生きるのが辛い人の覚醒

たかひろ

生きるのが辛い人の覚醒

 煙の臭い?

そろそろ俺は死ぬのか。

空気を吸うと、火薬臭が体内に入り込んだ。

勢いよく咳き込み、ふと瞼を開いた。

男子便所の一室で、便座に腰を下ろしていたことを思い出す。


「もう一個やろうぜ!」


 扉の向こうから楽しそうな声がした。

その声が聞こえて数秒も満たない。

上から赤い棒が束になった物が投げ込まれる。

けたたましい破裂音が鳴り止まなくなると、ようやく爆竹だと理解した。

狭間雄一(はざまゆういち)、小学5年生______俺は、いじめを受けている。

今朝のニュースでは最大規模の台風が、この学校の真上を通過することを知った。

このいつものいじめをあいつらが楽しみ終わるまで無言でやり過ごし、早く家へ帰りたい。

そう思い......耐える。

この学校の放課後のチャイムは、授業終わりに残っていた生徒も下校を促される合図。

これで開放されると安堵した直後のことだ。


「今日は肝試しをするって、決めたわ。かな子をビビらせて楽しむからよ、お前は幽霊役やれ。体育倉庫で集まるから、遅れんじゃねえぞ」


 扉の向こうにいるいじめっ子、黒井雅(くろいまさし)は言い放った。

かな子というのは黒井の彼女らしい。

かな子が望んだことは、誰かを傷つけることでも問答無用で黒井は実行してきた。

黒井を少し見ただけの女子生徒を、従わせてる周りの奴らに襲わせて退学に追い込んだこともある。

黒井とかな子の親は学校への支援を多大にしており、教頭は揉み消したり不問に処してきた。

つまりこの学校で奴らの命令に従わないという選択肢は、残されていないのだ。

俺は運悪く、ガキながら発育が早かった。

殴りや蹴りを喰らっても並みより耐えられることを知った奴は、体のいいサンドバッグとして5年間俺に苦痛を与えてきた。


 奴らの気配が消えたのを確認し、廊下へ出た。

これから始まるいつもより長い苦しみを案じ、気持ちを落ち着けるためにもオレンジ色に染まる空をぼーっと窓から眺める。


「雄一君、ダメでしょ? チャイムが鳴ったのに」


 空を眺めていたこともあってか、数メートル近くにいる先生の存在が視界に入らなかった。

声をかけたのはこの学校の先生の中で一番若い、保健室の先生だ。


「高橋先生、すいません」


 彼女は「もう」と、ため息を吐き、しかめた眉を緩めた。


「雄一君、いつも放課後ここで空を眺めてるよね。何か悩み事があるなら、先生のところへ来なさい」


 いつも同じセリフをいう。


「はい、ありがとうございます。失礼します」


 教師に話をすることは、俺も一時期考えたことがある。

しかし、話したところで良い方に向かうことなどあまりない。

加えてああいう正義感というか、一般的な正しさを振りかざすような相手は得手してエゴで最悪な結末をもたらす。

いじめっ子を問い詰めれば、それこそより陰湿に、俺の弱みを握ってくるだろう。

先生に告げ口すらできなくするために。

少なくともあの女に相談なんてしても無駄だ。

とはいえあの女以外に他に選択肢があるかというと、それは0だ。

親はどちらも共働きで、学校生活を気にする余裕はない。

あぁ、こんな生活がずっと続くのだろうか?


 校舎裏で時間を潰した後、言われた通り体育倉庫へ向かった。

校庭の隅にある薄暗い体育倉庫に明かりを灯すと、背後から黒井とその手下共が現れる。

何をされるのかと身構えると同時、奴に指示された手下たちが俺の腕を拘束した。


「肝試しだしさ、整った髪の幽霊なんて居ないだろ?」


 奴の右手にはバリカンがあり、されることに大方の見当がつく。

こうやって拘束されることは多々あり、ジタバタ暴れても無駄なことを俺は3回目で理解した。

暴れれば余計、危ない目に遭うからだ。

髪を剃られ、涙ぐむ俺をみて黒井は爆笑した。


「よし、その顔にさらに落書きを加えてやる」


 油性のペンで顔を塗られ、近くにあった姿鏡にはピエロのように映る自分の姿があった。


「よし、これで完成だ!」


 黒井がそう叫ぶと、遠くから枯れた声が響く。

手下の誰かが用務員が来たことを知り、焦っていた。

黒井は体育倉庫の扉を閉じればいいだろ?

と、声をかけるも耳に入らないほど動揺したのか、手下は足速にその場を去った。

苛立ちを隠せない黒井だが、用務員が持つライトの光が大きくなるのを見て、手下の後に続くことを止める。

舌打ちをしながら扉を閉め、室内の電源を落とした。


「あれ、勘違いか?」


 用務員が体育倉庫の前でそう呟き、しばらくするとライトの光は遠かった。


「てめぇ、今笑ったろ?」


 黒井は明かりをつけると共に、俺の腹部へ蹴りを入れた。

悶える俺を上から見下ろし、舌打ちする。

笑ってはいないが、恐らく側から見たらダサく見えたのだろう。

それも合間ってか、ドアノブを捻ると同時に金属の扉に蹴りを打ち込んだ。

豪快に扉が開くことを予想したが、何故か反動で黒井は仰向けに倒れ込んだ。


「な、なんで開かないだ!?」


 ガチャガチャとドアノブを何回か捻るも、扉はビクともしなかった。


「クソッ! あいつ鍵かけやがった! どうすんだよ!」


 苛立ちを隠せない黒井は、周囲を見渡す。

この倉庫は窓が一つあるが、子どもの俺たちでさえ通ることはできないほど小さい。

それを知った奴は、ほぼ悟りながらも解決策を俺に求めた。


「てめぇ、どうにかしてここから出せや!」


「む、無理だよ。明日まで待つしか……」


 そしてやはり、殴り飛ばされた。

口の中に鉄の味がすると、何故だか知らないがかつてないほど殺意が芽生える。

今まで何をされても、耐えなきゃという気持ちしかなかったのにどうして?


 黒井は3段ほど積まれたマットの上に腰を下ろし、脚を組んで舌打ちを繰り返した。


「クソ、朝までどーしてろって言うんだよ!」


 彼がそう愚痴を漏らすと同時、外で激しい雨風が起こった。

この倉庫に一つしかない、小さな窓から外を眺める。

すると、木々が吹き飛びウサギ小屋をぶち壊した。

中にいた小動物は、四肢の一部を欠損すると共に吹き飛ばされる。

とても命を取り留めてるとは思えなかった。

一連の光景は、俺の目に印象深く心の底まで浸透するように映った。


「何してんだよピエロ野郎!」


 しかしその次の瞬間、黒井に後頭部の髪を鷲掴みにされ、よじ登ったマットから床に突き落とされた。


「そうだ、いい余興思いついたわ」


 不気味な笑みでこちらを眺める黒井は、俺の真下にチョークを入れておく丸い金属の缶を置いた。

彼はそこを指差し、口を開く。


「そこにしろ」


 唐突な言葉に、俺は意味がよく把握できなかった。

しかし、次の彼のセリフでわかった。


「漏らせっていってんだよ」


 度が越えた注文に、しばらく身体が硬直する。

しかし、チョークを額にぶつけられ冗談ではないことを察した。

本当にここで......するのか。


 缶の中に注ぐほど、俺は自尊心が身体が抜けていくように感じた。


「ハハハ! ピエロがお漏らししてるのおもろ! これで今朝になれば、お前はお漏らしピエロなんてあだ名付くんじゃねえか? 肝試しが消えたのアレだが、いいもの見れたぜ」


 流れるものが途切れると、身体は何故だか抜け殻のように脱力した。


「さて、だるいけど後は寝て過ごすか」


 横になる黒井をぼーっと見つめていると、次第に外の雨風が強まる。

あのウサギ、もう助からないだろうな。

この台風、いつまで続くのだろうか?

永遠に思えるこの忙しない雨風に、ふとそう疑問を持った。

もし仮に、さらに風が強まったら俺はあのウサギのように死ぬ。

この掘っ立て小屋のような倉庫では、並みの住宅より強度はないだろうから。

だとしたら、俺の命はこの台風が過ぎるまで持つのだろうか?

もうここでは......耐えてもやり過ごせない。


「ずるい」


 心の底から湧き出た言葉だ。

出たといっても小さく呟いた程度で、背を向ける彼には気づかれていない。

だが本当に......ずるい。

人をいたぶって楽しみ、その歳で彼女を作り、欲しい物を全て手に入れ充実した日々を過ごして最後を迎えるのがあの男だ。

俺はひたすら耐えて、乗り越えた先では今よりマシな未来があるのではないかと不安を抱えて小さな光を見つめて過ごしていた。

その光さえも幻だと突き付けられて終わる......のか?


「いてっ、お前今何した?」


 俺が投げつけたチョークが頭に直撃した。

黒井はこめかみに筋を立たせ、睨みを効かせる。

今まで震えることしかできなかった奴の眼に、何故だか恐怖は抱かなかった。

そうか、あのウサギのおかげか。

次の瞬間、俺は体格を活かして奴をいたぶった。

サンドバッグにされるより、こういう使い方すればよかったんだ。


「ま、待て! もうやめてくれ!」


 怯える彼に、俺は躊躇するという感情が一向に湧いてこない。

力の弱まった両手で、俺の腕を添えるように掴んでくる。

その手をどかすことなく、彼の首元に触れた。

泡を吹く様は中々に滑稽で、愉快だ。

これが他者をいたぶるという快感なのだろうか?


「苦しい?」


 そう質問を投げかける頃には、黒井の脈は停止していた。

気絶......ではない。


 翌日、いや正確には日が上り始めた1時から3時ぐらいだろう。

ドアノブに金属が差し込まれる音がした。

見つめると、ゆっくりと回転していく。

結局台風は静まり、この倉庫は何事もなかった。

あの扉が開き、先生が死体を発見して、俺は少年院にぶち込まれる。

結局あのまま耐え忍ぶのが正解だったのか?

もう、後悔したって同じだ。

なら、やれること全部してやる!


「無事か!」


 扉の外にいたのは、高橋先生だった。

女の声がしたのはわかっていたが、まさかこの女だったとな。

でも、これは不幸中の幸いだ。

彼女に襲いかかろうと、突進を試みた。

しかし、俺は自分の身体が子どもであることを忘れていた。

何故自分は、女とはいえ大人を相手に犯せると思ったのか?

押し飛ばされ、床に寝転がる黒井の死体に重なった。


「雄一君、君は今何をしようとしたかわかっているの? 黒井君の友達に聞き回って、必死に探しにきたのよ? それなのに、こんな」


 教育者らしい、正論だ。

だが俺はもう、取返しの付かないところまで来ているんだ。

犯せないならせめて、あの快感をもう一度味わってやる。

俺は耐えるだけの人生はうんざりだ!

突き飛ばされた場所の横にあった棚には、カッターが置かれていた。

咄嗟にそれを掴み、カチカチカチという音と共に刃を剥き出す。

先端を向けるが、先生は何故か目を瞑ってそこで立ち尽くした。


「何をしているんですか? 逃げないと、殺しますよ?」


 投げかけても返答はなく、やはりそこに目を閉じて立っていた。

そうか、先生も耐えてやり過ごそうとしているんだ。

俺が、本気ではないと思っているから。

後戻りのできない俺が、その見え透いた考えに負ける訳がない。

そう思いながら、彼女の服をカッターで切り裂いた。

腹部が露になり、刃を当てる。

血は垂れているが、まだ触れているだけ。

後はほんの、力を入れて引けば彼女の皮膚は裂ける。

生唾を飲み込み、意を決したつもりだった。

しかし、カッターの刃を引くことはできなかった。

無防備な先生のその姿は、完全に俺を信頼しているからだ。

偽善でもなんでもない、先生はずっと俺の事を気にしていたことがわかった。

じゃなければこんな真夜中に、体育倉庫に辿り着けるはずがない。

俺はそんな先生を、殺すことはできなかった。

手から落ちるカッターは、床に当たると共に刃が折れる。


「よかった!」


 先生がそうポツリと吐き、俺の小さな身体を抱きしめた。

冷めきった皮膚は、暖かな体温に包まれる。


「その躊躇う気持ちを大切に持ちなさい。どんなことがあっても、今日のことを思い出すの。私は忘れるけど、雄一君は覚えときなさい!」


「先生......もう遅いよ」


 俺は後ろにある、黒井の死体を先生に見せた。

流石の彼女も、瞳孔を広げてただ沈黙するしかなかった。

許してくれた先生に、また拒絶される。

殺人鬼の俺は、もう誰にも受け入れられることはないだろう。

だけど、最後の最後に俺を見てくれる人がいたことに気づけてよかった。

あぁ、落書きされたピエロの顔も涙で歪んでしまった。

鏡で見る自分は、化け物にしか見えない。


「どうしてこんなことをしたの?」


 考え詰めた先生の口からは、その言葉が第一に出た。

俺はただ、その言葉に正直に答えるしかない。


「耐えてやり過ごせばいいと思ったけど......無理......だった」


 大粒を垂らし、ただありのままの本音を出した。


「そう......だったのね。ごめんね、先生が気づいてあげれば」


 先生は俺以上に涙を流し、唇を血が垂れるほど強く噛み締めた。

予想外の反応に、涙腺は閉じた。

先生はなんで、人のために泣けるのか?

人はそんなに、他人のことを思えるのか?

俺の中にはない、初めての価値観が今目の前で構成され始めた。


「いい雄一君、人を殺めることはどんな理由があろうとしてはいけない。それをしたものは、死ぬまでその罪を考えて生きなきゃいけないの。あなたのこれからの人生は、その罪とどう向き合うのかを......考えるのよ」


 先生は今、殺人鬼の俺へ教育をしている。

社会にいてはならない存在である自分を、まだ新任に近い高橋先生が考え抜いた言葉でそう語りかけているんだ。

俺は真剣に先生の言葉を聞いたが、言葉を返すことはできず、ただ頷くことしかできなかった。

そっと手を握られ数秒の沈黙の後、再び先生は語りかける。


「でもあなたの躊躇える心を腐らせた相手もまた、同じだと私は思う。だから雄一君、私はあなたのこれからの人生の、罪を背負った者の模範になります。先生が黒井君の代わりに罪を償うから、ちゃんと学びなさい」


 そう語り終え、再び先生は俺の身体を抱きしめた。

先生は、俺の罪を庇って刑務所に入ったのだ。

それから数日し、朝のニュース番組で先生の供述が取り上げられた。


「取返しの付かないことをしてしまった。耐えがたい苦しみを、抜け出すことができなかった。だからした。けれど、それでも生きることを望む人はいる。などと意味不明な発言をしたと......」


 ニュースキャスターが言い終わる前に、映像を消した。

液晶画面が暗くなると同時、意識がはじけ飛ぶような感覚を受ける。

そしてしばらくすると、意識と記憶が定まった。

重い瞼を開くと、ボロアパートの自室で俺は倒れ込んでいた。

視界には煙が充満し、それが意識を遠のかせている。

そうか、俺は一酸化炭素中毒で自殺しようとしていたんだ。

さっきのは、走馬灯?

いや、確かいじめられていたのは記憶にある。

しかし、その後はいつも高橋先生のいる保健室でお茶を飲んでいただけ。

だけど、あの時間が俺の心の支えだった。

夢か幻の物語を思い出し、途絶えかけた意識の中リモコンを窓に向かって投げる。

ガラスが割れる音のしばらく後、誰かが扉近くに来たのを足音で気づいた。

この世界は命の危機にだけ、救いが現れる気がする。

そのせいで俺はいつも、まだもう少し長く生きたいと思わせられるんだ。


 病院で目を覚まし一週間後、再び俺はフリーター生活を続けた。

それから暫く経って、職場に顔を出した。

退院して顔を見合わせるのは、恥ずかしい以外の感情が湧かない。


「狭間君、君がいなくて大変だったよ。ありがとう、また戻って来てくれて」


「えっ? あ......はい!」

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生きるのが辛い人の覚醒 たかひろ @niitodayo

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