最終話 「大切な花」(代筆:葉桜ことり)

 菊乃はテーブルに飾られた一輪の薔薇に目を落とし、話し始めた。


「ローザさんは、この一輪の薔薇をみて何を感じるかしら?」


「と、とても……綺麗だと感じます。」


「他には?」


「あ、あと、どうして薔薇にはトゲがあるのかな?って気になります。」


「他にもあるかしら?」


「この薔薇は軒先に咲いている薔薇よりも花びらが小さくて色も深い赤で……一輪挿しに合うと思います。」


「ローザさんは今、恋をしていますか?」


 菊乃の不意な質問に一瞬、呼吸が止まり、

「……好きな人はいません……。」と頬を紅くしながら小さく答えた。


「そうですか。ローザさんは自分の感情にフタをする事が当たり前になっていますが、私にはわかりますよ。

 好きな人がいるのは素晴らしい事ですよ。

 たとえ、その人と結ばれなくても。

 自分の感情に素直になった時は一輪の花でさえも涙が溢れることもあり、この薔薇の表面的な美しさを越えて、

どんな土でどんな風に誰がどんな想いで育てたのか、今ここで咲いている奇跡、その時間の流れにも想いを馳せるようになるのです。

 枯れてしまったその花びらでさえも愛おしくなるものです。

 時にそれは苦しくもありますが、恋だけではなくて、ローザさんには大切な人がたくさんいるでしょう?

 花の良さは儚さにあり、私達もとても儚い生き物で、先の事は誰にもわからないのです……。

 だからこそ、私はこのあるがままを大切にできるこの場所が必要だったのですよ。」



 テーブルの下ではラサラとアルテが互いのしっぽでじゃれあい、コトコトと可愛らしい音を立てていて、静けさを和らいでいた。



 好きな人、そして大切な人たち。

 


 今まで意識したことのない言葉を改めて問われた事でローザは実家で星を眺めながら就寝についた日々を思い出していた。

 一生かけても触れることの出来ない輝く星、それは、もしかしたら、一生かけても触れることも掴むことも出来ない互いの心なのかもしれない。

 丁寧に重ねられた食器、ポットのお湯、真っ白なふきん、日めくりのカレンダー。

 この当たり前のように訪れた朝の風景や出来事は自分が思っている以上に、もっと尊いのかもしれない。

 心の深いところから沸々と想いが湧いてくるのがわかった。


 ローザは菊乃の手と自分の手を比べるように眺めた。


 自分は今日誰かのためにこの手を使っただろうか?


 菊乃は感謝してほしいなど思ってないだろうけれど、ローザは感謝せずにはいられない気持ちになっていた。


 もっと一緒にいて、もっと、たくさん話しがしたい。

 その感情に突き動かされるようにローザは立ち上がり、初めて、菊乃に紅茶を準備する。

 冷蔵庫のレモンと蜂蜜を添えて、そっとテーブルに置くと、にこりと微笑みながら、

 菊乃が美味しそうに口にする光景がローザの心を開放させた。

 二人はお昼近くまで話し、菊乃はローザにたくさんの秘密を話してくれた。



 五歳の時に事情があって養女となり、転々としたこと。

 初めて愛した人は元々、病気を抱えていて寿命が限られていたので、二人は学生結婚をしたこと。

 一緒に暮らして、二年後には天国へ旅立ったがとても幸せだったこと。

 そのことがきっかけで発展途上国や先進国、離島、様々な場所に身を置き、精神医療に携わったこと。

 深い悲しみや不安に寄り添ってくれたのは世間から排除される貧しい人や差別に苦しむ人や痛みを持つ人だったこと。

 夜、寝る前に天国に逝った彼を想うと今でも涙が溢れてしまうこと。



 菊乃の人生は悲しみを帯びていたが、寒い冬に射し込む木漏れ日のように優しいぬくもりに包まれていた。



 ガタゴトッ――!



 階段あたりから物音がして二人が視線を向けると、

 溢れ出す涙を両手で押さえながら佐内啓太が立っていた。


「け、啓太さん、啓太さん……。」

 いつも無表情な啓太が別人のように泣いてる。ローザもその涙につられてしまいそうになる。



 啓太は首を上下に揺らしながら肩を震わせていたが、菊乃がいつもの温度の水を渡すとそれを一気に飲み干した。



「話しをきいていました。子どもの頃、僕は学校がとてもとても嫌いでした。僕が教室に入ると蜘蛛の子を散らしたように、みんなが校庭に出た日があります。僕が遊びに誘うと、みんなの答えはいつも用があると言ってましたが、学校の帰り道にみんなが空き地や駄菓子屋に行くのを僕は何度もみています。用事とはなんの事だか僕が聞いても答えてくれたことはありません。僕はとても悲しかったけれども、泣くと、先生が来て、男の子は強くなりなさい。と叱られました。僕は男の子である前に人間です。朝起きると毎日のように枕がびしょ濡れでした。僕はきっと泣きながら寝ていたのだと思います。そんな僕をやがて鎧武者が監視するようになりました。でも、やがてわかった事があって鎧武者は監視していたのではなく僕を助けるために現れたのです。母が死んだ日は悲しいのに涙が出なくてみんなに軽蔑されました。それが余計に悲しかったけれども、鎧武者が涙が出なかった僕のそばにずっといてくれました。とうとう涙が出ない人間になってしまい、冷たい人間で何も通じないとささやかれてみんな僕から遠ざかっていきました。涙の代わりに僕からは言葉だけが次々と心を守る道具のように溢れるようになりました。僕からは涙が出ないはずなんです。それなのに、それなのに、今は、涙が止まりません。僕はこのままでいてもいいのですか。」


「おい、おーい、そんな野暮な質問するのよしなよ。啓太は啓太だよ!涙が復活してよかったじゃん。泣きたい時は泣けばいいんだよ! 私は泣いてる啓太も、風呂場でいちいち石鹸並べてる啓太も好きだよ。どんな啓太も大好きだよ!」


 蓮が流れ星のようなまばゆい光を放ちながら飛び込んできた。

 蓮の声は少年のようでありながら、その言葉はどんな悲しみをもすべて包み込んでしまう母性のようなおおらかさを醸し出していた。


 次の瞬間、


 アーオ!アーオ! 


 しっぽを縦にピーンと上げながら

 梅太郎も階段をトントン降りてきた。



「え、みなさん。もしかして。ずっといらっしゃいましたか?」 

(二人きりだと思ったから菊乃さんのすべてがきけたのに、大丈夫かな。)と

ローザが困惑していると、


「みなさんと言われたからには出てこないわけにはいかないな。」と、諸星あたれがお決まりのツーンとする匂いの液体の入った湯呑を持ちながら、ふらりと登場した。


「先生。」


「先生が言っていた言葉の意味が今はわかる気がします。」


「僕はたいした事は言ってないよ。君が僕の言葉を拾い集めたんだ。言葉は言ったそばから消えていくからね。君は本当にまじめで優しい。そろそろ一度、田舎に帰りたくなって来た頃じゃないかな。」


「わかるのですか?」


「わかるとも。お父さんが帰ってからの君はどこか寂しげだ。お母さんや妹たちにも会いたいなって顔をしているよ。」


 ラサラとアルテと梅太郎が出窓で団子になってローザを見ている。

 見られている。と言ったほうが適切だ。


「私、離れてみて初めて気づいたかもしれません。あんなに窮屈だったのに、今は、違います。年老いた弥助さんにも、今までのお礼がきちんと言えてないんです。会えないまま、死んじゃったら、と思うと胸が苦しいです。」


「その気持ちは大切にした方がいいですよ。」


 再び、菊乃がおもむろに話し始めた。


「また、会える。と思っていても、一生会えなかった。ということはあるのです。 

 私達は儚さの中で生きています。

 ここに花が咲き、庭には蝶々が舞い、空には鳥が飛んでいる美しい世界の真ん中で、人は互いの違いを受け入れず勝ち負けにこだわり、自分の価値基準で判断し、傷つけ合う事がよくあるのです。尊い命を包んだら、私。という存在になります。その、私。をみんなが愛しく思うことが大切だと思いますよ。そろそろ、ローザさん、行きますか?」


 季節外れの風鈴がリリンリリンと風を連れてきてさっきまで泣いていた啓太の涙をきれいに乾かす。

 みんなが揃って、みんなが誰かのために時間を使って優しい言葉を話している。


 菊乃がスッと立ち上がり、

「ふふふ、実はね、お父様からローザさんのお宅にと招待されているのですよ!

 私達全員。梅太郎もラサラもアルテも一緒です。

 さぁ、もうお約束の時間が迫っていますよ。」


 歓喜の声が響いて、一斉に三匹の猫たちも駆け回る。

 シェアハウス大切な花の住人全員と猫たち三匹は二日分の荷物をまとめた後、

 根性坂をくるくると転がるように降りた。


 大切な人達を連れて、大切な人の住む場所に帰る。

 心が躍る。

 涙が出る。



 星野家にたどり着いた。

 思い切り玄関を開けた。 


「ただいまーーー!」


 生きてきた中で一番大きくて明るい声が

 遮るものなど何もない田舎の夜に響き渡った。

 そして、弥助の元にもその声は流れて行った。


 今夜も満天の星がどこまでも広がっている。

 一生かけても触れられない大切な星が田舎と東京の空を繋ぐようにキラキラと輝いている。


 キラキラと!


        ――☆完☆――

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シェアハウス『大切な花』 @Taisetsuna_Hana

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