グランドフィナーレ

青空野光

カーテンコール

「これ、さすがに少し飽きてきたね」

「そう? 私はまだ全然だけど。カレー味にハンバーグ味、それにこのバニラアイス味なんて本物よりも美味しくない?」


 僕たちを乗せた宇宙船が地球を離れ、気がつくともう三年もの月日が流れていた。

 冷凍区画内に所狭しと詰め込まれていた食材を半年前に食べ尽くして以来、常温で百年近くも保存の利くチューブ入りの宇宙食を一日二食のペースで摂っていたのだが、食事というにはあまりに無味乾燥なその摂取方法に、僕は飽き飽きしていた。

 地面の上に居た頃には考えたこともなかったが、人間の味覚というものは舌で感じ取るのと同じかそれ以上に、視覚や雰囲気にも影響を受けるということを初めて知ったのだった。

「たしかに味だけなら高級ホテルのディナーに匹敵するものはあるんだけどね」

 銀色のチューブをチューチューと吸いながら愚痴をこぼす。

「でも、ほら」

 やはりチューブを咥えながら、宇宙船の小さな窓の方へと目をやる彼女の視線の先を辿る。

 そこには六〇センチメートルの大きさに切り取られた丸い額縁があり、分厚い溶融ようゆうシリカガラスのその向こう側には、様々な形や色をした幾百幾千もの銀河団が真っ暗な宇宙空間に浮かんでいた。

 その広さはといえば、恐らくは数MPCメガパーセクは下らないだろう。

「どう? 都心の夜景なんて目じゃないでしょ?」

「まあ……たしかにね」

 僕は窓の外に目を向けたまま返事をすると、もう二度と戻ることのない青い星へと思いを馳せた。



 僕たちが大学に入学したその翌年、海を挟んだ隣の国で小さな紛争が起った。

 それは僕からしてみれば、まるで冷蔵庫の中にある残り物のプリンを兄弟で取り合っているような、そんな取るに足らない些細なことのようにすら感じていた。

 しかし、やがてその兄弟喧嘩は周囲の国々にまで伝播し、ついには世界の陸と海の半分以上までをも巻き込んだ大きな戦争へと発展した。

 各国は生き残りを掛けた消耗戦の末に、地表のほとんど全てを焦土にした挙げ句、多くの国や文明や命を消し去り、ようやく終結した。

 ほんの僅かに残った人類に残されていた道は、自分がその日を生き延びる為に他人を傷つけるか、自らの意思でその不毛な一生に終止符ピリオドを打つかのいずれかだった。

 だがあの日、僕と彼女だけは本来ならば存在し得ない、第三の選択を選ぶことが出来た。

 それは本当に、ただの偶然でしかなかったのだが。


 ◇


 家族や友人どころか住処すみかまでをも失くした僕は、灰色の瓦礫の只中を行くあてもなく、ただひたすらに歩き続けていた。

 生まれてから二十年近く住んだ町は、どこもかしこもすっかりと変わってしまっており、ほとんどの場所では往時の面影を感じることも出来ない。

 日暮れを前にして辿り着いたゴールは、やはりすっかりと見る影も無くなっていた大学のキャンパスであった。

 その入口近くにある枯れた噴水の縁に腰を下ろすと、何をするわけでもなくただ、黒く厚い雲に覆われた空に目を向ける。


 いったい何時間くらいそんなことをしていただろうか。

 その時の僕にはもはや、立ち上がる気力すら残っていなかった。

 誰に迷惑を掛けるというわけでもないのだし、いっその事もうこのままここで横たわってしまおうか?

 割りと真剣にそんなことを考えていた、その時だった。

 通りに面した正門から歩いてくる人影が視界の隅に見え、とっさに身構えながらそちらの方向に首を振る。

 先方はといえば、黒く長い髪を大きく揺らしながら、まるで徒競走でもしているかのような勢いでズンズンとこちらに迫ってくるではないか。

 夕闇で顔こそ見えないが、その姿容からして若い女性だろうか。

 だが、法も良識も何も無くなってしまったこの世界において、いまや他人という存在自体が恐怖の対象でしかない。

 それにもし叶うのであれば、僕は誰かをこれ以上傷つけたくなかったし、誰かにこれ以上傷つけられるのもごめんだった。

 急いでその場をあとにしようと、グーのカタチに握った手を胸の少し下のあたりに持ち上げ駆け出す。

「すいません! あの……! ここの学生さんですよね!」

 背後からふいに浴びせかけられたか細いその声は、まるで今にも泣き出してしまいそうなほどに震えていた。

 それよりも何よりも、『学生さん』などと呼ばれたのは一体いつ以来のことだったろう?

 こちらに敵意がないことを示すためグーにしていた手をパーにすると、体ごとゆっくり振り向きながら返事をした。

「……はい。確かに僕は以前、この学校の学生でした」


 人と会話をしたのは何ヶ月振りだろうか。

 そのせいでうまく声が出ないのがもどかしかった。

「僕も君と同じで、別にどこに向かうわけでもなく町を歩いていたら、そうしたらここに着いて」

「大学生活、楽しかったですもんね……」

 彼女は悲しそうにそう言うと、カラカラに乾きひび割れた地面に目を落とす。

「何度か同じ講義に来ていたのを見たことがあったけど、こうして話したのは初めてだね」

「ええ。私は一番前の席で、あなたはいつも一番うしろの方だったし」

「あ、認識してくれてはいたんだ?」

「だってあなた、講義中にいっつも大きな声を出して欠伸をしてたでしょ? それに教授にもよく怒られてたし」

「ああ。その節はご迷惑をお掛けして」

「ふふっ。どういたしまして」

 本当のことをいえば、僕は彼女の名前を知っていた。

 だが、彼女は僕の名前を知ってはいないだろう。

 それでも僕たちは名乗り合うことをしなかった。

 それは今更そんなことをしても無意味だと、互いによく知っていたから。

 けれども僕たちは、まるで旧知の友人のように多くのことを話した。

 喋りながら、かつて大学の構内だった瓦礫の間をそぞろ歩いた。


 どのくらいの時間と距離とを歩いただろうか。

 やがて元いた噴水の場所まで戻ってくると、すっかりと瓦礫と化した校舎の影から何者かが飛び出してくるのが見えた。

 突然の出来事に大いに驚いた僕たちは、まるでカエルかウサギのように揃って三〇センチ程も飛び上がってしまったのだが、その人物の顔を確認した途端、更に驚きの声まで上げてしまった。

「……先生?」

 すっかりと薄くなってしまった頭髪と、それに反比例するかのように伸び放題になったヒゲの奥に見える顔は、間違いなく僕と彼女が講義を受けていた教授、その人だった。

「君たちは確か……。生き延びてくれていたのだね」

 力なくそう言い放った教授に返答をしようと口を開きかけた、その時。

 遠くから一台の軍用車両が盛大に砂ぼこりを上げながら近づいてくる。

 国軍が壊滅してしまっている今の時代、あの車に搭乗しているのは僕たちにとって好ましくない人物であることはほぼ間違い。

「こっちに! 早く!」

 建物の影で手招きをする先生に従い、半分壊れたアルミ製の扉をくぐる。

 そして暗くて急な階段を、地の底へと向かい降りていく。


 まるで地獄にでも続いているかのように思われた長い階段を下りきると、そこにはテニスコート二面分もの広い空間が存在していた。

 その中心には五階建てのビル程もあるような、巨大なロケットがそびえ立っていた。

「先生、これは?」

「恒星間宇宙船だよ」

「宇宙船?」

 彼は腰に手を当てて宇宙船を見上げながら、何故このようなものがここにあるのかを説明してくれた。

「私が航空宇宙工学の教鞭を取っていたのは知っているだろう?」

 それは当然であった。

 だから僕はこの大学を進学先に選んだのであり、きっとそれは彼女も同じだったはずだ。

「この宇宙船は私が政府からの依頼で急ごしらえで作ったものだ。その目的は政府要人を宇宙空間へと逃がすためだったのだが、彼等はもう――」

 某国から発射されたミサイルが首都を直撃し、この国の政治機能が完全に停止したのは半年程前のことだった。

「このロケットは上限である二十人が搭乗しても十年は生存出来るだけの食料と水、それに酸素と燃料が積まれており、今すぐにでも打ち上げることが可能だ」

「……」

「私はここでこの半年間、この場所に訪れる人間を待っていた。そこに初めてやって来たのが君たち二人なんだ」

 今この町に一体どれだけの人間がいるのかはわからなかったが、その多くは地下に広がる下水やインフラ用の洞道どうどうに身を潜めているだろうから、こんなうらぶれた場所にやってくる人間など今日の今日までいなかったのだろう。

「それで、だ。君たち二人にお願いがあるのだが」

「なんでしょうか?」

「これに乗って宇宙に旅立ってくれないか」

「え? 宇宙に? これで?」

「ああ。人類の歴史は恐らくあと……あと、数ヶ月ほどで終焉を迎える。戦禍によって太陽の光が届かなくなったこの地表で我々ヒトが生きていくことは、もう叶わぬ願いなのだろうね」

 そのことは僕も薄々気づいてはいた。

 陽の光などはもう、何ヶ月ものあいだ目にしていなかった。

「宇宙に逃げ延びたところで、やがて終わりが訪れるのは間違いない。ただ、それでも私たち人類は一日でも長く、その歴史を刻み続けなければいけない。あがき続けなければならない」

「……それは何故ですか?」

「この青い星で唯一知を得た生物われわれの責任だよ」


 僕には先生が何を言っているのか全く理解出来なかった。

 ただ、僕の横で真剣な眼差しで話に耳を傾けていた彼女はそうではなかったらしい。

「わかりました。都筑つづきくんもいいよね? だから先生も――」

 そういった彼女の顔を、先生はさみしげな笑顔で見返す。

「すまないが、私にはもう少しだけこの惑星ほしでやりたいことがあってね」

「先生……」

「操船は授業で習ったはずだからわかるね?」

「……はい。大丈夫だと思います」

「では、行きたまえ。この星の全ての記憶を君たちふたりに託すよ」

「……はい! 行ってきます!」

 

 ◇


「ねえねえ! 外見て!」

「……ん?」

 彼女の嬉々とした声で現実へと引き戻された僕は、促されるままに窓の外に目を向ける。

 そこには言葉ではうまく説明出来ない程に美しく、そして血のように真っ赤な大輪の花が咲き誇っていた。

 強いて言うのであれば、それはまるで真夏の夜空に浮かんだ打ち上げ花火のようだった。

 恐らく超新星爆発によって生成された巨大な残骸パルサーであり、それは即ちひとつの恒星系の終焉した姿でもあった。

「すごく綺麗だけど、なんなのかな?」

 彼女の瞳に映るステンドグラスのような光を見つめながら、僕は両手のひらを口の横にあてて叫ぶ。

「たーまやー!」

「あ、やっぱり花火みたいに見えるよね? か~ぎや~!」

 向日葵のような笑顔を咲かせ無邪気に声を張り上げる彼女の横顔を眺めながら、僕は再びあの、幸せだった大学生活を思い出していた。


 ◇


 大学に入学したばかりの、あれは確か五月の連休が終わった頃のことだったはずだ。

 出なければいけない講義に遅刻ギリギリで駆けつけた僕は、最前列の席でタブレット端末の準備をしていた彼女の横顔を目にし、教室の後ろにある出入り口で金縛りにでもあったかのように動きを止めてしまった。

 多分、呼吸も止まっていたのではないだろうか?

 ともかくそれは、所謂ところの一目惚れというやつだった。

 それからというもの僕は、彼女の姿を見るためだけに出なくてもいい講義にまで参加するようになった。

 彼女はいつも最前列で、僕はいつも一番後ろの席。

 わざと大きな声をあげて欠伸をしたりもした。

 何事かと振り返った彼女の顔を見たいがためだけに。

 それはどこにでもあるような片思いであったのだが、今となってしまえば誰かに相談したくてもすることなど出来ない。

 もちろん、彼女本人にもだ。


 この宇宙船は最新型の動力装置リアクターにより、亜光速で宇宙の闇の中を進んでいる。

 アインシュタインの相対論の正しさは今更疑う余地もないので、僕たちの周りに流れている時間は地球上でのそれよりも遥かに遅くなっているはずだ。

 だとすればもう、あの愛すべき青い惑星ほしに残された全ての生命たちは――。

 僕たちのように宇宙空間に逃れた人類がどれだけいるのかはわからない。

 だが何れにせよ、その最後の一人が生という名の物語を終えた瞬間、宇宙史の中のほんの一行にも満たないような、地球の長く短い歴史はグランドフィナーレを迎えるのだろう。

 ただ、それでも僕たちは舞台に幕が完全に降りきるまで、この無限に広がる星の海の中をずっと進み続ける。

 少しでも長く。

 そして、少しでも遠くへと。


「ねえ、都筑くん。しりとりしない?」

「えー、また?」

「いいでしょ? じゃあ、私からね! えーっと……ホタル!」

「って、いきなり『る』から?」

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グランドフィナーレ 青空野光 @aozorano

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