茅場くんと日比谷さん。
あげもち
『無名』のままの二人でも。
「「いただきます」」
5月、午前6時半。
暖房の要らなくなったリビングで、2人分の声が響く。
メニューは、とても簡単なものだった。納豆と白米と、目玉焼き。それと、鰹節がそのまま入った味噌汁。
一番最初に味噌汁を飲むと良い、と言われたのは、確か小学生の頃だったか。さっそく味噌汁を一口啜ると、向かいに座る彼に顔を向ける。
「うん、出汁が効いてて美味しい」
「そっか、良かった」
そう、やんわりと微笑むと彼は目玉焼きに醤油を垂らす。私は塩胡椒を振ると、硬めの黄身を、口に運んだ。
「今日は部活あるの?」
「うん、大会前だからちょっと遅くなるかも」
「分かった。それじゃ今日の晩御飯は私が作っておくね」
「ありがと」
質素な朝食と、質素な会話。「ちょっと焼きすぎたね」と、苦笑いする彼に、「そんな事ないよ」と、味噌汁を口に流し込んだ。
それからはしばらく無言で箸を動かした。
今日は午後からゲリラ豪雨の可能性があるとか、芸能人の不倫だとか。
そんなニュースをBGM代わりに。
そして、全てを食べ終わると、彼の方へ顔を向ける。
「ごちそうさま、茅場くん美味しかった」
そう言うと、ちょうど彼も食べ終わったらしく。ごちそうさまでした。と呟いてから、「ううん」と小さく首を横に振った。
「簡単なものばかりでごめん」
「いや、朝は大変だし、それに目玉焼きとか私に合わせてくれたでしょ?」
「この前、よく焼いたやつが好きって言ってたからね、だから日比谷さんお口に合えば良いなって」
そう、自重気味微笑むと、彼の前髪が揺れる。
細くなる瞳と、芯があって優しい声に、胸がフワって熱くなる。
「……ありがと」
私は誤魔化すように視線を逸らした。
だって彼は義兄。この気持ちを誤魔化しきれなかった先にはきっとバッドエンドが待っている。
だから……。
「ごめん、今日ちょっと早く出るね」
「うん、分かった。洗い物はやっとくよ」
「ありがと、茅場くん」
「ううん、日比谷さんの方の気をつけて」
「うん」
食器を流し台に持って行き、急足で歯磨きをすると、ローファーに足を通す。
早く学校に行ってしまおう。
そうすれば、お互い普通のクラスメイト。変に茅場くんを意識しなくて済むから。
それは、ほんの一ヶ月前。
まだ私たちが高校2年生に上りたての時だった。
「ね、
お母さんがそう切り出したのは、2人で夕食を食べている時のことだった。
母は夜勤が多いため、夕飯は1人で食べることが多い。
そんな母との久しぶりの夕飯に私は少しワクワクしていた。
「ん、なに?」
そう、お母さんへと目を向ける。綺麗な二重とか、たるみを知らない肌とか。本当私の母ながらこれで50とは思えない。
えーっとね……っと、口籠るように視線を散らすと、深呼吸をして視線を合わせる。
「落ち着いて聞いてね」
迫力というか、なんだか迫真に迫るようなその表情に、思わず唾を飲み込む。
コクリと頷くとお母さんは言った。
「私、再婚することになったの」
……。
しんと静まり返って、一瞬呼吸を忘れかける。
「私、再婚」
「いや、2回も言わなくても分かってるよ」
母はしばし天然だ。これでは先ほどの空気が台無しではないか。
緊張が一気に解けたことでため息が漏れる。
「それで、相手はどういう人なの?」
まぁ、お母さんのことだから、変な人は掴まないと思うけど。
「優しくて、落ち着きがあって、すごくいい人って感じがする人」
「へぇー、よかったじゃん」
「うん……だけどね」
そう再び口籠ると、顎に指を添える。
「だけど?」
「……一人ね息子さんがいらっしゃって」
そして、私は次のセリフに、目を見開いた。
「— あなたと同じクラスの茅場颯太《かやばそうた》くんって知ってる?」
驚きのあまり、声が出なかった。
だって知ってるも何も、同じクラスメイトの、しかも隣の席の、そして私の好きな人だもん。
『知っている』よりも『知っている』。すごく安直な表現だけど、本当にそうだった。
それから一週間がして、彼との同居生活が始まった。
いつものようによれたTシャツは着ないし、匂いにだって気をつけた。
好きな人と、おはようで始まって、おやすみで終わる。
そんな思いもしなかった、人生の一大イベントに、私はちょっとだけ浮かれていた。
……でも、それは同時に私の恋が終わった瞬間でもあった。
だってそうでしょ? 茅場くんは義兄。この関係は絶対に崩してはいけない。
私たち家族が、悲しむことのないように。
「はぁー……あっつ」
カバンを机のフックに掛けると、湿気の多いため息を吐く。
5月とはいささか服装に困るものだ。
上着を着るにはちょっと暑いし、かと言って半袖は主に朝が肌寒い。
どっちつかずの曇り空、結局羽織っていたカーディガンを脱いで、腰に巻いた。
「しおりんおはよー!」
どんと背中に重みと、柑橘系の香水の香りが広がる。
本当、朝からこのテンションでいるのは、疲れはしないだろうか。そう内心で思いながら、ため息をつくと、私の体にまわした腕を解く。
「唯香……暑いからくっつくな」
そう言って唯香——
「じゃあシーブリーズいる?」
そうバッグから出してきたオレンジ色のボトルを、「いらない」とつけ返す。
「えー……結構スースーするのに」唯香は残念そうに息を吐いて、ボトルを戻した。
「でも、最近なんかドライだぞーしおりん」
まぁ、唯香のテンションと比べたら、だいぶドライには見えるのだろう。でも、朝からこのテンションについて行くのは、私には無理。
「元々こんな感じだったと思うけど」と返すと、唯香は「いーや、違うね」と首を横に振った。
「昔のしおりんはもっと笑ってて、『魔法少女〜』とか『アイドルが〜』とか……つ!!」
「やめて恥ずかしい」
熱くなってきた唯香の口を無理矢理封じる。全く、何年前の話を持ってきているのか……。本当、お互いになんでも知っている、ある種の幼馴染というのは、時に厄介な存在になるものだ。
はぁ…と、ため息をつく。窓の方へと視線を向けると、自動的に茅場くんの机が目に入った。
彼はまだ家にいるのだろうか。それとも学校に向かってきている頃だろうか。
……。
「……良くないなぁこういうの」
そう息を吐くと、唯香が私の腕をタップする。
「あ、ごめん」唯香の口から手を離すと。大きく呼吸をして「死ぬかと思った……」と大げさにリアクションをした。それはちょっと盛りすぎだと思う。
そして、息を整えると「……ね、しおりんさ」と顔を向ける。なんだかいつになく真剣な表情をしていた。
「……やっぱり、何か悩み事あるの?」
そんなセリフに、一瞬息を呑む。
「なんで?」
「なんか、ずっと思い詰めたような顔してるから、やっぱりあのこと?」
唯一、茅場くんとの関係を明かしているのは、唯香だけだった。まぁ、あれは明かしたというよりは、バレたに近いかもしれないけど。
もう一度、茅場くんの席に目を移して、すぐに視線を戻す。
「なにもないよ」
そう、本当に何もない。むしろ私たちの関係に何かがあってはいけない。
法律上、義理の兄弟同士が恋人になっても、夫婦になっても咎められることはない。
だけど、それを禁断の愛と人々は揶揄して、喜劇として。悲劇として非難する。
『それはおかしい』、『兄弟同士で恋人ってヤバいよね』って。
この国では、出る杭は打たれた方が悪で、多勢でハンマーを振り下ろした方が正義になるのだ。
「でも……」唯香が口籠ると視線の先のドアが開く。
その姿は、つい30分前にも見ている、茅場くん。その人だった。
お互いに目が合って、一瞬視線を逸らす。
「おはよう、日比谷さん」
「おはよう、茅場くん」
機械的な会話。横を通った時の彼の匂い。
別になんの変哲のない日常のはずなのに、どうしてこうも違和感を感じるのか。
窓にポツポツと、雨粒がぶつかり始めた。
「傘、どうしようかな……」
雨が滴る軒先。視線斜め四十五度。曇天を見上げながらため息をついた。
確かに朝のニュースのどれかで、言っていたような気がする。雨が降るって。
きっと、今までだったらそれを聞き逃す事なんてなかったのだろう。だけど、茅場くんを変に意識したくなくて、急いで学校に来たせいだと考えると、なおさらモヤモヤする。
「……はぁ、近くのコンビニまで走るかぁ」
——いや、下着が透けそうで嫌だ。
と、その瞬間、スマホが震える。画面を覗くと『茅場くん』と名前の後に『日比谷さん、傘なんだけど……』と、ポップアップが表示されて、心臓が一回だけ不自然に跳ね上がる。
唾を飲み込むと、こくりと喉が鳴る。
彼のアイコンをタップすると、メッセージが表示される。そこに書いてあったのは、帰りが遅くなるから、傘を使ってくれて構わない。という内容だった。
きっと彼は朝のニュースを聞いていて、私が傘を持って来なかった事を知っていたのだろう。
はぁ…何緊張してんだ私。
飾り気のないメッセージに息をつくと、『ありがとう、部活頑張って』と返す。
白いウサギのスタンプが帰ってくると、スマホをしまって傘立てから、彼の青色の傘を引き抜く。
ばさり、と傘を開いて、握っているの部分に視線を向けると、変に意識してしまいそうで、首を横に振る。
「さっさと帰ろ」
ポツポツと頭上で、静かに雨が弾けた。
茅場くんが帰ってきたのは、時計の短い針が8時に差し掛かった時のこと。
「ただいま」そう玄関を開けた彼は雨で濡れていた。
そんな彼を見て、慌ててバスタオルを取りに行く。
「おかえり、ごめんね茅場くん。傘私が持ってっちゃったから……」
「ううん、気にしないで、日比谷さんが無事に帰れたなら、よかったよ」
にヘラと笑う口元。濡れた昆布みたいに髪の毛が額にへばりついていた。
バスタオルを受け取ると、「とりあえずシャワー浴びてくるね」そう、脱衣所へと向かっていく。
そんな背中を見て、不自然に心拍数が上がる。
正直、かっこいいとか、好きとか、ありがとうとか、ごめんとか。いろんな感情が溢れてくる。
だけど、それらを漉して口から出てきたのは、「ずるいよ……」
彼を否定する言葉だった。
電子レンジの『チン』という音が響いた後に、茅場くんが顔を出す。
「わざわざありがとう、日比谷さん」
「ううん、私の方こそ、傘貸してくれてありがと」
電子レンジから肉じゃがと、焼き鮭を取り出すと「簡単なものでごめん」とテーブルの上に並べる。
「ご馳走だよ、ありがとう」
モヤモヤと、醤油味の湯気の向こうで茅場くんが笑う。
瞬間、ドッと心臓が速くなって、頬に熱が集まっていく。こういう時、なんて返せば良いのか、そういうマニュアルが欲しくなった。
それから、向かい合って、夕飯を食べた。
今日学校であった出来事とか、部活の話とか。
普通の高校生がするような、たわいもない話。
だけど、なぜかその話がうまく聞き止められなくて、少しずつ静かになっていった。
「ごちそうさまでした。洗い物は俺がやっとくよ」
「ううん、朝は全部任せちゃったし、せめて私がやっとくよ。それにほら……茅場くんも部活で疲れてるだろうし」
「んー、それじゃあさ、分担しようよ俺が、食器洗うから、拭いてしまう所までお願いできる?」
「……うん、わかった」
腑に落ちない、というのが本音だったけど、うまく丸め込められてしまった。
二人で肩を並べてキッチンに立つ。
時々触れ合う肩に、熱を感じて、もうちょっとだけこれが続けばいのに。とは言えなかった。
「ありがとう日比谷さん」
「うんん、私の方こそ、助かっちゃった」
お互いに微笑んで、静かになる。
「あのさ、日比谷さん」
「ん?」
しばらくの沈黙を破ったのは、茅場くんだった。
その次の言葉に、心臓がギュッと縮んだような気がした。
「俺たちってさ、一応兄弟なわけじゃん、だからさ、下の名前で呼んでも良いかな?」
兄弟同士で、苗字読みって変じゃん?
そう、彼が苦笑する。
だけど、その次の瞬間には、
「……やだ」
そう、私の口は勝手に動き出していた。
「え、日比谷さん?」
驚いたような表情の彼に、私は続ける。
「やだ、茅場くんは茅場くんのままがいい」
そう言い切ると、彼の目が見れなくなって、顔を伏せる。
きっと、これを言葉として形容するのであれば、『暴走』にあたるのだろう。
でも、茅場くんのその提案を飲んでしまったら、お互いに『颯太』と『汐梨』って呼び合ってしまったら……もうきっと、元には戻れない。
なんだか、そんな感じがした。
「……あのね」
手をギュッと握ると、顔をゆっくりあげる。
もう伝えてしまえ。
もし、世界がそれをよしとしなくても、このまま本当に兄弟になってしまったとしても、きっとこの思いは消えないから。
「ずっと、好きだった……茅場くんのこと」
その言葉に、彼は口をぽかんと開けていた。
「それって……」
そうやっと口を動かした彼の胸に飛び込む。
腕を回すと、心臓の音が聞こえた。
「……こういう意味で、好き……だから」
と、次の言葉を紡ごうとした時、彼の腕が私の背中へと回る。そして静かに彼は息を吐いた。
「お互い、同じだね」
そんなセリフに思わず肩をびくりと振るわせると、背中から心地よくて、暖かい感覚が消えていく。
だけど、やっと楽になれた。なんだか、そんな気がした。
「そっか、そうだったんだ」
はぁ、と息を吐いて、彼の顔を見る。
「うん、ずっと日比谷さんが好きだった」
そう言って、どこか恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに微笑む彼を見て、私も小さく笑う。
「でも、誰かにバレたら死ぬね、私たち」
「その時は、一緒に死のうか」
「ふふっ……なにそれ。でも、嬉しい」
そう笑って、もう一度お互いの体に腕を回す。
きっと、誰かに言えるようなことじゃない。
義理の兄弟が、お互いの好意を伝え合って。抱き合う。
兄弟以上、恋人未満のこの関係を、私たちは何と呼ぼうか。
その答えは、これから二人で探していこう。
だから、今は——
茅場くんと日比谷さん。 あげもち @saku24919
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます