二十歳病

yukisaki koko

二十歳病。

 ガチャガチャとランドセルが楽しそうに笑います。朝、重たい玄関のドアをドンっといきおい良く開けて、私は走りだしました。


「行ってきまーす!」


 私は今日、十二歳になりました。だから楽しくなっちゃって家を飛び出したのかと言われると、そうではありません。いつものことです。いつも、私はこうやって家を飛び出しては、雨の日でも晴れの日でも走って、かずらくんの家に向かいます。


 くん、というのは私の友達の男の子です。かずらくんの名前は、本当はというものなんですが、私が小さい頃にかずらくんと呼び間違えてから、ずっとそう呼んでいます。だからかずらくんは、私に呼ばれたときだけは、たとえ目が見えないとしても、私に呼ばれたことがわかるんです。すごく嬉しくて、顔がニヤニヤしてしまいます。


 かずらくんの家には走って五分くらいで着きます。歩いたらもう少し時間がかかるんでしょうが、走って向かったことしかないのでわかりません。



「かーずーらーくーん!」



 かずらくんの家は、住宅街の中にある一軒家です。こうやって私が大きな声で呼ぶと、二階の窓からかずらくんが顔を出します。なんでチャイムを押さないかというと、かずらくんには赤ちゃんの弟がいて、チャイムを鳴らすと弟くんが泣いてしまうんです。弟くんの名前は、景くんと言います。かずらくんのお母さんがバタバタと大変そうにしているのを、かずらくんの準備が少し遅れて家に上げてもらったときに見てしまったんで、こうしているんです。なぜだか、私が大きな声をだしても景くんは泣きません。


 なのですが、昨日と同じように、私が呼んでも二階の窓からかずらくんは顔を出してくれません。昨日は学校にも来ていませんでした。家の前に泊めてある車が昨日はなかったので、どこかへ出かけていたのかもしれません。今日は、車はあります。


 ガチャ、という音がして玄関の扉が開いて、かずらくんのお母さんが顔を出しました。


あんちゃん。おはよう」


 かずらくんのお母さんの目の下には、少し離れているところからでもくっきり見えるくらいのクマがありました。ぐっすりと眠る景くんを抱っこしています。いつもなら窓からかずらくんが顔を出してすぐに、こうやってかずらくんのお母さんが玄関から出てきたところで、バタバタ家の中から階段を降りる音がしてランドセルを背負ったかずらくんが出てくるんですが、バタバタという音がしてきません。


 おはようございます! っていつも元気よく答えるんですが、そんな気分にもなりませんでした。


「かずらくん、風邪ひいちゃったんですか?」


二十歳病はたちびょうってわかるかな?」


 かずらくんのお母さんの声はほんの少しだけ震えていました。二十歳病、という言葉は確かにどこかで聞いたことがあるような気がしますが、それが何なのかはわかりませんでした。


 首を左右に、髪の毛がフワフワ揺れるくらいに、振りました。


「目がね、見えなくなっちゃったの。昨日、ベッドに入ってからずっと出てこないの」


 遅刻しちゃうよ、とかずらくんのお母さんが言うので、私は一人で学校に向かっています。目が見えない、んー。両手で目をふさいでみました。真っ暗で、指の隙間から少しだけ明かりが抜けていることがわかります。それ以外は何にもわかりません。


 ゴンッ。


 いてッ。目を開いてみると、どうやら私は電柱にぶつかったみたいです。打ったおでこがじんじんと痛みます。触ってみるとたんこぶができていました。


 翌日。私は家をでて、かずらくんの家に向かいました。昨日の夜、ずっと考え事をしていたので、目がぽやぽやとします。考え事というのはかずらくんのことで、私には何ができるんだろうと考えました。目が見えないということは、少なくとも怖くて痛いものだということはわかったので、何か手伝いたいんです。


 もしかしたらかずらくんに怒られてしまうかもしれませんが、それでも私はかずらくんの家の前で、大きな声でかずらくんを呼びます。



「(!)」



 あれ?



「(          )」



 ストローを手にもって、息を吹き込んだ時みたいに、スー、スー、と空気だけが口から出てきます。どこにも引っかからずに、すーすーって。


 すー、すー、すー。


 あれ、え。


 え、え、え。


 声が、出ない。




     *




 二十歳病。二十歳になると途端に症状がなくなる病気。症状は様々で、かずらくんのように目が見えなくなる人もいれば、私のように声が出なくなる人もいる。それ以外にも、味覚がなくなったり、聴覚がなくなったり、髪が抜けたり、二十歳になるまで眠り続ける人もいたらしい。


 症状が出る時期も様々で、私とかずらくんのように小学生のうちにかかる人もいれば、それこそあと数日で二十歳になるという時期でも発症する。


「かずくん、大丈夫?」


 同じクラスの犬飼さんは、優しい人だ。真っ黒な学ランに身を包むかずらくんにいつも付き添っている。今は社会の授業中で、机を向かい合わせの形に動かそうとクラスのみんなが立ち上がったところだ。私たちのクラスの学級委員でもあるから、そういう性格なんだろう。


 もうずっと、かずらくんと会えていない。私が声を出せなくなってすぐの頃は、紙に書いた私の言葉をかずらくんのお母さんが読んで、かずらくんはそれを聞いて私に言葉を返す、そんなことをしていた。だから、その時は私とかずらくんは確かに会っていたんだと思う。何回か繰り返すうちに嫌になってきて、かずらくんの家にも行かなくなった。なんだかすごく、気持ちが悪かった。あんなの会話じゃない。まだ小学生だったから、我慢できなかった。


 今、私は中学二年生だけれど、クラスの人と普通に会話をしている。話しかけられたら、会話用のノートに文章を書いて、見せる。かずらくんとは、もう何年も話していない。


 中学二年生にもなると、周りは色恋話一色になる。私にも、夜になるとスマホに「恋バナしよ」なんてメッセージが来たことがある。実際は、その子に彼氏ができたからその自慢だったけど。羨ましい、とほんの少しだけ思った。一番最初に思い浮かんだ顔は、もちろんかずらくん。かずらくんとは家が近所だったから、それこそ物心ついた頃から一緒にいた。私とかずらくんのお母さんたちもどうやら高校の同級生だったらしい。ピアノ線くらいにカッチカチの縁を、私は最初から持っていたのだ。それを神様は、バチンッ、と音がするくらいに思いっきり切り裂いた。


 かずらくんとは喧嘩する日ももちろんあった。でも私がかずらくんって呼ぶと、なんだかんだ振り向いてくれるのがかずらくんだった。小学生には似合わない落ち着きがある人、それがかずらくん。二十歳病になってから数日したら、かずらくんは普通に学校に来た。私は学校をよく休んでいたのに。学校に行っても、二十歳病のことを忘れて口をぱくぱくさせてしまうことが結構あって、そんな日はずっとトイレの個室にこもって泣いた。そんな私を、かずらくんの付き添いで来ていたかずらくんのお母さんが見つけて、かずらくんと会話ができるようにしてくれた。だけど、今度は神様じゃなくて自分で、その縁を切った。


 私は一度、クラスの男子の湊くんに告白されたことがある。私は喋れないから、丁寧に体を折って「ごめんなさい」と伝えたつもりだった。でも湊くんは、私が「お願いします」の意味で体を折ったと思って喜んだ。首を思いっきり振ったり、両手で×の字を作ることもできたけど、それはなんだか申し訳なくてできなかった。私も悪い。だからしょうがないと思ったけれど、かずらくんは湊くんに「おめでとう」と言った。それは、耐えられるものではなかった。すごく、悲しくなった。


 湊くんは、クラスのムードメーカーみたいな人ですごく元気だ。かずらくんともよく話しているところを見るから仲も良いんだと思う。夜、勇気を出して湊くんにメッセージを送った。なんて言われるか不安だったし、それこそクラスの嫌われ者になってしまうかもしれない、なんて思いながら本当は断ろうとしていたことを伝えた。


「こっちも配慮が足らなかったね。そうだよね、確かに、断るって難しよね。ごめんね、つたえてくれてありがとう。かずの笑顔、ぎこちなかったし」


そんな返信が来た。誤字があったり、漢字に変換できていなかったり、そういうものがすごく気になった。


 二十歳病になっていなかったら、かずらくんと付き合うこともあったのかなあ。そんなことを考えながら、会話用のノートに文字を書き、私もみんなの会話に参加する。社会はこういう授業が多い、四人くらいの班になってプリントを埋めたりする。退屈だ。


 伝えるにしたって、手段がない。声は出せないし、手紙はかずらくんが読めない。誰かに読んでもらえば確かに伝わるけど、それは嫌だ。もしかしたら、私が二十歳病にならなかったら、私は勢いに任せてかずらくんに告白していたかもしれないのに。


 社会の授業が終わり、次の授業のため理科室に向かおうと教室を出る。廊下を少し歩いたところで、かずらくんが白杖の真ん中よりも下辺りを両手で持って上に挙げていた。あれが困っている時の合図だと私は知っていたから、肩をトントンと叩いた。本当は一声かけてあげないと目が見えない人は驚いてしまうからよくない。でも、声は出ない。


 どうしたの? と口では言えないからわかってくれるか不安だったけど、かずらくんは「あ、ありがとうございます。今いる場所がわからなくなっちゃって」と言った。理科室に行きたいということだったので、私は手を引いて理科室へ連れて行った。私も向かおうと思っていたから。同じクラスなのだから当然だ。


 理科室に着くと、教室にいる人たちの声でわかったのか、かずらくんは私が何もしなくても「ありがとうございます」と言った。


 何か言葉を返したいけれど、私は何も言えないので、そのままかずらくんから離れようとした。




?」




 と、かずらくんは言ったけれど、私は何も言えなかった。溢れた涙が、喜びの涙だったのか、悲しみの涙だったのかは、わからない。


 目が見えないのだから当たり前だけど、微妙に私からずれている視線が、すごく痛たかった。


「かずくんごめん、大丈夫だった?」


 理科室の先生を手伝いながら、犬飼さんがそう言った。


 かずくんじゃない。


 かずらくんなのに。


 私が呼べばすぐにわかってくれるのに。


 声はでない。おまけに、かずらくんは、私が見えない。この二十歳病にかかった日から、私は、かずらくんの世界から消えたんだ。私だけが、いなくなった。


 誰にも言えない恋を抱えるというのは、本当につらい。




      *




 私は今、大学生。小学校、中学校がひどく懐かしい。その頃の私に「あなたも大人になるんだよ」と言ったら、私は信じただろうか。きっと、信じているようでずっとこのままなんだろうなとも思っていたはずだ。


 私は今日、二十歳になった。鏡の前で大きく口を開く。


「あー」「あー」「あー」


 声、出た。


 だからなんだ。ちょっと便利になるくらいだ。


「行ってきます」


 ちょっと乱暴に家の扉を閉じて、大学に向かう。お母さんとお父さんのびっくりしたような声が聞こえた気がした。


 テレビの二十歳病をテーマにしたドキュメンタリー番組なんかのインタビューで、二十歳病を患っていた人たちはよく、二十歳病になってよかった、と言う。番組も、悲劇のヒロインのように二十歳病患者を演出して、最後はハッピーエンドのように締めくくる。別にそれに対しては、何も思わない。ただ、私にはハッピーエンドと言えるほどのものがないってだけ。


 かずらくんの家の前を通り過ぎて、最寄りの駅に向かう。高校からはかずらくんと別の学校だったから、もうかずらくんは記憶の住人となっている。駅の改札を通り、電車に乗った。


「杏ってそういう声だったんだ」


 昼食を学食でとる私の友人である由紀は、味わうように私の声を聞いていた。なんだか体がむずむずする。恥ずかしいし。


「どんな声?」


「なんかこう、えーと、んー」


 両手を空中でグネグネ動かしながら、身振り手振りで何とか私の問いに答えようとしている。ちょっとだけ、面白い。


「これからはたくさん話そうね!」言いたいことを表現できないもどかしさを振り払うような勢いで由紀が顔を近づけてきた。


「は?」


「小学校の頃から喋れなかったんでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ取り戻さないと」


 こういうところは素直にすごいと思う。私が高校生になった時なんて、もうほとんど諦めていたから取り戻すとかそんな風に考えたことすらなかった。そっか、もう、話せるのか。


「でもさ~、別に筆談はできてたわけだし」


「それでも色々違うでしょ?」


 違うのかな。


 由紀とは大学に入ってすぐ仲良くなった。こうしてお互いが口を動かして話すのは初めてだけど、別に何かが違うとも思わない。さっきも言ったけど、ハッピーエンドは私には来ない。喋りたいときに喋れないんじゃ、今喋れたって何も変わらない。


「好きな人、いるの?」


「え? 急になに?」


「なんか、そんな顔してた」


 好きな人。か。



 あ、言えた。一番言いたかった言葉。これは、私が言わないと意味がない、紙に書いて誰かに読んでもらうのは絶対にダメ。もっと正直に言うと、嫌だ。


「かずらくん? 珍しい名前だね」


 なんだか楽しそうに由紀は瞳をきらきら光らせる。新しいおもちゃを見つけた子どもみたいだ。まあ、そうなんだろうな。こういう話題は、なんだか楽しい。


「違くて、本当はかずって名前なんだけど、私はかずらって呼んでるの」


「杏だけ?」


「そう」


 あらあら~、大袈裟に身を縮めて楽しそうに笑う由紀。なんだかおかしくなって、私も笑った。




 翌日。


 私は勢いよく玄関の扉を開いて、家を飛び出した。かずらくんの家までリュックサックに着いたキーホルダーをジャラジャラと鳴らしながら、走る。走るなんてことを久しくしていなかったから、体の動きはなんだかぎこちない。すぐに息が上がる。


 かずらくんの、家に着いた。もう私たちは二十歳だけど、かずらくんの誕生日は私よりも数か月遅い。ならまだ、かずらくんは家にいるはずだ。一人暮らしはしていないだろう。



「かーずーらーくーん!」



 私はずっと。本当にずっと。かずらくんの世界から消えていて、私だけがいなくなって。


 理科室の。あの時できなかった返事がしたい。光がなくても、声がなくても、私を見つけてくれたかずらくんに。あの時私は、きっと、いや絶対、嬉しくって泣いたんだ。どうしようもないほど嬉しくて、欠けた自分自身が返ってきたような気がしたから泣いたんだ。


 べたべたと二階の窓を内側から触って、カチャッという窓のカギが開く音が聞こえました。



?」



「そう! 杏だよ! かずらくん!」

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