潜在する者たち・下

 夕食を終えたおれとファンダレオンは、パンアテナイア通りから裏道に入った。

 淡い月光のおかげで、アクロポリスの影が遠くに見える。さすがに人影はない。さしものアゴラやその周辺も、夜にさえなってしまえば遊女たちやその客以外はほとんど誰もいなくなる。夜風に当たりながら、おれは緊張でがちがちの身体を目一杯動かして歩いた。

「元気がいいな。酔っているとは思えないぞ」

「酔ってるのはファンダレオンだろ」

 正確にいうと、酔ってることになっているのがファンダレオンで、松明を持って先導している奴隷少年がおれなのである。嘘っぽい役柄だと思うが、事情を知っているからだろうとファンダレオンから一笑にふされた。

 それに、奴隷少年一人だけという不用心さで夜の散歩なんかする理由にまともなものがあるのかと言われて、おれは──納得してしまった。それはそうだ。呑みすぎて夜風に当たりたくなった、酔ってたから気が大きくなった、とでもしないと都合が悪い。そりゃあ、始めにファンダレオンがぽんと言い出した、

『恋の悩みに途方に暮れて、アクロポリスの女神に伺いを立てようとした』

 なんていう後々まで尾を引くやつよりはましだった。ましなだけだけどさ。

 ともかく、酒気を帯びたファンダレオンとおれは、これから正体不明の暴漢に襲われるはずだった。襲われると知ってて「正体不明」も何もないんだけど、ファンダレオンいわく、

「いつどこで襲われるかは知っているが、誰に襲われるかは知らない。だから『正体不明』なのだ」

 という。すっごい理屈だったけど、美貌と冷静な口調に圧倒されてしまった。これがテミストクレスの「計画」の要で、民会のことは布石なんだという。

 つまり、テミストクレスの案がアリステイデスに拒否された。その直後、テミストクレスとファンダレオンが襲われる。

 で、翌日にテミストクレスが涙ながらに訴えるんだ。

 アリステイデスは彼の提案を突っぱねたばかりか、再び「裏穴」発言までした。

 それだけテミストクレスを怒り、憎んでさえいる。そこで今こそ殺そうと考えた。

 テミストクレスに気に入られているファンダレオンもついでに狙えば、まさか伯父の仕業とは思われないだろう。あのひとを疎み、恨む者は少なくないから、政敵ながら「正義の人」が疑われはすまい。自分とて信じたくはなかったが、証拠と証人をつかんでしまった。よって神々と民衆に裁きを乞わねばならなくなった、と。ああ、ファンダレオンはこうも言った。

『テミストクレス殿の手の者の名前まで、私が細かに覚えていると思うのか?』

 もうわかったよ、「正体不明」でいいからさ。ファンダレオンが相当に意地っぱりだということを、今回にしておれは知った。

 確かに風は涼しくて、酒でも呑んでれば気持ちいいだろうな。うっすらと頬が紅潮したファンダレオンをちらと見上げ、おれはため息をついた。要するに、おれたちはこれからアリステイデスを罠にかけようとしているんだ。テミストクレスに事の真相を打ち明けられて、協力を求められたファンダレオンは仮にも自分の伯父を、その政敵と組んで……おれはもちろん反対した。アリステイデスにはぶどう泥棒の嫌疑を晴らしてもらった恩がある。それに、そんな卑怯な陰謀はファンダレオンらしくないじゃないか。

 だけれど、彼は、とても寂しげに微笑した。

『そろそろ伯父上とは、決着をつけるべきかもしれない。──敵の力を削ぐのは常道。だから伯父上も、私が敵か否か見定めようとしていた』

『え……敵……』

『今朝の会話だ。なぜテミストクレス殿についたのか、何を考えているのか、と尋ねたろう、伯父上は』

 そう言われてみれば、そうだ。あの時の二人の雰囲気は半端なものじゃなかった。民会に参加して旗色を出していれば、もっと早くになんらかの動きがあったかもしれない、そんなことをもファンダレオンに告げられて、おれはふっと悟っていた。

 なぜファンダレオンが民会に出なかったのか。

 「命を懸けるのは一度で充分」なんて言ってたのは、アリステイデスの目をごまかすために?

 でも、なんでアリステイデスが「敵」になるんだろう。ファンダレオンはテミストクレスに従ってるわけでもなかった。そう、他にもっと何かある感じがした。なのに、いきなり今アリステイデスを陥れようとしてるのは、それだけの理由があった、いや、あるから?

 わからない。でも、ファンダレオンを止められないのだけはわかった。考えなしな人じゃないからこそ、一度決めたらどうあってもてこでも変えないだろう。

 が、さらに否応なく片棒を担がされるおれは、代わりに理由を知る権利があるはずだ。

「ファンダレオン」

「今は何も聞くな」

 おれの顔色がそんなにはっきりしてたのか、まんまと先を見越した返事をされた。

「この件が片づいたら全て話す。今は我慢して、私が与えた役を果たせ」

 おれは非難をこめてそっぽを向いてやった。

 どうせ、この人には絶対に勝てやしないんだ。ちくしょう、松明持ちを完全にこなして見返してやるからな、ファンダレオン!

 と、周りが暗くなった。見てみると、松明の火が小さくなってきている。取りかえよう、とおれは腰の袋から木の棒を出した。油を染みこませた布が棒先に巻きついてるから、ここに火を移そうとした時だった。

 絞めつけられるような圧迫感!

 半瞬もしないうちに、おれとファンダレオンは取り囲まれた。お約束のような黒ずくめの奴らに。

「だ、誰だっ、あんたたち!」

 精一杯怯えて誰何してみる。

 野郎どもは答えない。じりじりと包囲を狭めてくるのが挨拶代わりってわけか。きら、といくつもの白刃がきらめいた。さすがはテミストクレス、ここは徹底的にその筋の人間を雇ったみたいだ。

 ファンダレオンがようやく口を開いた。

「私をアリステイデスが甥、ファンダレオンと知っての暴挙──らしいな」

 鷹揚に剣を抜く。いい練習になる、と呟いたのは、絶対本音だと思う。そういえば、この人の剣の腕って見たことないな、と茶番とわかってるからおれも余裕をかましきっていた。

 死んでもらう、黒ずくめの誰かが告げる。

 そして、一気に間合いを詰めてきた!

「逃げろ! ルシアス!」

 見事なまでに巧い、ファンダレオンの叫び声。

 おれは二本の松明を振り回しながら輪をくぐり抜け、走り出た。行先は弓持ちのところだった。危うく難を逃れて駆けこんだおれが、主人の危機を知らせる。おれに先導されてあそこに着いた彼らに、ファンダレオンが話を作りあげる、という筋書だった。

 ちらりと振り返り、おれはびっくりした。

 げっ、苦戦どころか相手になってない!

 苦戦って言葉は削ろうよ、ファンダレオン。身体も引き締まってるし、手柄を立てたんだから予想はしてたけど、まさかこれほどとは思わなかった。玄人相手なのに攻撃をかわすんじゃなくて受け流してる。夜目でもファンダレオンの動きは強烈に際立ってて、むだってやつが全然ないとわかった。

「どうやったらあんな技が……」

 絶対に教えてもらおう。あんな達人だって知ってれば、と憧れと悔しさをないまぜに抱きながら首尾よく弓持ちの詰所に辿り着いたおれは、必死なふりで事情を訴えた。

「早く早く! ファンダレオンさまが死んじゃうよっ!! もしものことがあったら復讐の女神さまたちネメシスに祈ってやる!」

 おれが怒鳴りつけるまでもなく、ファンダレオンの名前の威力はものすごかった。そこにいた五、六人の弓持ち全員が血相を変えて立ちあがったのを見て、おれはぎょっとなった余りに一瞬罪悪感も忘れた。こんなに真剣な奴らを本当に騙せるのか、という一抹の心配も湧きあがる。

 もっとも、騙すのはおれじゃなくてファンダレオンだけど──現場に舞い戻ったおれたちは、みんな同時に立ちすくんだ。

 ファンダレオンが剣を杖にして膝をついていた。

 それも、ずたずたの血まみれで。

「ファンダレオンっ!」

 自分で傷つけたんだろうが、なにしろ神と見まごう美形だから壮絶な姿だった。

「ファンダレオン、ファンダレオン!!」

 血染めの衣も、よくここまで念入りにやった、というくらいに切り裂かれてる。おれは半分は本気で悲鳴をあげて駆け寄った。

「ファンダレオンさま、大丈夫ですかっ!!」

「曲者はどこに逃げましたか!」

 波みたいに次々と尋ねる弓持ちにファンダレオンが頭を振る。血がぴっと肌にかかった。

「わからない。とにかく家まで数人で護衛して欲しいのだが」

 そう頼んで、彼がおれの肩に手を回した。

 支えてくれってことだね、ファンダレオン……え? 濡れた感覚に、おれはその腕が触れた辺りに目をやった。全身が凍りついた。大量の鮮血が、ファンダレオンの肩から流れておれの首筋や肩を赤く染めてゆく!

「ファンダレオン!?」

「………か」

 その時、かすかに、ファンダレオンがおれの耳に何か言ってきた。

「え、何?」

 聞き損なったおれの肩を、不意に彼の手が強くつかんだ。なんだかおれがここにいるのを確かめるみたいで、変にぞっとした。

「ファ……、ファンダレオン?」

 おれがもう一度声をかけた時、弓持ちの野太い声が割って入ってきた。お供します、と。

 結局、弓持ちは二人ついてきてくれることに決まった。総勢四人でぞろぞろ歩き出した中で、ファンダレオンが再び囁いた。

「おまえは、無事だったのか、ルシアス」

「だ、大丈夫だったよ」

 演技とは思えないか細い声に、おれはつい慌ててしまった。だって、そういう手筈だったじゃないか。何を今さら、って気がして、だからこそ緊張してしまう。

 その瞬間、ぐっ、とファンダレオンの手にもっと力がこもった。

 そうか、と彼が小さく息を漏らした。

「大丈夫だったか……」

 す、と背筋が寒くなる。心から安心したように不気味な、息のつき方だった。

 おれは直感で悟り、顔面蒼白になって息を止めた。いくら性格が読みきれてなくたって、わかる時はわかる。これは、……演技じゃない……演技なんかじゃ、ない!

 ファンダレオン!

 おれが振り仰いだのと、力を失ったファンダレオンの身体がおれの背中を滑って崩折れたのとは、ほとんど同時だった。

 弓持ちが絶叫したのが、遠くに聞こえた。



「死ね! おまえが死ねばいい!!」

 倒れたファンダレオンの枕元についていたおれを、マーレウスが張り飛ばす。

「なんで僕を呼ばなかった! おまえ一人くらいであの方をお守りできると自惚れてたのか! ふざけるな、馬鹿野郎っ!!」

 壁に叩きつけられたおれの首を絞めあげて、彼がものすごい形相で睨みつけてきた。

 そうだ、これが計画だって知ってるのはファンダレオンとおれだけなんだった。もう考える気力もなくて、抗う気になれない。ただただ心配で、マーレウスの身体越しに寝台を見据えた。ファンダレオン。まさか負傷が急所すれすれだなんて、いくらなんでもやりすぎだよ──下手したら死んじゃうじゃないか。

 急遽やってきた医者は、もしかしたら命が危ういかもしれないと顔を曇らせた。

「とにかく出血量が多すぎる」

 マーレウスの父でもある奴隷頭に告げる言葉に、サラディが泣き出している。

 確かにファンダレオンの顔は青がかった真っ白になっていた。あれから意識を取り戻してもいない。なんとかしてくれ、と医者にすがりつこうとした瞬間に、すっ飛んできたのに違いないマーレウスに問答無用で殴られたんだ。

 そうして今、おれの首に彼の指が食いこんでゆく。容赦ない力だった。マーレウスの苛烈な殺意と憎悪の双眸は、メデューサをも思わせた。絞め殺されるのと睨み殺されるのと、一体どっちが早いだろう。

 息苦しさにぼんやりと宙を仰ぐおれに、マーレウスがありったけの罵声を叩きつけた。

「なんでおまえは無傷なんだ!! おまえは疫病神だよ! おまえが来てからろくなことがない……死ね! 死んじまえ!」

「やめなさい、マーレウス!」

 アレウシアがおれを取り戻してきつく抱きしめる。サラディもそれでも、アドニスだってなにもしなかったわけじゃないよ、と頬をふくらませて怒った。

「自惚れて好き勝手に人を責めてんのはマーレウスじゃないのさ!! あんたが一人加わったって、暴漢相手にどうなるってんだよ!」

 ふんっ、とマーレウスが鼻を鳴らし、アレウシアを睨みつけた。

「おいアレウシア、ファンダレオン様がルシアスだけついて来いって言ったから仕方ない、と今度も言えるのか!? だから言わなきゃいけないんだよ、誰かが! だから僕が言っているんだよ!! こんなことにならないように!!」

「だからってルシアスを絞め殺していいわけないでしょ!」

 彼女は微塵も動じなかった。

「ええ、仕方ないと言えるわ! ルシアスのために何度だって言ってあげるわよ! これからは、ルシアスより先にファンダレオンさまに言いなさい、とね!!」

「なんだと!?」

「この子はファンダレオンさまに言われたら、そうするしかないのよ! おまえ、そうは言うけどね、今までファンダレオンさまに直接文句つけたことある!? あったの!? ……ほら、ないでしょ、ないわよね。おまえはファンダレオンさまに気に入られているルシアスをひがんでるだけだわ。ファンダレオンさまを思ってるなら、ルシアスよりもファンダレオンさまに言えばいいのよ!」

 アレウシアの舌鋒はものすごかったけど、今のおれにはマーレウスが怒っていようが殺そうとしようが関係なかった。

 ──ファンダレオン。

 ファンダレオンが、死ぬかもしれない。考えるだけで気が狂うような恐怖に襲われる。たった数カ月なのにこんなにも大切で、こんなにも失うのが怖くなっていた。知っていたつもりで、守ろうって決めたのに……身体の震えが大きくなってゆく。

 嫌だ。

 これで最後だなんて嫌だ!!

「! ──ルシアスっ!」

 その瞬間、おれはほとんど本能的にアレウシアの腕を抜け出していた。

 おれを呼ぶ声が、したから。

 ファンダレオンが、おれを呼んだから。

 ふらふらとそばに寄ると、彼がうっすらと瞳を開けていた。気が、ついたんだ。

 でも、見たこともない弱々しいまなざしだった。胸が苦鳴を絞りあげた。おれが知ってる、あのアポロンのようなファンダレオンじゃない。

 それが、こんなにも辛いなんて!

「ファンダレオン……っ」

 ひた、と冷たい手がおれの首に触れた。

「情けない顔を、するな」

 ルシアス、と声でなくて息で喋ってる感じだけど、でも口調はしっかりしてる。そうして、ぐしゃぐしゃと力なく髪をかき回す。今日はいくらでもやっていいさ、それがファンダレオンが生きてる証なんだったら。

 ふ、と彼が苦笑を閃かせる。

「これからが大変だぞ。──テミストクレス殿の雇った者が、血相を変えていたからな」

「え……?」

 血相を変えてって、そりゃファンダレオンに重傷を負わせたんだからそうなんじゃ……絶対なさそうだった。彼の表情は深刻で、それでおれも思い出していた。

 おれの安否を尋ねた言動は嘘じゃなかった。

 嘘じゃなかったってことは、まさか、と血の気が引く音がおれの脳裏に響いた。

「あの刺客はテミストクレス殿が雇った者ではない。真に私の命を狙った本物だった」

 さらりと、ファンダレオンがそう断言した。

 おれが考えた通りのことを告げられたわけだけど、当たって嬉しくなんかない。ああ、だからおれを本気で心配して……愕然となるのと同時に、その手を知らず握りしめていた。

「狡猾だった。始めこそ手を抜いて偽物のように振る舞ってから、後から一気にかかってきた。やはり玄人は違う。一人で相手をするのは辛かった。後からテミストクレス殿の手の者もやって来ていたが」

「ちょっと、ま、待ってよ! だったら助けてもらえばよかったじゃないか!」

 や、やってきていたが、って、とおれは拳を震わせて怒鳴ってしまった。

「一目でわかった。彼らは、出て行ったところで無駄な屍になるしかない素人だ。だから帰らせた。後は、おまえがいつ弓持ちを連れ戻るかの賭けだった。ぎりぎりで勝ったがな」

 そうか、おれが有利だと思ったのは、そいつらが手抜きした演技だったんだ。帰らせたってことは多分、目線か何かで知らせたんだろうけど。

 馬鹿だよファンダレオン。屍になったらなったで、斬り伏せた本物の刺客だって言えばよかったんじゃないか。そんな、汚い片棒を担ぐ奴らまで命懸けで守るなんて!

「ばかやろう……っ!」

「血が多く流れたから、さすがにこれで終わりかと不安になったがな」

 おれの怒りを笑い流すようにしゃあしゃあと言ってのけてから、ファンダレオンのまなざしがふっと変わった。

「アレウシア、水を持ってきてくれ」

 喉が渇いたとおれの背後に言いつける。

 情けないけど、おれはその時になって初めてアレウシアたちがまだここにいるって自覚した。マーレウスも。みんな、心配と安堵が絡み合った表情でファンダレオンに食い入っていた。

「それからマーレウス。おまえの怒鳴り声は傷に響く。今言った通り、今夜の不用心な散歩は計画だった。そんなにルシアスを責めないでくれ」

「ファンダレオン様……っ!」

 マーレウスの絶叫に近い叫びに、ファンダレオンが弱々しく手をかざした。

「私は昏睡明けだ。今は抗議は聞かない。事情もいずれ説明するが、今は、仕事に戻れ。今の時間のおまえたちの『仕事』は、寝る事だろう。明日からまた頼む。そして、これから何があってもしらを切り通せ。ルシアス以外はこの茶番には無関係だからな。ルシアス、不運にも係わってしまったおまえだけは私の看病に残ってもらうぞ」

 「昏睡」してた奴がしっかりマーレウスの怒声を聞き取れるのか、と思ったが、おれが口を出すことじゃないからやめた。第一、去りざまにマーレウスがおれに刺した視線というのが、それこそ殺意だったから。また首を絞められるかとびびったおれに、彼は凄まじい顔のまま無言で出て行った。

 とにかく、これでなんとかひとまずは落ち着いた……おれは思わず大きく息をついた。

「死ななくてよかった、ファンダレオン。傷はほんとに平気? 痛まない?」

「痛むが、死にはすまい。死ぬわけにもいかない、おまえたちを放り出しては」

「当たり前だろ、そんなの」

 ちくしょう、涙が出てくる。ファンダレオンが一刻でも早く元気になるなら、治療費でおれの賃金が消えたっていい。

「泣くな。アドニスなら笑え」

 ファンダレオンの冗談に無理に笑い返しながら、脂汗をびっしりかいた彼の額を濡らした手布で何度も拭う。すごい美貌で凛々しくて頭がよくてなに考えてるかよくわからないけど、かけがえのない主人で憧れてもいる大切な人だ。この人には、ずっとずっとおれの前を歩いてて欲しかった。

 でも、だけど。

 じゃあ、誰が偽者の代わりにファンダレオンを襲わせたんだ!?

 そう尋ねると、本人は皮肉げに頭を振った。

「捕まりはしないだろう。だが、間が合いすぎるとは思わないか?」

「そうだよね。こんな計画立てた途端にだし、ファンダレオンはアリステイデスさまの甥じゃないか。そうそう襲う奴なんて……」

 ファンダレオンを襲うのは、アリステイデスをも敵に回すことになる。たとえ何があったとしても、アリステイデスが「正義の人」の名にかけて犯人追及から全部やろうとするはずだ。

「私を襲う時、アリステイデスの甥やテミストクレスの気に入りであっても構わない、と考えるのは誰だと思う?」

 こんな時でも教師っぽい口調で、ファンダレオンがやんわりと謎をかけてきた。

「アリステイデスさまとテミストクレスさまの敵! あ、考える奴と考えない奴がいると思う、けど……それから、他にいるとしたら」

 言いかけ、おれははっと言葉を止めた。

 ──潜在的に相入れない。

 ──敵。

 ま、……まさか、な。

 おれは自分の両腕で自分を抱きしめた。否定したのと裏腹に怖かった。口にして、ファンダレオンが認めたりしてしまったらどうすればいいだろう。こんな死にかけたばかりの彼に、推測でだって言えることじゃない。

 けど、ファンダレオンはおれに命令した。

「どうしたのだ。言え。女神に誓っただろう」

 おれはうつむいてしまった。言えない。こればかりはだめだ、と心底から唇を引き結ぶ。

 息をついて、ファンダレオンが不意におれの腕に手を伸ばす。血の気を失った白い指が奇妙に肌にしっくりする。そうしておれを軽く引き寄せると、囁くように結論した。

「──伯父上自身だな」



 翌日二月(八-九月)七日。

 朝一番の知らせは、四日前に終わった、アテナに捧げるパンアテナイア祭よりすごいものを、アテナイ中にもたらしたようだった。

『テミストクレスとファンダレオンが刺客に襲われた。二人とも辛くも無事だったが、ファンダレオンに至っては重傷で面会謝絶』

 二人とも知名度が抜群だから大騒ぎになってしまった。ファンダレオンは面会謝絶なのに、早速みんなが見舞いや挨拶に来た。

 でも、知らせはそれだけじゃなかった。

 何が「潜在」してるのか、とうとう昨夜は聞きそびれた。

 だからびっくりするしかないおれの横で、自分で包帯を巻きながらファンダレオンが硬い微笑を浮かべているのが不思議だった。彼は全部わかってるみたいで、驚きもしなかった──アゴラに関連情報を集めに行け、とおれに命じただけで。

 その特別な最後の知らせというのは、

『さらにアリステイデスまでもが襲われた。その彼を庇い、奴隷の一人も犠牲になった』

 という、下手な事情通のおれなんかはその素晴らしすぎる「偶然」に気を失いまでしかかった、とんでもないものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る