約束

真花

約束

 先生はニコリと笑うと、それで、どうしたの? と僕に訊いた。彼女と僕の間には何もない。閉じられたこの部屋の中は二人だけのもの。僕は、えっと、と言い淀む、彼女は静かに頷く。僕は息をゆっくり吸って、言うべきことを整理してから、声にする。

「本当は、僕のことを詮索しないで欲しかった。でも、五年生になって大人ぶってるのか知らないけど、井上いのうえさんと島田しまださんは僕の机から離れないで、『好きな人教えなさいよ』ってしつこかった。適当なことを言うのは嫌だったし、彼女達が秘密を守る筈がないし。困った。それで、黙っちゃった」

「二人は引き下がったの?」

「全然。面白そうにまた訊いて来た。だから、僕は嘘をついた」僕は彼女の目を見る。大人なのに僕の周りのどんな子供よりも澄んだ目で彼女が見返す。僕は真実を告白する勇気を搾るために深呼吸する。それが彼女の瞳に映っている。

「先生には悪いと思ったけど、陸原りくはら先生が好きだって、嘘をついた」

「私?」

「うん。……許してくれるよね?」

 僕の視線が揺れる、ぐっと堪えて彼女の目に照準を戻す。

「それは、全然いいけど、それでどうなったの?」

「『ふーん、つまんなーい』って言って、二人はいなくなった。だから、正解だったのかな、僕のやったこと」

 彼女は少し考えてから、深く頷く。

「そう思うなら正解よ」

「少しずつだけど、周りの人とぶつからなくて済むようになって来たと思う」

「成果が実感出来るのはいいことだね。……そろそろ時間ね。また二週間後に続きをしましょう」

「先生、ってずっと呼んでるけど、先生の仕事って、何て言うの?」

「スクールカウンセラーよ。さ、時間はちゃんと守りましょう」

 はーい、と言って僕は席を立ち、部屋を出る。出口まで彼女は送ってくれて、ドアが閉まったら途端に僕の周りが学校に戻る。離れていた音が沸き立つように、上履きの匂いが忍び寄るように、僕は学校の中に放り出される。もう一度、すぐにでもこのドアを開けて彼女のところに行きたい。だけどそれはルール違反で、僕が彼女の前で一人前の顔をしているためには絶対に守らなくてはならないもの、僕は唇を噛んで、自分の教室に戻る。

 昼休みが明けたばかりの教室はさっきまで僕がいた空間と繋がっているのが信じられないくらいに全てが散っている。自分の席に座って、『三四郎』の続きを読む。もう終わろうとしているこの物語で三四郎に感じるのは、彼がヘタレだと言うことだ。僕だったら、たとえ砕けようとも自分の想いを伝えることが出来るか? ……僕も同じくらいヘタレなのかも知れない。教室で生じる他の人との軋轢は距離を取ることで何とかなるようになって来た、でも自分の気持ちを伝えることはそれとは真逆のことをしなくてはならない。僕にそれが出来るのだろうか。僕はたった今嘘をついたばかり。

 午後の授業が始まる。授業中はあまり辛くない。でもやっぱり、先生と会った後は彼女のことばかりを考えてしまって、授業がうわのそらになる。先生が好きだと嘘をついたと彼女に言った。

 だけど、先生が好きなのは嘘じゃない。

 でもそんなこと言えない。井上さんと島田さんが白けると分かっていて、本当のことを言った。ちょっと傷付いた。だけど、おもちゃにされるよりはずっといい。僕の先生は僕だけのものだ。あの肩までの髪に触れてみたい。時折届く香りの正体が知りたい。僕じゃない人の前でも笑うのが嫌だ。他の人と面談をしているのが嫌だ。恋人がいるのかも知れない。でも、僕はまだ十歳。大人の女の人にどうやったら釣り合う。だから秘密の恋にする。万が一先生も僕のことを同じように想っていてくれたら、……それはあり得ないことかも知れないけど、僕は銀河一の幸せを手にする――

新島にいじま!」

「はい!?」急な担任の先生の声に僕の声が裏返る。

「ぼーっとするな。この問題解いてみろ」

 僕は黒板に記された算数の問題を一瞥して、簡単だ、答えを書く。「よし」と言われて戻るときに、井上さんと島田さんがニヤニヤと僕のことを見ていた。案の定、休み時間に僕の机のところに来る。

「陸原先生のどこがいいの?」井上さんが午前中の続きを始める。つまらないんじゃなかったのか。僕は今度こそ美しく嘘をつこうと構える。

「余計なことを訊いて来ないところ」

「何それ、私達が余計なこと訊いてるってこと!?」

 井上さんが僕に迫ろうとするのを島田さんが宥める。

「僕に興味を持ってくれるのは嬉しいけど、好きな人を訊いてもくっつけてはくれないでしょ?」

「は? 『僕に興味』なんてないっての。キモッ。ただのネタ探しだっつーの」井上さんはそう言うと、「行こ、こいつ気味悪い」と島田さんを引っ張っていなくなった。距離を取る筈が、踏み込んだ。付かず離れずを維持することが目的なのに、思い切り弾いてしまった。でも、彼女達にはそれでよかったような気がする。それから二人は僕に絡んで来なくなったから。

 嘘でも告白をしたせいだろう、僕の中で先生への想いがぐんぐん育つ。学校へ行く目的がたった一つ、彼女に会うことになっている。彼女は間違いなく会ってくれる。想いが育って、三ヶ月経ったその日、僕の胸がパンパンに破裂しそうで、ああこれはもうダメだ、伝えよう、と覚悟を決めて彼女の部屋のドアを開けた。

 先生はいつもの先生で、小柄で、でも僕よりはギリギリ大きくて、優しく、潮騒の届く浜から見上げた空のように優しく、笑う。僕の鼓動が暴れて、手が震える。僕は平静を装って彼女の前に座る。

「この二週間、どうだった?」

 僕は言葉を出せない。二週間ずっと今日のことを考えて来た。それ以外のことは生きるおまけに過ぎなくて、距離を取ることが上手くいったときもあったけど、それは今一番大事なことではない。でも、彼女自身を前にすると、僕のはち切れそうな想いが、それをただぶつけると言う行為に出ることを想像しても、実行に移せない。強い禁止がそこにはあって、それは僕達が重ねて来た時間そのもので、二人の関係の全部で、つまり僕の存在を懸けるかと問われている。いや、自分を懸けることはしてもいいよ、でも、彼女とのことがなくなってしまうのは嫌だ。絶対に嫌だ。僕は一人息をのむ。彼女はじっと何も言わずに待っている。僕はまだ若過ぎる、彼女を僕のものにするにはきっと、若過ぎる。それでもいいと言ってくれる可能性はないだろう。もし、想いを伝えることだけが人生の目的なら、玉砕すればいい。でも違うんだ。僕は先生と一緒に笑いたい。彼女を独占したい。言いっ放しの告白が無責任なら、その先を求める僕は強欲だ。三四郎がヘタレだったのは、欲が足りなかったからだ。僕には強い欲がある。でも、それは彼女が「いいよ」と言ってくれないと、手に入れることが出来ないもの。それは限りなく難しくて、今それを得ることは……諦めた。何度も考えてはこの結論に達している。だから、せめて。

「先生」僕の声は震えている。

「はい」

「僕は、好きな人がいる」

 彼女は小さく頷く。僕は続ける。

「その人は僕よりずっと年上で、僕のことを恋愛対象としてはきっと見ていない」

「そうなのね」

「いつか、立派な大人になったときに、その人に告白をしに行こうと思う」

「そう決めたのね」

 僕はぎこちなく頷く。

「ずっとずっと想い続ける。誰にも秘密で」

 彼女は花のように微笑む。

「きっと、伝えて」


 それからも二週間に一回の面談は続き、もう卒業する。最後の面談まで、僕は恋のことを二度と話題には出さなかった。

 卒業式の後、先生の部屋に挨拶に行った。

「先生、ずっとありがとうございました」

 彼女は微笑んで、「卒業おめでとう」と言った。彼女に会えるのはこれが最後かも知れない。だったら、一つだけルールを破ろう。『相手の体に触れてはならない』このルールのために、僕は彼女に触れたことがない。

「先生」

 僕は右手を差し出す。

「最後に、……最後だから、握手して欲しい」

 彼女は少し考えて、ニコリと笑う。

「しよう」

 彼女の右手が僕の右手を掴む。小さくてふわふわした手。僕の鼓動がうるさくなる。でもそれ以上に胸の中にあるものが溢れて、僕の目から流れ出した。僕はでも、彼女の姿を焼き付けたくて、目を見開く。

「先生、本当に、ありがとう」

「うん。応援してる。……いつかの告白も、がんばってね」

 僕は胸を打たれたみたいに、もっと泣いて、泣いて、いずれ涙がなくなるまでずっと握手をし続けた。

「泣き止んだら、ここまでにしよう」

 彼女が軽く頷きながら言うから、僕はもっとずっと一緒にいたかったけど、一人前の顔をするには、せめて彼女の前で一人前の顔をするには、「分かりました」と言う他なかった。僕達は手を離す。

「それじゃあ、ね」先生が離れてゆく。

「さよなら」僕が離れてゆく。

 二人の間には何もない。ただあるのは僕の恋の約束だけ。


(了)

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