返ってしまったんだ。話が前後するけど、このキオス、サモス、レスボスの諸ポリスがアリステイデスにラケダイモンに対する同盟を作ってくれって頼んで、翌前四七七年にデロス同盟ができる。
テミストクレスも、そのラケダイモンで大活躍した。アテナイが城壁と港の着工を始めたのを恐れて抗議してきたラケダイモンに自ら乗りこんで、長官に弁明したんだ。長官はラケダイモンに五人いて、王の次に偉い。彼らや、アテナイの南にあるアイギナ島からアテナイの視察に派遣されたポリュアルコスの非難に、テミストクレスはこう提案した。
ならばアテナイに調査員を送りこめばどうか、と。それが工事の時間稼ぎだけでなく、調査員を人質にしてラケダイモンにいる自分の安全を保ち、さらに自分の手駒にもするためなのがすごい。結局テミストクレスは無事に帰ったんだから、ものすごい度胸だと思う。
けど、やっぱり同盟締結の方が派手だし、テミストクレスはどんなに有能でも「正義の人」とは呼ばれないと思う。そこが彼らの、絶対に埋められない才能と性格の差かもしれない。アリステイデスにはテミストクレスの利害重視の施策を理解できないのだろうし、テミストクレスにもアリステイデスが望む遠回りでも穏やかな政策はかったるいのだろうから。
でも、それで「アリステイデスが誉められているわけではない。その財布が誉められているだけだ」なんて皮肉を飛ばしても、所詮は皮肉でしかない。アリステイデスが締結させたデロス同盟の誕生から今年で三年、そろそろ引きずり下ろそうとしたんだろう。彼がいなくてももう支障はないと、テミストクレスはきっと見極めをつけたのに違いなかった。
でも、そこでファンダレオンに陰謀を持ちかけるのがわからない。
いくらペルシア戦争で自分の側についたからって、敵の甥に……そこら辺はファンダレオンに尋ねることにして、おれはもやもやした気分を抱えながらも戻ることにした。
そうして帰り着いたおれに、ファンダレオンが小さく笑いかけてくる。
「大変だったようだな」
「いろんな人に訊かれたよ。陪審員から芸術家まで、ものすごい人気じゃないか」
皮肉でなく答えて、おれは寝台のそばに座った。
昨夜は心配で考えもしなかったが、やつれててもやっぱり美しい。そこらの女だったら、何をしてでも看病したいと思うだろう。
「それだけに訊き返しがいがあったろう。私が気にしているから状況を教えてくれ、そんなところか」
おれは笑い流そうとして失敗した。この人、人間か? それとも、人間は夕べ死にかけてもこんなに早く頭の回転が戻るんだろうか。
そうだよ、と素直にうなずくのは気に食わなかったので、おれは今度は皮肉で言った。
「──そこまでお見通しだったら、おれをアゴラにやる必要なんてないんじゃない?」
「おまえの言動は見えても、状況はいま少し見えないのでな」
憎たらしいくらいすまして、ファンダレオンが葡萄酒を干した。おれにもアレウシアが水と果物を差し入れてくれる。
「いま少し、って、見えてるの、状況?」
手を伸ばしかけ、でもふと気づいて彼を改めて見やった。この人の一言一句は、夜に烏を見つけるのと同じくらいどこに何があるかわからない。
ファンダレオンは平然と応じてくれた。
「それはおまえの話次第だ。おまえはホメロスの才はないが、アキレウスの勇武でなく、昨夜の事実ならうまく詠えよう」
からかう言い草に、おれはそっぽを向いてしまった。どうせ叙事詩を詠うの下手だよ、おれは。自分が怪我して動けないくせになんだよ、その相変わらずな態度は。そう思ってみても、こういうところが健在で実は安心してもいるおれも始末に置けない。結局、何も突っこまずに彼に向き直った。
「まずはテミストクレスさまだけど、あの時、遊女を連れこんでたんだって。名前は」
「レモティナだろう。私も知っている」
恋心を打ち明けられ、断ったそうだ。傷心のレモティナを慰め口説き、見事に成功した、と前に自慢話を聞かされたという。それを冷静な顔で話され、おれはすごく困った。テミストクレスはその失恋相手を知ってるんだろうか。
「そ、そう。で、その人と、その……」
「同衾していると黒装束の男どもが乱入した」
言葉に迷う間もなく、ファンダレオンが先を引き取った。当然、その黒装束の奴らもテミストクレスの手下じゃないに違いない。それにしても、察しがいいのはありがたいけど、「同衾」なんてきわどい台詞を飛ばさないでくれよ。
ともあれ、おれはそんな内心を抑えてうなずいた。言葉はどうあれ間違いはないから。
そうしてその後の経緯はというと、これがまたなんだか不気味なのだった。
「どうにか抵抗してるうちに奴らの仲間らしき黒ずくめがやってきて、何か話した後、いきなり去ってったっていうんだよ」
「テミストクレス殿は武器を持っていたのか」
「ううん、ほとんど裸でレモティナと自分を守ったって」
「敵刃をかわしにかわし、数箇所負傷しながらもか弱い女性まで守った」としっかり見舞客に吹聴してるそうである。姑息なんだけど、テミストクレスの場合はなんか恐れ入ってしまう。それを話すとファンダレオンも苦笑いを浮かべた。
「策略を仕掛けた晩に同衾できるとは、さすがはテミストクレス殿だ。私とは度胸が違う」
おれとは視点がずれてる誉め方だけど、それもそれでやっぱり恐れ入ることではある。
不意に、ファンダレオンがまなざしを鋭くした。
「ルシアス、──それで、テミストクレス殿が襲われたのはいつだった」
その急変に気圧されて、おれは知らず声をひそめてしまった。
「……ええっと、おれたちが襲われてからわりと後だったかな。相次いで、っていう風に言われたから、……あっ!」
おれはぎょっとなり、息を呑んだ。まさか、と、ファンダレオンと顔を見合わせる。彼もまた、心が通じ合った仲間に対するような表情をおれに見せていた。
「ファンダレオンを殺すのに失敗したから、だから……!」
「つまり、我々は二人ともに殺されなければ都合が悪かったらしいな」
だけど、ファンダレオンは本当にぎりぎりで生き残った。時間的には、おれが弓持ちを呼んで戻ったくらいって感じでぴったり合うじゃないか。そこでファンダレオンを殺すのは諦めて、計画を変更したんだ。少なくとも、彼とテミストクレスの襲撃は連動してたに違いなかった。テミストクレスの暗殺を中止した理由は、それ以外に考えつかない。
そこまで考えて、おれはぞっとなった。要するに、ファンダレオンが生き残るならテミストクレスを殺しても意味がないのか?
でも、普通は逆だろう。テミストクレスの方がよっぽど殺す理由も意味もあるはずだった。
あ、でも、だとしたら、アリステイデスへの襲撃はどういう繋がりがあるんだろう。
そんな時に、ちょうどファンダレオンが尋ねてきた。
「伯父上の方はどうだった」
「え? あ、アリステイデスさま?」
思案してたところに言われたものだから、とっさにど忘れしてしまった。
「え、ええとね。や、やっぱり、寝てるところをテミストクレスさまみたいに侵入されて、奴隷女が一人アリステイデスさまを庇って殺されて、その人のおかげで軽傷ですんだってこと……それくらいかな。死者が出たからだろうけど、大騒ぎだって」
物騒なたとえだけど、おれにとってはアレウシアやサラディが死んだようなものだ。「正義の人」である主人を守ったってわけで表彰とかされるかもしれない。羨ましいとは思わないが。葬式やら埋葬やらの準備もあるわけで、アリステイデスの自宅は蜂の巣みたいなことになってるらしい。彼もおれたちと同じくアテナイ東北にあるアロペケ区に住んでるが、結構遠い。本当は様子を調べに行くべきだけど、とにかく大騒ぎなので遠巻きに見ただけだった。テミストクレスの家もどっこいだから、床屋やら風呂屋やら人が集まる社交場を駆けずり回って聞き出したのだ。
ファイダレオンの瞳が、ふっと笑った。
「それも同衾中か?」
「さあ……それはわからなかったけど……」
ファンダレオンの訊き方は気のせいか冷ややかに感じた。けど、それは真剣さや、──疑いの裏返しかもしれなかった。
相入れない、「潜在」している。
そんな風に見なしてるアリステイデスまでもが襲われたのを、ファンダレオンはどう思ってるんだろう? おれは一瞬、不気味な何かが肌をかすめるのを覚えて水を一気飲みしていた。
それを無言で待っててくれたファンダレオンが、冷静な声で話を進める。
「襲ったのはやはり黒装束集団か」
「うん、そうだって」
「まだ捕まってはいないのだろうな」
おれはうなずいた。
「緊急で民会が招集されて、犯人を捕まえるためにアテナイで総動員が決まったよ。けど、テミストクレスさまとアリステイデスさまを襲った奴も覆面してたそうだから……」
やっぱりみんな同じ奴らじゃないかな、とつけ加えると、ファンダレオンは難しい顔で同意した。でも判断材料がないから一応そうしておこうとつけ足されて、おれは不安になった。別々の奴が示し合わせたように政敵同士を襲うなんて方がよっぽど確率が低いけど、こう、この人みたいもっと慎重に考えなきゃと思ったのだ。
でも、ファンダレオンは断定できなくても否定はしなかった。むしろ、その方向に傾いているように見えた。
ふっ、とものすごく嫌な感触がする。ファンダレオンが目の前で考えこんでるからじゃなく、本能的な深さで。早くどうにかして解決して欲しかった。この人が汚いことに手を染めたり命が危うくなるなんてのは、もういやだ。
「……解せぬな」
突然ぼそりと呟いて、ファンダレオンがさらに表情を翳らせた。
「解せないって、何が?」
「本気で殺そうとしたのは、そうなると私だけだった──という事にもなるな」
「あ……!!」
それはそうだけど、ととっさに言葉を継げなくなったおれに、彼はこう続けた。
あの刺客は、人ひとりが巻き添えになったくらいで去るような連中ではない。腕の程度に関係なく依頼を必ず果たすからこそ「刺客」という生業で生きられるのだ、と。
「それってまさか、アリステイデスさまも無理に殺すつもりはなかった、ってこと?」
「少し言い直せ。彼らの依頼人が、予めそういう命令を与えていたのだ、と」
そういう命令。ファンダレオンは必ず殺し、テミストクレスはその成否で決まる。アリステイデスもどちらでもいい。この人は「依頼人」の目的をそう推測してるんだ。でも、あの二人に優先して殺れ、だなんて相当のものじゃないか。相手の害意や殺意が、改めておれの肌に突き刺さる気がした。
震えてしまった声で、でも尋ねてみる。
「ファンダレオン、誰かに恨み買ってる?」
さあ、とファンダレオンが肩をすくめた。
それもそうだ、テミストクレスのお気に入りでアリステイデスの甥で頭も切れて美貌となれば、覚えのない恨みは当然あるだろう。
だけど、そこでファンダレオンは再びやばすぎる発言をやらかしてくれた。
「買うとすればまず伯父上だろうな、ルシアス」
淡々と、笑みさえして──そう、彼は昨夜と同じように断定したのだ。
「そんな……っ!」
たまらずおれは声を荒げていた。
「なんでだよ! なんでアリステイデスさまだって思えるんだよ! だって、伯父だろ! おれにさえ優しいくらいの人だよ、あの人!!」
アリステイデス以外に犯人はいないってくらい冷たすぎる確信が、ファンダレオンの声音にはあった。昨夜も聞かされたけど、この台詞だけは何度聞いても慣れない。
ぶどう泥棒の疑いをかけられたおれを労り、公正にしてくれたアリステイデス。少なくともおれには信じられない。その出来事に思い至ったのか、ファンダレオンはわずかに瞳を細めた。
でも意見撤回はしなかった。
「おまえに優しいのは、また別の事だ」
ずしり、と恐ろしく胸に響いた。おれは息を止めかけ、反動的にかっとなった。
「じゃあ教えてくれよ! アリステイデスさまが『敵』で、その理由! 『判断材料』を、おれに提供してくれよっ!」
「ルシアス」
「だって、アリステイデスさまが犯人っていうなら、ファンダレオンを狙っても疑われないようにテミストクレスさまや自分まで狙ったってことだろ!! なんのためにそこまでして、ファンダレオンを殺さなきゃいけないんだよ!!」
それも、政敵のテミストクレスよりも優先してまで……!
怒鳴り終えると、しんと静まりかえった。
ファンダレオンの美貌が、凄まじいまでに完全に表情を消した。おれを拒絶してるというより、何かを考えてるうちにそうなったという氷のような目で、彼は、こう言った。
「私が、無花果が無花果に似るより伯父上に似ている。その事から全てが始まった」
──いちじく?
いちじくって、あの果物のいちじくだろうか。顔を顰めたおれに、何かが酷似していることを「無花果が無花果に似るより似ている」って慣用句を使うと教えてくれた。
確かにファンダレオンはアリステイデスに似てる。年齢が近ければそっくりといえるかもしれない。でも、血の繋がりがあるんだから当然なんじゃないか? そう思ったけど、問えなかった。アレウシアが駆けこんできたからだ。
「ファンダレオンさまっ、アリステイデスさまがお見舞いにいらっしゃ──」
「お通ししろ。面会謝絶と知っていてなおいらしたのだ。帰りはしないだろう」
返事は早い。けど、おれは、ファンダレオンが伯父を歓迎してないのを暗に知った。
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