オペラグラシオン

アシッドジャム

オペラグラシオン 前半

「こいつからしたらかなりの高層ビルに見えるんだろうな」

男が組み立てられたばかりのジェンガの麓を歩く蟻を人差し指で潰そうとすると女が「ちょっと」と制す。男はチラッと向かいに座る女の方を見て「無駄な殺生はしないよ」と右手の人差し指ですくい上げると蟻は指の上を歩き男は窓を開けて夜の闇の中に左手の人差し指で弾き飛ばすが男も女もこの蟻が男がつけたタバコの煙と同じ形をした巣穴に帰りつくことがないことを知らない。

「ここ幽霊が出るみたいよ」

女は天井を見上げながら言い、男はその視線の先を見たが先週女がIKEAで買った真新しいランプシェードと古い木目の天井が見えるだけで他には何も見えず女を見ると視線はもう窓の方へと向かい男は「霊感ないからな。あいつはまだ霊感あるんだ?」と座布団に尻をつけ襖の前には中年の男の幽霊が畳と畳の隙間をぼんやりと眺めている。マニキュアを塗っていない人差し指でジェンガの上から2番目の段の真ん中の板を爪の先でトントンと押し「あいつ今日帰ってくるんだよな?」と男が訊く。女は半分ほど板を押し出してゆっくりとテーブルを回り男の隣へ行き「たぶんね。何時かはわからないけど」と言いながら人差し指と親指で板をゆっくりと引き中年の幽霊の視界には女の脚が入るがそちらへは注意を向けず畳と畳の隙間を見つめ続けている。


電子顕微鏡で見た女の歯のエナメル質と同じ形状で多少毛羽立っている畳の下をゴキブリが走りアパートの下の階へと入り込むと男がキャンバスに向かって筆を動かし「あ、ゴキブリ」と髪の長い女が指をさすとゴキブリは声の振動に反応して動きを止めたが実際に筆には絵の具が付いていなかった。


10年前に街の上空に巨大な浮遊物が現れてから土地の価格が下がりそれを機に絵描きの男はこのアパートに引っ越してきた。10年間太陽と月の光を満足に浴びていないアパートの庭の木は枯れて強い風が吹けば倒れてきてしまいそうな為に住民たちは大家に木を刈り取るように苦情を入れたが対処する様子はないが絵描きの男はそんなことには興味がなく男の興味はもっぱら自分の描くものだけだった。


「永遠に描いていられるもんを描きたいんだよね」

男は呟くが女は壁を這い回るゴキブリに注意を向けている。以前この部屋で他の絵描き仲間と酒を飲んでいる時に語っていたことは絵のタイトルについてだった。描かれた絵とタイトルは本来は関係がなく絵それ自体には意味なんてないのだと男は仲間に向かって語っていたが仲間からの賛同は得られなかった。男の首筋にある黒子からは毛が一本生えていて絵の具の付いていない筆を何度もキャンバスに押し当てながら唸りキャンバスには緑と黄土色と白色は塗られていた。その形は上の階の風呂場にできたカビと同じ形でそのカビは衛星から見たアルプス山脈と同じ形だったが男はそれを知らないし上の階にいる女も知ることはない。女は2つ目のジェンガを引き抜こうとしている。男は襖に寄りかかりタバコを吸いながらその指先を眺めそこから視線は女の短いスカートから伸びる右の太腿にコロンバンガラ島と同じ形のホクロを見て巨大な浮遊物の下を定期的に監視するヘリコプターの音が鳴りすぐに聞こえなくなると風鈴の音が鳴り中年の男の幽霊は姿を消していた。



「この部屋エアコンないのかよ?」と男はシャツの襟元を手で前後させながら言う。「嫌いなのよ」「誰が?」女はジェンガをすでに引き抜いて男は灰皿にタバコを置きジェンガに取り掛かり女は立ち上がって歩くと足の裏が多少汗ばんでいた為畳に張り付く音がなり暗い台所を抜けてトイレに入ると電気をつけトイレの木の壁は雨で侵食して見るたびに模様を変えて人の顔に見えることもあればウサギに見えることもあれば月のクレーターに見えることもあり女はその壁を眺めながら「まわるまわるよじだいはまわる」とメロディーをつけて口ずさみその音声はトイレの中に滞留して女が居間に戻ると「電話なってたぞ」と男がジェンガを指先で押しながら教える。


「ジェンガの名前の由来ってスワヒリ語で組み立てるって意味からきてるんだけどそれっておかしくないか?結局崩れるまでゲームをするならこいつの最終的な着地点は組み立てることじゃなくて崩れることだろうよ」と男は言うが女はそれに応えずスマートフォンを操作しラインで来たメッセージをチェックする。「今日帰るの遅くなるかもって」「そうか」「どうする?」


「うーん」という声が部屋の中を旋回し窓の外を見た女と窓の外を無風状態の銀杏の枯葉と同じ速度で落下する女の幽霊と視線が一瞬合うがどちらも瞳孔は変化せずに女の幽霊はそのままゆっくりと降りていくと一階の窓には先ほどのゴキブリが内側に張り付き女の幽霊が窓を抜けるのに合わせて天井にできた隙間へと潜り込む。


絵描きの男は3つ扉が付いた冷蔵庫の一番上の段を物色しながら「何か食うか?」とスマートフォンの画面を中指でスクロールさせている女に言う。「うん、まぁね」女は男の方へは視線を向けずに顎を動かさずに言うと「なんだ腹減ってないのか?」と男が女の右足だけ塗られたマニキュアの光沢を眺めながら訊くと「うーん、ダイエット中」と答えるのを聞いて昨夜買った豚肉と玉ねぎを取り出し深めの陶器の皿に醤油とチューブのニンニクとチューブの生姜と麺つゆと味の素と黒胡椒と豆板醤を入れてかき混ぜその中に豚肉を漬け込み玉ねぎを切ってフライパンにごま油をひき肉をのせてからコンロに火をつけ冷蔵庫の一番の下の段から冷凍してあった御飯を取り出して電子レンジで4分30秒温めフライパンの上で熱せられたニンニクと生姜がはじけて肉の焼ける匂いが部屋を満たし始め「やっぱりちょっと食べようかな」と女が言うのと同時に絵描きの男が換気扇をつけると女の幽霊はその中へ吸い込まれていった。



上空から見たライン川と同じ脂身の筋が通った豚肉が色を変えていき縮み始めるとコンビニで貰ってきた割り箸で絵描きが肉をひっくり返し玉ねぎを入れて「どうしてお腹が減るのかな」と口ずさむ。「誰も教えてないのに眠ったり食べたりするのってなんだか不思議だよな」絵描きはフライパンを手首で返しながら肉と玉ねぎをひっくり返し玉ねぎが一欠片コンロの奥へと消える。「何にも不思議じゃないじゃない?食べたいから食べるし眠たいから眠るだけじゃん。眠ったり食べたりが不思議っていうのは言葉で考えてるだけでしょ?それなら不思議に思うことが不思議じゃん」女がそう言うと絵描きは太陽の光が地上に到達するのと同じ時間だけ手を止め肉と玉ねぎの周りで水分が蒸発して泡立って小さな泡が弾けながら徐々に大きな泡となって弾けて「結局そういうことはもともとDNAかなんかに組み込まれてるだけか?」と言いながら火を止めて皿に肉と玉ねぎを移すとフライパンには奄美群島と同じ形の焦げ跡が残り「マックスぅ」と女が先ほどよりも一段高い声で言い毛が灰色で手足の毛は白い猫が絵描きの足に頬を擦り付けて「こっちおいで」と女が手招きするが一度女を見てから寝室の中へと入っていった。「いけずねぇ」と女が言いながら太腿を掻くと赤い線が三本走り絵描きが割り箸を渡す。


猫はこの家で飼われている猫ではない。49日前の夜に絵描きの部屋のドアが閉まっていなかった為に勝手に入ってきた。それ以来、絵描きは自分が家にいる時はドアを少しだけ半開きにしておく様になり猫は週に2回多い時では4回来る様になった。赤い首輪をしているがどこで飼われているかを絵描きも女も知らず女は猫をマックスと呼ぶ様になったがその理由に関して女は特に語っていない。「餌貰いに来るわけでもないのに何しにうちに来てんだろうな?」と絵描きが女に缶ビールを渡し女がプルトップを開けて「そう言えばこの前商店街のところでマックス見たよ」と女が言ってビールを飲み絵描きが寝室の暗闇を見ながら「何してた?」「電球買いに行ったのよ」「じゃなくてマックス」「中華屋あるでしょ?そこの前でお皿に入れた御飯食べてて、そこの中華屋で飼ってるんだって思って、マックスが食べてる横で見てるあそこのおばさんに聞いたんだけど違うんだって。どこで飼ってるのかわからないけど勝手に店に入ってきちゃうから餌あげてるんだって言ってた」



ガタンという音がして女も寝室の暗闇を見て猫は三段ある押入れの一番上に飛び乗り上の板が外れて少しずれていたので強引に天井の中へと入っていった。木の柱が縦横に走り上からは光が漏れて猫は辺りを見回しながら動きを察知して背中の毛が波立ちそちらへと注意を向けるその先にはゴキブリが猫の動きを察知して触覚を回し猫の前足の爪で木の柱をガリっと引っ掻く振動で逃げて縦の柱を登り猫が柱の下でお尻を振り瞳孔が収縮してジャンプするが寸でのところで光が漏れる隙間へとゴキブリは逃げ込みそのまま上へと向かい壁と畳の隙間から這い出して壁を張って行くと「おぉぉぉちょっと待ったちょっと待ったおぉぉ」という二階の男の声の振動に反応して状況を把握しようと触覚を回し大きい空気の振動を察知して動きバシンというパンフレットと壁がぶつかる音が連続して鳴り、本棚の裏側へと逃げ込むと「あぁだめだ逃げられた」と男が言ってパンフレットを見る。「やぁねぇ、一匹いると三十匹いるんだっけ?」と女がジェンガを見ながら言うと「それは茶色いやつだよ。黒いやつは外から来たんだろ」「外ねぇ」と女が手と膝を使って窓辺へ行き外を眺めると空は巨大な浮遊物に覆われ透明な暗闇が見え地上は家々の明かりや街灯が点在し170万年前には地上と空が反転していて最初に発火させた光とは違う色で球形に広がる光を放つ街灯にはタクラマカン砂漠柄の蛾が旋回し電灯にぶつかり鱗粉が飛び散ってリッフェル湖に映る星の配置と一瞬重なり拡散して自転車に乗った白髪の男に降りかかりペダルを漕ぐ音は遠ざかり鉄製の風鈴の音がなって「何か食べに行くか?」と男が言う。



目の端で女の横顔を見ながらジェンガの板を上に乗せ「あいつ遅くなるんだろ?つーか今何時?」と男に言われて女がスマートフォンを出そうとしながら「あんた携帯くらい買えば?」「電話すんのに金払う意味がよくわかんないんだよ」「だって不便でしょ?」「持ってても不便だけどなぁ」「また回りくどい話?まぁいいわ。あそこ行ってみる?ダム沿いにできた店」「何屋?」「さぁ?飲み屋じゃん?」「行ってみようか?」



男と女はサンダルを履いてドアを閉めて階段を降りると蜘蛛の糸が男の顔にかかり右手で拭う振動で蜘蛛と羽虫が揺れてアパートの電灯がバチバチと音を立てながら明滅し「ここ築何年?」と男が訊くと女は両手を上げて体を伸ばし「さぁ。私が生まれる前じゃないの」「生まれる前からある家に住むのって何だか安心するね」「そう?古いから?」「まぁ安心っていうのも違うのかなぁ。なんか新しい家って匂いが違うというかね。古い家は普遍的な匂いがするんだよね、時間の匂いっていうか」「詩人だねぇ」



アパートの向かいにある二階建ての一軒家の屋根から猫が男と女が並んで歩いていくのを眺め女が猫の方に目を向けると猫は目を見開いて蝉が頭上を飛ぶとそちらへ注意を向ける。「小さい頃は木造の古い一軒家に住んでてそこは元々爺さん婆さんの家だったんだけどかなり古い家にいたんだよね」男と女が歩く道の先には周囲の住宅よりも一際高い長方形の建造物があり中央と天辺の四隅は赤いランプが点滅して遠くの方から木槌を打つ音が鳴る。「台風が来たりするとぎしぎしきしむ音がしてさ、友達の新築の家に遊びに行くと真っ白で綺麗で庭に犬とかいて花とか植えてあって同じ家なのに何でこんなに違うのかなぁって思ってたな、羨ましいとかそういうのはなかったけどさ、古いけどボロい感じじゃなかったからかな、高校までそこに住んでて大学の時は学生寮に入ったんだよ、部屋を共有するようなとこじゃなくて一人一部屋で新築のマンションみたいなとこだったんだけど最初は新築で一人部屋で喜んでたんだけど住んでるうちになんか落ち着かない感じっつーか怖い感じがして自分の部屋に帰らないで他の一人暮らししてる同級生の家を梯子してたな、そのうちにガンさんっていうあの当時で30だが40だかのおっさんの家でよくたむろするようになって、30から40って今考えるとかなり幅があるけどでもガンさんの周りには年齢不詳っていうか30だか40としか言いようのない大人がいっぱいいたんだよ、それで俺はそこが妙に居心地が良くてしょっちゅう泊まってたんだよ。平屋で古くてお化けが出そうな家だったけどさ、ガンさんは何やってんのかよく分からない人だったけど話してると面白くてガンさん家で朝まで飲んで昼過ぎに起きて学校も行かないで畳の上で寝転がってるとなんかそういう家の匂いっていうかその家固有の匂いじゃない匂いがしてた気がするんだよ、それは常にしてるわけじゃなくて何気なく感じるような匂いなんだけどさ、でもそういう匂いっていうのはあるんだけどないっていうかないっていうのがあるような匂いなんだよね、それで一週間ぶりくらいに新築の寮に戻るとそのないっていう匂いがないんだよね」男は女の半歩斜め後ろを歩き女の首筋と目の前の長方形の建造物を見比べてジェンガの板一枚と同じ形をした公園の前で立ち止まり公園全体が鼠麦に覆われて中央から滑り台の上半分だけが飛び出して女も振り向いて立ち止まり上を向いて「あれのせいでここら辺は子供いないね、小学校もないし」「昔はあっただろ?」「校舎は残ってるけど今は何ちゃらレジデンスになってるね、まぁこの辺に住むのなんてちょっと変わった人ばっかだよ」「誰も手入れしてないのに何でこんなに綺麗にこの麦みたいなやつ生えてくるんだろうなぁ」「そういう風にできてるんでしょ」幽かに鳴る消防車のサイレンに共鳴して中型の犬が遠吠えをし「どっかで火事かなぁ?」と男が言い「昔飼ってたムンもサイレンに反応して鳴いてた、仲間だと思ってるのかなぁ?」と女が言って二人は歩き出し遠吠えをする犬は上を向いて目を凝らすが月は見えない。「ムンって変な名前だなぁ」「お母さんが付けたんだけど、何でそんな名前にしたんだっけ」「想像もつかないね」と男が言って頭上を眺め道を跨いで伸びる光ファイバーケーブルの隙間を木造二階建ての換気扇から出るカレーの香りが混じった微風に煽られて飛んだカナブンが通り抜けて「月がないと何だか怖いね」と男が言って「そう?月がある方が怖くない?」と女が言い終わらないうちに男が「あぁ何かすげー腹減ってきたぁ」「カレーだね」と女が言い自動販売機の前で自転車に跨りながら話す女子高生二人を眺めて目を細めて先ほどのカナブンが網戸に掴まり上に張って行って網戸の淵の切れ目から家の中へ入り込み緩やかな斜面を登る男と女は黙ったままで今から200年後にアイスランドの南にできる新しい島と同じ形に錆びたシャッターの降りた自動車修理工場や女の目線の高さにある庭に生えた夾竹桃や凌霄花の香りを通り抜け潮の香りを含んだ風が吹き街灯の光を浴びた男と女の影が伸びる。「海の匂いがするな」と男が言い「海じゃなくてダムなのよ」「ダム?」男が唇を尖らせる「そう、ここら辺で雨が降ると上で溜まった雨水が一箇所に滝みたいに流れるのよ、結構見もの、多分そういう作りになってるんだろうけどね」「でも雨水から海の匂いがするって変じゃない?」「なんか調べたら成分が海水と同じになってるんだってさ、テレビでやってた」「何でだろな」「さぁ?あれって塩の塊なんじゃない」「塩の塊が何で浮いてんだろうなぁ」「浮いてるから浮いてるんでしょ」「あれって急に落ちてきたりするのかなぁ」「それを止めるためにあちこちにああいう塔があるのよ」女は目の前の建造物を顎で示す。「でもあんなのがあったら安心して寝れないんじゃないかなぁ」「何言ってんの?うちで気持ちよさそうに寝てたじゃん」「まぁそりゃ昨日何かあるとは思わないでしょう」「いつ落ちてくるのかわからないなら昨日でもおかしくないじゃん、それにあれに限ったことじゃなくても地震だったりとか交通事故とかいつ何が起こるかわからないなら同じことでしょ?」「そりゃそうだけど」「けど?」「けど腹減った」「もうすぐよ」



男と女は巨大な建造物があるT字路を左へ曲がり建造物の切れ目から伸びる金網で女が立ち止まり「ほら」と言って男が金網の向こうを見ると大きな水溜りがあり水面に十六夜の月が映り揺れて彼方には都市の光が女の目の中で溶けて男が金網越しに下を覗き込むとコンクリートの割れ目から生える豆軍配なずなが揺れて暗闇の中で魚が跳ね水面を揺らし波紋はすぐに消え「本当に海みたいだなぁ」と男がうなじを掻きながら言って上空からジャンボ機が通過する音がなり男と女は上を見上げるとデネブとアルタイルとベガが結ぶ三角形を巨大な浮遊物が二等分にしてジャンボ機の窓から髪の長い女が下を見ると都市の光に囲まれた円形の暗闇を指で摘もうとして鼻歌を歌う年配の男が自転車で通りすぎると男と女はまた歩き出す。「あれ?そこ?」と男が言って左側前方に光が横倒しになって人の影が通りビール瓶の入ったケースが入り口の傍に積まれ「違うけど、ここでもいいよ?」と女が言うと男は暖簾を右手で上げて中を覗き複数の入り混じった声がドアから漏れて後ろに下がって看板を仰ぎ見るが擦れて店の名前は判別できず男は首を後ろに回して女を見て「来たことある?」と訊く。「ないかなぁ、って言うかこんなところにこんな店あったっけ?」


女と男は看板を眺め蝉が「ジジッ」と音を出しながら飛び去って「入ってみますか」と男は店の中へ入ると牛肉を焼く音や鍋から出る出汁の香りや一段高くなった座敷やカウンターに座る男女の声やテレビから出る笑い声が顔にかかり「お二人さんですか?」とエプロンを付けた女の店員が尋ねて男が頷くと「カウンターどうぞ」と言われて座り客が15人入る店内は満席となって入り口に一番近いカウンターの席には小学生の男の子が座って鉛筆でノートに絵を描き男はカウンターの一段高くなったところに並べられた料理を見て女は男の子が描く線を見ていると後ろから女の店員が後ろから「ごめんなさいねぇ、邪魔になんないようにしな」と女と男の子を交互に見て言い「お飲み物何になさいます?」と女と男に訊いて「俺、生で」「じゃあ私も」「生二つ」と店員が言うと座敷にいる右脚に全体に刺青を入れた女が中指を曲げて手の甲に付けるのを見た白髪の混じった髭の男が歓声を上げ、座敷の下をオドラデクがかさこそと音を立てながら移動し「トイレ」と書かれたドアの中へと入り込みカウンターの女は隣の男の子に「何描いてるの?」と訊くと唇を少し尖らせて「ん」と言って指をさした先には棚に置かれたテレビがあり「テレビ?」と女が訊くと男の子はまたノートに絵を描きながら頷いて「はい生二つね」とカウンターの男と女の前にジョッキに入った生ビールが置かれダムに生息する微生物と同じ速度で黄金色の液体の中を泡が上昇して小皿に入った鴨とネギが男と女の前に置かれてノートには鉛筆でいくつもの線がテレビの画面の動きに合わせながら多少のズレを伴って引かれていくのを見て女が「テレビは動いてるのにどうやって描くの?」と訊くと「テレビは動いてないよ」と男の子がぶっきら棒に応えてそれを聞いた男と女は顔を見合わせて微笑み男の隣に座る髭を生やした色黒の男が男の子の方を見て「いつもこんな感じだよな」と言って「ハハハ」と笑って瓶からビールをグラスに注ぎ一口飲むと鼻にビールの泡がついて指で摘む。


「こいつが産まれた時から知ってるんですけどもう10年この店通ってんだよね」と色黒の男が目尻の皺を深くして厨房の中を見ると包丁が秋刀魚の中骨に沿って滑り中骨が高温の油で上がる音が円を描いて広がって「あれ?この店って新しいんじゃないの?」と女に向かって言うと色黒の男が「俺は10年前から通ってるよ」と言ってビールを呑みコペンハーゲンの上空に浮かんだドーナツ型の雲と相似形のタバコの煙が遊泳して壁に取り付けられた首を振る扇風機の風で消えてカウンターの奥に座る男が左右で茶色と黒色の色も形も違う革靴を交互に床を踏んでリズムを鳴らし座敷の男は自分の髭を捻りながら「だからさ~、なんつーか情報ってのも運動の第3法則みたいにさ全部書かなきゃ前進しないわけ」と言い脚に刺青の入った女が髪を捻りながら自分の毛先を眺め「だからさ~、プログラムとかシステムも今あるもんを全部出来る限り詰め込んで行かなきゃさ新しいもんなんて作れないんだよ」壁を這うヤモリが一瞬立ち止まりお客の頭上を黒い眼で見てからまた壁を這って進みサルビアの花弁と同じ色の唇の刺青を入れた女がパクパクと動かして葱を巻いた鴨肉を箸で持ち上げてカウンターの端に座る男が左右で違う色の革靴を鳴らしてダムで侵食したコンクリートと同じ模様の蜘蛛が動くとトイレのドアが開いて出てきた男は手を洗って店の奥にある蔵へ入り暗闇の中で壁に手を這わせながらスイッチを点けるとLEDのオレンジの光が放射状に拡散してスイッチから離れた男の手はザラザラとした真新しい白いラベルの一升瓶を持ち上げてスイッチを押して照明が落ちると蔵の奥でネズミの目が光り鼻先をヒクヒクとさせ「現水で造った今年の酒を開けますよ」という声とそれに応える拍手や歓声が上がりその更に奥から空のなる低い音が静かに響くのを白い髭で感知したネズミが暗闇の奥へと入っていく。


暗闇を抜けると店の裏手の雑草が生い茂った場所に出る。時間が10年経過しているがネズミにはわからない。上空を見上げるネズミを見ていた巨大な浮遊物にとっては奇妙なバグだと認識した。10年の年月を経て暗闇に消えたネズミと全く同じ個体が現れたのだから。草むらから出たところをネコが捕まえると地面が揺れて猫は平面から落下しながら目が醒めて、後半へつづく。

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