貴方の髪を解くとき

 それは、僕が七つになる年のことだった。

 ひぐらしの鳴き声に涼しさを覚え始める儚き晩夏に、僕はそのと出会ったのだ。


『ねぇ、君。大丈夫?』


 寂れたおやしろの中で一人、大粒の涙を零していた僕は、突然降り注いだ声音に驚いて顔を上げた。


 視線の先には、腐りかけて傾いた観音扉が立ち塞がっているはずだった。しかし、それは何者かによって開け放たれており、山中を吹き抜けるぬるい風が僕の顔を撫でる。


 風と共にとびこんできた夕焼けの色と、竹林の葉々のざわめきが大層不気味に思えたのを、今でもよく覚えている。


『こんな所に人の子がくるとは……。珍しいものだ』


 固く閉じた扉を開けたであろう者が、再び僕に言葉の雨を降らせる。

 その正体を見定めようと、潤むまなこがぼんやりと映し出したのは、何色も寄せ付けぬほどの白。


 それが、がまとった衣だと気づいたのは、一対の翠玉の瞳と視線が絡んだからだった。


 夜空を切り取ったかのように黒く長い髪は、男とも女ともつかぬ、そのの中性的な容貌をより強調している。


『大丈夫、ではなさそうだね……』


 琴を爪弾いたような清廉な声を紡ぐ薄紅色の唇は、ほんの少しだけ引き結ばれていた。

 僕のみすぼらしい格好を哀れに思ったのかもしれない。


 清潔とは言い難い、薄汚れてほつれの目立つ衣。丸みを帯びた幼い顔は、すすほこりで肌の色が隠されていた。

 無造作に伸びた髪は、脂で何本かの束になっていて、襤褸ぼろの塊のようだ。目の前にいる人物のそれと比べるのですら、おこがましい程であった。


 しかし、そのは自身の衣が埃で汚れるのも気にせず、腐敗して崩れかけた床に跪いて目線を僕に合わせる。


『ぼうや。一体こんなところでどうしたんだ? 親はどうした?』


 そっと差し出された指が、僕の目の縁に溜まった白露を取り上げる。

 しかしそれでもなお、それは僕の目を溶かす程の勢いで溢れ続け、止まることを知らない。


 目の前にいるは、何も言わない幼子を問い詰めるでもなく、ただまなじりを垂らして、僕の瞳から静かに雫を拭い続けていた。

 

 体内全ての水を涙に変えてしまったのではないかという程、さめざめと泣き続けた僕は、しゃくりあげながらもようやく口を開く。


『……っ、あなたは……、神さま、ですか……っ……?』


 切れ切れに問いかけた言葉に、目の前のはぴたりと指の動きを止めた。


『……どうして、そう思うんだい?』


 すんすんと鼻をすすりつつ、僕は知っていることを精一杯伝えることにする。


『ここに……叔母さまに連れてこられる前にね……っ……、んだって言われたの……。だから、神さまが……、僕をむかえにきてくれたのかなって

……』

 

 恐らく、明後日の方向を向いていたであろう僕の考えに、そのは口元を歪め、何故か酷く傷付いた顔をした。


 しかし、それに気遣えるほど、当時の僕の精神はできあがっていなかった。己の身の安全だけが気になり、必死で目の前のに言い募る。


『あなたは神さまじゃ、ないですか……? もし、神さまが迎えに来てくれなかったらどうしよう……。僕、ずっとここで一人でくらすのかな……?』


 白き衣を纏ったの肩越しに見えた夕闇に、僕の恐怖心はますます掻き立てられる。

 迫り来る闇夜に一人、飲み込まれてしまいそうで、僕は思わず瞼を固く閉じて唇を噛んだ。


 すると、これまで静かに幼子の訴えに耳を傾けていたが、ぽつりと呟いた。


『……ぼうや。もし行く宛がないのなら、私のところに来るかい?』


 突然の申し出に、閉じた眼の隙間から零れ落ちそうになっていた雫の動きがぴたりと止まる。


 その真意を探ろうと、僕は瞼をどうにか押し上げて、自身を見下ろす一対の瞳の奥を恐る恐る覗き見た。しかし、翠玉色の瞳の中には、欺瞞ぎまんや偽りは一筋も混ざっていない。

 ただ、心配と慈愛に満ちた色が、神秘的な翠をより深めているように見えた。

 

 僕が身動ぎ一つしないことから、どうやら猜疑心に囚われていると思ったらしい。そのは、僕を安心させるように自らの頬を穏やかに緩ませると、細い人差し指を立てて提案する。


『そうだな。君が大人になるまででいい。私の従者として、私のそばにいてくれないか?

 君が大人になったその時は、祝いに一つ、願いをなんでも叶えてあげよう』


“願いを何でも叶えてあげる”。


 その言葉に、僕の胸には一抹の懐かしさと、失ったはずの温もりが宿る。

 温もりは、やがて僕の記憶の扉を優しく叩くと、扉の向こうからは愛しい面影たちが顔を覗かせた。


“お前は大事な大事な、私たちの子。お前の望むことは、なんだって叶えてやりたい。父さまは、いつもそう思っているよ”。

“そうね。貴方のためなら、母さま、何でも叶えてあげたくなっちゃうな”。


 自身に大切に注がれ続ける愛情が、どうして当たり前で永遠のものだと思っていたのだろう。


 失って間もないそれを再び取り戻したい一心で、幼い僕は見知らぬそのの言葉に幻想の希望を見たのだ。


 睫毛に透明な雫を一粒乗せたまま、僕は目の前にいるに縋り付くようにして問うた。


『お願い……? 何でも叶えてくれるの?』

『勿論。例えば君が大人になった時、私の従者を辞めたいと思ったら、“辞めたい”と願うのもありだ。それ以外に、その時に叶えたい願いがあるならば、それを口にしても良い』


 本来であれば、触ることすら厭うであろうはずの汚らしい僕の頭を、そのはゆっくりと撫でてくれる。

 そのの白く柔らかな手の感触は、冷えた僕の心をゆっくりと包みこんだ。

 だからこそだろう。渇きに喘いでいた心に突き動かされるようにして、幼く強欲な僕は、そのの袖を緩く引いた。


『お願いごと……今じゃ、ダメ……?』

『今? 何か叶えて欲しいことがあるのか?』


 未だしゃくりあげながらも伺いを立てる僕に、そのは嫌な顔一つせず、たおやかに返答する。

 僕は暫し舌の上で願いごとを転がすと、やがて消え入りそうな声音を絞り出した。


『あのね……。ぎゅってして欲しい……』


 この時の願いは、僕の中では最上級の願いだった。何でも叶えてくれると聞いた時、いの一番に思いつくほどに。


 僕の願いを聞いたそのは、驚いたように目を大きく見開く。


 しかし、それも一瞬のことで。


 やがてそのは、秋の稲穂のように優しく目尻を緩め、翠玉の双眸に慈しみの煌めきを走らせる。

 そして、自らの両腕をゆっくりと差し出して言ったのだった。


『……お易い御用だ。ほら、おいで』


 開かれた目の前の懐に僕は小さく唾を飲み込むと、勢い良く飛び込んだ。

 それに応えるようにして、差し出されていた白きかいなは僕の小さな背を包み込む。


『えへへ……。あったかい……』


 艷めく絹糸が幾重にも織られているであろう上等な衣からは、涼やかな甘い花の香りがした。

 身体の力を抜いて、それに身を任せてしまおうと頬を寄せた時、僕はハッと我に返って身を離そうとする。自身の身にまとわりつく穢れが、目の前のの美しさを汚してしまうと思ったからだ。


 あまりにも今更な気遣いだったが。

 

 しかしそれを否定するかのように、僕の背に回っていた両の腕はよりきつく、僕の身体を懐に引き寄せた。


『良いかい。君は、愛されて生きるべき子だ。人に抱きしめて貰うのも、わざわざ願うことじゃない。幼子が皆、生まれ持っている当然の権利だ。大人の腕に抱かれて守られるのは、当たり前のことなんだよ』

『けんり……?』

『君には、まだ難しかったかな』


 目の前のが紡ぐ言葉を頭の中でほどくのには、当時の僕には少し難易度が高かった。


『もう、ぎゅってしてってお願いしちゃダメってこと……?』


 自身の肩口にある花のかんばせに視線を投げかけながら、僕は恐る恐るといった様子で答えを聞いた。

 すると、そのは小さく息を漏らすように笑いながら、やはり僕の頭を胸元に再び引き寄せて答えたのだった。


『いいや。わざわざお願いしなくても、私がいつでも君をぎゅっと抱きしめてあげるってことさ』


 この日、陽翠様が僕に与えて下さった温もりを、僕は生涯忘れることは無いだろう。


 全ては、陽翠様僕の神様のために。


 そう決意した日から十数年後。

 主への敬愛、崇拝という純粋な感情は、やがて緩やかに形を変えて、別の花を咲かせることとなる。

 

 この時の幼い僕は、それを知る由もなかった。



◆◆◆



 陽翠様の様子がおかしい。

 それを確信したのは、つい今しがたのことだ。


「陽翠様。髪結いが終わりました」

「……」

「陽翠様?」

「……! あ、あぁ。すまない、暁月。ありがとう……」


 鏡に映る陽翠様は、いつものように微笑を口元に宿していらしたが、僕と視線が絡むことは無かった。

 なぜなら、その翠玉の双眸はそわそわと落ち着かず、上へ下へと行ったり来たりを繰り返していたからだ。まるで、意図的に僕を視界に入れまいとしているようだった。


 様子がおかしいと言えるのは、それだけではない。

 普段は凛とした佇まいが美しい我が主が、近頃虚ろな瞳で宙を見据えることが多くなった。とどのつまり、上の空というやつである。


 そのせいか、何も無いところでつまずいて廊下に転倒したり、こうして髪結いの時に声をかけても、反応が返って来ないといったことが増えたのだ。

 

(いつからだろうか。陽翠様の様子がお変わりになられたのは。ここ一月ひとつきの間だっただろうか……?)


 僕は手にした金の櫛と香油を化粧箱に仕舞いながら、ほんの少し前の過去に記憶を馳せる。しかし、これと言って心当たりがない。


 ……いや、全くないと言えば嘘になるだろう。

 だが、が果たして我が主の御心を乱すほどのものかと言われれば、自信がなかった。

 

 これからどうしたものかと僕が小さく息を吐いた時、陽翠様はこちらに背を向けたまま、その沈黙を破った。


「……暁月」

「はい、陽翠様」

「明日からしばらく、髪結いはしなくて良い」

「え……?」


 主の突然の申し出に、化粧箱を持つ僕の手がびくりと震えた。その弾みで、閉じかけていた箱の上蓋の金具が小さく音を立てて外れる。

 思いもしないめいを告げられ、僕は今一度確かめるかのように、鏡に映る陽翠様を見遣った。けれども、そこには固く瞼を伏せた姿が映るばかりで、その真意を推し量ることはできない。


「少しの間、宿り木に籠る」

「宿り木……。庭の夏椿に、ですか?」

「そうだ」


 こちらを振り返ることも無く、陽翠様は小さく頷いて肯定の意を示した。


陽翠様が口にされた宿り木とは、のことだ。

 今でこそ、我が主は穢れを祓う浄化の神として祀られているが、元々はこのお社に植えられている夏椿の精であった。

 

 そのため、深い傷を負う、もしくは妖ものの退治で御身が穢れると、陽翠様はそれらを癒すために御神体夏椿の中にお隠れになるのだ。


「ご体調が優れないのですか?」


 夏椿にお戻りになるということは、つまりなのだろう。

 様子がおかしいと感じていたのは、ご体調の異変からなのだとすると、納得がいった。

 ……いや。それを納得ができる理由にしたかっただけなのかもしれない。


 そうだと言って欲しい。


 僕は問いにそんな願いを込め、再び我が主の背を見つめる。

 けれども、その背中は困ったように小さく丸まっただけだった。


 求める言葉を下さらない陽翠様に痺れを切らし、僕は不敬にも主の肩に手を伸ばしてしまう。だが、それに気付かぬほど陽翠様も上の空ではなかったようだ。


「……すまない、暁月。しばらく一人にしてくれ」


 陽翠様は僕の手をやんわりと押しとどめると、その場からゆっくりと立ち上がった。


「陽翠、様……?」


 敬愛する主からの僅かな拒絶に、僕の唇は錆び付いたように動かなくなった。

 やがて陽翠様は白い衣の袖をなびかせ、足早に部屋から出て行ってしまったのだった。僕に一瞥すら下さらずに。


 部屋に一人取り残された僕は、その場に座り込んだまま、閉じられたばかりの障子を見つめる。

 障子紙から透ける陽の光が、この時ばかりは酷くまなこの奥を刺した。


 僕は瞼を閉じると、畳の上にごろんと身を横たえる。未だに目に射し込む光を遮るようにして、片手で顔を覆った。


(やはり、僕が願いを口にした翌日から陽翠様は……)


 陽翠様の変わりようは、恐らくご体調が優れないことから来ているわけではない。


 半月前に僕が口にした願いに……もしくは、僕がその時にしたに拒絶の色を示しているのかもしれなかった。


『僕に唯一の願いがあるとすれば、それは────貴方に一生を捧げること。

 だから、この命がある限り。そして貴方が望む限り。貴方のお側にいさせてください』


 半月前、陽翠様に打ち明けた願いが頭の中で反響する。

 顔を覆った手を自らの唇の上に下ろすと、願いとともに落とした口付けの感触が蘇った。


「何をやっているんだ……僕は……。自分から陽翠様との関係を壊そうとするなんて……」


 もし、あの時に戻れるなら、僕はどうするべきなのだろう。

 いや。きっと戻れたとしても同じことを繰り返すに違いない。


 陽翠様の『君は私の自慢の子だよ』という言葉は、いつだってどうしようもないほどの焦燥感と苦しみを駆り立てるから。


 口付けを落としたのも、いつまでも僕は庇護するべき子どものままではないと、知って頂きたい一心だったのだ。

 時の流れによって少しずつ、僕は“変化”というまじないを掛けられているのだと。


(今までは、あの方のそばにいられるだけで良かった。それ以外に、何もいらないのだと……。ずっとそう思っていた)


 これは嘘ではなく、紛うことなき本心だ。

 だが、時を経てを想像するようになった自分がいる。


 もし、あの方から親愛以外の情を注いで貰えたら。それはどれほどの幸福であろうか。

 今、僕が陽翠様との関係を変えようと踏み出せば、その幸福は得られるのだろうか。


 そう考えたあの時、僕の理性はなすすべもなく崩れ落ちたのだ。

 陽翠様の御髪と御手に口付けるという、極めて不敬な行為に出てしまった。


「なんて……浅ましい……」


 僕はぽつりと、誰もいない部屋の中で自身の愚かさをなじった。

 それに追い討ちをかけるように、仄かに残る花の甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。


(髪結いを任された十数年前は、この香りに穢らわしい感情を掻き立てられることなんて、決してなかったのに……)


 拾われたばかりの頃は、ただ陽翠様のお役に立ちたい一心で、髪結いの手伝いを申し出たのだ。

 その時は、向けて下さる慈愛の笑みを見て湧き上がるこの感情が何か、それを表現できない程には未熟だった。


『それは恋だね、暁月くん』


 その感情が“恋情”というものだと理解したのは、陽翠様の代わりに他の神様に謁見した時のことだ。その神様は詩でも吟じるようにそう教えてくれたのである。


『恋?』

『そう。例えば、君以外の人間に陽翠が笑顔を向けたら、どんな気分だ?』

『……もやもやします』

『ふふ。なら、陽翠の笑顔を見て、それを誰にも見せず、その場で抱きしめてしまいたいと思ったことはあるかな?』

『お恥ずかしながら、あります……』

『毎日毎日、何をするにも陽翠の顔と結びつけて考えてしまうし、陽翠がいることで世界が色鮮やかに見える?』

『はい……』

『いいね。では最後。陽翠の髪結いをする時、髪や覗くうなじに優しく口付けたいと思ったことは?』

『……』

『それはある、という顔かな? 暁月くん、それが恋情というものだよ』


 悪戯っぽく笑った神様は、縁結びを司る力をお持ちのせいか、自分の領域の事柄だと分かって楽しげにされていたのをよく覚えている。


 その日を境に、我が主人に手を伸ばすことに躊躇してしまうようになった。今までどうやって触れていたのか、思い出せないほどに。理由がなければ、触れることすらできなくなったのだ。


 そうして髪結いという行為は、僕にとって陽翠様のお役に立つためのものではなく、ていのいいになってしまったのである。


 僕は自身の浅ましさを今一度確認しながら、大きくため息をついた。


(想いを告げてから、陽翠様は目も合わせて下さらない。それが、僕への答えだというなら……。ここいらが潮時なのかもしれないな)


 僕はゆっくりと身を起こし、閉じかけていた化粧箱の蓋に手を掛ける。

 そして再び固く鍵をかけ直して箱を持つと、部屋を後にするために立ち上がったのだった。


 二度とそれが開くことがないよう、願いながら。



◆◆◆



 陽翠様が夏椿の花木に籠られてから、早二週間が経った。


 僕は湯浴みで濡れた髪を拭いつつ、庭を見渡せる縁側に腰を下ろす。

 主の面影を無意識に探しているせいだろうか。僕の力ない視線は、主の瞳と同じ色をした美しい苔庭に縫いとめられる。

 夕立の露を受けたばかりのそれは、緑をより深く艶めかせつつ、頭上から舞い降りる白き夏椿の花を一身に享受していた。


 花を一つ、また一つと落としたとて、夏椿の様子が変わることはない。生き物の気配を感じぬ程の静謐せいひつさを保つ苔庭で、ただ凛としてそこに立っている。

 未だにうつつに姿を現さない、我が主のように。


 ようよう視線を空に上げれば、視界は一日の終わりを告げる茜色に染め変えられる。

 僕はそれに、ほんの僅かな安堵を覚えた。


(陽翠様のお顔を見ることなく、一日を終えることに安堵するようになるなんて……。一月前の自分なら、思いもしなかっただろうに)


 それもそうだ。

 今、陽翠様と視線を交わせば、ゆっくりと固めた決意も揺らいでしまうだろうから。


 僕は小さく嘆息を吐き、手にした団扇うちわでゆるゆると風を起こした。

 自らが起こしたそれは、諦めに似た僕の息をどこかへ飛ばし、代わりに夏椿の甘い香りを少しばかり運んでくれる。


「……ふっ。夏椿の手入れをしているせいか、すっかり僕にもこの香りが馴染んだな」


 嗅ぎなれたその香りは、夏椿の手入れを行う内に自然と自身が纏うようになったものだ。

 陽翠様から香る涼やかな花の香りとはまた違うが、僕はこの夏椿の香りが好きだった。


 というのも、僕に馴染んだこの香りが濃くなればなるほど、陽翠様と共に過ごした月日を示す証のように思えたからだ。


 だが、僕はその証を自ら手放そうとしている。


『君が望むなら、“私の従者として、私のそばにいる”という契りを解消しても────』


 ぼんやりと霞む頭の中を、一月前に陽翠様から告げられかけた言葉が浮かび上がる。


 願いを口にしたあの日。我が主の手が離れていきそうになっていたのを、僕は無理やり引き寄せて繋ぎ止めた。


 恋焦がれた陽翠様とのえにしを切られてなるものか。

 その執着にも似た強い思いで、陽翠様に縋った。


 だが、それは間違いだったのだと、今なら理解できる。


お優しい我が主に、僕を強く突き放すことなどできるはずがないと分かっていて、主従関係を無理矢理に結び直した。

 

 だからこそだろう。

 それを見抜いたかのように、陽翠様は僕と視線を交わすことを止め、夏椿に籠城するという状況を作り出しておられる。


『自分がもう大人だと認めて頂きたい』と言う割に、僕が陽翠様にしていることは、わがままな幼子そのものではなかろうか。


「滑稽だな……」


 今となっては、後の祭りだ。僕は自嘲気味に唇の端を上げることしかできない。

 

 やがて、小さく揺らしていた団扇の動きをも止めてしまうと、それを静かに縁側に置く。

 そしてそのまま重い腰を上げ、くつ脱ぎ石に並んだ草履を履いて庭に降り立った。


 庭の中心に坐す夏椿の下まで歩を進めると、躊躇う手を叱責しながら、ゆっくりとその木肌を撫でる。

 夏椿の手入れをする時には何の感情も湧かないのに、慣れたはずのつるりとした感触が、今日ばかりは僕の心の深い部分を乱した。

 僕は首を横に振ってそれに見て見ぬ振りをすると、引き結んでいた唇を緩め、愛しい主の名を呼んだのだった。


「陽翠様。そこにおられますか?」


 いつもと何ら変わらぬ温度を宿した声音で、白き花木に問いかける。

 けれども、当然ながら返答があるはずも無い。その意味を十二分に理解した上で、僕は胸中に抱いた決意を告げた。


「明日、ここを立とうと思います」


 ぬるい初夏の風が、僕の頬を撫でる。

 僕を引き留めようと、花の甘い香りとともに、のひととの大切な記憶が瞬く間に脳裏を焼いた。だが、僕は瞼を下ろしてそれを打ち消す。


「……僕が貴方に打ち明けた願いが、貴方を苦しめてしまった。これ以上、我が主に不敬を働く前に、自ら離れようと決めました」


 陽翠様が僕の前から姿を消して二週間。

 それを決意するには、あまりにも十分な時間だった。


 もし、再び陽翠様と視線を交わすことになれば、僕はどうなるだろうか。陽翠様のお側にいる、それだけで本当に満足できると己に言い聞かせられるだろうか。

 そう何度考えても、行き着く答えはただ一つだったのだ。


『今の関係のまま、満足できるはずがない』と。


 ひとたび陽翠様を視界に入れてしまえば、僕の中の鮮烈な欲は首をもたげ、やがて我が主を喰らうことになるだろう。


 そうなる前に、自らが無理矢理に繋ぎ止めた主従関係を、今こそ解かなければなるまい。


 僕は震える唇を一度軽く噛むと、己の額を夏椿の木に合わせる。


 まるで、これから口にすることを懺悔するかのように。


 耳を刺すほどの沈黙がその場を支配し始めた時、僕は引き結んだ唇をようやく緩め、僅かに濡れた声音に想いを乗せたのだった。


「────陽翠様。貴方をお慕いしております」


 ぽとり、と夏椿の花が落ちた音がした。

 いや。僕と陽翠様のこれまでの関係が、崩れ始める音だったのかもしれない。


「人の子として、貴方の養い子として……そして貴方の従者としてではない。ただ一人の男として、貴方に恋をしています」


 表面張力で保っていた心の水が溢れるように、これまで募らせてきた恋心は留まることを知らない。

 今まで強ばっていたはずの口は、想いを言葉として滑らかに織り成していく。のひとへ、全てをぶつけんとする勢いだった。


「陽翠様に尽くして、尽くして。“暁月がいなくては生きていけない”と、そう零してしまうほどに、そのお身体を僕の想いで満たしてしまえたら……。何度そう考えたか分かりません。しかし、この想いは貴方を困らせ、いずれ傷つけてしまうことにもなりかねない……」


 これまで僕が大切に育ててきた想いを我が主に打ち明けることで、僕はひとときの安堵と満足感を得られるかもしれない。

 だが、陽翠様にとっては違う。僕が側にいることで、その想いはやがておりとなって我が主を蝕むことになるだろう。


『想いに応えられないのに、側にいて貰うのは心苦しい。暁月の想いに応えてやれない自分が嫌いになりそうだ』と、そう仰るに違いなかった。


 のひとは、それほどまでにお優しく、残酷な現実を教えてくださる僕の神様なのだ。


「それは僕の本意ではありません。ですから……」


 言え。

 我が主との関係を解く、決定的な言葉を。

 別れを告げる言葉を。


 しかし、これまで淀みなく動いていた唇が、最後の言葉を紡ぐのに逡巡し、動かない。


 言おうとしては言えなくなる、そんなぎこちない動きしかしなくなってしまった己の口は、やがて小さなため息を零すと。


「……すみません。また明日、最後のご挨拶に参りますね」


 ただ、別れの言葉を先延ばしにするだけの言い訳染みたものしか、紡ぐことができなかった。


 僕はそんな自分に辟易しながらも、ゆるゆると瞼を上げ、夏椿から額をゆっくりと離した。

 もう一度だけ、名残り惜しむように夏椿の木肌を撫でると、背を向けてやしろに戻ろうとする。


 その、刹那のことだっだ。


「暁月!」

「え?」


 夏椿の花が再び落ちる音ともに、どさりと何かが重なり合って倒れた音が庭に響き渡った。


「いたた……。ひ、陽翠様……?」


 両の手のひらに受けた鈍い衝撃と嗅ぎなれた花の甘い香りが、薄らぼんやりとした意識を覚醒させる。


 僕が少しでも身動ぎすれば、互いの鼻先が触れ合ってしまいそうな程の距離に、恋焦がれたひとのかんばせがあった。


 どうやら、突然夏椿から現れた陽翠様に手を引かれ、夏椿に背を向けていた僕は、我が主を巻き込んで転倒してしまったようだ。


 その証拠に、僕は陽翠様を押し倒すという今の状況を作り出している。


(おっ、お顔が近い……!!)


 一瞬にして頬に熱が走り、僕は慌てて陽翠様から身を離そうとするが、それは無理だとやがて理解する。

 何故なら、僕の両頬は陽翠様の白魚の手によって包まれ、視線まで絡め取られてしまっていたからだ。


 頬の熱が陽翠様の手に伝わっていやしないかと焦る僕をよそに、我が主は翠玉色の瞳を縁取る睫毛に大粒の白露を乗せながら、僕の名をか細い声で呼んだ。


「……暁月。行かないでくれ」


 我が主の、見る者全てを魅了するかのような潤んだ瞳は、どうしたって僕の衝動的な欲を駆り立てる。

 喉の渇きを抑えるために生唾を飲み込むが、それはほんの僅かな抵抗に過ぎない。


「陽翠様……」


 僕が小さく身体を震わせると、肩にかかっていた僕の長い髪は、陽翠様のお顔を包むようにして流れ落ちていく。


 湯上がりの石鹸の香りと主の涼やかな花の香りが混ざり合い、耽美な想像を掻き立てる。僕の理性は今にも朦朧として崩れ落ちそうだった。


「お願いだ……。私の前から、消えないで」


 今まで見たことがないほどの切々とした表情で訴えてくる陽翠様に、僕は強く奥歯を噛み締めると、やっとの思いでハリボテの事実を絞り出した。


「……待って下さい、陽翠様。僕が貴方のお側にずっといたいと願うことも、僕が陽翠様へ向ける気持ちも、全て貴方へ降りかかる災いとしていずれ形を変えてしまいかねません。それは貴方を苦しめる……、いえ、現に苦しめている。だからこそ、夏椿にお隠れになる前、僕と目も合わせて下さらなかったのでは?」


「違う!!」


 陽翠様の大きな否定の声音が、庭の静寂を引き裂いた。


「違う。違うんだよ、暁月。それは、私がおかしいだけなんだ……」


 陽翠様は僕の頬からゆっくり手を離すと、今度はその手で自らの顔を覆って隠してしまった。


「君と視線を交わすだけで、恥ずかしくて苦しくて、胸の奥から何かがせりあがってくる。それが酷く……怖かった。

 だから、何日も君と目を合わすこともままならなくて……。夏椿の中に籠っても、思い浮かぶのは君のことばかり。胸の痛みはいつまで経っても治まりやしない」


「それはどういう……」


 陽翠様が自身の思考を整理されるように吐き出された言葉の数々に、僕はただただ困惑の色を深めるばかりだ。

 真意を探ろうと、思わず陽翠様を穴があくほど見つめてしまう。たが、肝心の主は両手で顔を覆ってしまっており、今の表情を読み取ることができない。


 しかし、主の白く細い指の隙間からちらりと見えた────真っ赤に熟れた果実も逃げ出してしまうほどに紅潮した頬と、迷うように揺れる濡れた翠玉の双眸、その二つが、饒舌なまでに陽翠様の抱いている気持ちを物語っていた。


「陽翠様」


 僕はその意味にある種の期待をしながら、花のかんばせを隠している陽翠様の両手をゆっくり取ると、自身の両手と重ね合わせた。


 突然、従者の手とともに自身の手が、地面にやんわりと押し当てられたことに驚いたのだろう。陽翠様の手は一瞬びくりと動くが、それ以降拒絶を意味する動きはなかった。


 僕よりも一回り小さな、陶器のように白く滑らかな手。

 抵抗が無いのを良い事に、僕はやがて陽翠様の細い指にゆっくりと自身のそれを絡め、絡んだ指同士にきゅっと柔く力を込める。


 本当なら、自分だって離れたくないのだと伝えるように。


 先程まで隠されていた顔があらわになったことで、陽翠様はいても立ってもいられなくなったのだろうか。

 ますます、頬をこれ以上ないほどに紅く染め上げ、視線は僕ではないどこかへと逸らしてしまっている。


 僕はそんな我が主が愛おしく思えて、口元に浮かべた微笑を深めていく。

 そしてそっと顔を近づけると、主の耳元に唇を寄せた。


「陽翠様。一つだけ聞かせてください」


 僕の小さな吐息がくすぐったいのか、陽翠様はやはりびくりと身をすくめる。それを返答と見なした僕は、そのまま陽翠様の耳元で囁くようにして問うた。


「僕はまだ、ですか?」

「それ、は……」

「陽翠様にとって、暁月は何者ですか?」

「よく……わからないんだ」


 やや震えが走る言葉尻に、僕は顔を上げて陽翠様を改めて見つめる。

 先程まで逸らされていたはずの視線が、一瞬だけ柔く絡んだ。


 しかし、吐き出された言葉とは裏腹に、そこに迷いの色はないように見えた。どちらかと言えば、自身の中にある何かに戸惑っているような、そんな雰囲気を滲ませている。


「自分の気持ちが……わからない。だが、と君に言われることを想像した時……とても怖かった。君が私の手の届かないところに行ってしまうことが」


 陽翠様はその時に感じたものたちを一つ一つ思い起こそうとするように、ゆっくりと瞬きを繰り返していた。


「そして、一月前に君に言われた願いを聞いた時、震えるほどに喜ぶ私が、確かにいたんだ。まだ君に髪を結って貰える……。暁月に触れて貰えると、歓喜する私がいた」


 琴の音を爪弾くように凛とした声と共に、一対の瞳のとばりがゆっくりと上がる。

 森の宝石を思わせるまなこは、憂いも悲哀も、ましてや親愛の温もりも帯びていない。


 ただ、僕自身が身をもって知っている熱だけが、そこに宿っていた。


 ハッと息を飲む僕を知ってか知らずか、陽翠様は僕と絡めたままの指先に力を込めると、意を決した様子でもう一度口を開いたのだった。


「これは……私が、君に恋をしているということなのだろうか……?」


 恋をしている。

 誰が、誰に……?


 陽翠様が何を言っているのかが、よく分からない。

 いや。最早不敬を超えた行為を許されているこの状況でさえ、あまりにできすぎた夢のようで、僕の頭はついに現実を都合よくねじ曲げてしまったのかもしれない。


 僕は浅い呼吸をやっとの思いで整えると、今の言葉は聞き間違いではないと確認すべく、陽翠様に今一度問うことにした。


「陽翠様。その……恐れながら、僕は貴方に恋をしています。実は陽翠様もそうだと、そう仰りたいのでしょうか……?」


 ごくり、と自身の喉仏が小さく上下したのが分かった。文字通り固唾を飲んで、主から紡がれる言葉を待つ。

 一方で、改めて言葉という形に起こしたことで、自身の内部をより深いところまで覗いてしまったからだろうか。陽翠様は羞恥を抑え込むようにして、やはり唇をやや震わせたまま小さな声で答えた。


「そうだ……。多分、そういうことだろう。だが……その、私にも初めての気持ちで……。これが恋なのかどうかも……」


 どんどんと小さく細く消えていく言の葉たちが、陽翠様の自信のなさを物語っているようだ。いつも明瞭で歯切れよく、一度たりとも途切れ途切れに話すことなど無い主が、今は酷く躊躇って口ごもってしまっている。

 しまいには、申し訳なさそうに瞳を下に泳がせていた。


「……では、確かめてみますか?」

「どうやって……?」


 陽翠様の問いかけに、僕は思考よりも先に自身の唇が動いたのだと自覚する。

 

 僕の中の本能が、飢えた獣の如く荒い呼吸を繰り返しているのだろう。それは、理性という鎖がまるで意味を為していないことを示唆していた。


 しかし、それはもしかすると、目の前におわす神様もそうなのかもしれない。

 自身を溶かしてしまいそうな程に、世界を臨む深緑の双眸は潤んだ熱を纏っていた。


「陽翠様。今この時だけで良い。どうしようもなく不敬な従者を、どうかお許しください」


 燦々と輝く硝子の宝石に触れるように、僕は陽翠様の頬に手を添えた。普段、決して味わうことなどありえないはずのその柔い感触は、鮮烈なまでに僕の思考を妖艶に染め上げる。


「もし不快と思われたら……、すぐ突き放してくださいね」

「……不快なものか。そうであれば、とうにそうしている」


 陽翠様は、僕がこれから何をしようとしているのか悟ったのであろう。羞恥に苛まれながらも、逸らしていた視線を再び僕の眼に戻し、目の前の現実をしっかりと見据えていた。


 見たことがないほどに必死な様子を見せる我が主に、僕はふっと微笑みを零す。


「目を、閉じていただけますか?」


 僕の提案に、陽翠様はぎゅっと音が鳴ってもおかしくないほどの勢いで、強く瞳を閉じた。やはり僕は浮かべた笑みを深めながら、そんなのひとの緊張を解くように、そっとその瞼に口付けを落とす。

 小さな水音と僕の唇の感触に、陽翠様は目を閉じたままびくりと肩を竦ませるも、瞼は下ろしたままだ。


(あぁ……。もう、頭がおかしくなりそうだ……)


 恋焦がれた人を組み敷くような体勢。甘い果実の匂いが香り立ちそうな程に紅色に染まった頬。小さく震える長い睫毛に、何かを待つように閉じられたままの瞼。


 目の前の光景に、僕の頭は熱に浮かされていた。


 僕は陽翠様の瞼から唇を離すと、再びゆっくりと、陽翠様に軽く触れるだけの糸雨しうの口付けを落とした。

 いつも僕の名を呼ぶ、その唇に。


「……っ」


 唇同士の暫しの触れ合いを名残惜しむかのようにして身を離すと、陽翠様の口から小さく息が漏れた。


「……もう、勘弁してくれ」


 そう言って瞼を上げた陽翠様の瞳の端には儚き白露が宿り、今にもこぼれ落ちそうだった。僕がその露を指ですくい上げると、我が主は叫ぶようにして口を開いた。


「私は、君に恋をしている」


 先程の歯切れの悪さを忘れるほどの、明快な言葉が僕の耳朶を打った。


「どうして、そう思ったんです?」


 打ち震える心を悟られまいと、僕は平静を装った声音で問いかける。

 陽翠様が僕の好意を肯定してくれている、そして陽翠様自身もそうだと僕が肯定できる明確な理由が欲しかったのだ。


 すると、今のはっきりとした物言いは何だったのかと言いたくなるほど、消え入りそうな声音で陽翠様はもごもごと答える。


「もっとして欲しいと、思ったから……」

「何を?」

「意地悪を言わないでくれ……。言わなくても分かるだろう」

「ふふ。言ってくれないと分かりません」

「暁月と口付けをもっとしたいと思ったんだ! つまりこれは、私も君が好きってことだろう。さぁ、これで満足……」


 陽翠様の自棄染みたその言葉は、最後まで続かなかった。

 僕が陽翠様のうなじを押さえ、再びその唇を塞いだからだ。


 今度は僅かな隙間さえ許さないと言うように、僕は陽翠様の柔らかなそれをついばむようにして口付けを繰り返し、その甘い吐息と互いの間を行き交う銀糸ぎんしまでもを飲み込んだ。


「あ……かつき……」

「陽翠、様……」


 我が主の潤んだ声音と荒く乱れた息遣いに我に返り、僕はようやく僅かに離れて、互いの睫毛をそっと擦り合わせた。


 しかし、唇こそ重ならないものの、今度は陽翠様によって身体を引き寄せられてしまう。縋るようにして陽翠様に回された腕は徐々に強くなり、僕は声が出せなくなるほどの多幸感に満たされていく。

 僕もそれに応えるように、一層きつく両腕で陽翠様の背中を抱き寄せた。


 互いの胸はぴったりと重なり、激しく脈打つ二つの心臓に逃げ場などあるはずもない。

 溢れ出る二つの同じ想いが鼓動へと変わり、やがてそれが一つの音として聞こえるようになった頃、僕は陽翠様の首元に顔を埋めたまま、口を開いた。


「陽翠様。僕は、貴方のおそばにいても良いのでしょうか」

「当たり前だ」

「それは、僕が願ったから?」

「違う!」


 陽翠様は僕を引き剥がして勢いよく起き上がると、いつも見る折り目正しい姿勢で座り、僕もそれに倣う形で改めて座り直すよう示される。


 おずおずと我が主からのお言葉の続きを待っていると、陽翠様は僕の両手を包むようにして握りしめる。

 そして、迷いない真っ直ぐな視線が僕を射抜いた。


「……暁月に、そばにいて欲しい。私がそう望んでいるんだ」

「陽翠様……」

「先刻、君は言ったな。『“暁月がいなくては生きていけない”と、そう零してしまうほどに、そのお身体を僕の想いで満たしてしまえたら』と。私の身体は、とうに君の想いで満たされているよ。もう、君なしで生きていく生き方を忘れてしまった……」


 そう零す陽翠様は、やがて花が綻ぶような笑みを浮かべつつ、包み込んだ僕の手の上に口付けてそっと囁いた。


「好きだよ、暁月。ずっと、私のそばにいて。君の命が尽きる、その時まで」


 その瞬間、僕の目元にさっと淡い紅色が差して、色めいたであろうことが自分でも分かった。そして、愛しいひとへ向ける眼差しの中に、今まで無理に忍び、抑え込んできていた激情までもが溢れ返っていることまでも、自覚してしまった。


 僕は漸く、それを目の前のひとに打ち明けることができるという現実を噛み締めながら、零れそうになる涙を堪えて頬笑したのだった。


「────はい。ずっとずっと、貴方だけをお慕いしております。

 貴方と出会ったあの日から、僕の命は貴方だけのものです。陽翠様」



 僕の言葉を皮切りに、互いの吐息がかかるほど近くまで再びゆっくりと顔を寄せたのは、どちらからだったのか。


 それをってるのは、二人の頭上で凜然と咲く、夏椿の白き花々だけだった。




                 [完]

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貴方の髪を結うとき 百合紫陽 @ajisa16yrshr

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