第二章ー11 『後悔』
⚫『後悔』
「はい、
「見て
「スゲえ!? そびえ立っている!?」
「じゃあ写真撮っちゃうね~。灯と真嶋、寄って寄って~!」
スマホのシャッター音が鳴る。
「盛っちゃお~……ってか灯が盛りなしで超美形なんですけど!? 加工済み!?」
正太と
「背景が学校とか……これティックトックでバズりそうだな」
「いいね真嶋! でも夜の教室はダメでしょ~! ってか、真嶋ってティックトックとか見るんだ、意外~!」
「真嶋君は意外と流行を追ってるタイプよ。夜一人で」
「あ、うん。友だちいないからね、ドンマイ!」
「反論できない……!」
まず、会場が夜の教室であること。
「お……おいしい! サックサクでおいしいわよ真嶋君!」
「まだまだあるから、じゃんじゃん食べてね~!」
さらに、南雲の母親が経営するうどん屋から、山盛りの天ぷらが提供されたこと。
「いや~、教室の机にこんだけお菓子とジュースを並べてるのって……悪いことしてる気になりますな~」
「それは月森の平常運転だぞ」
「あんたら普段二人でなにやってんの!?」
おかげで、三人だけの祝勝会は豪勢な品であふれていた。
「お、
「いやいや……いいのに」
「今日は『真嶋三位おめでとう会』なんだから! 主役が飲まないでどうするんだよー!」
「そうよ、真嶋君。飲まなきゃ。はい、乾杯」
「
「私の指名料、高いわよ」
「二人とも酔ってないよな!? お酒はないはずだぞ!?」
南雲があははと快活に笑う。
モノトーンよりも、真っ赤なシュシュが映える色彩鮮やかな姿の方が彼女らしいと思う。
あの時取り乱した姿を、今は
「しっかし、
にやにや顔で南雲が言う。
「……ねえ、真嶋君。私……本当に教室でそんなこと言ってた? 確かに夢の中でそういうことを言った気もするけど……」
立ち上がり
「間違いなく現実だった」
「……それって、感じ悪くない?」
「全然。大評判だって、友だちが言っていた」
『眠り姫が、愚民に勉強しろって仰せになったって!?』『腕を振っただけで近くにいた菅原が吹っ飛んだらしいぞ!』などなど。とんでもない尾ひれがついた
「でも真嶋、結果が出てよかったね。こっからまたがんがん成績上げて、目指せ東大!」
「ああ……そうだな」
ちゃんと努力をしてみせて、やっとスタートラインに立てた。
努力したからこそ、ここから先は「努力してもできないことがある」と言う権利を手にできた。
正太にとって本当の勝負が始まるのだ。
「もちろん灯も絶対合格してね、理三。あたしも、できるかぎり手伝うよ! 塾の方も話ついたしね」
塾を自習室として利用する形での入塾がすでに決まっていた。他の場所でも自習をする話は、
「しかし無料って悪いような……」
「いやいや真嶋が東大に合格してくれれば、塾の宣伝効果として抜群だし!」
「私も塾に所属だけしようかな? そうすれば合格実績は二人になるでしょ」
「でもそれって……いいのか?」
「きちんとした指導の実体なしに、堂々と塾の実績に入れちゃうやり方は、今のご時世NGね。ただ人の
夜の祝勝会は続く。
飲んで、食って、騒ぐ。
夜遅くに食べすぎるのは不健康だ。
夜に教室を使うのは不健全だ。
本来四十名で使う場所を、たった三人で占拠している。
背の高い遮蔽物がないためか、教室では声がよく響く。
夜を映す窓ガラスが、自分たちの声で振動している。
大人が夜にお酒を
昼間の内は太陽の傾きで、時間の経過がわかってしまう。
日が沈むにつれて、なんとなくさみしい気持ちになる。
でも日がすでにとっぷり沈んでいる夜には、それがない。
どこまでも、延々と続けていける気がする。
そのまま朝日を迎えた日なんて最高なんだろうなぁ。
けれども、まだ十代の自分たちはそんなわけにはいかなくて、終わりの時間はやってくる。片付けが終わって。もう帰る時間がやってきて。
「いやぁ、最後に学校でいい思い出ができたなー」
「
そう言う。
だから
「南雲は、学校に後悔はないのか?」
素面の昼間じゃ、こんなことは聞けなかったかもしれない。
「──なにそれ?」
けらけらと笑っていた南雲の顔が一瞬にして冷めた。
「例えばもっと勉強をしたかった、とか」
「いや勉強なんて、……喜んでやるものでもないんじゃない?」
「勉強嫌いの
「ないよ」
一息に言い切ろうとした
「あたしはもうドロップアウトしたから」
冷たく、静かな声だった。
熱気に包まれていた教室が、肌寒く感じる。
夜が深まって、少しずつ気温が下がっている。
「あたしは一足先に社会人になってるからねー!」
明るい声を、
「どれも答えにはなってないよな」
「ないよ。後悔はない。今さら……後悔なんてしたって……」
本当ならば、それでもいいと思った。
「あたし、お父さんの塾もお母さんのうどん屋も手伝っていて、昼間は忙しいんだよ、こう見えて! だから時間もないし──」
「勉強は、いつでも、たとえ何歳からでもできるわよ。そこに学びたい意志があるなら」
南雲の視線が、言葉を発した
ちょうど窓側を背にしていて、月森の背後にくっきりと月が浮かび上がっている。
夜を背景にした月森の美しさは、いつにも増して神秘的だ。
「だからあたし……、昼間ずっと仕事をしてるようなものだしさ……」
南雲の表情にヒビが入る。なにかを耐え忍んでいるようにも、見える。
「夜にやればいいわ」
このセリフを言うのに、これほど最適な人物はいない。
「夜に一人で。毎日少しずつでも」
南雲は唇を
「……高一で学校辞めたあたしが今さら勉強始めたって……笑われるだけだし」
「なおさら夜だろ」
今度は正太が言った。さらに続ける。
「夜ならなにをやっても、誰にも笑われない」
夜はすべてを受け入れてくれる。身を
「勉強する場所が必要なら、ここがあるわ」
月森が南雲を誘う。南雲の顔もほころびかけて、でも。
「……いやあたし、部外者だから」
「卒業生よ」
「中退を卒業生って言わないよね」
「面倒臭いわね。じゃあ中退生でいいから」
「
そこで
勉強を諦めたくない。大学受験に挑戦したい。
そうして南雲も夜の教室で勉強をする──なんて。
そんな光り輝くきらきらした美しいものは、この夜に、なかった。
「でも夜になにをやろうがさ……最後に出歩かなきゃいけないのは……昼間じゃん」
「それって──」
脳裏によぎるのは、モノトーンの、まるで誰かに見つからないためのような
「──昼間に……顔を隠していることと、なにか関係しているのか?」
はっ、と目を見開いた南雲は、でもすぐ諦めたみたいに目を伏せた。
「気になるよねー……そりゃ。あんまり言いたくない……いやでも」
──それで会えなくなっても仕方ないよね。
小さくささやいてから、南雲は話し始める。
「なんていうか、学校辞めてから、昼間はあの格好じゃないと外に出られないんだ」
南雲の顔には能面のような笑みが張り付いている。
「昔の、高校の時に友だちだった子らに、見つかりたくない。今のあたしを見られたくない。……だって見下されるじゃん。落ちぶれたって笑われるじゃん。そう思うと……さ。堂々と太陽の下を歩くのが、難しくて」
日の光がない夜の世界で、彼女は言う。
「夜だと気にならないんだけどねっ! どうせみんなはいないだろって、思えるから。昼間は学校行って部活行って塾に行って、そんで夜は家にいるんだろ、って」
昼は仮の姿で生きて、皆が寝静まる夜にやっと本当の姿を
わかるよ、その気持ちは。痛いほど。
「まあなんなんだよって感じだよね! 夜も昼も変わらないだろって思うし! ……学校辞めた直後は引きこもりで昼夜逆転してたのが影響してんのかなぁ……」
あははー、と笑う南雲に、
「やっぱり引きずっていることが、あるんだな」
「だったら、なに? さっきからすごい突っ込んでくるけど? あたしの事情を知ってるの? 気持ちをわかってるの? あたしは後悔もなければ勉強もしないって言ってるよね? 土足でずかずか入り込んでこられたらさ、あたしもイラってくるよ」
その瞳には、ついに怒りの色が浮かんでいる。
これ以上先へ行ったら、絶対元には戻れない。
それでもさらに踏み入る。夜の深みへ。
「俺たちも調べたんだ、昔のこと。だから事情は、ちょっと知ってる」
「勝手に人のことを……!」
「南雲といる時に声をかけてきた女子、いるだろ?」
それを言うと、怒りに満ちていたはずの南雲があっという間に泣き顔になる。
そう、彼女がまさしく、南雲が絶対に昼間に会いたくなかった元友だちで。
「ちょっと
「……伝言?」
──あの時はごめんね。また遊ぼう。
言っている最中に、はっきりとわかった。
南雲の表情に激情が
「なんだよそれふざけんなっっっ!? 前向いてんのかよっっっ!? いい思い出かよっっ!? ムカつくなムカつくなムカつくなあああ! あいつらのせいでっ、あいつらのせいであたしはっ、こんな生き方してるのにっっっっ!」
──一年生の頃、カンニング騒動があった。
化学のテストで、同じ特徴のある間違い方をしている生徒が複数出たこと、そしてその間違いを誘発させたと
そのカンペの元は、南雲が自分の暗記用に作成したものだった。
南雲は本番でカンニングをしていない。なんなら自分は正答している。
作成者のため聴取は受けたが、彼女はカンニングそのものとは無関係──のはずだった。
その同じ間違いをした生徒たちが、口裏を合わせて南雲に罪を
これを使えとカンニングを促してきた。もしかしたら平均点を下げるためにやってきたのかも、と。
南雲がそこまでする理由はない。証拠もない。同様に、その生徒たちもカンニングの現場を押さえられたわけではなかった。よって最終的には、全員不問になったが。
「親が離婚したのも……あたしが学校を辞めたせいなんだよっ! 絶対……きっと……そうなんだ……! なのにあいつらはのうのうと学校行って普通に生きられてんのかっ!? 後ろめたいとも大して思ってないのかっ!?」
南雲は机に拳を
秩序だった教室を破壊する。
「でもそれもっ……あたしが悪いんだってわかってるんだよっ!?」
感情を吐き出している。目に涙が
「あたしが折れちゃっただけなんだよっっ! 別に……犯人にされたわけじゃない……処分もなかった……学校は、別に、続けられた……でも……だってさぁ……」
熱い吐息が漏れる。肩で息をしている。髪型が乱れ、崩れる。
「……あたしのメモをわざと書き換えたのは……友だちだったんだ」
涙は流さず、でもその声は泣いていた。
「あたしは地元のみんなと同じ学校に行きたくて。……そっから難関大学入ったら
もうずっとかさぶたになっていたであろう傷から、さらさらと赤い血が流れていく。
「別に……全部……イタズラとか、すれ違いみたいなものなんだよ……。カンニングを疑われた子たちも聴取にビビって……誰かのせいにしなくちゃって、焦って。みんな少しずつ悪かったよねって認め合えば……それで終われた」
迎合すれば、
「でも……誰も応援してくれてないんだなって。足まで引っ張られるんだなって。この学校から難関大学に行ったらみんなの自慢になるどころか、……ウザいんだな、って。それで……頑張るのはもういいやって、諦めたんだ」
出る
「……もうドロップアウトした負け犬なんだよ、あたしは」
南雲は呼吸を整える。額に張り付いた髪をかき上げる。
そうだよな。だから、分相応に目立たず生きることが、大事なんだよな。
まさしくそうあるべきだって、実例じゃないか。
だから自分は分相応に──でも今の状態は、南雲に相応しいと思わなかった。
これは間違っている。
じゃあなにが正しいんだ。
「南雲が東大に行ったら、そいつらきっと悔しがって嫉妬するだろうな」
「ぷっ……ふふ」
と吹き出す。
「な、なんで笑う? ここで?」
「だって……性格悪すぎでしょ、
「……確かに。はは」
なぜか南雲まで笑い出す。ちょっと恥ずかしくなってくるぞ。
「あたしが東大に行ったら……そいつらを思いっきり見下してやれそうだけど」
「じゃあ見下して、
正太はやけくそで言った。
「復讐って……そんな動機で東大を目指すなんて……」
「俺は、自分に才能がないってことを証明するために東大を目指してる」
「…………はぁ?」
「私は、
「……………………おぅ?」
「……ねえ、
南雲がたじろぐほど、その瞳には強い意志が込められている。
「ゆ、許さないって」
「ねえ、美空。私たちはまだ、あなたの気持ちを聞いていない。本当は勉強をして、受験したいんじゃないの? あなたはここからでも始められるのよ。それにもし、美空が望むならば──私はあなたを必ず東大まで導ける」
月森という圧倒的な光に照らされて、
「どうしたい?」
南雲はなにを思うのか。
「……色んな理由を、探したんだよね……」
南雲の声は震えていた。
「……何度も考えたよ。……考え直したよ。……あいつらは関係ない。……これは自分の問題だ。……大学には行った方がいい。見返したい気持ちも……あった。でも……
南雲はとても、いい
どんなものも全部自分のせいだと背負い込んで、自分を責めてしまうような人間だ。
だから南雲は、ちょっとくらい、悪くなっていいんだ。
恨んでいいんだ。
妬んでいいんだ。
夜くらいは、それを許せ。
「レッテル貼られて、ドロップアウトして。昼間まともに歩く自信を失って。……でもそんなあたしが東大に受かったら……全部ひっくり返して、全員見下してやれるかぁ」
それは夜からの、とんでもない
南雲の顔はなにか
「……目指してみるかな、東大」
それはきっと、南雲に必要なことだと思った。
「……いやでも現実的に、今から東大を目指すって……。ちょっと前まで高卒認定の勉強してたけど……」
「大丈夫よ。私がみっちり鍛えるから、この夜の教室で」
「で、でも部外者が学校に──」
教室のドアが開く。
突然のことに
「一年の時、学校を続けさせてやれなくて、すまなかった」
白衣の海老名は、深々と頭を下げた。
「せ……先生は悪くないよ……。だって海老名先生は一番熱心に……最後まで……あたしに辞めるなって言ってくれて……」
見る見るうちに南雲の目に涙が
「もう一度だけ……学校に通う機会を、こんな形だけど作らせてくれないか?」
「どうしてそんな……」南雲は状況に戸惑いながら、正太と
自分たちが南雲と出会ったのは偶然だ。
でもそのあと、夜の教室に呼んだのは?
そして今日も南雲を誘えと言ったのは?
『思いきり遠慮なし
『責任は全部わたしがとるから』と正太たちのブレーキを外したのは?
じゃないといくらなんでも、こんなに相手の心にずかずか入り込むようなこと、言えるわけがなかった。
説得なんて大層なことは考えていない。ただぶつけただけだ。夜の、自分たちを。
「学校、来いよ。夜に。で、勉強しろ。それでちゃんと、自分の中で区切りをつけて、ここを卒業しろ」
その瞬間初めて、南雲の
夜の教室で子どものように声を上げて泣く南雲のことを知っているのは、海老名と月森と正太だけだ。
それは夜の教室にいる人間たちだけの、秘密だ。
僕たち、私たちは、『本気の勉強』がしたい。 庵田定夏/MF文庫J編集部 @mfbunkoj
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