青天、霹靂飛ぶ

石濱ウミ

・・・



 小鳥遊たかなし 悠生ゆうせいにとっての世界が、ぐるりと音を立てて、引っ繰り返ったのは中学の終わりだった。


 いや、ただ単にというのは少し、違う。


 悠生にとって、それは、正しい位置に戻っただけのことで、というのはつまり、他の多数の人にとっては当たり前の景色が、これまでの悠生には、逆さまに見えていただけのことだった。

 それはいったい全体、何なのだ、といえば悠生に訪れた初恋である。

 つまり、悠生は初めての恋をしたことで、他の人とは違う、自分の景色の見え方に気づいたということだった。

 真っ青な空、晴れた日に突然の、雷。

 なるほど、じゃあ正しい位置に立った悠生の、目に映る世界は、輝いて見えたかって?


 そんなの、決まってる。

 目の前に広がるのは、くらくらと眩暈がするほどの現実。


 あゝなんて極彩色の、地獄。


 そうなってみて、実際これまでのことが、腑に落ちた。

 すとん、と胸に落ちる小気味良い音が、聞こえるほどに。

 何故なら、そりゃあもう今まで、女の子を可愛いなんて思ったこともなければ、全くといって興味なんて無かったそのわけが。

 ず持って女の子たちの一様に柔らかそうな胸の、その大きさを顔の良し悪しと比べることに熱心になる友人たちの気持ちは、悠生には露ほども分からなかったし、おそらく、これからも女の子の顔や胸などに対して、好みとかそうじゃないとか、触ってみたいとか、ちらりとスカートの中を覗いてみたいとか、そんな気持ちを抱くことは、これから先も無いんだ、ということが。


 分かって、しまったのである。


 自分の恋心は悠生の斜め前の席に座る、自分と同じ詰襟の黒い学生服を着た玉木たまき 礼央れおにあるのだと、今はもう、すっかり自覚していた。

 盗み見ては、そっと溜め息を吐く。

 すっげー好きだ。


 最低で最悪に、最高の気分。

 

 それというのも、初恋と同時に突き付けられたのは、これから先もずっと、圧倒的多数とは反対側にある、少数の中にいる自分ということである。


 とはいえ恋とは、何だろう。


 分からない言葉は、辞書を引きましょうと言われ続けていた悠生が、素直に、とりあえず家にあった辞書で調べてみれば『男女の間で、相手を特別にすきになる気持ち』と書いてあった。! ちなみに、悠生が引いてみたのは、2018年1月20日第十版第七刷発行の例解学習国語辞典である。

 なんとも居たたまれない気持ちで次にネットを見れば、悠生と同じ悩みを持ち、同じように辞書を引き、納得のいかない人達の声が溢れていた。


 むべなるかな!

 

 ともかく、現在の悠生にとっての恋とは、礼央だ。それで恋とは、当然に、強気になったり弱気になったりする。

 礼央に対する恋心を自覚したのに、幸か不幸か卒業まであと二ヶ月。すぐ目の前には受験がぶら下がり、机の上には試験に向けたプリントがあった。


 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば  

 忍ぶることの弱りもぞする

 

 この歌の、初句切れと二句切れの違いを問う問題。『玉の緒よ』で切るのと『玉の緒よ絶えねば絶えね』で切るのでは意味が違ってくるのだが、悠生にとっては初句切れの方がしっくりくる。


 この想い、いっそ礼央に知られるくらいなら、命なんて絶えねば絶えね。

 

 だが、知られて困るのは礼央本人だけでは、ない。なんといっても悠生は、少数の方に属しているからだ。なんなら、本人よりも知られたくないのは、友達だったりするわけで、もしかしたら誰か一人くらいは分かってくれるかもしれない、なんていう甘い考えが、地獄の一丁目なのである。

 無視されて、仲間はずれをされるだけなら、マシだ。どうやっても待っているのは酷い虐めだろう。分別ふんべつと多感? 知性と感性? オースティンの小説じゃない。悠生たち中学生が集団になれば分別なんてものはあるわけ無いし、多感が服を着て歩いているようなもので、知性があれば虐めなんてしないだろうし、感性があるなら誰を好きになっても、その気持ちは認めてもらえるだろうことは、つまり。

 

 無人島で礼央と二人きりになりたい。


 悠生が、そんなことを考えていたからというわけではないが、礼央と二人きりの状況は、案外早くに訪れた。




 「あれ? 礼央、なにしてんの?」


 高校受験を間近に控えて部活を引退した悠生たち三年生は、放課後ともなれば皆んな塾へと忙しく、その日、教室に礼央が残っていることに驚いて声をかけた。

 礼央、なんて親しげに呼んでみたものの、実のところ、これまで悠生と礼央は特別仲が良いわけでも無く、どちらかといえば、単なるクラスメイトだった。


 恋心を自覚した今になって思えば、いつだって礼央が悠生にとって気になる相手だった理由も、分かるってものである。


 三年生になって初めて同じクラスになった時から、仲良くなりたいと思い、話しかけるきっかけを探していても、いざその機会がくると躊躇してしまう。

 両眼は吸い寄せられるように姿を追いかけ、目が合いそうになると、恐ろしくなって視線を外す。

 話したいのに、何を話せば良いのか分からないもどかしさ。

 別の友達と戯れ合う礼央の姿に、その相手を殴りたい苛立ちを感じて、やっぱり苦手なんだ、嫌いでも目につくしと考えて、はたと、なんで殴りたいのが礼央じゃないんだと首を傾げてみたりしているうちに、気づいたのだ。


 もしかして、これって。


 そうこうするうちに、礼央と仲良くなれないまま卒業まで後二ヶ月を切った今、教室に一人で居る礼央の姿を目にしたとき悠生の中の焦燥感とも呼べそうな何かが背中を押し、気づけば声をかけていた。

 悠生に呼ばれて、読んでいた本から顔を上げた礼央は少し驚いた後、笑顔を見せた。

 うっわ、最高に可愛い。

 ばくッと一拍大きな音を心臓が立てる。


「小鳥遊こそ、まだ帰ってないんだ? って、なんでジャージ着てんの?」

「あー、コレ? ちょっと頼まれてバスケ部に顔出してた。礼央は?」

「ちょっと、ね」


 そう言って、また少し笑った礼央を見た瞬間、理由を教えて貰えなかったことは、つまり、やんわりとした悠生に対する拒絶であると、もう一度、心臓がばくッとして途端に、ぎゅぅっと痛くなる。

 やっぱ最悪だ、と思わずシャツの胸を握り締め、じゃあな、と言って教室へ入るのも諦めて、さっさと帰ろう背を向けた悠生に礼央の声が降ってきた。


「ねえ、小鳥遊の手首にしてる、それ……紐みたいなやつ、なんて言うんだっけ?」


 ねえ小鳥遊、の辺りで勢いよく振り返った悠生が見たのは、礼央れおが、自分の手首を振りながら小首を傾げているところだった。

 やっぱり最高です、と勇気を振り絞って教室へ足を踏み入れると、さりげなく礼央の方へ近寄る。


「え? この、ミサンガのこと?」

「そう。引退するちょっと前からバスケ部だった三年生の皆んな、お揃いでしてるよね。それってさ、自然に切れると願いが叶うんでしょ?」

 

 悠生は、手首にあるミサンガを指先で摘む。パワーフォワードをしていた高橋の姉が、受験の必勝祈願にと、お揃いでバスケ部の三年生全員の人数分を作ってくれたのだった。最後の試合に負けた後だったから、その言伝と共に渡しただけの高橋に「なんだよ今さら必勝祈願って、受験の前にオレらは大切な試合があったよな? だから試合に負けんだよ」って半ば本気で怒り、もう半分は高橋の姉の優しさ「受験は失敗すんなよ」ってやつに笑うしかない皆んなから、散々突っ込まれていたのも懐かしい。


「色合いが、良いよね。青系三色でまとめて差し色に黄色。小鳥遊に良く似合ってるし、それ見ると、ルリビタキって鳥を思い出すんだ」

「ふうん」

「小鳥遊はさ、どんな願いをしてるの?」

「……えっ? 願い?」

 

 悠生は、驚いた。礼央に、似合ってるとか言われて嬉しくて、ニヤけそうな顔をどうにかごまかしていたからである。

 そして願いを聞かれたとき、パッと浮かんだのは目の前の礼央の事だった。

 もっと話したい、仲良くなりたい、ずっと一緒にいたい、出来るなら……触りたい。


 願いが、叶うなら。


「それは……言えない」

「そっか、だよね。ごめん」


 なんとなく気まずい沈黙。

 それでも、二人きりで居られるなら悠生は、苦しくても何でも良いとさえ思う。

 最低だ。


「なあ、なんで礼央は残ってたの?」


 駄目もとで、もう一度聞いてみる。

 なんでまた、と思うかもしれないが、理由は分からないけど今だったら、答えてくれそうな気がしたからだ。


「……うーん、実はさ、このタイミングで父親の転勤が決まって、引っ越すことになった。で、少し前まで先生に受験先をあれこれ調べてもらってたんだ」

「……え。どこに」


 思わず礼央の前の席に座る。

 実際のところは絶句して、脱力して、絶望のどん底に突き落とされて腰を落としたら、たまたまそこに椅子があった、のではあるが。

 礼央の行き先は、新幹線を乗り継ぐか飛行機でしか行けない場所で、悠生にとっては、もう二度と会えないに等しかった。


「まだ、皆んなには内緒、ね? 頼む。受験とかあるだろ。先生にも終わるまでは、言わないにしといてって言ってあるし」

「言わねーよ」

 ってか、言えねぇよ。

 

 失恋だ。

 いや、失恋をするなら今しかない。

 だって、そうだろう。

 でも……。

 地獄の蓋が開いて極彩色を覗かせている。

 

「なあ、ハサミ持ってる?」 

「え? 教卓にあるんじゃない?」


 悠生は黒板の前、教卓の中を覗きハサミを取って礼央のところへ引き返す。


「これ、ここんとこで切って」


 ハサミと自分の手首を、礼央に向かって突き出した。

 躊躇を見せる礼央に「良いから。大丈夫だって」と、もう一度、腕を突き出す。


 礼央の指先が、悠生の手首に触れる。

 そっと、くすぐったいくらいに。

 ああ、今、触られている、好きな人に。

 胸が苦しくて、泣き出しそうになる。

 出来るなら、悠生も礼央を触りたい。

 ハサミの刃の、冷たい金属が悠生の熱を覚ます。

 音を立てて、切れたのは手首にあった紐。

 それはつまり、悠生の恋心を結んでつないでいた緒を、切ったのに等しい。


「やるよ、礼央の願いが叶うように」


 手が震えないように、礼央の手首を掴む。

 触れた。

 ずっと、触りたかった。

 悠生より細い、礼央の、手首。

 その手のひらに、ぽとん、と乗せたのは伝えることの叶わない自分の想い。


「でも……」

「足首にでも、つけとけば? 見えないし。何かにすがりたくなる願いなんて、誰にも言えないもんだし、願いなんてのは普段忘れていて、見えないほうが良いんだよ」

「……どんな、願いでも良いのかな」

「それが本気なら、良いんじゃないの」

「叶うかな?」

「叶うよ」

「やけに自信たっぷりじゃん」


 笑った礼央を見て、悠生も笑い返す。

 言うなら、今だった。

 好き、だと。

 でも、分かる。

 言えないのも今、だから。


「じゃあ、小鳥遊の願いは、叶ったの?」

「あー、うん……叶ったかな」

「なんだよ、微妙だな」

「いいんだよ、そこは微妙で」


 

 ただ悠生は、忘れないでおこう、と思う。


 どんなことがあっても。

 とはいえ、これから、どんなことがあるのかは、悠生はもちろん誰にも分からない。苦しくて、泣くこともあるだろう。嬉しいことも、楽しいことだってあるだろう。いつか誰かに、好きだ、と言える日が来ることも、あるだろう。


 それでも、ずっと。


 恋とは、何だろう。

 と、問いかけながら思い出すのだ。

 今日の、この日を。

 

 






《了》

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