トイレのお爺さん

御角

トイレのお爺さん

 しんと静まりかえる病室。寝返りを打つたびに衣擦れの音だけが僕の周りに漂い、白い天井に消えていく。

 何故こんな深夜に目を覚ましてしまったのか自分でもよくわからない。単純に入院という慣れない環境に緊張しているのか、それとも明日の手術が不安だからなのか。考えれば考えるほど、僕の両目は冴えていくばかりだ。

 再び夢の世界に飛び込むことを諦め、ゆっくりと体を起こすと、僅かに腹の右側が疼いた。手術は嫌だが、たかが盲腸に自分の命を握られているのはもっと嫌な気分だ。密閉された心に、重い感情だけがドロドロと蓄積していく。


 ふと、僕はこの狭苦しい病室から抜け出してトイレに行きたくなった。布団をそっと跳ね除け息を殺して部屋を出る。深夜の脱出ミッション。それはさながらゲームのようで、僕はこの小さな冒険に軽く心を踊らせた。


 月明かりを頼りに、暗く青い廊下を進む。足音に注意し壁沿いに、一直線に目的地を目指す。幸い見回りはいなかった。仮にいたとしてもトイレごときで咎められることはないはずだが。

 そうして僕は今、無事ミッションをこなし用を足していたのだ。いたのだが……。

 ドンッ

 暗闇に響き渡る得体の知れぬ音に、僕は思わず飛び上がってしまった。白く清潔な床に、図らずも飛沫がかかってしまう。慌ててその汚れを拭き取りながら、僕は音の出どころであるトイレの奥、左側の個室をじっと見つめた。誰かが、いる。


 本当は水も流さず、今すぐこの場から立ち去りたかった。お遊び感覚で病室を抜け出したことを酷く後悔した。だが、その恐怖心の中に一滴だけ混じる好奇心。音の正体を確かめたいという欲望に、幼い僕は抗えなかった。

 ひたひたと一歩ずつ確実に、個室との距離を詰めていく。先程流した水の音がトイレ中を満たし、僕の足音を中和していく。

 目の前で立ち止まり、僕が個室の扉をそっと押そうとした、その時だった。

 キィと音を立て、眼前の隔たりが開かれる。恐怖で固まる僕の目に映ったのは、疲れという疲れが全て顔に出ているような、そんな、くたびれたヨボヨボのお爺さんだった。

「なんだお前、トイレか?」

 僕が何も言わず立ち尽くしていると、お爺さんは洋式トイレに座ったままこちらに話しかけてきた。その暗く落ち窪んだ瞳に射抜かれ、僕はただ頷くことしか出来ない。

「すまんが他を使ってくれ。当分、動けそうにない」

 お爺さんは頭を抱えそう言った。腹の調子でも悪いのだろうか。


 その時、トイレの外からドタドタと、何人かの足音と話し声が聞こえた。人工の光が入口から微かに明滅する。

「まずい、隠れろ!」

 お爺さんは僕の手を引くと、あっという間に扉を閉め鍵をかけた。僕は突然のことで驚き声をあげそうになったが、お爺さんに口を塞がれた。見ると、人差し指を立て、静かにするよう僕に必死に訴えかけていた。

「ああ、もう困るのよね。こんな時にいなくなるなんて……!」

 外から看護師らしき人の声がする。やがてその気配は段々と遠ざかり、1分もしないうちに廊下には元の静寂が戻っていた。


「お爺さん、病室でも抜け出したの?」

 僕は気がつけば、そんな単純な疑問を口にしていた。

「ん? ああ、まぁ……そんなところだ」

「なんで?」

「……おじさん、明日手術でな。こんな年だから上手くいくか心配で眠れなくて、不安と緊張で思わずここに来ちまったのさ」

「何の手術?」

「それは……言ってもわからんさ。でも簡単な手術だよ。笑っちまうほど簡単な、そのはずなんだ」

 お爺さんは自嘲気味に笑った後、ため息を一つ吐き、項垂れた。

 そうか、こんなに年をとっていても、手術が不安なのは僕と同じなんだ。そう思うと、なんだか仲間が出来たようで心が軽くなった。

「僕と一緒だね、お爺さん」

「え?」

「僕も明日手術なんだ。本当は嫌だけど、不安だけど、お爺さん見てたらなんか安心しちゃった。だってこんなに年が違うのに同じこと考えてるんだもの」

 そう言って僕が笑うと、お爺さんは一瞬目を見開いたが、僕につられて微笑んだ。そして、かさついた手でそっと僕の頭を撫でた。

「……そうだな、こんな小さい子に励まされているようじゃいかんな」

 よし、と呟いてお爺さんは立ち上がり、勢いよく尻を拭った後、何もかも水に流した。

「おじさんも頑張るから、お前も頑張れ。なに、手術なんて寝ている間に終わっとるさ。何も心配はいらんよ」


 気がつけば時計は0時を回っていた。

 二人で手を洗いながら僕達は、既に今日となってしまったそれぞれの明日に思いを馳せる。あれほど重く濁っていた心は、今や驚くほど澄み切っていた。


 朝、日の光を浴びて、静かに伸びをする。いよいよ今日だ。看護師につれられ手術室に向かう間、僕は昨日のトイレでの出来事を思い出していた。

「先生、こちらです」

 廊下の奥から、白衣を纏う男がゆっくりと現れた。水分のない手、落ち窪んだ目、気怠げなその姿。見覚えが、ある。


 僕はその時初めて、お爺さんの正体を知った。

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