第3話
《起きてる? 起きてるなら窓開けて》
《起きてるよね? だってさっき電気消えたとこ》
《無視?》
「ちょっ、なにこれ」
急いで部屋の窓を開けると、隣の家の奏太の部屋の窓も開いていた。壁と壁の間は二メートルくらいしかないから、手を伸ばせば触れられる距離感。小さい頃はよく手紙を書いて投げては楽しんでいた。でもそんなことは昔の話で、あの一緒に帰った日に奏太はその窓を本棚で塞いでしまった。それが今は空いていて、そこからこちらを見ている。
スマホを手に持って、今から話せるかとジェスチャーをしながらいう奏太は学校で会う奏太とは違って、仲が良かったあの頃のようでもあり、どこか大人びていた。長めの髪の毛がまだ少し濡れているからそう見えるだけかもしれないけれど。言われた通りにスマホで、奏太と通話をすることにした。
「もしもし? なんで急に? ずっとその窓塞いでたじゃん」
「うん。もういい加減、やめようって思って」
「なんで?」
「そんな心境? そんな感じ」
「それって、どんな感じかわかりにくいね」
「美咲と話すの久しぶり」
「だって、避けてきたのはそっちじゃん」
「別に避けてない、というか、すねてただけ」
「すねてた?」
「そう」
「なにに?」
「俺が声変わりした時、お前心配してくれたのに、それをあの時うるさいっていって、この窓も本棚で塞いで、もういい加減そんなのやめよって思ってさ」
一瞬間があって、奏太が続ける。
「心配されてるのが、嫌だったんだ。そういうの、どうしようもないことだけど、なんか余計なお世話だって思っちゃって。ごめん」
なんと返していいかわからなかった。でもその気持ちはわかった。自分だって萌絵が色々と世話を焼いてくれると、同じピアノを弾いていて敵対されたり、無視されるよりはマシだけど、下に見られているようで、いい気持ちじゃなかった。
「それで、お祭りの伴奏引き受けてくれるってことでいいんだよな?」
スマホの向こうから声が聞こえた。反射的に「うん」と答えている自分がいた。
「良かった。萌絵には誰にも言うなって言われてたんだけど、あいつ、親が離婚して夏に引っ越すんだって」
「え? うそ……」
「本当。だから最後に合唱部のみんなに混じって歌いたいだって。だからどうしても美咲に伴奏して欲しいって、そういってて」
あぁ、そうかと納得した。重苦しい本棚で塞いでしまった窓を開けてまで私に話したいことっていうのは、萌絵のことだったのかと。やっぱり萌絵と奏太は付き合っていたんだと思ったら、今まで溜め込んできた苦しい思いが塊となってずしっと身体に落ちてきた。
「わかった」小さくそう呟くことしかできなかった。
――良かった。家と家の間には隙間がこんなに空いていて。泣いてることもきっとばれない。
はやく電話を切って枕に顔を押し付けたい気分だった。でも、奏太は切る気がないのか、無言のスマホを持ってこちらを向いている。暗い部屋に奏太の顔だけがスマホのライトで浮かび上がっていた。
――あ、それは私も同じだ。
気づいた時にはどうやら遅かったらしく、電話の向こうで奏太が「なんで泣いてるの?」と囁くように聞いてきた。
――なんでそんなこと聞くの? 失恋して苦しいからに決まってる。
「別に、泣いてないし」
「泣いてるよね。見えるって」
「もういい? もう寝ないと朝学校に行けないから」
「だめ」
ダメと言われて、直視できなかった奏太の方を見た。窓枠に腰をかけていた。
「ちょっと、危ないよ」と思わず声をかけたら、奏太が私にいった。
「手の届く距離ってさ、いいこともあるけど、悪いこともある。でも、今は手の届く距離でいたいんだ。美咲が泣いてるから」
「泣いてないってば」
「俺知ってるよ、毎日ピアノ練習してるの」
「え?」
「見えるからさ。ピアノ弾いてるところ」
カーテンを閉めているけれど、確かに見える位置にピアノがあると思った。そんなことはずっと普通のことだから、あんまり気に止めることもなくヘッドフォンをして自分の世界に入っていた自分が恥ずかしかった。
「見ないでよ。変態」
「見ちゃうだろ。好きなんだから」
「え?」
スマホを持つ手が震えているのが自分でもわかる。耳に全身の血液が流れ、瞬間的に熱を放っている。
「だから、好きなんだから見ちゃうだろってこと」
「奏太の好きな人は、萌絵じゃないの?」
「あぁ、やっぱり勘違いしてると思った。告られたけど断った。好きな人がいるって。もうずいぶん前に」
「ずいぶん前に?」
「そう、中二くらいかな。だから萌絵ピアノ伴奏を美咲にはさせたくなかったんじゃないかって、ずっと俺は思ってた。あざといじゃん。色々」
確かに萌絵はあざとい女子だと影で言われてるけど、でも親の離婚の話を聞いた今となっては、萌絵も寂しいところがあって、そんなことをしていたのかと思った。だって、私も無理して笑ったり周りに合わせたり、それなりに頑張っているから。きっと萌絵も家庭内の寂しさをどこか別に求めてたんじゃないかと、ふとそう思った。
「俺はお前がずっと前から好きなんだって。でもそれを言うと萌絵がまたお前からピアノを取り上げそうで、誰にも言えなかったし、そっけないふりをした。それだけ」
「それだけ……って」
「で、その涙はなんの涙なんだよ」
「……これは、なんでもないよ」
「うそだ」
「うそじゃない」
「うそだよ。知ってる」
「なにを知ってるの?」
「美咲は俺のこと好きだって」
「はぁ? どうしてそうなるの?」
「じゃあ好きじゃないってこと?」と耳元で奏太の声がささやいて、私の口は勝手に動き出した。「ううん」と。自分でも不思議なくらい自然に、私が言ったその言葉を聞いて、奏太は、電話の向こうで私に言った。
「ずっと前からそうだと思ってた。両思いだって」
いつのまにか、届きそうで届かない窓から奏太が手を伸ばし、私もその手に向かい手を伸ばしていた。お互いの指先が微かに触れて、鼓動が高鳴る。
その日はいつまで経っても眠れる気がしなかった。顔も耳も胸も熱くて熱くて、それは緑が濃くなっていく季節のせいではないと思った。部屋の窓を網戸にして開け放して寝たくらいに。奏太の部屋の窓も同じように網戸だった。
RINKのように文字が想いを運ぶ距離感じゃなく、手の届く距離感で、私は奏太と両思いになれて良かったと思った。だって、窓を開ければ、同じ空を見ながら話をすることができるのだから。
手の届く距離感で 和響 @kazuchiai
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