第4話
部室の扉を開けると、そこにはいつものように先輩がノートパソコンを開いて座っていた。
扉を閉めれば、いつものように二人きり。
「よ、おつかれ」
「おつかれさまです」
軽い挨拶を交わして、私は先輩の向かい側の席につく。
今日はどこもかしこも騒がしかった。まるで学校中の音量が二段階上げられたかのようで、週初めとは思えないほど男子も女子も沸き立っている。
「ここは静かですね」
「常に存続の危機に晒されてる部活だからな」
「誇らないでくださいよ」
「誇れよ。それだけ物語を紡げる人間がいないんだ」
かたかたと先輩がキーボードを叩く音が聞こえる。なんだか落ち着く音だ。
今更ながら、私は心の底から文芸部員になってしまったんだと思う。
「私、文芸部に入ってよかったです」
そう呟くと、キーボードを叩く音が止まった。
「なんだいきなり。え、うそ、もしかして退部? いやちょっと待ってくれ頼む」
「必死すぎでしょ」
先走った彼の慌てぶりに私は笑いながら「そうじゃないです」と首を振る。
「私は本を読むのが好きでした。でも文芸部に入って、本を書くのも好きになった。そしたら放課後の時間も好きになって、部室のドアを開けるのが毎日の楽しみになってたんです」
一度、言葉を切る。暖房の稼働する音が聞こえた。
「文芸部に入ってから私の好きなものは増えてく一方ですよ、先輩」
私は鞄の中から包みを取り出す。机越しにそれを差し出すと、先輩は一瞬戸惑ったものの手を伸ばして受け取った。
「これって」
「チョコレートです。バレンタインですから」
「まさか佐東さんにチョコもらえるとは思わなかったな」
「稀代の天才のおかげですね」
「これカカオ何パーセント?」
「そんなの」
先輩の目を見る。その目には私が映っていた。
「自分で確かめてみればいいじゃないですか」
一瞬迷った風だった先輩は、自分の手元に目を向けた。そして手の中の包み紙を丁寧に開ける。
「いただきます」
半分ほど姿を現したチョコレートを先輩はパキリと指で折った。そして口に放り込む。それを目で追いながら、私はほんの少しだけ後悔した。
「――にがっ!」
チョコを噛んだ先輩の顔が歪む。私は薄く笑った。
「99パーセントですからね」
「なんでだよ。それカカオだろ」
「チョコですよ」
「僕は断じて認めないぞ」
今にも泣きそうな表情の先輩は、口の中で私のチョコを溶かしながら食べている。その手にある茶色の包み紙が小さく音を立てた。
「うう、にがい。にがいしかない」
「おかしいですね。砂糖も入れたんですが」
「わかってやってんだろ」
「まあまあいいじゃないですか」
こちらを恨めしい目で睨む先輩を見る。
そして、思っていたよりも淀みなく台詞は続けられた。
「本当に美味しいチョコは双葉先輩がくれるでしょう?」
私は笑顔を見せる。今さら傷ついたりなんかしない。
あの甘ったるい気持ちはもう全部溶かしてしまったから。
「まあそうだけどさ。……あ、やばい。そろそろ出なきゃ」
彼は一度時計を見てから、その顔をこちらに向けた。申し訳なさそうに垂れた目で、何を言いたいのかわかる。
「いいですよ先輩。行ってください。今日だけ部室は私が閉めておくので」
「え、いいの?」
「はい。私も今書いてる作品進めたいですし」
「……そっか。うん、じゃあ頼んだ。終わったら職員室に鍵返しといて」
先生には言っとくから、と先輩はノートパソコンを閉じた。紺色のコートを中途半端に羽織って、ばたばたと帰り支度を始める。
「ああ、そうだ」
扉を開けて部室を出ていく直前、先輩はこちらを振り返った。そして私と目を合わせたかと思うと、右手に持った真っ黒なチョコレートを目の高さに掲げる。
「ありがとう」
柔らかい声と笑みを残して、扉が閉まる。慌てるような足音が遠ざかっていき、部室はまた静寂を取り戻した。
ひとりきりだ。私は開けたままだった鞄に手を差し込む。
「……なんで、だって」
先輩の言葉を小さく反芻した。
私は先輩のことをよく知ってる。こんなチョコレートじゃ何も伝わらないこともわかっていた。わかっていて、それを選んだ。
なんで。
「そんなの決まってるじゃないですか」
先輩の歪んだ表情を思い出す。彼はあのチョコレートを全部食べてくれるだろうか。もしかするとこっそり捨てられてしまうかもしれない。
たとえ残さず食べてくれたとしても、そこに1パーセントだけ混ぜ込んだ想いは、きっと彼には気付かれないまま消化されていくのだろう。
でもそれでいい。溶けて届くな、私の心。
あの二人が私のことを大事な後輩だと言ってくれたように。
「私にとっても、大事な先輩ですから」
鞄から華やかな包み紙を取り出す。
可愛らしいラッピングを乱雑に破り、不純物だらけのハートを齧った。
「……あま」
口いっぱいに広がる甘さが歯に沁みて、私はひとつ鼻を啜る。
静かな部室に響く音を掻き消すように古めかしい暖房が稼働した。
(了)
1%のシュガーレター 池田春哉 @ikedaharukana
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