キャッチャー・イン・ザ・メモリー:失われた彼女を求めて

春泥

彼女を捜して、細部に気を配りながら隅から隅、さらに奥の方まで潜り込む。

 実習生は普通こんな深淵まで探らないものだが、彼はもう何度も彼女の中に入っているので、慣れたものだ。

 彼女の思い出は、とても短い。

 なにしろ、発症したのは彼女がまだ七歳の頃だったから。

 これがもう何度目の捜索なのか、彼は覚えていない。


 彼は巻き戻した彼女の記憶を最初から再生し直す。ビデオテープを早送りするように、彼女の短い人生が高速で流れていく。彼は、赤ちゃんから小学一年生へと変貌を遂げる彼女の成長を見守りながら、その中に潜んでいるはずの彼女を見つけ出そうと注意深く観察している。

 失踪人を発見するには、細心の注意が必要だ。失踪人は、記憶の中の「自分」に入り込んでいることが多い。元より本人である。外見からは、中に失踪人が入っているのか否か、判断が難しい。


 そこで、失踪前、病気になる前の失踪人に関する情報収集が重要となる。これには、家族とか恋人とか、失踪人をよく知る人物から聞き込みを行う。彼女の場合は、彼女の兄だ。五歳上で、完全失踪当時は十三歳だった彼が、仕事で家を開けがちだった両親よりも妹にとっては近しい人間で、父親代わりの存在だったという。

 だから、兄のチトセは、妹ハナの短い生涯の記憶に最も頻繁に登場する人物だ。いや、二人はべったり寄り添っていると言っていい。微笑ましいというよりは、痛々しい感じがするのは、チトセもまだ十三歳という若さで、全力で妹の父親役を務めようとしているところだろうか。


 だがその関係が、ハナの突然の「失踪」によって一変する。

 当然、ハナの記憶は失踪が完了した時点で途絶える。

 彼は記憶を超高速で巻き戻す。

 今日の彼女は、余程用心深く隠れているらしい。


 彼が席を置く高等専門学校記憶探偵養成課程の実習生を彼女が相手にするようになっておよそ十年。現在、彼女が遭遇するのは主にこの五年コースの四年生と五年生である。初めは他の検体と同じように全学年を対象としていたのだが、彼女はこの十年の間に確実に失踪スキルを磨いていた。もはや「一、二年生用の実技検体としては不適切」と講師に評されるぐらいだ。

 彼はまだ二年生だが、筋がいいと講師からも認められており、上級者用の検体での実習が特別に許可されている。

 実習用検体は数年で人工呼吸器を外されることが多い。長期に渡る寝たきり生活からくる身体機能の衰えに加えて、脳の活動も徐々に減退していくからだ。それを考えれば、十年も検体としての務めを果たしている彼女は驚異的と言える。

 彼は、今回彼女を見つけられたら


「もう少し手加減して下級生に優しい検体にならないと、お払い箱にされてしまうかもしれないよ。上級生は普通、校外実習でリアルな失踪ケースで研修を積むからね」


 そう忠告してやるつもりだが、なかなか見つからない。もうかなり奥まで潜っているというのに。

 記憶にもレベルがある。普通の失踪人は、記憶探偵(通称キャッチャー)が自分を捜しに来ることを想定していないから、だいたいレベル1とか2とか浅いところに潜んでいる。そうして、幸せだった頃の記憶に潜り込み、飽きずに何度もその幸せな思い出を経験し続けているものだ。だから、失踪人の親しい関係者に丁寧に聞き込みを行えば、だいたいどの辺りに潜んでいそうか、見当をつけることができる。


 しかし、失踪人として発見される経験を何度も積んだ彼女の場合は、そうはいかない。他者から見ればごくありふれた、例えば庭に咲いた満開のツツジを眺めているだけの五月の午後のひと時などといった瞬間を選んで潜んでいたかと思えば、彼女が五歳の時にクレヨンで描いて子供部屋に貼られていた家族の絵の中の自分に潜伏していたりする。これでは、ベテランのキャッチャーだってそう簡単には見つけられないだろう。


 彼女には、それを楽しんでいる節があった。


 だから、彼がその日何度目かに彼女の人生を巻き戻し再生を始め、彼女が失踪する直前、伏せっているベッドから見た自宅のコンクリート塀の上に丸くなっていた黒猫の瞳に映っていた彼女の像に潜んでいるところをようやく発見すると、彼女はむくれて言った。

「なによ、つまんない。あなたとはもうかくれんぼしないから」

 まるで猫が人間の言葉を発したみたいだ。

 彼は塀の上に腰かけ、猫の頭を撫でた。

「僕以外の実習生には君はまず見つけられない。いつまでも見つからないままだったら、隠れがいがないと思うけど」

「あの人達、頼んでもいないのに、わたしを連れて帰ろうとするんだもの。約束が違うわ」

「そりゃあ、僕たちはキャッチャーだから、失踪人を発見したら、つい捕獲して連れて帰りたくなるよ」

 それでも彼女の意に反することはするつもりがないことを示すために、彼は昆虫採集用の網にしか見えない捕獲網を折り畳んで上着のホルスターに納めた。

「じゃあ、なんでそんなものを持っているのよ」

「これを持って構えていないと、記憶の中ではうまくバランスを保てない気がするんだ」

 猫がごろごろと喉を鳴らして目を細めている。


 このまま、猫ごと網で捕えてしまえば――という考えが一瞬頭をよぎるが、それでは彼女の信頼を裏切ることになる、と却下した。


 記憶探偵養成課程の学科の授業では、失踪人の意思に反して強引に捕獲し連れ帰ったものの、現実世界にうまく復帰することができず、結局自殺や再度の失踪に至った事例がいくつも紹介される。連れて帰りさえすればいいなどという強引なやり方は結局探偵の評判を落とすことになり、顧客の信頼を失うと教わる。

 それでも、なんとかこちら側に連れ戻してほしいと望む家族はたくさんいるのだけれど。連れ帰りさえすれば、あとはどうにかなるから、と。


「今日、チトセさんが来たよ」

 彼の言葉に、猫から発せられる彼女の声はたちまち不機嫌になる。

「また? 何しに来たの?」

「アメリカの研究機関に配属になったんだって。しばらく会えなくなるって」

「なんですって。わたしを一人にするの? 結局、両親と一緒じゃない」

 彼女の声は怒りに満ちていた。


 でも、君が最初にお兄さんを一人ぼっちにしたんだけどね、という意地の悪い言葉は胸にしまっておく。


「チトセさんは、君のお父さんじゃないから。自分の将来のために努力して幸せになる権利がある」

「研究って、オモチャで遊んでるだけじゃないの!」

 正確にはロボット工学だが、彼女が腹を立てているのは、兄が自分の病気を治すために医学の道に進まなかったことだ。

「なによ、わたしをこんなところに放り込んで実験動物みたいにしておいて」

「怒るなら、向こうに戻って直接言うんだね。僕が連れて行ってあげるよ」


 彼は上着の内側から折り畳んだ捕獲網を取り出す仕草をして見せた。冗談のつもりだったのだが、彼女が怯えて金切声をあげたので、猫が驚いて塀から庭に飛び降りた。


「タイチなんか、大っ嫌い!」


 猫がそのままダッシュで逃げようとするので、タイチは時間を停止させた。

 表の道路を走っていた車の音が途絶え、庭の雑草を揺らしていた風も途切れた。

 タイチの胸の奥でむくむくと形容し難い感情が湧き上がってくるのが感じられた。その半分は明らかに怒りであったが、もう半分は――

 猫は自分以外のものが停止したのを見て取り、立ち止まって振り向くと、怒りの声をあげた。

「何するのよ!」

「君は、僕より年上のくせに、未だに幼い子供のように振る舞う。置き去りにされた人達がどんな気持ちでいるかは、どうだっていいのか」

「そっちこそ、全てを置いて逃げ出したくなった人の気持ちなんて、わからないくせに」

 猫はシャーと威嚇音を発して走り去った。 

 静止していた時間が再び動き始める。


 時間が流れ始めても、狭い庭越しの座敷に見える光景は、まるで静止画像のよう。今はまだ兄チトセにだけは目で応じたり、握られた手を弱々しく握り返したりしているものの、ほどなく外部からの呼びかけには一切応じなくなり完全失踪を遂げる八歳のハナが、ベッドに横たわっている。

 発症前のハナは、栗色の髪をした可愛らしい少女だった。症例の大半は大人であるから、彼女のような子供のケースは非常に珍しい。

 縁側の廊下を通って、兄のチトセがやってきた。チトセは妹のベッドサイドの椅子に腰かける。タイチが座っている庭の塀からは、彼の背中しか見えない。

 十三歳のチトセは、妹と同じ栗色の髪をした体の線が細い少年だ。十年後には、長身で穏やかな微笑を湛えた青年に成長する。タイチが直接会ったことがあるのは、青年になってからのチトセだ。


 チトセは初め、「検体」に接触する回数が他の実習生より桁違いに多いタイチに対し不信感を抱いていた。当たり前だ。彼にとっては大事な妹なのだ。両親が妹を研究材料として研究機関に差し出すことにも、彼は反対していたという。

 いよいよ病状が進行し、自発呼吸をしなくなったハナがチューブで機械に繋がれるようになったのは、彼女が八歳の時。植物のようになった彼女を生命維持装置の助けを借りながら一年ほど生かしたのち、両親はある決断をした。


 それは、国の研究機関に娘をすること。そう、医学生の解剖実習のために遺体を献上するのに似ているが、ハナの場合は人工呼吸器に繋がれた状態であった。

 以降、ハナの生命維持費は公費によって賄われるようになった。そして、検体として様々な研究に利用されるようになった彼女は、国家資格である記憶探偵養成課程における実演用ボディとなった。

 彼女の両親にしてみれば、苦渋の選択だったのだと思う。献体に同意する前、腕利きと評判の探偵を雇い捜索してもらったものの誰もハナを連れ戻すことはできず、生命維持装置の使用を続けるには結構な費用が必要だった。ハナの両親は共働きで収入は高かったが、それでも相当な負担であったに違いない。

 さらに、目覚める見込みのない娘が、機械によって肺に送り込まれる空気と点滴による栄養投与によって生かされている小さな体が、ゆっくりと、だが確実に死んでいく姿をただ見守るのは、家族には何よりも辛かったであろう。

 それでも、生命維持装置を外すのではなく、両親は研究機関に娘の体を差し出したのだ。末期失踪患者の新たな治療法が見つかることを祈って。


  *


 目を開くと、目の前にはもうじき二十歳になるハナの体が横たわっていた。

 タイチは大きな溜息をついた。全身の疲労が激しく、大量の汗が流れ落ちている。彼は頭上に掲げていた捕獲網を下ろし、畳んで上着の内側に納めた。

 口も鼻も頭部も腕も、全身を機械に繋がれ、人工的に生かされている者の姿がそこにあった。

 妹を誰よりも愛していたはずの兄チトセが彼女のこのような姿を望まなかったとしても、無理はないと思える。

 彼女が完全に外部からの刺激に無反応になってから十年。同じポーズで寝かせておくと皮膚が壊死してしまうので、定期的に体位を変えて、関節を動かす運動なども行っているが、それでも寝たきりの肉体は静かに衰え、朽ちていく。

 記憶の中で見た栗色の髪の快活な少女は、もうどこにもいない。目の前のベッドに横たわっているのは、髪が真っ白になり筋力が衰えたために萎びて縮んだ肉体。皮膚は乾燥しカサカサ、色は白く、血管が青黒く浮き出ている。老婆のような、赤ちゃん猿のような顔をした、不思議な姿。


「訓練、終わったかな」


 インターホンからの声に、彼は現実に引き戻された。

 壁に設置された大きな長方形の窓ガラスの向こう側から、タイチの捜索中に検体の血圧や脳波のモニタリングをしていた技師がこちらを見ていた。タイチは彼に手を振ってから「終わりました、ありがとうございました」と頭を下げた。

 ドアを通過して技師のいる機械類がぎっしり詰まった小部屋に入ると、技師が言った。

「君は熱心だねえ。ここ数年で稀に見る優秀な生徒だと聞いているけど、休みの日まで訓練だなんて」

「すみません。お付き合いいただいて」

「なに、いいんだよ。どうせ当直だもの。俺の友達の父親がやっぱりこの病気でさ。君みたいな優秀なキャッチャーを育てることに貢献できて、嬉しいんだよ、俺は」

 男は人がよさそうな笑顔を見せる。

 タイチは分厚いガラス窓の前を横切って小部屋を出るときに、もう一度ベッドの上に横たわっている彼女を見た。

「この子も、もう十年こんななんだよな。可愛そうに。どうにか、連れ戻してあげられないのかな。君みたいに将来を嘱望されたキャッチャーでも無理なのかい?」

 中央に置かれたベッド以外は全て、彼女の生命を維持し、バイタルサインなどを測定するための機器だ。殺風景で、温もりが感じられない部屋。

「今はどうにか、見つけることはできます。多分、捕獲することも。でも、本人が望んでいないのに強引に連れ帰ってはだめだと教わっています」

「そうなのか。家出娘を親が無理やり連れ帰ってもまた家出するみたいなものかねえ」

 男は頭をかきながら言った。

「だけど、ここにちょくちょくお見舞いにやって来るお兄ちゃん。両親よりも妹思いみたいなのに、あんな肉親を悲しませても、そこに居たいと思うほど幸せな思い出があるのかねえ」

 それは自分も知りたいことだ、とタイチは思う。だから何度も、ハナとの接触を試みようとしているのかもしれない。


 自分の母のケースとは異なるというのに。


 タイチの母親は、重度の心の病だが、精神失踪症ではないと診断され、記憶探偵療法では救うことができないと言われている。彼女のように壊れてしまった精神の中にはそもそも「失踪人」なるものが存在するかどうかも怪しいと現在の研究では言われている。

 それでも、もしあの少女を連れ帰ることができたら、一歩前進できたような気がするのだ。変わり果ててしまった母、息子のことさえ認識できないような母の脳のどこかには、昔のままの母が隠れているのではないか。そんな気がするのだ。

「伝言、伝えそびれてしまった」

 思わず独り言を呟いた。

 学校は休みだが、訓練のために施設を訪れたタイチは、チトセと鉢合わせしたのだった。


「苦しくなってしまったんです」


 チトセはそう言った。

「今日は目を覚ますか、明日ならば。そんな風に期待しているのが。だから――」

 もう待つのはやめますと静かに言った彼に、自分がきっと連れ戻しますからなどと無責任な約束をすることはタイチにはできなかった。自分がここで修行を積む五年間、残り三年少々で、彼女を捕まえて、こちらへ戻るよう、自分ならば説得できるかもしれないと、何の根拠もないのに、思っているなどとは。


『タイチなんか、大っ嫌い!』


 彼女の声が甦ってきた。タイチの胸がちくりと痛んだ。ただ、世間知らずで甘やかされた子供が癇癪を起こしただけだというのに。

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