幕間ー英雄の唄ー
蒸し暑い朝、寝苦しさに目を覚ませば、長い夏の一日が始まる。時計なんて高級品のないスラムでは、朝日が昇る頃起きて、夕日が沈む頃寝ぐらへ帰るのが一日の流れだ。日の長い夏は一日が長く、日の短い冬は一日が短い。俺は汗に濡れた服を脱ぎ、のそのそと半裸で外へ出た。
燦々と輝く太陽はまだ顔を出したばかりだと言うのに、早くもその威光を示そうと、地上に住む下々を容赦なく照りつける。その様を見て、今日はまた一段と暑くなりそうだと、項垂れながら井戸へ向かった。
スラム街の西地区にある井戸に辿り着くと、早くも多くの人が水を汲みにきていた。俺も水汲みの列に並び、自分の番がくるのを待つ。
夜も暑い今の時期は、寝汗を流そうと水を被る人もいて、水場は大雨が降った後のように濡れている。朝日が反射してキラキラと輝いている様子は綺麗だが、この量の水があっという間に乾いてしまう現実を知っていれば、無邪気に笑えないのが悲しいところだ。それに、スラム街の孤児にそんな余裕はない。早く仕事を探さなければ、他の奴らに取られてしまう。
ようやく自分の番が来て、俺は急いで水汲みの桶を井戸へと投げ入れた。
水がたっぷり入った桶は重たくて、全身を使って引き上げないと持ち上がらない。しっかりと縄を握り全体重をかけながら、慎重に手繰り寄せていく。少しでも気を緩め手を滑らせれば、また初めからだ。
周りにいるのは大人たちばかりだが、誰も手伝ってはくれない。番を待つ奴らなんかは、迷惑そうな顔で俺を睨んでいる。自分の番が少しでも遅れることが嫌なのだろう。だが、それでも手伝わないのは、それ以上に、価値のない子供に恩を売ることの方が嫌だからだ。スラムの大人たちは利益の無い人助けを嫌う。奴らの親切の裏には、必ず下心が付いてくるのだ。俺のような金もない子供なんて、その辺の石ころ同様だと思っているに違いない。もし俺が女の子だったら少し違ったかもしれないが、それはそれで、今以上に苦労しただろう。
時間をかけて引いた桶が井戸の縁に顔を出す。溢れないようにゆっくりと桶を手に取り、持ってきた瓶がいっぱいになるまで注いだ。残りは体を洗い流すため使ったが、桶の半分にも満たない量しか残っておらず、満足に汚れを落とすことはできなかった。それでも地下で冷えた水は、暑さに火照った体をいい感じに冷やしてくれる。本当はもう一度水を組みたいが、無理だろう。後ろに並ぶ男が徐々に距離を詰めている。
もう少し大きくなれば、軽々水を汲めて、桶いっぱいの水を浴びることだって出来るようになるはずだ。その時は思いっきり水をぶち撒けてやる。俺は水の入った瓶を抱きかかえ、家へと向かった。
剥き出しの柱に布を貼っただけの家が立ち並ぶのは、スラム街でも下層区だ。最下層が場無しで、その次が布を敷いただけの場持ち。ここはその次ぐらいだろう。次が土壁の家持ち、その次が石の家持ちと、街に近づくにつれ立派な家になっていく。中には街の家より大きな家を持っている奴もいるらしいが、市民権が無くスラム暮らしをさせられているんだとか。下層区の人間が上層区に行くのは難しく、実際に見たことがないから、本当かどうか分からない。市民権を金で買えるなんて噂もあるが、それこそ眉唾な話だ。そんなに大きな家を持っているなら、市民権だって買えそうなもんだろう。
大きく開けた街道に立って北を見上げれば、山なりの地形に作られたスラムの街並みが良くみえた。坂を上るにつれて、大きく立派になっていく家々のさらに向こう側には、大きな壁がある。スラムと街を区切る壁だ。壁の向こう側には市民たちが住んでいる。俺たちは国民であっても、市民ではない。その違いを、壁の大きさが物語っていた。
家に着き、まずは瓶を置く。一日の飲み水になるそれを少しでも溢さないように、布で作った水筒に昼分の水を詰めた。仕事で家を出ている時に持ち歩ける水筒は便利だが、瓶から直接飲む時よりも少し匂いが気になる。布が元から持つ匂いが水に移ってしまうせいだが、慣れれば我慢できる程度だ。でも、下ろしたての新品を使う時は注意しなければならない。初めに入れた水は、とてもじゃないが飲めない不味さだ。それを知らずにいた時、新しい水筒だとはしゃいで回ったら肝心の水が激不味で、大人たちに笑われたのがまだ記憶に新しい。何回か洗えば次第に匂いが薄れていき、使えるようになる。あの頃の俺は、そんな常識も分からなかった。
「母さん……」
母さんは一年前に死んだ。仕事中に不運な事故に遭ったと聞かされたが、今もまだ遺体を見ることはできていない。だから最初は嘘だと思った。個人の墓も立たないスラムで、自分より少し大きいくらいの古臭い十字架に、手を合わせる意味が分からなかった。母さんは生きている。きっと誰かに攫われたんだ。スラムでは人攫いなんて特に珍しくなかった。母さんは美人で優しいから攫われてしまったのかもしれない。本気でそう思い、一ヶ月は仕事もせずに母さんを探した。結局、母さんが見つからないまま、金も食料も底をついた。空腹に耐えられなくなった俺は、母さんよりも、生きるために仕事を探すことを選んだ。今でも母さんは生きていると信じているし、また会える日が来ることを願っている。その為には、自分が生きていなければ意味がない。俺が生きていられるのは、今も昔も母さんのおかげなんだ。
「行ってくるね、母さん」
久しぶりに母さんの声を思い出す。いつも優しく微笑んで「行ってらっしゃい」と言ってくれた、温かな声を。
「よし!」
俺は気持ちを切り替えようと声を出した。手に持ったままの水筒を腰に括り、昼食用の干し肉をポケットに詰める。布を一枚捲って外に出ると、駆け足で商業区へと向かった。
商業区は、住んでいる階層に関係なく入ることができ、文句を言ってくる奴もいない。職人の殆どは中間層に住んでいるが、宝石などの高いものを扱うのは上層の奴だ。あいつらは下層の俺たちを見下していて、滅多に仕事をくれない。煌びやかな石が並ぶ通りを越し、細い道の向こう側に出ると、開けた場所がある。そこでは大柄の男たちが、今しがた何処からか持ってきた大きな石を、地面へと下ろしているところだった。
俺は、椅子に座って男たちを見ているオヤジに声をかける。
「おじさん、仕事ない?」
「おう、赤毛の坊主。今日も来たのか」
体格のいいオヤジが手袋をした手で、俺の頭を雑に撫でた。俺は頭を少し下げ、もみくちゃになる髪の毛を気にしながら、じっと終わるのを待った。頭からオヤジの手が離れたのを見計らって、改めてオヤジを見上げる。
「うん。何か俺にやれることある?」
オヤジは少し考えるように大きな石を見てから、俺に視線を戻した。
「そうだな。今日も大きいのが入ったから、クズ石の処理をさせてやろう」
「わかった」
昨日やった仕事と同じだ。それなら、勝手は分かっている。大きな石を砕いた後に出た小さな石を、大きな荷車に乗せる仕事だ。
「ちゃんと分ければ、その分報酬ははずむからな。頑張れよ」
「うん!」
大きな石は鉱石で、中には宝石が詰まっている。多い時もあれば少ない時もあるが、それは俺には関係ない。俺が気をつけるのは、小さな石に宝石が紛れていないか見ることだ。宝石を見つければ、量に応じて貰えるお金が増えるのだから、適当にはできない。ただ石を運ぶだけではそんなにも稼げないが、それがあるからいい仕事になるのだ。
オヤジから、子供用の小さな手押し車とシャベルを受け取り、俺は石集めを開始した。
昨日の今日で同じ仕事となれば、顔ぶれも同じ奴が多い。親切な奴、そうじゃない奴が分かるのは、仕事がやり易い。俺が子供であるのを良いことに、騙したり、脅したりしてくる奴がいる。そういった奴に絡まれると、仕事が上手くいかなくなるのだ。反対に、子供付きの親切な奴もいる。さっきのオヤジがそうだ。手押し車は普通ならば、今手にしている物の2倍の大きさだが、オヤジは子供用にわざわざ小さいものを用意してくれる。単価はその分減るが、半分ではなく三割減。しっかり働かなければ子供でも容赦なく追い出す厳しさも、ちゃんと持ち合わせているが、効率よりも頑張りを見てくれるのが有難い。
そんなオヤジでも、他の大人にまで子供に優しろとは言わないようだ。他の職場同様に、子供をカモにする大人も混ざって仕事をしている。騒ぎになれば駆けつけるが、それは相手が大人であっても子供であっても変わらない。子供好きだからと言って、無条件で守ってくれはしないのだ。
スラムで生きていく上で、こればかりは自分でなんとかするしかない。オヤジもそれを分かってるからこそ、手助けはしても守ってはくれないのだろう。
俺は昨日面倒ごとを起こしていた奴を避け、なるべく親切だった奴の側で石を集めることにした。
仕事が終わり帰路に着く。昨日より多くの宝石を見つけることができ、まあまあの稼ぎだ。日が暮れる頃にはまだ早い。稼いだお金で食料を買ってから帰ろうと、出店通りへ足を運んだ。
出店通りは街道に沿って中間層から上層まで続いている。下層に住む俺が利用できるのは、中間層の端に店を構える十件程度の店が精々だ。あとは門前払いで、客扱いなどしてくれない。端の店だって金になるから相手をしているだけで、そうでなかったら無視されていただろう。
「おばさん、干し肉ちょうだい」
時々肉を買う店の店主に声をかける。
「ガキに売るもんなんてないよ。帰んな」
店主は俺のことを忘れているようで、手を払い嫌がる仕草を見せた。
「お金ならあるよ」
「お使いかい?だったら金をだしなよ」
俺は言われたように、稼いだ金を台に置く。
「へ〜。持ってるじゃないか。干し肉だね。いくつさ?」
「五枚」
「五枚で銅貨二十五枚だね」
ここで前回買った時は、干し肉一枚で銅貨四枚だった。それが、今回は銅貨五枚で売りつけようとしている。本来の価格は銅貨三枚なのに、これは酷いボッタクリだ。
「ちょっと高すぎるよ」
「文句があるなら他を当たんな。まあ、アンタみたいなガキを相手にしてくれる親切な人なんて、あたし以外いないと思うけどね」
高圧的な態度で高笑いする店主にバレないよう、俺は小さく舌打ちをした。
端に店を構える奴らが下層の俺たちに物を売るのは、普通よりも高く売って儲けるためだ。下層にも露店があるものの質が悪く、食べて腹を壊すこともしばしば。それなら少し高くても安全な物を買う方が良いに決まっている。店主は、そんな下層区に住む俺の足元を見て、金額を釣り上げているのだ。
「どうすんだい?買わないなら邪魔だよ!アンタがいるせいで、他の客が来ないじゃないか」
「干し肉一枚を銅貨四枚で売ってくれたら、十枚買うよ」
「はぁ?生意気なガキだね」
「無理ならいらない。向かいのお店で塩漬け肉が同じ値段だったから、そっちの方がいいもん」
「な、なんだって?」
「ここに来る前におじさんに聞いたんだ。今日はいっぱい入ったから、おまけしてくれるって言ってたしね」
本当は向かいの肉屋に足を運んではいないが、仕事をしている時に男たちが話しているのを偶然耳にしたのだ。
「そう言や、向かいの肉売りのオヤジが、今日は息子が大物を仕留めたとか、自慢してたっけね」
向かいの肉屋のことを知らない筈がない。店主が揺れているところへ、追い打ちをかける。
「どうする?」
「分かったよ。干し肉一枚、銅貨四枚で売ってやる。その代わり十枚買うんだよ」
「うん。はい、銅貨四十枚ね」
「まいど。全く、面倒なガキに当たっちまったよ」
「また来るね」
「はぁ。今度はもっと金を持ってきな」
計画通り肉を買うことができて一安心だ。干し肉十枚で一週間は食に困らない。これだけ手に入れば今日は十分だが、今日はまだ日は高い。 時間があるのなら、有効に使わなければ。冬になれば日が短くなると同時に、稼ぎも悪くなる。だから今の内に蓄えてく必要があるのだ。
両手に抱えた干し肉を家に置き、次に俺が向かったのは、国の最も東であり大陸の端でもある崖だった。崖の向こうでは荒波が押し寄せ、石壁を叩く音がしきりに鳴り響いている。危険なのもそうだが音が五月蝿く、流石に住んでいる人はいない。あまり立ち寄る人もおらず、スラム周辺には珍しく野草が生えていた。スラムでは高級品である野菜の代わりに、野草を売るのは良い商売になる。崖から落ちさえしなければ、という注釈は付くが俺にはもう慣れたことだ。
今日は天気もいいし、風も少なくて絶好の収穫日和だ。夏の日差しを受け大きく育った野草は、青々としていて瑞々しいものばかりだ。俺は崖からなるべく離れた場所にしゃがみ、持ってきた麻布を広げ、食べられる野草を摘み取っていく。野草の種類は、母さんに教えてもらった。食べられるもの、食べられないもの。美味しいか美味しくないかは、実際に食べて感想を言い合ったりもした。毒があるものは絶対に食べないが、もし食べたらどうなるかは聞いている。間違って食べてしまった時の対処法も聞いいたが、それはあまり覚えていない。要は食べなければいいのだと、頭半分に聞いていたかだ。今となっては、ちゃんと聞いておけば良かったと後悔している。母さんが居なくなってからは、前よりも慎重に選ぶようなった。少しでも怪しいものは手をつけずに、確実に食べられるものだけを選んで、袋へと詰めていく。すると、すぐに袋はいっぱいになった。夏は成長も再生も早いから、採ってもすぐに大きくなる。来週もまた同じ場所で採取できるだろう。
俺は大きく膨れた袋を手に、ゆっくりと立ち上がった。途端に強い風に体が押され、数歩後ろへとよろけてしまう。慌てて足を踏ん張り風の吹く方を見れば、夕日が海に沈んでいくのが見えた。
「綺麗……」
燃えるような赤い夕日が、広大な海の地平線を赤く染めながら、まるで一つになるように、その身をゆっくりと沈めていく。
その景色を、彼は魅入られたかのように、しばらく見つめていた。
夕日と海。本来なら誰のものでもないこの二つが、今の彼にはどうしてか、自分だけのものであるような気がした。
灰の枝ー白へと至る道ー 四藤 奏人 @Sidou_Kanato
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