第2話 先輩

 慌てて持ち出した1冊は、ずいぶん前に見たことのある事典だった。

 僕は、翌日も図書室へ赴いた。

 すぐに返却し、自分の図書カードを受け取って新しく借りる本を探す。

 本棚の向こうに、先輩が見えた。

 女子は人によってスカートが長かったり短かったりするが、先輩は長い方だと思う。

 すっと動くと、軽そうに揺れるスカートの動きがキレイだ。クラスの女子たちのように、腰で短く折り上げていると揺れ方は不自然になる。

 別にスカートばかり見ている訳じゃない。男子のズボンと違ってヒラヒラよく動くから、目がいってしまうというだけ。

「あれ? 見たことある事典だった?」

 先輩はお見通しだ。

 それでも馬鹿にすることなく、明るい笑顔を向けてくれる。

 つい、笑顔を返してしまう。

「はい。うっかりしました」

「端から順に見てけばわかりやすいけど、気になる内容から見たくなるもんね」

「確かに。でも、右上から見直そうかな」

「あはは。それもいいねぇ」

 他愛もない言葉を交わして、僕は上段の一番右の事典を抜き取った。

 『日本の山』と書かれている。表紙は当然、富士山だ。

 山の種類でも百科事典が作れるらしい。興味深いではないか。

 順番に見ていっても、不人気な百科事典は次巻が貸し出し中ということがないから良い。

 先輩に会釈して、隅っこの棚をあとにした。

 ストーブはついているが、図書室の隅っこまでは届かず寒い。

 スカートは寒くないのだろうか。

 カウンターの中では、司書の先生が分厚いセーターにコーデュロイのズボンを履いた格好で寒そうに背中を丸めている。

 図書カードを記入しながら、図書室の奥に目を向けてみる。

 先輩のスカートが揺れているのが見えた。

 いつも背筋の伸びた先輩は、ちっとも寒そうに見えない。

 もしかすると、先輩は図書室の隅っこでも寒くないのかも知れない。



 一度、本を探すのを手伝ったことがある。

 他にも百科事典を借りる生徒がいたのかと喜んだが、それはないと言われてしまった。

 同じ大きさの本が並ぶ棚で、1冊だけ抜けていた。

 見当たらないのは1冊が大きな『野鳥百科』だった。

 大きく分厚い百科事典が他の棚に紛れていれば、すぐにわかるだろうと近くの棚を探したが見当たらない。

 しかし、すぐに思い出した。身に覚えがあった。

 借りようと抜き取ったものの、他に気になる事典を見付け、つい事典の上の隙間に、横にして置いてしまったのだ。

 すぐに戻すつもりが、すっかり忘れてそのままにしてしまった。

 記憶通りの隙間に、野鳥百科は入っていた。

 謝りながら訳を話すと、先輩は笑って許してくれた。

 野鳥百科を元の棚に戻し、キレイに同じ大きさの事典が揃ったのを先輩と並んで眺めたのだ。

 いま思えば、誰も借りる生徒のいない棚で、いつも本の順番がバラバラになっていることが不思議だった。



 先輩がここで本の整理をしていることは、図書委員も司書の先生も知らない。

 自分だけの秘密なんて大袈裟なものではないが、それに近いものを感じる。思い違いなのか、なんなのかよくわからない。

 ただ、他に誰とも顔を合わせることのない図書室の隅っこで、いつも会える先輩には特別な感覚をもってしまうのだ。

 いつの間にか、本よりも先輩に会いに行くことが目的になったと、最近気付いた。

冬ももうすぐ過ぎる。

 僕は、今年の内にこの気持ちを先輩に打ち明けようか、迷っているところだ。

 でも、やっぱり打ち明けないのだろう。

 僕に告白などされたところで、きっと先輩を困らせるだけなのだ。



 春休みが明けて、僕も3年生になった。

 図書室の一番奥。

 先輩は、今日もその場所にいた。

「こんにちは」

 僕は、先輩に声をかけた。少し緊張した。

「あ、また百科事典?」

 先輩は、変わらない笑顔を返してくれた。

 僕もつられて笑顔で返事をした。

 次は、野鳥百科だ。


 ――先輩は今年も、本の並び替えですね。


 頭に浮かんだが、言えなかった。



佐々木ささき 春子はるこ


 学年は違うものの、先輩の名前は知っている。

 一昨年の夏休み明けに、学校便りに写真が載っていたのだ。

 海の事故で亡くなったと書かれていた。


 先輩が、今でも図書室で本の並び順を正している理由は知らない。

 僕が卒業するまでに、聞けるだろうか。

 まだ見ていない百貨事典はたくさんある。

 いつの間にか、会いに行く口実になっている。それでいい。

 もっと、話がしたい。



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本の並び順が替わる図書室 天西 照実 @amanishi

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