潜在する者たち・中
そうして民会が終わってみると、ところがテミストクレスの思い通りにはならなかった。
そう、あの後──長たらしいイオニア風の言い方でさんざもったいぶってから、さあいよいよって時にテミストクレスが言ってくれた。
「しかしながら、これは大勢の前で明かすわけにはいかない」
それでみんな決めたんだ。まずはアリステイデスだけに内容を聞かせて、彼が了承すれば早速その提案を実行させよう、と。結局そうなった時には、ファンダレオンは背中を曲げて笑ってた。誰や何に向かってかはわからないが、愉快そうではあった。やっぱり、せっかく腰をあげた彼さえもが内容が知らされないまま、という辺かもしれない。
──面の皮、かあ……。
帰り道、あの台詞を思っておれは、丘を下りながら半ばびくびくしていた。幸い、おれのことで文句を言われはしなかったが、ファンダレオンが今どんな気持ちでいるのか考えると安心してもいられなかった。
「伯父上の人気は相変わらずだな」
ファンダレオンにはまだ笑いの名残が表情に漂っている。怒ってないけどおれには怖い。
「『正義の人』は、これまでアテナイに不利益をもたらしたことはない。貧しくなったくらいだからな」
「ファンダレオン!」
「テミストクレス殿は確かに、伯父上より頭の切れは上回る。だが、人気となると別だ」
「アリステイデスさまより悪い?」
おれの質問に軽く肩をそびやかしながら、ファンダレオンはこんな話をしてくれた。一躍英雄になったテミストクレスは、当然だけど戦争が終わってからは人に妬まれる。でも、彼も自分が第一人者であるのを隠そうとはしなかった。
検分したペルシア人の死体が黄金の装飾品をつけているのを見ると、テミストクレスは一緒にいた友人にこう告げた。
『もらっておくがいい。きみはテミストクレスではないのだからな』
セリフォス人に「おまえが有名になったのは国のおかげであっておまえの力ではない」と言われた時も、テミストクレスは平然と、
『確かに私がセリフォス人なら有名にはならなかっただろうが、おまえがアテナイ人でも私のようにはいくまいよ』
と、切り返したそうだ。おれはあの人だったら絶対言うだろうな、と思った。例によってそのまま答えると、ファンダレオンがうなずいた。
「テミストクレス殿は競争心の強い方だ。さらに伯父上と真っ向から対立してきた。伯父上が貴族派、あの方が民衆派として」
「へえ……」
なんでアリステイデスが貴族派かというと、昔のラケダイモン王リュクルゴスに憧れたからだそうだ。リュクルゴスはラケダイモンを今みたいに改革したという。貧しいくらい質素すぎる生活を営む、死も厭わない陸戦士たちのポリスに。ペルシア戦争以前は、ラケダイモンがヘラス第一の強いポリスだった。
「伯父上はクレイステネスとともに、僭主を追い出してから改革を行った。テミストクレス殿とは、さや当てから対立が始まったという話だ。真偽はわからぬが」
「さや当て?」
「相手は美少年。これが政治にまでもつれこんだらしい」
「もつれこんだって……」
ファンダレオンは無表情で言ったけど、おれはその手のことにはろくな過去がないから、頬の肉が引きつってしまう。
「仕方あるまいな。やはりポリスでは血統や身分も物を言う。同じ裕福な生まれとはいえ伯父上は生粋のアテナイ人だが、テミストクレス殿の母はカリア人だ。テミストクレス殿には伯父上への対抗意識もあったのかもしれない」
「ええ──っ!? じゃあ、おれと同じ……!」
混血!! テミストクレスも、二つの族の血を引いてるんだ!
「でも、あの人はヘレネスなんだね」
「父親がヘレネスであれば認められると教えたが。本来はおまえもそうだが、その、トラキア人そのものの容姿が問題だったのかもしれないな」
「あっ。そういえば、そうだよね。うん、母さんも父さんも言ってたよ。トラキアの血が濃いだけなんだろうってさ」
審査は、六歳頃の入籍時もにやる。でも、この面じゃ片親がヘレネスだなんて認めてくれなかっただろう。年齢が足りないなら「また審査に来い」ですむけど、父さんの子だって認められないと、──奴隷に売られるんだ。当然というべきかおれは審査を受けてないし、事実いろんな噂も立った。
父さんがオドリュサイへの旅行中に母さんに出会い、すぐに惹かれあって結ばれ、おれが生まれてから村に帰ったというけれど。
「でも、実は連れ子じゃないかとかって言われたこともあったよ、結構」
状況としてはありえるけど、当然おれは噂なんかより親を信じてる。外に出られなかったのはそれもまたあったんだろうな、きっと。
今になってみて、父さんや母さんの気遣いがわかる。今もし実家に帰れたら、母さんに言いたいことが山ほどあるのに……。
「だからさ、いっそ、おれが売られてよかったのかもしれないって気もするよ、今はね」
「私はそう思うがな」
そのおれを買ってくれたファンダレオンが、すごくすまして同意した。
でも、彼の目はちっとも笑ってはいなかった。さらに、「だが、伯父上はどう思うかな」と低く呟き出す。
「え、ファンダレオン?」
ファンダレオンは苦笑めいた表情を浮かべていた。
「私もテミストクレス殿に乗せられた。だが、我が伯父上が素直にそう思うかな。テミストクレス殿と私が結託した、と思わなければいいが」
「なんで?」
おれの問いに、ファンダレオンの瞳が細くなる。どうにもならないって言いたげな、諦めた穏やかさに満ちたまなざしだった。
そうして、前科があるからな、と彼がそれだけ答えた。
いつもながらものすごく気になったけど、なんだか尋ねる気になれなかった。
またまたファンダレオンが軽く買い物をしたので、おれはばかでかいアッティカ壷を抱えて家に帰り着いた。
アッティカの土は麦を育てるにはすごく貧しいけど、果物を育てるのと陶器作りには向いてるんだ。中には山羊の乳がなみなみと入ってて重いし、昼すぎだから日射しでくらくらして散々だった。よたつきながらも無事台所に壷を置くと、おかえり、とアレウシアが額の汗を拭ってくれた。
「なにもしなかったでしょうね?」
「してないよ、今日は」
本気で訊いてくるから少し困る。まあ、信用してくれなんて一生言えないけど、とりあえず彼女の命を削ることはしなかった。
アレウシアがちらりと顔を顰めた。
「そうね。明日も明後日も、ずっとなにもしてくれないでいるといいわね、ルシアス」
「あはははっ、アドニス言われてんの」
いつの間に来たのか、サラディまで尻馬に乗ってそんなことを言いやがった。おれがぶつ真似をして手を振りあげると、きゃあっと逃げてく。たく、可愛いのに小生意気なんだから、って、おれが「小生意気」なんて言ったらいけないな、やっぱり。ファンダレオンなんかにそう突っこまれそうだった。
おれだって充分に生意気なんだ。特にマーレウスにとっては──憎まれさえしてるかも。
だけど、今は向こうの方からやってきた。
「ルシアス、テミストクレス様がお見えになったぞ」
最近はもう、昔からずっとこうだったってくらい刺々しくて、マーレウスの笑顔を思い出すのに苦労するほどだ。それくらいにマーレウスの態度は変わってしまった。
「ファンダレオン様が、おまえに果物を運ばせろということだ。マグシュアが用意したから、あとは皿を運べばいいんだよ」
「……ありがとう」
今の彼の声や表情は穏やかだったが、そう努めてるのがわかる。アレウシアがいるから。
でも、アレウシアは不意に、
「おまえ、ルシアスにずいぶん辛くあたるようになったわね」
と、険しい声音でマーレウスに言った。
彼は何も答えない。けど、だからこそアレウシアの言葉をなにより認めてることになる。
「当然だろ? ルシアスは、ファンダレオン様の立場を危うくしようとしてたんだ。それを奴隷らしくないと責めて、何が悪いんだ」
「なにがだなんて。全部悪いわよ」
アレウシアが即答する。おれの背中を軽く押して、早く行けと小声で命じながら。
うん、とおれが複雑な思いで廊下に出ると、彼女以上に険しいマーレウスの言葉が聞こえた。
「あいつが悪いんだよ。こんなことが続いたら、ファンダレオン様は一体どうなるんだ!」
思わず足を止めて、おれは戸口のそばの壁に背中をくっつけて耳をすましてしまった。
「そのファンダレオンさまが責めたならともかく、おまえ以外は誰も気にしちゃいないわよ。当のファンダレオンさまでさえね」
なのになんでおまえだけルシアスを責め続ける必要があるのよ、とアレウシアが容赦なく詰問する。
「あの方はそういう方なんだ!」
マーレウスの怒声に、おれがどきりとした。
「だから、僕一人だけでもあの方をお守りしなきゃならないんだ!!」
「守る? ルシアスから守るっていうの?」
馬鹿にするようなアレウシアの口調。
そうだ、とマーレウスが大まじめに断言した。
決定的なとどめを刺されて全身が強ばった。おれは、敵なんだ、マーレウスにはもう……うつむいた時、アレウシアが哀れむように反論した。
「だけど、ルシアスだって守らなきゃならなかったのよ。ミュラからトラキアの誇りをね」
「だからあいつはわかってないんだよ! 自分がファンダレオン様の奴隷にすぎないのをな! あんたはトラキア生まれだから、あいつを庇うんだろうけど──」
「そうよ、おまえだってわかっていないのよ」
マーレウスに最後まで言わせずに、アレウシアが突き放した。ぞくりとするような密やかな笑い声は、彼女のものなんだろう。
「故郷と親を侮辱されたルシアスの気持ちをね。かわいそうに思うわ、マーレウス。おまえもアッティカ人じゃないくせに、こんな純粋な気持ちを責めることができるなんて」
そうだ。マーレウスはマケドニア人だ。けど、アレウシアの台詞は、庇ってもらってるおれにとってさえ痛烈すぎるように思えた。
「黙れ……っ」
「『トラキア人である前に奴隷であれ』。それがファンダレオンさまのお望みだと思ってるなら、おまえはファンダレオンさまも侮辱してるんだわ。純粋な怒りだったからこそ、ファンダレオンさまも責めなかったんじゃない。もうやめなさい。おまえはルシアスに八つ当たりしてるだけよ。本当はおまえもわかってるんでしょ? ──あのお二人の関係は、そんなことで今さらよくも悪くもならないわ」
だからもう見ていられなかったのよ、いいようにおまえに傷つけられてるあの子を、とアレウシアが思い出したように呟いた。
それを聞いたおれは、思いに詰まってぼろぼろと泣き出してしまった。
知ってたんだ、アレウシアはみんなずっと……!
実際はマーレウスの言うことだって正しいのに、それでもあえて自分の誇りを優先するおれを庇ってくれているアレウシア……同じトラキア生まれだからでもいい。マーレウスの目にえこひいきに映っても構いやしない。彼女が今こうしておれを守ってくれようとしていて嬉しかった。心底から胸に染みた。
そうだ、ファンダレオンだってこんな生意気な奴隷のおれをおれでいさせてくれる。おれを「トラキア人」として認めてくれてるんだ。なんて幸せなんだろう、おれは!!
嗚咽が出そうになるのを両手で抑えつつ、おれはその場を離れた。マーレウスみたいにはできないけど、おれも二人を守れるようになりたい。いいや、守るんだ! 固く決意してから、ふとマグシュアのところに行かなきゃ、とぽつりと呟いた。
呟いて、はっとなる。あ、やばい、仕事があったんだ!
おれはすっかり忘れてた仕事を果たすべく走った。
だけど、ここで大問題が発生した。
アレウシアとマーレウスの口論を盗み聞きした末に心を決めたおれは、そのせいでこの涙が止まらなくなってしまったんだ。どんなに宥められてもどうされても、高ぶった感情がどうにもならなくて──結局、テミストクレスに果物を持ってくなんて到底できなくなったおれは、マグシュアに呆れたように怒られた。
後でファンダレオンにも呼び出されて理由を問われたけど、こればかりは話せない。
「……泣きたくなる時だって……あるんだよ」
と、苦しい言い訳をするしかなかった。下手な弁明じゃ絶対に悟られる相手だったから。
だけれどファンダレオンはおれの涙どころじゃないのか、さっさと話題を変えてくれた。
「では、テミストクレス殿が何を語ったと思う?」
「あ、あの民会での提案内容じゃないの?」
「その結果だ」
と、ファンダレオンが、おれに果物の残りをすすめながらすらりと髪をかきあげる。
「伯父上に再び言われたそうだ、何度言われてもその策だけは許せない、と」
つまり、あそこまでやっておきながら却下されたらしかった。
本当に面の皮になってしまったファンダレオンの心中を思うと、ものすごく怖い。この人がもし怒ったら、一体どうなるんだろう。見たことはないけど、絶対見たくはなかった。
「でもさ、『何度言われても』ってのはどういうこと? 前にもやったの、それ?」
「デロス同盟結成から間もなくだが、その時もあのように気をひいた挙句だったな」
ここでいつもながらの講釈が始まった。それで、この時にテミストクレスが提案した内容というのがすごかったんだこれが。だから話を聞いたアリステイデスは民会で報告した。
『テミストクレスの提案は、これより有利なものはない。だが、その代わりにこれより不正なものはない』
「正義の人」のこの一言で提案は却下された。
それと同じ状況だった、ということは。考えたおれの顔が引きつった。
「それってもしかしたら、さあ──」
「もしかしたら」どうした、と続きを求めるファンダレオンの笑顔に、おれは言ってもいいのかなとためらいつつもそうした。
「アリステイデスさまに、なんか、けんか売ってるってことじゃないかなあ。まさか、って思いたい、けど」
当てつけた挑戦でなくて何があるんだろう、同じことやる目的に。でも、そこにテミストクレスとアリステイデスというヘラス指折りの人物名が並ぶと、まじに洒落でなくなる。そしてファンダレオンは、だけど満足そうにうなずいただけだったんだ!
「おまえは本当に聡くなった。嬉しいぞ」
「げっ……」
「しかも、テミストクレス殿は伯父上にまた同じことを提案したそうだ。ちょうど停泊していたからかな」
「そっ、それって絶対やばいよっ!」
おれは思わず血相を変えてわめいた。
同じことっていうと、あれを? 教えてもらったばかりだから忘れちゃいない。でも、余りにすごすぎる提案だから狼狽しないではいられなかった。
なんでも、当時、テッサリアのパガサイの港に越冬のためヘラス連合艦隊がいた。そこで、アテナイが海上で優位に立とうとしてテミストクレスが提案したんだという。
これを焼き打ちして、他ポリスの海軍力を奪おう、と──アテナイは昔から特に黒海方面から麦を輸入し、壷やオリーブ油を輸出していた。主食なのに麦を産出できないから、海軍力で交易路を守らなきゃいけなかった。そう説明されれば理屈はわかる。だけど、クセルクセスが退却したからったって、すごい考えじゃないか。もし焼き打ちした後でペルシア軍が攻めてきたらどうする気でいたんだろう。いや、テミストクレスのことだからどんなことでもして勝つとは思うけど、アリステイデスの言う通りやっぱり卑怯だ……。
ここまで極端だと逆にすごい気もするが、アテナイの威信にも係わる。アリステイデスでなくたって賛成はしなかっただろうな。
「あのさ、今回もアリステイデスさまはうなずかなかったんだろ?」
「またまた同じ事を言われたそうだ。おまえの死体を裏穴に捨てなければアテナイに救いはない、と」
その発言は焼き打ちと別案の時のものだが、とファンダレオンがつけ加えた。
でもおれの肌は粟立った。裏穴というのはアクロポリスの裏側にある穴で、死刑囚の屍をそこに投げこむことになっている。要するに、殺してやりたいってことじゃないか!
当時といい今といい、よく血を見なかったな。そ、そうだよな、ここに来たのは生きてるテミストクレスだよな? もうおれは、ははは、とから元気に笑うだけだった。
「それで、ま、また断られた愚痴でも言いにきたの、テミストクレスさまは?」
そうではない、とファンダレオンが肩をすくめた。
「計画通りだそうだ」
おれの目が、一瞬で点になる。
「……はあああっ?」
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