貴方の髪を結うとき

百合紫陽

貴方の髪を結うとき


陽翠ひすい様。おはようございます。髪結いのお時間ですよ」


 琵琶を爪弾いたような、艶のある男性の声が耳朶を打つ。どうやら、それは部屋の障子しょうじの向こう側から投げられたもののようだ。

 私はその声に導かれるようにして、下ろしていた瞼をゆっくりと上げた。


 目に入ったのは、目の前の鏡に映った一人の青年の姿。歳の頃は、人間で言う二十前後と言ったところだろう。

 障子の向こうから声を投げたのは、間違いなく彼だ。


 こちらを見る青年の瞳は、紅を差したような栗色で、穏やかな光を湛えている。柔らかな朝日を受けて輝く、艶やかな黒茶の長い髪は高く結い上げられており、清潔感のある佇まいだ。


 また、青年はここを訪れる前に、いつものように庭先の白い夏椿の手入れでもしていたのだろう。瑠璃色の衣に、涼やかな甘い香りをまとわせているのも相まって、その雰囲気はより清廉なものになっていた。


 見慣れたその姿を捉えた私は、口の端を小さく上げて、鏡に映る彼の名を紡ぐ。


暁月あかつき。おはよう。今日も頼むよ」

「はい、陽翠様。お任せ下さい」


 私が暁月と呼んだ青年、もとい私の可愛い従者は、屈託ない笑顔で頷いた。

 彼は私の背後に腰を下ろすと、恭しく一礼する。そして、畳の上で波紋のように広がる私の長い髪を一房、ゆっくりと手にしたのだった。


 暁月は毎朝こうして、手先が不器用な私に代わり、髪結いを施してくれる。彼にこの役目を任せてから、かれこれ十年ほど経っていた。


 結うという行為に馴れているはずの暁月の手は、手つきが雑に変化することも無く、硝子の宝石を扱うかの如く、優しく繊細に私の髪に触れてくれる。


 時を経て移り変わるものが多い中、ずっと変わらない彼のその丁寧な所作は、私にとっては酷く嬉しいものだった。


「ふふっ。もう十年か……」


 暁月がこのやしろへ来てくれたばかりの頃を思い出し、私は思わずくすりと笑みを零した。


『君が大人になるまで、私の従者として、私のそばにいてくれないか? 

 君が大人になったその時は、祝いに一つ、願いをなんでも叶えてあげよう』


 そう、幼い暁月と出会った時に契りを交わしたのが懐かしい。


「暁月」

「はい、陽翠様」

「君は、随分と髪を結うのが上手になったね。手つきは昔と変わらず丁寧で、今ではそれがより洗練された」

「お褒め頂き、ありがとうございます」

「君に髪を触れられるとね、酷く心地良いんだ。離れ難いと思ってしまうほどに」

「……勿体なきお言葉、痛み入ります」


 私の髪に櫛を通しながら、暁月はやはり口調を崩すことなく恭しく礼を述べる。しかし、鏡越しに見る彼の耳はほんのりと赤く染まっていて、言葉でいかに平静を装おうと、照れているのは一目瞭然だった。


私は、そんな可愛らしい従者への愛おしさを抑えきることができない。

 私の口元で留まっていた笑みは、ついに溢れだしてしまう。


「ほんの少し前までは、私の腰辺りの背丈しかなかったのに。泣き虫で、上手くできないことがあると自分に地団駄を踏むような子だったな。そんな君を私が抱きしめて、あやしていたのが昨日のことのようだ」


 私が次々に落とす懐古の気持ちを受けたせいだろうか。途端に、暁月の手の動きがぎこちなくなったのが、自身の髪を通して伝わった。


「……陽翠様。それは、十年も前の話です。今では、貴方が望まれる大抵のことはできるんですよ。行こう思えば、もう一人でどこへでも行けますし」


 暁月から紡がれた声に不満そうな色が含まれているのを鑑みるに、どうやら拗ねてしまったようだ。

 彼が今どんな表情をしているのかを想像して、私は柔らかな気持ちに身を委ねた。


「そうだね。あの頃とは比べ物にならないほど、君はなんでもできるようになった。

 庭木の世話、炊事洗濯は勿論、結界の張り方、穢れの浄化、私の名代として他の神々に謁見するなど、挙げ切れないほどにね」


 私が、暁月のこれまでの成長ぶりを大仰に讃えると、やはり彼は「そうだろう」とでも言いたげに、手にした櫛の動きを滑らかにした。


「本当に、君は私の自慢の子だよ。暁月」


 私は、心からの親愛を暁月に囁いた。

 きっと、暁月はいつものようにはにかむだろうと踏んでいたのだが、今日の彼は様子が違った。


 何故か、櫛の動きをぴたりと止めたのだ。


 不思議に思い、私はやや下に傾けていた顔を上げる。すると、正面にある鏡の中の暁月と視線が絡んだ。


「暁月……?」


 鏡越しに見る暁月の瞳の奥底には、熱い何かが静かに燃えているように見えた。

 まるで、どうしてわかってくれないのかという激情と悲哀が、入り乱れているような。


「僕は……貴方にとって、ですか?」

「え?」

「どうすれば、僕は……」

「暁月……」

「……すみません。今の言葉は忘れて下さい」


 痛みを吐き出すかのようにそう呟いた暁月は、鏡に映る私から視線を逸らすと、再び櫛を動かし始めた。


 先程暁月が漏らした言葉が、私の頭の中で繰り返し明滅する。それに戸惑いながらも、私は自身の胸の内を咀嚼した。


(暁月は……私にとっては、庇護するべき子どもだ。このやしろに来てくれた時から、それは永遠に変わらない)


 暁月と初めて会った時、彼はまだとおにも満たない幼子だった。その頃から、私の暁月への認識は少しも変わっていないのだ。


 しかし、実際の彼自身はどうか。

 背はとうに私を追い越していて、私が抱き上げてやることなど到底できなくなった。

 壊れてしまいそうなほどに小さかった手は、私の手より一回り大きくなったし、小鳥のさえずりのようだった声は、時と共に低く、艶のあるものに変わった。


 間違いなく、時の流れによって、暁月はに作り替えられている。


 そして、それに宿る精神もまた、変化しているのだろう。

 いつしか、私に無邪気に抱きついてくることがなくなったのがその証拠だ。

「眠るまで手を繋いでいて」と甘えることもなくなったし、あまつさえ自ら私に触れることもない。


 暁月から触れてくるのは、今では髪結いの時だけになってしまった。


(私が気付かないうちに、『大人になった』ということなのだろう。……いや、気付かないふりをしていた、の方が正しいか)


 この変化は、暁月が成長した証だ。

 だからこそ、自身の変化を一番分かっている暁月がのも無理はない。いつまでも、私だけが幼子扱いしていることに納得いかないのも当然だろう。


(そろそろ、過保護な親から卒業しなければならないのかもしれない……)


 そう、私が暁月の変化を認めた矢先のことだ。

 私の胸の内に、途方もない寂しさが波のように押し寄せてきた。心を波立たせているのは、間違いなく『暁月が大人になった』という新たな認識のせいだ。


 それと同時に、思い出してしまう。

 私と暁月は、生きる時の流れが違うことを。


(……そうか。暁月の心と身体は、これからも変わっていくのか。不変の私を置いて)


 暁月は、私にとっては瞬きの間に歳をとる。それは、そう遠くない未来に、暁月が私の前から永遠に姿を消すことを意味していた。

 

 それだけではない。

 暁月の言う通り、彼はなのだ。

 もし、『暁月が大人になった祝いに望む願い』が、私の従者を辞めるというものだったとして。

 その後、彼が本来の居場所である人里で暮らすとなれば、我々の別離はより早く訪れるだろう。


 この幸せな時間が、永遠に続くことは決してありえない。

 いずれ、髪結いを施して貰えなくなる日が必ず来る。


 暁月との別れに思いを馳せたその時、私の心は寂しさとはまた違う痛みに苛まれる。

 しかし、この痛みが指し示すのは、いずれ訪れる暁月との別れではなかった。


 彼に髪を結って貰えない……という恐怖に近しい何かだった。


(この感情は……、なんだ?)


 痛む胸を掻き抱くように、私は衣の合わせをきつく握りしめた。


 親愛とはまた違う形をしたそれに、頭が混乱して上手く働かない。

 しかし、それは素知らぬ顔をして、私の心につたのように絡み始め、やがて小さな蕾をつける。

 焦る私をよそに、蕾がゆっくりと綻びかけた、その時のことだ。


「陽翠様。終わりました」


 暁月の穏やかな声が、蕾の動きを柔く包み込んだ。そのせいか、胸を巣食う痛みも少し鈍くなる。


 現実に引き戻された私は、衣の合わせからゆっくりと指を離した。


 目の前の鏡を見れば、暁月はいつの間にか櫛を仕舞い込み、髪から既に手を離した姿が目に入った。


「あ……、あぁ。ありがとう……」


 私の礼の言葉を受け取った鏡の中の暁月は、いつものように伏せ目がちにその場で一礼する。その姿は、どう見ても幼子には見えない。

 彼は私の愛しい子、そして可愛い従者に違いないのに、そこには今までとは違う暁月がいる。


 よりいっそう濃くなった夏椿の香りが、鼻腔を掠めたような気がした。


 それと同時に、暁月が先程漏らした言葉が頭の中をぎる。


『いつになったら、僕は……』


 あの言葉の続きには、本来何が入るはずだったのだろう。


『いつになったら、僕は子どもじゃなくなる』?


 それとも────。


『いつになったら、僕は貴方の従者を辞められるのですか?』



 想像した暁月の言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。


「っ、待て!」

「陽翠様……?」


 私は思わず悲鳴染みた声と共に、退出しようとする暁月の手を掴んで、その場に引き止めてしまった。

 突然の私の行動に、暁月はこぼれ落ちんばかりに目を見開いている。当たり前の反応だった。


(怖い……。暁月が、私のもとを離れていくのが。……何故?)


 先程、これから起こるであろう未来について考えたせいだろうか。この手を離せば、暁月は今すぐにでも、私の手の届かない所へ行ってしまうと思ったのだ。


 子を見守る者として、それは喜ばしいことのはずだった。暁月が望むのなら、『大人になるまで、私の従者として私のそばにいる』という契りを解消するのにも、何ら不満はない。

 だが、そんな感情が宿る隙間など、今の私の心には微塵もなくなっていた。

 

 私は、掴んでいた暁月の手を自身の胸元の近くまで引き寄せると、ゆっくりと両の手のひらで包み込んだ。

 片手では包み込めないほどに大きくなった彼の手に、私の唇は自然とため息を零す。


 暁月の変化は、もう誰にも止められない。

 神である私でさえも。


 ただ、変わっていく彼を見ていることしかできない。そして、いずれ私のもとを去ることになる彼を引き止める資格も、私には無いのだ。


 人の子の一生は短い。

 それを、私の『寂しい』という感情一つで縛ることなど、許されるわけがなかった。


けれども、それを否定する声が、私の心に絡みつく感情の蕾の中から聞こえてくる。


『このまま、暁月をこの社に縛り付けてしまえ』と。


 私の理性を揺さぶる甘美な声は、成長した暁月の様々な姿を色鮮やかに思い起こさせる。


 私の顔を見て笑んだ顔。

 私の名を呼ぶ、柔らかな低い声音。

 私の鼻腔をくすぐる、夏椿の甘い香り。

 私の髪に優しく触れる、骨ばった指の感触。


 その全てが、凪いでいたはずの私の心を掻き乱していく。


「陽翠様? どうされたのですか……?」


 暁月は、私の様子がおかしいことに気が付いたらしい。私が包み込んだ彼の手が、戸惑うようにぎこちなく動いたのがわかった。


「……暁月」

「はい、陽翠様」


 暁月の名を呼ぶと、彼は普段よりもどこか硬い声音で返事をする。

 今から何を言われるのかと、少々緊張しているのやもしれない。


 それを表すように、紅を差したような栗色の瞳が目の前で揺れる。

 それと視線が絡んだ途端、芽生えたばかりの感情の蕾が妖艶にわらい始めたのがわかった。

 

 私は、ざわめく心を落ち着かせることができないまま、突き動かされるようにして震える唇を動かし始めたのだった。


「私はね、暁月。君が髪を結ってくれるこの時間が、何よりも好きだよ。

 ……永遠に続いて欲しいと、願ってしまう程に」


 髪結いの時間は、私に触れて来なくなった暁月が、幼い頃と変わらず私に触れてくれる時間だ。

 年月を経ても変わらない、穏やかで幸せな日常。


 それは、不変の私変わる暁月人の子を繋ぐ唯一の糸のように思えた。

 それが切れてしまわぬように、私は包み込んだ暁月の手に力を込める。


『言え。だからこそ、どこにも行かず、ずっと私のそばにいろ』と。


 私の耳元で囁く心の蕾の声が、いっそう強くなった。

 私は、その声に耳を澄ませるようにして、一度瞼を下ろして息を吐く。


 一瞬の沈黙が耳を貫いたその時、私は今一度瞳の帳を上げる。そして、口元に小さく微笑を湛えると、包んでいた暁月の手を、ゆっくりと手放した。


「でも、もういいんだ」


 心の蕾の望みを否定した言葉は、途端に暁月の瞳を驚きの色で溢れさせた。

 それに呼応するかのように、治まりつつあった私の胸の痛みが増していく。まるで、炙った鉄の棒で心臓を掻き回されているようだ。


 暁月の瞳の中に映る私は、今にも泣きそうな顔をしている。それなのに、無理に笑おうとして歪んでいるそれが、酷く情けなく見えた。


「暁月の言う通り、君はもう……私が庇護しなければならない子どもじゃない。どこにでも行ける、一人の大人になった。だから……」


 喉元から何度も出かける欲望を何とか抑え込みながら、私はを慎重に並べていく。


 そしてそのまま、心と乖離した言葉を紡ぎ続けようとした。だが、その続きが出てこない。

 無理矢理に言葉を織っていた舌が、自分の血に塗れて悲鳴をあげているようだった。


「だから……なんです?」


 震える唇にたたらを踏む私に、暁月はあくまでも柔らかく、言葉の続きを問うた。

 彼の声音に背中を押された私の舌は、なおもあげ続ける悲鳴に耳を塞ぎ、嘘の続きを織り始める。


「だから、ほら。暁月がまだ小さい頃に私と約束したろう。君が私に仕えるのは、大人になるまでだと。そして、大人になった祝いに、君の願いを何でも叶えるとも……」


 暁月の願いを叶えるのは、彼を庇護する神として、親として、そして主人としての責務だ。


「君が望むなら、『私の従者として、私のそばにいる』という契りを、解消しても────」

「陽翠様」


 これまで沈黙を守っていた暁月が、静かに続きを飲み込んだ。


 そして、彼は真剣な面持ちで私の頬にかかる髪を一房、ゆっくりと手にする。

 

 私の視線に絡まる栗色の瞳は、陽の光を受けて紅の色をより深めている。

 それが、僅かに熱を含み始めた時、暁月は切々とした様子で目尻を下げ、薄い唇を動かした。


「そんな悲しいことを、僕に言わないで」

「暁月……」


 そこにいたのは、私の知る暁月ではなかった。

 私に甘えてくる無邪気な童でも、美しく精悍に成長した従者でもない。


 私を真摯に見つめる、ただ一人の男だった。


 戸惑う私に、やがて暁月は手にした私の髪に顔を寄せる。

 そして、彼の瞳を縁どる長いまつ毛が彼の頬に小さな影を落とした。その時のことだった。


「っ!? なっ……」


 暁月の唇が、私の髪に触れている。

 そう。彼は、口付けを落としたのだ。いつも指で優しく触れてくれる、私の髪に。


 彼の唇の柔らかさが、髪を通して伝わったような心地に陥り、私はいつぶりと分からぬ熱を頬に走らせる。


「暁月! 何を……」

「僕もですよ、陽翠様」


 暁月は髪からそっと唇を離し、狼狽する私を包むような声音で、私の名を呼んだ。


 顔を上げた彼の瞳は見たことのないほどの熱を孕んでいて、その熱で私の視線をいとも簡単に絡めとり、離さない。


「僕も、貴方と過ごすこの時間が……。いえ、が、何よりも大切です」


 暁月はそう言いながら、私の髪からゆっくりと手を離すと、今度は私の手を引き寄せ、あろう事か私の手の甲に唇で触れる。


 小さな水音をたてたそれは、幼い頃に戯れとして頬にしてくれたものとは違う。

 

 熱と情愛を帯びた口付けだった。


 今度は直に彼の唇の感触、温もりが伝わり、私の身体の火照りは最高潮に達する。

 過ぎた戯れはよせ、と叱ろうとするも、思うように言葉が出てこない。


 なぜなら、心の奥底で喜びに打ち震えている心の蕾が、全ての言葉を消してしまったからだ。


 自身の気持ちに混乱する私をよそに、暁月はようやく私の手から顔を離すと、耳慣れない程に甘やかな声を響かせた。


「僕に叶えて欲しい唯一の願いがあるとすれば、それは────貴方に一生を捧げること」


 彼の願いに、私の心臓が跳ねる。

 願いを注がれた私の心の蕾は、やがてふわりと花弁を綻ばせ、大輪の花を咲かせた。


「貴方を支える、一人の男として。この命がある限り……いえ、貴方が望む限り。

 貴方のお側にいさせてください。陽翠様」


 暁色に煌めいている暁月の瞳は、見ているこちらが溶けてしまいそうなほどの熱で溢れ、想いを紡いだ唇は、妖艶に艶めいている。


 私は、思わず目眩を起こした。

 今まで見ていたように、暁月の顔が見れない。


 違う、違うと否定する私に、暁月への親愛で満たされていたはずの心が、認めろと妖しく囁いた。



『お前は今、この瞬間に。一人の人間の男に、恋情を抱いてしまったのだ』と。

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