△▼△▼重い空△▼△▼

異端者

『重い空』本文

 今日も、疲れる一日になりそうだ。

 朝起きてすぐ、八島英輔はそう思った。

 マンションの一室で起きるとすぐに顔を洗い、簡単な食事を済ますと仕事に出る。

 いつもの基本的なルーチン。泣くこともなければ笑うこともない一日が始まる。

 電車は込んでいた。皆マスクを付けているが、できることならもう休みたいという思いがひしひしと感じられる。

 ――やっぱり、働きすぎだよなあ。

 彼はぼんやりとそう思った。

 自分は働くために生きているのではなく、生きるために働いている。要するに、他に生活する手段があればなんでもいいし、働く必要もない。それなのに、いつの間にか手段と目的がごっちゃになって、働くことに生きる意義を見出しつつある。

 これは病気だろうか……鬱ならば病院でしかるべき治療を受ける方が良いのかもしれないが、あいにくそんな時間はない。それなのに、するべき仕事はたくさんある。

 電車が桜の木の脇を通過した。花はとうに終わり、若々しい新緑の葉が付いている。

 そういえば、今年もまともに桜の花を見ることがなかった。見たのはこうして電車で傍を通過する時だけだった。休みの日に買い物ついでにでも足を延ばせばじっくり見られたのかもしれないが、そんな気力はなかった。

 電車が所定の駅に着いて、そこから徒歩十五分程度。会社の事務所に入ると「おはようございます」と型通りの挨拶をする。返事はない。自分の席に着く。

 デスクには書類の山。IT化が進めば紙の書類が少なくなると言ったのはどこの馬鹿だろう。結局こうしてプリントアウトするのだから無駄紙を使うことになるのに。

 彼はPCの電源を入れながら置かれた書類に目を通していく。どれもこれも、手間が増えることばかりだ。効率化も何もあったものじゃない。

 かといって、その状況に怒っている訳ではなかった。怒りを通り越して諦め――いや、もはや何も感情がこもっていないに等しい。

 彼はPCが起動したのを確認すると仕事を始めた。


 午後十時、ようやく一区切り付いたので帰ることにした。

 あくまで「一区切り」であって、完了ではない。明日になれば、その続きをしなければならない。

 彼は胃が締め付けられるような気がしたが、それは空腹のせいだと思いたかった。

 外に出ると、星がよく見えていた。

 だが、彼の心は晴れない。

 空がどんよりとのしかかってくる気がした。

 電車から降りてマンションまでの短い距離を歩く。途中で、少女がうずくまっているのに気付いた。

 こんな時間に、女の子が? ぱっと見高校生ぐらいだろうか? 向こうを向いているので顔は見えない。

 まあ、それなりの事情があるのだろう――そう思って、脇を通り抜けようとした時だった。

「あの……」

 か細い声がして、少女がこちらを見上げていた。

 綺麗だ――それが最初に感じたことだった。整ったその顔立ちは西洋人形のようで、どこか非人間的な美しさを感じさせる。

「何か用かい?」

 彼はなるべく優しく言った。

「あの……泊めてもらえませんか? 他にもう、行く所が無くて……」

 少女は不安げにそう言った。

 事情を聞くと、突然に家を飛び出してきて行く当てもお金も無いのだという。

 家出少女……警察に知らせるべきかと、彼は迷った。

「お願いです……ほんの数日でいいんです! 家には帰りたくないんです!」

 少女の瞳が潤んでいる。

 彼はその目を見ていると、そんな考えはどこかに吹き飛んでしまった。

「分かったよ。どうせ独り暮らしだし、少しの間でいいなら」

 彼がそう言うと、彼女は付いてきた。


「わあ……」

 彼の部屋に着いてすぐに、エミはそう声を上げた。

 エミ……それが彼女の名らしかった。ここまでに来る間に八島は自己紹介したが、エミは名前以外には自分のことは言おうとしなかった。

 その代わり「警察には言わないで」「家族に知られたくない」と繰り返し言った。

「散らかってますね」

「まあ……男の独り暮らしだからね。それに仕事が忙しくて、掃除する暇も滅多にないんだ」

 彼は少し恥ずかしそうに言った。確かに女性を入れるような部屋ではない。

「じゃあ、私が掃除しますね。でも、食事が先かな?」

「あ、ああ……インスタントと冷凍食品ぐらいしかないけど」

「確かに、これじゃあ簡単な物しか作れませんね」

 彼女は冷蔵庫の中を確認しながら言った。

「そういえば、作ってくれるのか?」

「もちろんです。住まわせていただくからには、それぐらいは……」

 彼は少し嬉しくなった。少なくとも、彼自身が作るよりはまともな物が出てくるだろう、と。

 こうして、エミとの共同生活が始まった。


 あれから、一月が経った。新緑は緑を増し、夏を思わせる色となった。

 エミは数日と言いながらも、まだ彼の部屋に居た。彼自身も、それを悪くは思っていなかった。エミはほんの初めの頃こそ敬語だったが、気を遣わなくていいと言うとすぐにやめてくれたので気が楽だった。

 エミは「自分のことを誰にも言わない」ことを条件に家事をしてくれた。

 正直、これは彼にとっては非常にありがたかった。仕事が忙しくて家事に手が回らないのが理由だが、それ以上の理由もあった。

 彼自身、エミに惹かれていた。今はもう独りではない。帰れば愛らしいエミが居る。そう思うだけで、日々の疲れが軽くなる気がした。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

「ただいま」

「お帰り」

 そんな毎日の何気ないやり取りでも、生きているという実感を伴っていた。

 社内での彼の評判も良くなった。精神的に余裕ができてこれまで以上に働くようになったからだが、皆がその理由を知りたがった。

 もっとも、それを話すことは一切なかったが。

 美しい、誰も知らない自分だけの少女――これはロリコンではないかと思わなくもなかったが、そんな考えすらどうでもよくなってしまう魅力が少女にはあった。

 容姿が良いだけでなく、性格も繊細で優しく、料理や掃除も上手だった。

 ただ、逆にそうだから気になることがあった。エミは何者なのか……これだけ非の打ち所のない少女が、なぜ家出などしなくてはならなかったのか。

 時折、エミにそのことを聞いてみるのだが「言えない」というそっけない返事が返ってくるだけだった。それでも聞き出そうとすると、普段しないような厳しい表情で「それ以上、聞かないで!」ときつく言われるのだった。

 きっと、他人には言えないような辛い事情でもあるのだろう――彼はそう察して、聞くのをやめることにした。

 それに素性など知れなくとも、今では彼女のことを信頼しきっていた。

 家事や身の回りのことに必要な物を買い与えるのに、彼は最初のうちは現金を渡していたが、今では銀行のカードの場所と暗証番号を告げてあった。

 それでもたまに記帳すると大金が引き出されていた……ということもなく、ごく普通の減り方で大半は口座に残ったままだった。

 もっとも、最初のうちは困ったこともあった。

 彼の部屋には、ベッドが一つしかなかった。彼女は「八島さんがその気なら……いいよ」と悪戯っぽく笑って一緒のベッドで寝ていたが、彼の方が誘惑に負けてしまいそうに感じて慌ててリサイクルショップで折り畳み式のベッドを買ってきて彼がそれを使った。

 確かに彼女に惹かれていたが、大人としての最低限の節度は守る気だった。

 今では、互いに落ち着いて仲良く暮らしている。

 誰にも言えない秘密のパートナー……そんな関係を楽しんでいる彼が居た。


 ある晩、彼は妙な息苦しさを感じて目を覚ました。

 首の所に締め付けられる感触があって、慌てて手をやるとヒモ状の物が巻き付けられていることに気付いた。

「あ~あ、気が付いちゃった。寝てれば楽に死ねたのに」

 頭の上からエミの声がした。

 彼はヒモ状の物を振り払うとベッドの脇に立ち上がってそちらを向いた。

 まだ、片手でヒモを手にしたエミが暗闇の中で笑っていた。

「エミ、君は何なんだ!?」

「知る必要は無いわ。こちらはあなたから欲しい物は全部もらったから……」

 満面の笑み。かすかな明かりの中それは不気味に映った。

 彼女は傍のテーブルに置いてあった包丁を手に取った。

「これすると服が汚れちゃうから嫌いなんだけど……まあ、仕方ないよね」

 包丁を彼に向ける。

「最初からこれが目的だったのか!?」

「ええ、そう。やっぱり最期だから教えてあげる。私はずっと、こうやって生きてきた。親に捨てられてから……学校なんて行ったこともないし、ずっとこうしてあなたみたいなお人よしを騙して生きてきた」

 彼は彼女を不憫に思った。自分が殺されそうになっているにも関わらずに。

「でも――」

 そこで彼女はおかしそうに笑った。その時だけ、一瞬だが以前の彼女に戻った気がした。

「あなたって、随分紳士なのね。泊まったその晩に手を出してきた男も居たのに……さ、話はお終い」

 包丁を手にした彼女が突っ込んでくる。彼はよけなかった。

「……す…………」

 ――好きだ。

 彼の声にならない声が彼女の耳には届いた。

「どうして? どうしてよけなかったの? 私だって、もう――」

 ――もうこんなこと終わりにしたかったのに。

 彼が暗闇の中崩れ落ちる時に、彼女の目に涙が浮かんだ。

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