オペラグラシオン 後半

本棚の上から猫が飼い主の顔を見ると毘沙門天顔をしている。飼い主はいつも怒っているのか笑っているのかそれとも無表情なのかわからない。猫にとってはどちらでもよかった。反応がわからないのはお互い様なのだから。ネズミの気配がしたが姿は見えない。或いは夢の中で鼠を追っていただけかもしれない。髭の先が少しピリピリする。人間の顔というのは猫に比べると少しばかり輪郭がぼやけているように見える。少なくとも猫にはそのように見えている。猫は少し高い声で鳴いてみるのと同時に書斎のドアがノックされ入ってきたのは白髪の男だった。老いた臭いが部屋を満たす。白髪の男は兎のようだった。肌も髪の毛も髭も何もかもが白かった。飼い主が兎のような男の顔を見ないで言った。

「どうだった?」

「特にシステムに異常はありませんでした。何かご心配でも?」

「何から何まで心配だよ」飼い主はほとんど口を動かさずに喋る。顎は退化してしまったかのように細い。どこから声を出しているのかたまにわからなくなる。

「それと置く場所はどういたしましょう?」兎男は喋る度に白い髭がひらひらと動きそれを見ると猫は爪を出してしまう。

「それはどこでもいい。所有しておくことに意味があるんだ。所有することが防御であり攻撃になる。値段はいくらでもいいからすぐに頼むよ」

「かしこまりました」

「さっきシステムは問題ないといったが、システムが何なのかわかるか?」

「さぁ、私には気の利いたことは何も言えません」

「システムっていうのは透明なガラスケースの中に入っている言葉を見るようなもんだ。全ては見えているが一体何が入っているのか理解できないし言葉自体が矛盾を孕んでいるから厄介なんだよ」

「システム管理部とシステム構築した部署で何重にもチェックはしていますよ」

「それでは安全保証にはならない。システムはそれをチェックするシステムを必要とするしそのチェックしているシステムをチェックするシステムも必要になる。蛇が自分の尻尾を食べているようなもんだ」

「完璧なシステムはないということですか?」

「そうじゃない。システムは完璧でもそれを使う側に不備があればそれは不完全ということだろう」

兎男が部屋を出て行くと飼い主は煙を吐き出し目が飴玉のようにトロリとなり甘い臭いが部屋を満たす。煙が平面の海月となって空中遊泳し消えていく。空間はいくつもの平面が重なってできていてその上をあらゆるものは移動しているだけかもしれないような抽象的な動く絵を猫が目で追いかけていると飼い主が話しかけてくる。「おいフレガート、今日のお前の名前はフレガートだ。さぁこっちに来なさい」この屋敷には猫用の通路が設けられている。飼い主が猫を買い取った時に猫通路のついた屋敷を建てた。この通路を使って部屋を行き来することができるが外に出る通路をはない。人工芝に覆われた日光浴ができる部屋があるのでそれほど気にはならない。屋敷の壁の中に通路が張り巡らされていて猫はだいたいの部屋へは行くことができる。防犯のために監視カメラが各部屋に設置されている。しかしその監視カメラの映像を確認しているところを見たことはないのでもしかするとカメラは単なるハリボテかもしれない。ここには猫以外誰も住んではいない。飼い主が住んでいるのは別の場所だ。ここを訪れる者は多いが留まらずに通過していく。監視カメラで誰から何を守っているのかわからない。ここを訪れる者は主人も含めてそれぞれの役を演じているように見える。「なぁフレガート。鼠を捕るためにお前を買ったわけじゃないぞ?」猫は猫通路で別の部屋へと行く。 別の部屋へ入ると先ほどの白髪の兎と黒いスーツの蛇の眼をした女が向かい合わせに立っている。本棚の上にいる猫を見て女が言う。

「あら、この家には猫がいるのね。名前はなんていうのかしら?」女が髪を揺らすと人工的な香りがする。鼻先に触られたような気がして猫は身震いする。

「今日がどんな名前なのかがわからないです」

「それってどういう意味?」

「旦那様は毎日あの猫の名前を変えるんです。今日はどういう名前が与えられているのか確認しておりません」

「あの人もありきたりね。何も新しくないわ。それよりあなた声が若いわね?あなた何歳?」

「そんなことより警備を強化してもらいたい」

「わかったわよ。この屋敷って芝生に囲まれてるのよね。芝居の語源って知ってる?」

私は少しばかり眠くなったが目の前にハエが旋回しているのを見つける。爪でハエを刈り取るところをイメージしながら爪を少しずつ伸ばすとばたりとドアが閉まる音に気を取られているうちにハエが私用通路の中へて入っていったので追いかけると薄暗い通路の中をふらふらと旋回していった。足音をたてないようにゆっくりと近づいていると女の猫なで声が聞こえてきてそちらに気を取られた瞬間ハエを見失ってしまったので女の猫なで声がする部屋に入ると先ほどの蛇の眼の女が黒いスーツを脱いで主人の上に跨っていた。私の飼い主は相変わらず毘沙門天顔をしていて、繋がった二人の人間は人間とは別の生き物に見える。

「あら、また猫がいるのね。あの猫は今日は何て名前なの?」

「今日はアガートだ」

「メスだったのね?」

「なんでメスだと思うんだ?」

「だって名前がメスの名前じゃない」

「昨日はフレガートだったぞ。もう少し右に傾いてくれ」

女の腰が曲がると首の長い生き物が餌を食べてるようになった。

「何かの引用?」

「それを言うなら言葉自体が全て引用だよ。犬は人を見上げて猫は人を見下して豚は人と同じ位置にいる」

「なんなのそれ?」

「家訓だよ。猫の目がカメラだったら面白いと思わないか?」

「それって素敵ね。私の目を猫みたいにしてほしいわ」

「今人工知能を作るところに投資しているんだ。おもちゃのロボットが産業革命に繋がったくらいだから悪い投資ではないだろう?物語は網膜が作るらしい。聴覚は文体を作り嗅覚は構造を作る。触覚は空間を作る」

「味覚は?」

「味覚は何も作らない。味覚は浪費するだけだ。腹が減ったな。何か食べたい」

別の部屋から肉の焼ける臭いや鰹節に削られている匂いがしはじめる。二つのニオイは空中で混ざり合って下品で甘いニオイになった。ニオイは猫用通路を型取りながら鼻へと到達し鼻先を少し湿らせる。ニオイで出来た道を通って行くと広くて白い台所に出るがその部屋へは入ることができない。金網越しに部屋を眺めると白衣を着た人間たちが動き回っている。背の高い椅子に座って鳥のような女が嗄れた声で喋っている。

「あなた達は文字です。文字自体に意味はありません。いくつかの文字が連なって初めて意味を持ちます。Aの人は肉に下味をつけてください。Bの人は野菜の筋を取ってください。Cの人は出汁をとってください。Dの人は皿を洗ってください。システムは文体です。しかしそのシステムに囚われないでください。システムを超えた仕事をしてください。常に新しい味を作ってください。完璧な料理など存在しません。なぜなら完璧な味覚が存在しないからです。文字に新しい意味を作り続ける事がスパイスなのです。Eの人は肉を切り分けてください。Fの人は魚の骨をとってください。Gの人は卵をかき回してください。文字だけでは事実も真実も虚構も存在しません。繋がり方で多様な解釈が可能です。美文は美味になりえます。料理とはつまり情報のことです。それぞれの食材について観察してください。それぞれの香辛料に関して研究してください。温度と調味料の関係性を見つけてください。ジャムと化粧の接点を作ってください。細部をもっと考えてみる必要があります。全ての言葉を使い尽くしてください。古いレシピに頼らないでください。Hの人はドレッシングを作ってください。Iの人は」

平面から落下しながら目が醒める。カーブの向こう側にネズミが動く気配を感じた。外につながる通路がないのにネズミはどこから入ってくるのだろう?台所にはもう誰もいなかった。きっと主人の胃袋に料理を届けたのだろう。あんなに大量の食材からなんで一皿分しか出来上がらないのか理解できない。大量の貝のエキスから抽出したカプセル1錠にどういう意味があるのかなんて知りたくもない。ネズミを追いかけて静かに走る。全く臭いのないネズミだな。そんなネズミを私は知らない。いや、もともとネズミのことなんて大して知らないかもしれない。この家に来てからネズミを見ていないしゴキブリすら見ていない。さっきハエを久しぶりに見たが、すぐに見失ってしまったので本当にいたのかはわからない。何かを狩る感覚を忘れかけていたかもしれない。なんだかここに来てからのことが全部はっきりしない。今の主人にかわる前はネズミを狩ったことがあったかもしれないしなかったかもしれない。前の飼い主は豚のような顔をしていたかもしれない。実際に豚だったかもしれない。

前の飼い主が私を稲で編まれた籠に入れて角の取れたような車に乗って街を移動する。なんで車はみんな同じ形なのだろう。自分の車がどれなのか人間はわかるのだろうか?外からは何百年も蓄積されたような騒音が降ってくる。騒音の中を走る騒音。前の飼い主が私の入った籠を持って車を降りる。振動のないエレベーターを降りると広い空間に出る。前の飼い主の靴音が響く。扉を開くと今の主人が立っている。

「今日は何を売りに来たんだい?」

「この猫を買ってほしいのさ」

「いくらで?」

「1000万で」

「その値段の根拠は?」

「どんなものの値段にだって根拠なんてないさ。こんな実験がある。何の変哲もないただのペンを一本用意してその値段を当てさせる。その値段を当てさせる前にルーレットを回す。不思議なことにルーレットの出た数字が高いほどペンの値段を高く言うしルーレットの出た数字が低いほど値段を低く言ってしまう。ルーレットなんてそのペンとなんら関係ないのに。それだけ値段なんてあやふやな基準でしかないんだよ」

「それは買う側の話だろ?俺は売る側の値段の話をしてるんだよ?」

「売る側にとってはそのものに付随する情報の価値だよ」

「じゃあその猫に付随する情報は何なんだ?」

「こいつの目の色は右と左で違うんだ。指の数は他の猫より多い。こいつはヘミングウェイが飼ってた猫の血を引いてるんだよ。それだけでかなりの希少価値がある。それにこの猫は毛が抜けないので飼いやすい」

「それで1000万の価値になるのかなんて根拠はないだろう?」

「値段の根拠は売る側の都合でしかないんだよ。それだけ金を持っていて使わないのは罪だぞ?必要以上のそれも異常な額の資産を持つってことは間接的に人を殺すことになるんだぜ?」

私はいつものようにいつの間にか眠っていた。なので自分がいくらで取引されたのかは知らないし興味もない。とにかくそのようにして私は今の主人のもとへ来た。ネズミを追いかけたがやはり姿が見えない。気配だけが残響している通路を進むとま違う部屋に出た。ここも書斎のようになっている。大量の本があるが主人が本を読んでいるところを見たことはないので単なるインテリアの一部なのかもしれないし、もしかすると本の中身は全部白紙なのかもしれない。この家や猫通路が迷路のように感じるのは通路が複雑に入り組んでいるからではない。毎日部屋が変化しているせいでどこを通ればどの部屋に行くのかがわからないというよりは毎日新しい部屋になるので覚える意味がない。床や天井や壁がスクリーンになっていて毎日違う絵柄に変えることができるらしい。そんなことをしても生活しずらくなるだけだと思うがここに住んでいるのは私だけなので人間側に不便はないのかもしれない。それとも利便性が増せば増すほど不便になっていくのが人間の文明ってやつなのか。部屋中を見て回ったがネズミの気配は消えていた。ネズミが通れる穴や隙間といった逃げ道があるわけじゃないのに姿を見つけられない。透明なネズミを追いかけて猫通路を歩く。猫通路はひんやりとしていて気持ちがいい。この屋敷はいつも暑くもなく寒くもない。生き物の体内のように常に適温を保たれている。またいつものように見慣れない部屋に入ると主人と二人の男がいる。二人の男はソファーに座っている。1人は馬でもう1人は牛だった。こちらからは主人の顔は見えないがどうせまた毘沙門天顔しているんだろう。

「ウイルス検知はされませんでしたがまだ油断は出来ませんね?こちらで感知できないウイルスの可能性もありますね?」馬は少し気怠そうに喋った。

「今のところ何か実害があったわけじゃないですがね?念のため警戒はしておいた方がいいでしょうね?」牛は睡眠不足の顔をしている。

「完璧なセキュリティーというものは不可能ですからね?箱の中に箱の鍵を隠すようなもんですよね?」馬の黒い目がつやつやとしたビー玉のように光っていて噛り付きたくなる。

「どんなに分厚い壁をこしらえても通り抜けられる可能性はゼロじゃないですからね?」牛はくちゃくちゃと口の中の何かがあるような喋り方をする。

「それは物理学かなんかの10の14乗分の1の確率ってやつだろ?」馬がつまらないといった顔をする裏側でネズミの気配がする。

「そうだな?関係ないとも言えますが無関係とも言い難いですよ?結局ウイルスだとかセキュリティーシステムもそれが守るサイバーマネーも目に見えてるようで掴むことができないものでしょう?手触りなんてどこにもないじゃないか?そうじゃないですか?認識できない速度で事態は流動してるのになんだかわかったような顔をみんなしてるだろ?10の14乗分の1っていうのは100兆分の1ですよ?日本は面白いですよね?数字に漢字を当ててるんだよ?数詞って言うんですかね?100兆分の1はどんな漢字を当ててるか知ってますか?逡巡?たいめらいってことですね?壁を通り抜ける確率が逡巡なんて面白くないか?投資も今は人工知能の判断に任せてるんですよ?我々人間は見えない壁の前で逡巡してるだけなんじゃないんですかね?どう?」牛はゆらゆらと主人と馬を交互に見ながら喋っている。ネズミは気配ばかりで姿は見えない。部屋の右端にいるような影が見えたと思ったら左端にいるような気はするのは本当はいないだけなのかそれとも複数いるのか。

「そういえばウォール街のウォールはオランダ西インド会社がインディアンやイギリス人の攻撃を防ぐために木材で作った防護壁が由来らしいな?目に見える壁がある方がまだわかりやすいよな?今じゃ目に見えない壁しかないからな?透明な壁のドミノ崩しだよな?」ネズミの大きさをイメージしようとするが全然うまくいかない。

「十字軍が遠征してた頃はまだ経済に物語があったかもしれないけれど、今はマイクロ秒単位で数字が動くからな?どれだけ目が良くても追いきれないぞ?人間らしい生活ってなんなんだろうな?」「健康で文化的な生活なんて存在しないだろ?むしろ健康で文化的であろうとすればするほど健康で文化的な生活から遠く離れて行っちゃうんじゃないか?」「というより誰もそんなもの求めてないのかも?だってつまんなそうだろ?」「確かに魅力的ではないな?じゃあ何を求める?刺激か?安定か?」「刺激的であり続ける安定なんじゃないか?誰もがみんな何かを見続けていたいんだろ?端末と自分の意識を切り離すのが難しくなってないか?」

体が宙に浮き上がった。透明なネズミを捕らえようと主人の座るソファーの裏側で目を光らせているのに夢中で主人が抱き上げるのに気がつかなかった。私を撫でながらそれまで声を発してなかった主人が喋りだす。

「インターネットの糸は見えないがその網に引っかかる妄想と刺激は見えてるよ。なんでもかんでも引っかかるのは機能として問題があるんじゃないかな。虫取り網だって猛毒の昆虫なんて取れたら大変だろう。手触りが無い分暴力性が拡張されてる気がする。端末の画面を見すぎてみんな盲目になっちゃうかもしれない。それよりも買いたいものがあるんだ」

「何です?」

「幽霊を売ってるらしいんだ」

「そりゃ面白いですね?いくらなんですか?」

「値段はわからない。実際には幽霊が描いた絵らしいんだがその絵を飾ると幽霊も一緒についてくるらしい」

「駄菓子のおまけみたいですね?」

「おまけはよく集めてたよ。菓子は食べずに捨ててたけどな」

「しかしあなたは本当に変なものばかり欲しがりますね?」

「変ではないだろう。幽霊なんて所詮自意識の揺れなんだよ。世界各地の砂を集めている奴だっているんだ。シャム湾の純白の砂だとかモロッコの枯れ河の赤錆色の砂だとか。結局その砂のコレクションも自意識の集まりにしか過ぎないだろう?コレクターはみんな瓶の中に自分自身の投影を入れてるのさ」

耳の裏側を揉まれて心地よくなっていたが本棚の上の方でネズミの気配を感じて主人の膝から飛び降りる。急いで本棚の上に登るがやはり姿は見えず猫通路の奥に気配を残している。通路の中へネズミを追う。

私の主人は途方もなく金持ちらしいが一体何をしているのかはわからない。常に移動しながら情報を金に換えているのだと前の飼い主が話していた。「動きを止めると想像力が死ぬと思ってるんだよ。全くイカれてる」様々な事業に手を出して財をなしているらしい。「結局のところ奴は情報を一旦鍋に入れてその鍋からどでかい資本を引っ張り出してる。まさしく資本主義的レシピだよ」それが本当かどうかはわからないしその情報とやらでこの建物や食べ物が得られているのだとすればおかしな話である。情報というのは言葉のことだと思うが主人はいつも何かしらの言葉を発しているがそれが何かに変わっているところを見たことはない。あるいは人間は時は金なりなりなんてことを言うけれど時もどこにあるのか見たことも食べたこともない。見えないものを別の見えないものに換えているのなら結局何もしていないのではないかと思うがそうではないらしい。砂場の柔らかい砂を掻くよりも覚束ないが、その砂つぶを一掻きして次に全く同じ砂つぶを同じ量同じ配置で一掻きするのにどれだけかかるのか。無限にある組み合わせの中で何かと何かを組み合わせると途方もない何かに変換されるのかもしれないが想像しただけで欠伸が出る。金が一体何なのかは私にはわからないがもしかすると生き物なのかもしれない。無限の砂場に手足を突っ込めば見たこともない生き物が出てきてもおかしくないだろう。

「外為は眠らない。予測はし続ける必要がある。音楽だって遺伝子的に解剖する時代なのよ?通過の動きを遺伝子的に解剖して分類して組み合わせを見つけなさい。もしまた何かをあれば連絡を」壁に青いデジタルな文字が映し出されている部屋に入る。透明なネズミの気配を探す。部屋の中央に女が犬のように一人で座っている。見たこともない人間だが見たこともない人間がいることは全く珍しいことではない。犬の女は頭に黒いヘッドホンをつけて一人で或いは見えない誰かと話している。いつ見ても電話というのは気色が悪い。電話が発明される前は人間はどうしていたんだろう。私も外にいるものと通信する時がある。それは人間の足にすり寄って臭いをつけるという方法だ。もちろん伝わっているかどうかは分からない。しかしそれは人間も同じだ。尚タチが悪いことに人間は伝わっていると思い込んでいる。私は伝わっていない事を知っているが人間は伝わっていないことを知らない。これは人間固有の動物性によるものかもしれない。毛が抜け落ちてしまった所為なのか獣が獣であることを自覚できないという穴に落ちてしまったらしい。穴は深くてとても這い上がることはできないようだが、きっとその穴を掘ったのも人間なんだろう。

「あなたがやっていることはずっと1に1を掛け続けているようなものよ?永遠に掛け続けても答えは結局1にしかならないわ。資本は生き物よ。あなたやわたしたちの頭の中に寄生してる未知の生き物だと思って扱いなさい。交換によって社会がつくられて交換の揺らぎによって資本主義が生まれたのよ。もしまた何かあれば連絡を」

犬の女は一方的に喋っているようにも見えるがちゃんと対話をしているのかもしれない。目の前に姿のないものとの対話というものが想像できない。

「0.9と0.99の違いの中で戦略を立てなければいけない場所で生きてるのよ?0.99999と無限に続く9の先で四捨五入が起こる可能性だってあるわ。そうなれば無限に続く9がドミノみたいに倒れていく。経営破綻なんて簡単に起こるものよ。道にアイスキャンデーを落としたら蟻が群がってくる」

私は別の猫通路にネズミの気配を感じて追いかけた。ネズミは好き勝手に動いたりしない。何かの戦略的な意味があるのかもしれない。或いは追いかけているネズミは同じネズミではないのかもしれない。もしくはそもそもネズミなんていないのかもしれない。人間の対話のように見えないものを追っている。それでも追いたくなるのが猫の習性ならば人間も見えないものを相手にしているのは習性なんだろうか。この屋敷という箱はどこにでもつながっているのだろうがそのつながっている先に何があるか見えない。

不図、この屋敷から出たいと思った。この屋敷に来てから初めてそう思った。この屋敷は広いし色々な部屋へも行き来ができるし食べるものも決まった時間に出てくるし隠れる場所も多いので特に人間に干渉されることもない。居心地がよくて何も不満はなかった。壁に爪を立ててカリカリと音を立てる。背中を反らせながら高く空中を飛ぶところを想像して身震いした。要するに繁殖がしたいんだろう。もしかすると見えないネズミはここから出たいという欲求から作られたのかもしれない。

この屋敷から脱出する道を探し始める。念の為に猫通路を隅々まで見て廻る。改めて注意深く廻ってみると屋敷の中心がどこなのかまるでわからなかった。どこもかしこも周縁しかないように思えるのは錯覚だろうか。おそらく正方形の部屋がいくつも積み重なってできているのではないだろうか。各部屋をつなぐ猫通路は直線ではなく必ず曲がるようにできているので無数のカーブがある。たぶんその無数のカーブが中心をわからなくさせている。仔細に調べてみたが抜け出せるようなところはやはりなかった。元いた場所がどこなのかわからなくなってしまうので本当に全部を廻ったのかはわからなかったが。

後は人間がドアを開けた時に一緒に出て行く方法がある。猫通路だけで今までは満足していたので出たことはないが案外簡単に出られるかもしれない。猫通路を歩いて各部屋を廻ると馬と牛が向かい合って座っていた。さっきの部屋とは違うようだったが同じかもしれない。

「やはりバグではないな?どういうことなんだろう?これだけ調べたのにシステム異常の正体がわからないなんて?」牛はやはり眠そうな顔をしている。もしかすると元々こういう顔なのかもしれない。普段の顔を知らないのでなんとも言えない。

「原因とか正体よりも何がこれから起きて、それがどう影響するかが問題だろ?」馬もやはり気だるそうな顔をしているが元々そういう顔なのかもしれない。

「恐怖心は何でできていると思う?」牛は端末を操作しながら欠伸を吐き出す様に言った。

「さぁな、何でできてるんだ?」馬は興味がなさそうな声を出す。

「想像力だよ。人間は見えないものをに恐怖するんだ。見えないものが何かを想像することで恐怖してるんだよ。だから結局は自分自身の恐怖心に恐怖してるってことだな」

「自分で作った化け物を見て怖がってるなんてことあるか?」

「自分で作ったけれど自分で作ったとは思っていないんだよ」

「かなり都合がいいね」

「とにかく早いとここの目に見えない化け物を退治しないとな」

馬と牛は指で液晶画面を叩いている。指の動きだけで何の音もしない。指が溺れてるようにも踊っているようにも見える。

「システムが神になる時代が来るかもな」牛は空中の何かを噛む。

「コンピューターは神のお告げを伝える使者か?」

「コンピューターってもう死語じゃないか?OSは意識の中に溶け込んで年越しには108個の更新プログラムを検出して人間の煩悩を清める」

「欲望は発明の母」

「絶望は進化の父」

「そうして経済という病は治癒しましたとさ」

「笑えるね」牛はつまらなそうな顔で言った。

「円は元になるかもしれなかったらしいな」

「円も元も中国語の発音は一緒だけどな」

「表面だけが違うってことか?」

「表面だけが同じってことだろ?」

「円と元を使うのに違いってのはあるのかね?ドルとかバーツでもいいけど」

「レートが違う。レートが違えばそこに働いている力学が違ってくる」

「それは額が大きいときの話だろ?少ない額ならそんなもの考えない」

「本質的には変わらないだろう?100円使うのも1億円使うのも。社会的責任とか摩擦とか無視しなくてもさ?」

「どうだろうな。レートってのはマネーの量の問題だろ?それが世界の常識なら本質なんか関係なくマネーの分量が移動してるってだけでそれ以上の意味なんてないさ」

「しかしその常識が一番危険な思想だろ?金の量のことばかり考えてたらそのうちマネーが溢れてパンパンになっちまうさ」

「俺の膀胱みたいにな。ちょっとトイレに行ってくるわ」馬は席を立つとドアへ向かう。馬の後ろにぴったりと付いて歩く。馬がドアを開けた瞬間にすっと隣の部屋へ入る。馬は気がついてはいるが特に気にしていないようだ。隣の部屋には下に行く階段があり馬は階段を降りる。階段を降りたところにまたドアがあり馬がドアを開けた瞬間にまた次の部屋へと先に入る。壁のあちこちに時計が掛かっていた。カチカチと時計の針の音が無数に重なっている。馬はまた別のドアを開けるので入ろうとすると「おまえはここにいな」と言って私は次の部屋へは入ることができなかった。部屋の中にはドアが6つある。この部屋の上にも下にも右にも左にも前にも後ろにも部屋があるのだろう。しかも同じ形の部屋のはずだ。こんな部屋はさっきもあっただろうか?時計ばかりの部屋に入ったのは初めてだった。この部屋には猫通路の出入り口はない。後ろのドアが開く音と同時に走り出す。開いたドアの隙間に滑り込み上を見上げると閉じるドアの間に間に羊がいた。羊のような人間ではなく羊の皮を被った人間だった。この部屋もドアが6つあり同じ形の部屋だった。時計ではなく部屋には本が並んでいる。この部屋には猫通路があるので来たことがあるだろう。他の大抵の部屋と同様に壁の色がゆっくりと変わっていくのでこの部屋がどのあたりなのかはわからない。猫通路を使って人間がいる部屋に行った方がいいかもしれない。汗と香水が混じった臭いが猫通路に道を作っていた。この匂いが嫌な臭いなのか判然としない。人間が作るにおいは大抵そうだ。嗅覚を麻痺させているのかもしれない。この屋敷の空間を把握できないのもそのせいかもしれない。一度気になり出すと居ても立っても居られない。猫はまっしぐらに匂いのする方へと向かった。匂いのする方向にはネズミの気配も混ざっているようだった。猫は何故自分はネズミを追おうとするのかを考えていた。実際にネズミを狩って食べたいとは思わなかった。自分が食べる物は人間が出してくれるので食糧危機に陥る心配もない。猫は実際にネズミを狩ったことはなかったが何故か自分の中にネズミの肉を爪で捉えた時の感触を覚えていた。それを思い出すとゾクゾクと毛がうねるようだった。これは猫が生まれつき持っている楽しみなのだろうかはわからなかった。しかし猫にとって楽しむとは狩るか狩られるかでしかなかった。人間の作るキャットフードの美味しさはわかっていたがそこにはゾクゾクとするような感覚はない。しかし猫にはそのゾクゾクとするような感覚が恐怖とも表裏でべったりと繋がっていることを知らない。この屋敷にネズミが入り込む余地はないことを猫は知らない。猫は自分自身で透明なネズミを創り出している。建物内の音や匂いから架空のネズミを捏造し架空の狩りをしているだけだった。この建物自体がそのように設計されていることを猫は知らない。

 ネズミを追っていた猫はいつの間にか見知らぬ空間にいた。とても落ち着かない気分だった。しかし屋敷にいた猫は今も透明なネズミを追いかけている。猫は複製されて巨大な浮遊物の中にいた。広い何もない空間を猫はよちよち歩いていると、向こうから声がした。「あれー?マックスじゃん。なんでここにいるの?」女と男が手招きしている。知っている匂いだった。「よしよし」女の指からいい匂いがして舌で舐める。女と男の複製体は座り込んだ。猫はネズミのことをもう忘れている。女の膝の上に乗って眠りながらしばらく体温調節してもいいと猫は思う。



 了


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オペラグラシオン アシッドジャム @acidjam

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