憧れ。(司の決心)

ninjin

憧れ。(司の決心)

「おはようっ、そんなゆっくり歩いてると、また遅刻しちゃうわよ。ほら、早くっ」

 そう言って学生服の背中をパシッと叩かれて(全然痛くはないのだけれど)、つかさが振り返ろうとすると、そのひとはもう司の横を通り過ぎて、スタスタと司の一メートル斜め前を歩いている。

「あ、拓海たくみの姉ちゃん(か、かえでさんっ)」

 司の声に彼女はちょっとだけ振り返って、ニコリと微笑んだと思ったら、やっぱりそのままスタスタと行ってしまった。

 司は走って追い付こうかどうしようかと迷った挙句、結局、いつも通りに彼女の後ろ姿が小さくなっていくのを眺めるように、のんびりと歩いて学校に向かうのだと、選択をする。



 いや、違うか。


 本当は、気持ちは急いているんだ。彼女に追いついて、並んで歩きたい。


 でも、急いているのは気持ちだけで、身体も脚も決して動きはしないんだ。


 だって、何話していいか分かんないし、何か・・・、こう・・・、


 って、朝っぱらから、胸の辺りがドキドキとソワソワと、それからフワフワしてモヤモヤしてきたじゃないか。



 小さくなったブレザーの後ろ姿が、ずっと先の曲がり角に消えた時、司は少しだけ小走りになって、そして、すぐに走るのを止めた。

    ◇


 放課後、司はグランドに出て練習前のストレッチを始めようと相手を探していると、『すみませーん、遅くなりましたぁ』そう叫びながら拓海が息を切らしてやって来た。

 司は直ぐに、コーチのもとに急ごうとする拓海を呼び止め、『拓海、ストレッチの相手しろよ』と声を掛ける。

 拓海はコーチの方をチラッと見てから、コーチが渋い顔をしながらも、小さく頷く様子を確認すると、司に向かってこう言うのだ。

「司ちゃん、助かったよ」

「なんだ、またお前居残りか?また宿題やって来なかったのか?」

「あ、うん。まぁ、そんなとこ」

「ったくよぉ。一年生の宿題なんて、大したこと無いだろ」

「そんなことないよぉ。それは司ちゃんだから、そんなこと言えるんだよ。僕が小学校の時から頭悪いの、司ちゃんだって知ってるじゃん」

「ばーか、宿題やんないから、もっとバカになるんだろ」

「ま、良いから良いから、ほら、早くストレッチやろうよ。コーチ、こっち見てるよ」

 司もチラッとコーチの方に目を遣ると、確かにこちらを睨んでいる。

「拓海ぃ、勘弁しろよぉ。お前が毎回遅刻するせいで、俺まで睨まれちゃうじゃんか」

「ごめんって。けど、大丈夫だよ。だって司ちゃん、サッカー上手いし、チームのエースだし、学校の成績だって良いし、大丈夫だって」

「何がどう大丈夫なんだよっ」

 しかし、司にはこの拓海がどうしても憎めない。

 小学校以来のサッカーチームのコンビで、ほぼ二人の活躍で、近隣地域では敵なしだった。

 トップ下の司が、超高速ワントップの拓海にラストパス供給をして得点するパターンは、他のどのチームにも止めることは出来なかった。

 学年がひとつ上の司が先に中学に入学すると、上級生とも体力的に遜色の無かった司は、サッカー部入部早々、レギュラーポジションを与えられた。

 それでも司は、上級生の先輩たちに囲まれてのプレーは、今ひとつしっくりこなかったというのが正直なところだ。

 もっと単純に言えば、楽しくなかった。



 サッカー自体が詰まらない訳じゃない。けど、何かが違う。


 俺のラストパスから、センパイがゴールを決める瞬間、それも確かに嬉しくはある。


 けど、そうじゃないんだ。


 やっぱり、拓海じゃなきゃ、だよなぁ。


 俺のラストパスを、何ひとつの無駄もなくゴールに叩き込み、満面の笑みで駆け寄ってくる拓海とのコンビじゃなきゃ、シックリこない。


 拓海のやつ、早く上がって来ないかなぁ・・・。



 そして一年が経ち、やっと拓海が中学に上がって来たが、司の期待とは裏腹に、拓海が入部後、即レギュラーということにはならなかった。

 入学時にまだ司ほど体格的に恵まれていなかった拓海は、どんなにそのセンスが優れていて、如何に司との相性が良くても、レギュラーポジションを得ることが出来なかったのだ。

 確かにコーチの考え方も分からなくはない。

 まだ体力的に未熟な選手を、相手の屈強なディフェンス陣と対峙させるのは、事故や怪我のリスクを考えると難しかったのだと。

 それでも夏が過ぎ、秋の終わり三年生の引退試合と同時に、拓海のワントップでのレギュラーポジションが決定していた・・・筈だったのだが・・・。


 夏休み以来、練習に遅刻したり休んだりとを繰り返す拓海に、コーチはスタメンの地位をすんなりとは与えなかった。

 年明けの新人戦に向けてのポジション争いが行われる中、司は拓海に対して気が気ではない。

 そして司は決心を固める。



 うん、ちゃんと訊こう。


 何か悩みがあるなら、聞いてやろう。勉強なら教えてやろう。


 拓海の為、俺の為だ・・・。そして・・・



 そんなことを思った瞬間、司の頭の中には、振り返った笑顔の楓が・・・。



 ちがう違うっ、楓さんはカンケーないっ



 司は強く首を振って、妄想の中の楓を振り払おうとする。

「どうしたの?司ちゃん?」

 拓海の声に我に返った司は、慌てて平静を装う。

「なんでもねぇよ・・・。ってか、拓海、お前さ、今日の帰り、ちょっと付き合えよ」

「あ、うん。いいけど」

 ――ピッピィー

 コーチの吹いた集合を知らせるホイッスルが、けたたましくグランドに響き渡った。

    ◇


「で、どうしたの?司ちゃん」

 もう辺りはすっかり暗くなった帰り道、並んで歩く拓海の方が先に口を開く。

「・・・いや、どうしたって訳じゃないんだけどさ・・・」

 今もそうだが、練習中に頭の中に現れ、その後何度もフラッシュバックのように現れては消え、消えては現れる楓の姿を、司は現れるのと同じ回数だけ首を振っていた。

「なんかさ、今日、司ちゃん、やたらと首振ってない?」

 司は楓のことを妄想する自分を見透かされているようで、暗くて見えもしないのだろうが、顔が赤くなる自分を隠すようにそっぽを向くのだった。

「そ、そんなことねぇよ。ってかさ、『どうした?』っていうのはさ、それ、俺の台詞だよ。最近さ、お前の方こそどうなのよ?部活遅れて来たり、来なかったりさ、何でよ?あんましサッカー、楽しくないか?」

 一瞬、拓海が口をつぐんだように感じたが、それは司の気のせいだったのか、直ぐにいつもの半分呑気でもう半分は恍けた様子の口調で、拓海は答える。

「なーんだ、そんなことかぁ。サッカーは楽しいよ。司ちゃんと一緒にプレーも出来るし」

 拓海の返答に少しばかり違和感を覚えた司だったが、それが何なのか分からない。訊いて良いことなのだろうか、それとも・・・。

「そっか・・・。なら良いんだけど・・・」

 そのまま黙り込んだまま歩を進める二人は、やがて司の家の前に差し掛かり、また先に拓海が口を開いた。

「じゃ、司ちゃん」

 軽く手を挙げて自らの家へ向かおうとする拓海を、司は呼び止めるように声を掛ける。

「なぁ拓海、何かあったら、言えよ・・・。ってか、相談してくれ・・・。何かあったらさ・・・」

 一瞬立ち止まった拓海が、如何にも作った明るい調子で、もう一度手を挙げて答える。

「うん、分かった。それじゃ、また明日」

 暗がりで拓海の表情は見えないが、作り笑顔の拓海を感じて、司は何だか不安で、そして寂しかった。

    ◇


「ねぇ、おかあさん。最近さ、拓海んち、えっと、二丁目の田中拓海んとこ、何か聞いてる?」

 夕飯の皿をシンクに片付けながら、司はさり気なく、それでも勇気を振り絞って母親に訊いてみた。

 司の母親は一瞬躊躇するような素振りを見せてから、訝し気に「どうして?」と、逆に訊き返してくる。

「いや、別に・・・。ただ、何となく・・・。いや、何も無ければそれで良いんだ・・・」

 母親はもう一度司を覗き込むようにして、視線を合わせると、それから『ふぅ』と、溜息を吐くようにしてから、『いい?ちゃんと聞いて、そして、変に周りにも、拓海くんにも楓ちゃんにも話さないこと。いい?分かった?』、そう言って話し始めた。

「あのね、田中さんちのお母さん、春から入退院繰り返しているんだけど、それはあんたも知ってるでしょ?」

「ああ、何となく」

 司は嫌な予感しかしなかったが、田中のおばさんが家に戻っていることがその不安を払しょくする何かのような気がして、変に食い下がった。

「でもさ、最近は戻って来てるよね?」

 それでも司の母親は続けた。

「でもね、もうあんまり長くはないそうなの・・・。癌だったんですって。もう治療が出来ないんですって・・・。だから今回帰宅したのは・・・。分かる?・・・だから、このことは、多分あの二人も知っていることなんだけど、今は回復を信じて頑張ってるんだから、だから、あんたも、知らないふりして、そんなことを話しちゃダメよ。いい?分かった?」

 母親の言葉を聞き終えるか終えないか、そんなタイミングで司は大声を上げる。

「おかあさん、何で言ってくれなかったのっ?俺、そんなこと、全然知らなかったよっ」

 叫ぶと同時に、司は慌てて台所を飛び出し、玄関で靴を突っかけると、そのまま拓海の家に向かって走り出していた。

 母親の『ちょっと、待ちなさいっ、司っ、待ちなさいっ』、そんな声を背中に聞きながら、それでも司は止まることは出来なかった。

    ◇


 拓海の家の前で、司は肩で息をしなが、必死で自らを落ち着かせようと目を閉じた。

 そして、

 ――ピン、ポーン

 呼び鈴から暫くして、インターホンからか細い大人の女性の返答があった。

「はい、どちら様でしょうか?」

「あ、おばさん。俺、いえ、僕、司です。あ、いえ、松本司です」

 司は先ほどの自らの母親の言葉を思い出し、冷静に『おばさん、大丈夫ですか?』の言葉を飲み込んだ。

「ああ・・・、司くん・・・。ちょっと待ってね・・・」

 インターホンの向こうで拓海を呼ぶ声がしたが、玄関に現れてその扉を開いたのは、楓だった。

 拓海が出てくるとばかり思っていた司は、驚いて一瞬のけぞってしまう。

「あら、司くん。拓海に用事でしょ?どうぞ、上がって。今ね、珍しく拓海、部屋に籠って宿題やってるの。何でも、今日司くんに叱られたって。ありがとね」

 そう微笑む楓に、司はドギマギしながら「あ、いえ、俺は何も・・・」と応えることしか出来なかった。

「二階に上がって、右が拓海の部屋。あたし、今飲み物持って行くから、司くん、先に上がっておいて」

 司は言われるままに階段を上がり、拓海の部屋のドアをノックした。

「なに?姉ちゃん?今勉強中。用事なら後にしてよ。あと一時間くらいで終わるからさ」

 司がカチャリとドアを開け、「俺だよ」と声を掛けると、今度は拓海が驚いた。

「あれ、誰か来たのは分かったけど、司ちゃんだったの?どうして?」

「どうしてもこうしてもないんだよ。今日から、お前の成績が上がるまで、俺が勉強教えてやる。良いな?」

「え?でも、どうして?」

「だからぁ、どうしても、なんだよ」

 そんなやり取りをしていると、お盆にオレンジジュースを三つ乗せた楓が部屋に入って来た。

「あ、拓海の姉ちゃん。今、拓海にも話したんだけど、これから暫く、俺、拓海と一緒に勉強したいんですけど、良いですか?」

「ホントに?この子あたしの言うこと聞かないから、助かるよ。お願いして良いかしら?」

 それから楓は、もうひと言付け足した。

「それと、その『拓海の姉ちゃん』って、やめない?昔みたいに、楓、とか、楓ちゃんで良いよ」

「あ、うん。分かった。そうします・・・」

「だからぁ、その『そうします』も、可笑しいって」

 そう言って、楓はクスクス笑うのだった。

    ◇


 年が明けて直ぐに、楓と拓海の母親は亡くなった。

 司も葬儀には参列したが、親族でもない司は、泣きじゃくる楓と拓海の姿を、遠くから眺めることしか出来なかった。

 いや、もし仮に近付くことが出来たとしても、恐らく司は二人に何て声を掛けたら良いのか分からずに、ただただ困惑するだけだったかもしれない。


 司が拓海と一緒に学校の宿題をやるようになってから二ヶ月ちょっと。

 司は母親の提案もあり、田中のおばさんに負担を掛けないようにと、おばさんが亡くなる前々日まで、部活帰りに司の部屋で宿題をやった。

 もちろん司は、おばさんの病気のことは知らないフリをしていたが、後で考えると、少なくとも楓はそのことを(司が知らないフリをしているということを)、知っていたのではないかと、司は思う。


 おばさんが亡くなって十日ほどは、楓も拓海も学校を休み、その後再び二人が登校し始めた時、やっぱり司は二人に何て声を掛ければ良いのか分からずに、敢て近付くことが出来ないでいた。

 やがて拓海が部活に復帰すると、何とはなしに、少しずつ、拓海とは会話も出来るようになり、ひと月も経つ頃には、再び司の部屋で一緒に勉強するようになった。

 それでも楓に話し掛けるのは難しく、朝、登校時にあちらから声を掛けられると「あ、おはよう」とは返すものの、司の方が先に楓を見掛けた時は、何故だか見つからないように隠れるか、ワザと気付かないフリをしてやり過してしまう司だった。

    ◇


 三月初旬。卒業式。

 やっぱり司は、在校生席から、楓を見詰めていた。


 卒業式翌日、夕飯時に司の母親が言う。

「田中さんちの楓ちゃん、県立高校に合格したんですって。偉いわねぇ、ずっと大変だったのに・・・。ほんと、偉いわねぇ・・・」

 ちょっと涙ぐんでさえいるみたいに、司には思えた。

    ◇


 四月。新学期。

「おはようっ」

 司の脇を自転車が、風と共に追い越していく。

「あっ」

 司が思わず声を上げ、言葉にはならないが、つい、――待って、とばかりに右手を伸ばす。

 司の心の声が聞こえたのか、そのひと(楓)はピタっと自転車を停め、振り返り、ニコリと微笑み、そして司が追い付くのを待っていた。

「おはよう、司くん」

「おはようございます・・・」

「なに?朝から元気ないんじゃない?ほら、シャキッとしなさい」

 司は思う。


 良かった。楓ちゃん、思ったより元気そうだ。


 でも、俺の口から何て言えば・・・?


『おはようございます』の後の言葉が続かずに、口をもごもごしている司を、楓は如何にも可笑しそうに笑い、それからちょっと真面目な顔になって、「ありがとうね。これからも、よろしくね」、そう言って、何故だか恥ずかしそうに「じゃ」と自転車を再びこぎ始めた。

 司は慌ててもう一度手を伸ばす。もちろん声は出ない。

 すると、自転車はもう一度、ピタリと停まった。それでももう二十メートルくらいは先に離れている。

 そして、楓が振り返った。

「来年、ツカサくんっ、君が来るの、待ってるからねっ」

 楓は大きな声でそれだけ言うと、何故だか凄い勢いで自転車を漕いで、そのセーラー服の背中は、あっという間に小さくなった。

 司は朝っぱらから頭に血が上り、クラっとして、鼻血が出そうになる。

 そして、誓う。


 絶対に、イイ男になってやる。

    ◇


 桜の葉の緑が、朝の陽射しを反射して、やたらと眩しい。



              おしまい

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憧れ。(司の決心) ninjin @airumika

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