潜在する者たち・上

 ファンダレオンがそう命令したのは、その日の早朝だった。

「民会へ行くから供をしろ、ルシアス」

「わかった、ファンダレ……ええぇっ!?」

 寝起きに言いつけられたおれは、一瞬してから自分の耳を疑った。

 ファンダレオンの民会嫌いも有名で、誰が誘いにきて熱心に諭しても絶対「行く」とは言わない。彼の一番の親友でテミストクレスの次男ガリュニスが、夕食の席でため息をついてたくらいだ。

『父上の思い通りにならないのは、おまえとアリステイデスの人気くらいだ。今度こそ、ときつく言われたんだがなあ……俺の顔を立てる気には、ならないか』

 機嫌取りか肉まで持ちこんできたけど、ファンダレオンはその気持ちと肉をもらうだけだった。おれが奴隷になってから、昨晩のガリュニスでのべ二十人目のため息になる。

 民会への勧めも、実はファンダレオンを説得してその手柄を世間に売りこもうとする根性のいい奴がほとんどで、見えすいた面がほぼ共通だ。食事代が浮くわね、といつもの無表情で涼しく言っていたマグシュアも、部屋の隅で糸を紡いでたのがぽかんとしている。彼女の顔色がまともに変わったのを、おれは初めて見た。

 当然だよな。ファンダレオンが「民会へ行く」なんて言い出したんだから!

「ねえ、一体、どうしたの!?」

 窓の外を見てからおれは叫んだ。大丈夫、太陽は昇る方向を間違ったりはしてなかった。

「重大な提案をするそうだ。テミストクレス殿がつい先にここに現れ、そう言ったのだ」

「重大な提案?」

 ファンダレオンが憮然とうなずいた。本当は行きたくない、と、その顔が不機嫌をありありと物語ってる。

「……たまにはつきあわないとな」

「そうだよね、頑固に拒否したあげくに強い手段に出られたらね」

「最近はとみに聡くなったな、ルシアス」

 ファンダレオンは苦笑したけど、おれにしてみればテミストクレスの方がよく我慢してると思う。この人が六年も蹴り続けてるのは、ミルティアデスへの競争心の余りに「ミルティアデスの戦勝記念碑がわしを眠らせてくれない」とまで言った人の誘いなんだから。平気なのかな、という心配もさることながら、テミストクレスも強引な手を打たなかったのだろうかと不気味でもあった。

 いや、前に打ったけど失敗したとか。すごくありえそうで、思わず想像をやめてしまう。

「もっとも、二ヶ月だからな。私の性格程度は読んでもらわなくては面白くない」

 独りごちて、ファンダレオンがだから同行しろと再度言った。

 従うしかないよと応じながら、おれはふと考えてみる。まだそれしか経ってないんだ。アテナイの生活は何もかもが珍しくて、溺れて流されるようにしてあっという間に過ぎてしまった。ファンダレオンはおれを従者にするつもりで、だから今も民会に連れてってくれるんだろう。でも、おれはまだまだこの人の性格を読みきれないでいた。

 つかみどころがないんだ。今年で二十四歳になったファンダレオンはますます美貌が磨かれて男も女も言い寄るけど、誰も寄せつけない。そばで見てると、本当にアポロンという感じだ。神としての高みから人を見下ろしてるようで……そう、おれにいろいろ教えてくれる彼は、時々すごく冷めた目をする。やっぱり戦争に行ったせいで?

 そんなファンダレオンが、テミストクレスのせいであれ民会に行くという。

 不安にさえなったおれにいつもより小綺麗にしておけと冗談めかして、彼は姿を消した。

 命令通りにおれの身支度を念入りに始めたアレウシアが、怖いほどまじめに言った。

「いい? あたしの命を削らないでね」

「え、……い、いい、命っ!?」

 目を丸くしたおれの頭と背中を、彼女は笑いもせずに強く叩いた。

「おまえがなにをしでかすかと思うたびに、生きた心地がしないのよ。今度は民会ですって!? ファンダレオンさまは、あたしを殺そうとしてるのかしら」

 でも、あの方はおまえがお気に入りだから仕方ないのよね、とアレウシアが肩を落とさんばかりになった。そうなのかと尋ねると、当たり前だと怒られた。おれの髪の毛を整えたりしてくれてから、でも彼女はにっこりと満面の笑顔でこう締めくくった。

「あたしもおまえを気に入ってるんだから、たまにはあたしを喜ばせてちょうだいね」

 そんなアレウシアとは逆に、マーレウスとはどうにもうまくいかなくなっていた。

 表面的には穏やかだし、おれの教育係という役目をおざなりにはしなかったけど、必要最低限にしか接しなくなった。月の初めに立つアゴラの市の日なんかに一緒にはしゃぐのも、もう無理だろうか。おれが思わずにいられなかったのは、朝食後ファンダレオンと民会に出かける時だった。

 あくまでファンダレオンに聞かれないように、おれの耳元にマーレウスが囁いたんだ。

「民会にいるのはみんな市民だからな。せいぜい、ファンダレオン様のために我慢しろよ」

 その一瞬、おれは息が詰まるかと思った。

 実際に絶句したままファンダレオンについて行き、足がもたついて何度もつまずいた。あんな毒のある厭味をマーレウスの口から聞くなんて思いもしなくて、悲しいやら痛いやらで思い出すたびに唇を噛んだ。ファンダレオンを案じてのことだから憎む気にはならなかったけど、でも辛かった。

 トラキアの血に誇りを持つことで、誰かに憎まれる。だけど、この先マーレウスと決定的な破局になっても、おれの意志は変わらない。

 寂しさは消えないけど。わかりあえたらいいのに、という思いが残ってるけど──。



 民会はアテナイについての全てを決める機関で、十部族から選ばれた当番評議員のうち四人が招集し、大体九日に一回開かれる。

 場所はアクロポリスの西にあるプニュクスの丘。話はマーレウスから聞いてたけど、なにしろファンダレオンが足を向けないから見学はしてないので、おれは緊張しきった。まして市民が大勢集うから、マーレウスじゃないけどおれのせいでファンダレオンに迷惑をかけたらまずい。余程のことがなかったら我慢だ、とおれも市民たちを周囲にさすがに言い聞かせた。

 民会のある日は、アゴラも早朝から賑わってる。それを遠くに聞きながら、おれはファンダレオンの後ろに従って歩いた。彼は悠然としてたが、周りは落ち着いてなかった。

 何が起こったんだ、とか、神が降臨したようなびっくり顔でみんながファンダレオンを窺ってる。美貌も知られてるからなあ、ファンダレオンは。この人が民会に向かってるとなると、見ても信じられないのに違いない。

 それに加えて、おれだって充分に問題の存在だ。そもそも丘というのは聖地で、奴隷には禁足地とされている。それをファンダレオンは構わずおれを連れてきた。だからファンダレオンは二重の意味で周囲を驚愕に叩き落としているのだが、あんまり堂々としているせいか神罰が当たるなどと言ってくる市民もいない。

「テミストクレス殿が大喜びで吹聴するだろう。ファンダレオンを引きずり出した、と」

 異様な雰囲気を察してか、当人が苦笑した。

「そ、それより、おれ……丘に登っても……」

「従者を連れずにいてどうするのだ。何かあっても私が言い抜ける。おまえがつまらぬ心配をする必要はない」

 そうぴしりと言い切られると、黙ってついていくしかなくなってしまった。

 けど、そうは言っても。おれは自分よりファンダレオンが心配でなお食い下がる。

「て、テミストクレス様だって怒るかも……」

「あの方がか?」

 ファンダレオンは平然と笑う。

「人にできぬ事を成す、その事を何より尊ぶ方だ。せいぜい、またファンダレオンが『温情家』にふさわしい変わった事をしでかしたものだと豪快に笑うくらいだろう」

 ああ、とおれは脱力した。あのテミストクレスなら、そう言ってファンダレオンを誉めた後に「なぜ仕官しないのか」攻撃をかけてくるのに違いないと想像したからだ。ものすごい気合というか執念というか、テミストクレスはファンダレオンが何をしても二言目にはその話を持ち出してくる。

「だから」

 喋りかけたファンダレオンの足が、ぴたりと止まった。

 彼の目が鋭く左を向く。そこにおれは見た──アリステイデスを。

 アゴラで姿を見かけることはあったけど、ちゃんと会うのは二度目だった。この二人が並ぶと、容姿の相似がさらに引き立って親子にも思えた。つい目が離せなくなってしまう。

 これは、とアリステイデスが目を見開いた。

「もう、どれほど顔を出しておらぬのだ?」

「六年に。伯父上には御壮健の様子」

 からかうような言葉に、ファンダレオンが逆に瞳を眇める。穏やかで親愛がこもってる言い方だったのに、なんか奇妙に感じるのはどうしてなのだろうか。

「長生きはするものだな。命があるうちに、民会でおまえに会うとは思わなかった」

 ふっ、とファンダレオンが小さく笑った。

「たまには足を向けようかと」

「六年で「たまには」、か。そういえば、テミストクレス……彼はおまえをいたく気に入っているな。美貌だけでなく、才能も高く評価しているようだが」

 ファンダレオンは無言で頭を振った。たとえ伯父相手でも遠慮なく話題を避けようとするところが、いかにもこの人らしい。

 アリステイデスが言葉を続ける。

「ならばなぜ、おまえは彼の下についたのかな。今も彼に仕えず、尊敬しているようでもなしに──何を考えている? 六年前に何を求め、何を志してサラミスにいたのだ」

 わからぬ、と矢継ぎ早の、そう、その風貌にはおよそ似合わない詰問口調だった。言い終えた彼がファンダレオンを見直した瞬間、おれは、……ぞくりとした。違和感だなんて生やさしいものじゃなかった。おれ一人が置き去りにされてるような。

 いや、もうとっくにおれなんか締め出されてるんだ。

『あの方の立場を悪くするな! ただでさえ──』

 マーレウスの怒声を思い出した。『ただでさえ』?

 そうだ、あんな、敵同士のような鋭い声は甥相手に出すものじゃない。少なくともアリステイデスはファンダレオンを……敵視さえしてる気がする。だからマーレウスはあんなよそよそしい態度を取ったのか?

 おれだってわからないよ。この二人の間に何が横たわってるのかなんて、わからない。

 ファンダレオンが肩をすくめた。話をそらすように、もしくは、からかうように。

「ヘレネスとして当然でしょう。祖国の勝利を待ってはいられなかったため」

 厳かに、彼は言い切った。何者の反駁も許さない、という迫力がそこに宿っていた。

「テミストクレス殿についたのは、彼が最も有能だったためです。伯父上がご健在なら私は伯父上の許に参じた、それだけの事。ヘラスの危機に、何を構ってもいられませんので」

「なるほど……、よくわかった」

 アリステイデスの言葉が危険を孕む。けんかを買ったような語風に、おれは寒気を覚えた。

 でも、彼は一瞬後には納得したみたいに笑った。

「それも道理だ。それでこそヘラスの者、そう言えよう。おまえがサラミスにいた事に驚き、六年も気にしていたとはわたしの不明と言うべきだった。女神もさぞ、我が愚かさに心を痛めておられたかもしれぬな」

「私ごときには目を向けているでしょうか」

 ファンダレオン、とおれは横で慌ててしまった。おれには皮肉みたいに聞こえた。「ただでさえ」なんだろ、本当は。そんなアテナを疑う以上の意味があるみたいに言って、まずくないのか?

 けど、ファンダレオンは平然って顔をしてるし、アリステイデスもアリステイデスで今度はおかしそうに笑い声をあげた。おれの不安をよそに、ファンダレオンの肩に手を置く。

「何を言う。おまえほど優れた者に目を向けぬ御方が、オリンポスにおられようか」

 ファンダレオンのまなざしがふっと和んだ。

「そうありたいので、このたびは民会に行こうかと思ったのですよ、伯父上」

「それはちょうどよかったな。テミストクレスが、何やら提案を行うそうだからな」

「そうですか、それはまた」

 本当はテミストクレスが提案するというから民会に行く気になったのが真相、なんだけど……やっぱり、アリステイデスに気を遣ってるんだろう。ファンダレオンも驚いたふりまでしてるから。

 こうして、思いがけずアリステイデスが同行することになった。おれを指して「なぜ奴隷を連れているのだ」と咎めてきたらファンダレオンがどう言い抜けるつもりかと身構えたけど、もしかしたら彼も彼で「『温情家』にふさわしい変わった事をしでかしたものだ」と思ったのかもしれない。一瞥もされなかった。ただでさえ人目を惹くこの二人が談笑してるんだから、もう目立ちまくるったらないけどさ。咎められなけりゃ別におれは困りはしないし、後ろからちょいちょいついてけばいいだけだ。けど、ただ、すごく気になっていた。

 アリステイデスとファンダレオンへの視線。

 好奇心や物珍しさ、そんな無難な種類だけじゃなくて、恐れるようなものが一際多いみたいだ。でも恐れるって何を? 誰を? 違う、アリステイデスやファンダレオンを恐れてるんじゃなくて、彼らが一緒に並んでるからびくびくしてるんじゃないだろうか。おれは、これからどうなるんだろうとぞくぞくしながら、二人の背中を見つめるしかなかった。



 そうして辿り着いた議場には、まだ余り人がいない。

 開場してすぐだから血臭が漂ってる。生贄の血を周りにまいて清めるのが決まりだから。

 で、市民は時刻までに行けば一オボロスの民会手当が出る。六オボロスで一ドラクマ。アテナイといっても遠いど田舎もあるわけで、来ない人もいるからだ。国有奴隷の警吏が怒鳴るのが聞こえた。彼らは「弓持ち」と呼ばれている。トラキアよりもっと北のスキタイ人が多くて、彼らが民族的に弓が得意だからだそうだ。そして、今の役目は赤土をつけた縄で市民を追い立てること。遠くがうるさいのは、市民たちがわらわらと逃げ回ってるからなのだろう。

「服に縄の赤土がつくと、遅れたということで手当が出ないのだ」

 こういう場合、普通は所在ないんだけどこの人はやっぱり違った。当番評議員さえろくに揃ってない状況でも悠然と佇むファンダレオンの説明に、おれはむっとした。

「一オボロスだって、おれなんかが一日働いた賃金と同じなのに。いいじゃないか、行くだけでもらえるんだからさ」

「一タラントンの価値があるな、その言葉は」

 一タラントンは六十ムナになる。考えてみると雇い主に言うことじゃないけど、ファンダレオンは面白そうに応じるだけだった。

 アリステイデスとは、なんでも用があるとかで議場に着いた時点で別れていた。どこに行ったのか姿が見えない。ともかくほっとした。何事もなくすんで……それを読まれたんだろう、ファンダレオンが訝しげに首をかしげた。

「何を心配げな顔をしているのだ」

「だって、アリステイデスさまが……」

 思わず言いかけると、彼は空を仰いだ。

「わかっているのだ。互いが、潜在的に相入れぬ者同士とはな」

 ──えっ!?

 あっさりと放り出された言葉に、おれは思わず周囲を見回してしまった。危険な発言だよ、こんなところで「正義の人」と相入れない者だなんて。

 だめだよ、とこっそり言ったおれの頭を、ファンダレオンが撫でた。

「構わぬ。微妙な関係であるのは周知だ」

 誰と誰が、とはもう言わない。

 おれも尋ねなかったし尋ねられなかった。見つめる先で、ファンダレオンはただ空を眺め続けている。

 その途端、急に騒がしくなった。会場にどっと人が押し寄せる。弓持ちたちが頑張って市民を引っ立ててきたんだ。ということは、やっと始まるんだ──うわあっ! おれは悲鳴をあげた。人の波に押し潰されそうになりながらも、ファンダレオンに支えられて最前列に逃げる。

 真正面に白大理石の演壇があった。いつの間にか、当番評議員らしき壮年の男たちが四人揃っていた。なんで壮年かっていうと、三十歳以上じゃないと役職につけないからだ。

「ヘラスで最も誉れある者たちよ!」

 当番評議員の一人が演壇にあがったかと思うと、突然そう声を張りあげた。

「評議会と民衆は次のごとく決議する! 当番陪審員議長はリュバイトス、書記はカミレクス、民会議長はラルクリロス、提案者はテミストクレス!」

 言が終わった途端、拍手が湧く。そうして堂々とした風采の男が壇上に出てきた。もちろんテミストクレスだ。紫の衣が演壇の白によく映えてる。やっぱりこの人の風格は並じゃない。自信と矜持が漲ってて、誰も無視できなくなるんだろう。

 ざわめきを手で軽く制すと、テミストクレスが挨拶の後にこう告げた。

「諸君、わしは今、ある案を我が胸に秘めている。本日の提案はまことアテナイに永遠の繁栄を授ける最高のものと自負している。恐らくはソロンさえ及ばぬ知恵の結晶であろう──なればこそ、この場にあの者がおる。周囲と係わらぬ気高きヘスティアのごとき者、我が友アリステイデスの甥たるファンダレオンでさえ、このために民会に訪れたのだ!」

 どっと歓声があがって視線がファンダレオンに集中する。唖然となったおれが見上げると、本人は得心したっていう顔をしていた。

「……なるほど、演出に使われたのか」

 ふ、とため息をつく彼の表情に、テミストクレスに利用された怒りとかは浮かんでいなかった。そりゃあ、提案するから来いってのに嘘はない。だけど、そんな思考はすぐ頭から消し飛ばされた。

 くだらぬ事でもあれば私もまたいい面の皮だな、という呟きを、聞いてしまったんだ。誰のどんな声音だったかなんて、そんなの言うまでもないだろ……?

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