05 END
無我夢中で逃げた。
カフェを飛びだし雨が激しく打ちつける
無様な泣き顔をあの女に見られた。
最愛の
涙とも鼻水とも知れぬものが地面に垂れ、ナメクジの粘液のように足跡を汚す。
29年歯を食いしばって駆け抜けてきたつもりが、K1と歳の変わらぬ少女に横取りされ、すべて失ったのだ。
――そりゃそうか。
"誇らしい自分"はもうどこにもいない。結局あの母親の娘だったわけだ。信念もクソもない、人生の不始末を他人のせいにするオバサンの血族。ナメクジの子はナメクジ。
「どこか、楽に」
苦しまず死ねる場所は。
これ以上苦しまなくていいよね。
十分苦しんだよね。
あてどなく歩いた。
気づけば眼前にばぁばの墓があった。
――この期に及んでまだばぁばを頼るのか、私は。
なるほど墓地は高所にある。あの柵の向こうは断崖絶壁。無意識ながらここを死に場所に選んだのか。
「まだ29だっての。だーれが三十路よ」
ひぃひぃ笑いながら墓石を抱いた。
「ばぁば」
痛いくらいの猛雨が清々しかった。
「守れなかった……」
――幸せになれ。信念に従って生きろ
「全部、壊れちゃった」
ばぁばの遺言も、信念とかいうやつも、夫との生活も、仕事も、最愛の恋人も、ぜんぶ、ぜーーんぶ。
「ごめんね、ばぁば。ごめんね」
ふらふらと立ち上がる。
横殴りの雨の中、落下防止の柵を越え、街の全景が眼下に落ちる現世の
これが私の人生。その全部。
急角度に傾いた岩肌が身に迫り、身体が吸い寄せられる。
これがいちばん楽だ。死ぬより楽なことはない。面倒なこと嫌なことすべてがぷっつんしてくれるから。死ねば解放される。不安からも、重りからも、信念からも。
生きるってつらい。
目をつむって暴風雨に身を任せた。
トン、トン、トン
どこかで叩く音がした。
トン、トン、トン
まただ。
目を開けて腹に手をやった。
雨で冷え切った身体の、その部分だけが燃えるように熱い。
「あ」
内側から叩く音。
「そっか。そうだった」
私から分かれたいのち。
確認もせずあなたごと死のうと。
おかしな話だ。
もし妊娠してたとして、お腹の中の赤子が自らのいのちを訴えるのは、もっとずっと後のことだ。
まだ3カ月目。
手足も、意識だってないはずなのに。
「ダメ?」
お腹をさすってみた。
「ねえ、ダメ?」
トン、トン、と二つ聞こえた気がした。
「ははっ……厳しいなぁ」
らくするな、くるしめ。
そう聞こえた。
「結構な無茶振りだよ? 私にはもうなんもない。あなたと変わんない。赤ん坊と同じ」
柵の内側へ戻った。
腹の音はもう聞こえなかった。
狂った幻覚かもしれないけどさ。
病院に行こう。
いのちの存在を確かめよう。
生きるも死ぬも、その後だ。
腹のあたりから高い音が上がった。
でも今度は気のせいでも幻覚でもない。
ポケットでスマホが鳴っていた。
LINEの通知が同時に二件。
『未加、さっきは言い過ぎた、頼むから戻ってくれ』
『みーちゃん。ちゃんと話そう。二人で』
ゲラゲラと笑った。
腹がよじれるほど笑った。
――博嗣さん。土下座しろとまで言ってまだ私が恋しい? 49歳のあなたにとって、これからまた20も年下の相方を見つけるのは困難だもんね? 方々で若い妻を自慢できて、家の中でもメイクして理想の妻を演じてくれて、おならなんてしなくて、バイアグラも効かなくなってきた
――けーちゃん。やさしいあなたが言うんだもん。あのガキ女が本気で好きなんだよね? それでも私に言いだせなかったのは、私があなたにとって……ううん、あなたの"夢"にとって欠かせない女だったから。そうだよね? 100万人ライブ、やりたいんだもんね? ここで私に愛想尽かされちゃ困るんだよね? そしてこのメッセージをくれたのも、たぶんあのガキ女の指示なんでしょうね?
ばぁばの墓石に触れた。
厚い雲の狭間から伸びてきた一条の陽光が、雨粒をまとったばぁばをきらきらと照らした。
「幸せにしてほしいんじゃない」
私が
ばぁばみたいに、私が。
「幸せになるんだ」
自宅のリビングで差し向う二人は明らかに困惑していた。「はじめまして」も「どうも」もない。そりゃ当然。
「未加、これはどういうことだ⁉」
夫とナイショ彼氏はお互いまともに顔も見られず、助けを求めるように視線を未加へと寄越す。
「みーちゃん……いったん外行かない?」
「みーちゃん、だと?」
「あっ、いや」
口を利いたと思えばけん制ばかり。
ふう、と息を吐いた。
「二人共、これを」
未加は用意した紙をテーブルに置いた。
「これは?」
「契約書だよ」
「契約書?」
まずは夫へ告げる。
「あなたは私が好き。私にとっては2番目」
次に恋人へ告げる。
「私はあなたが好き。あなたにとっては2番目」
そして二人へボールペンを差し向けた。
「――博嗣さん、私と離れたくないなら、20歳下の若妻を抱き続けたいなら2番を受け入れなさい。仮面夫婦を演じなさい。――けーちゃん、金が必要だよね? 夢を叶えたいなら私の欲望を満たしなさい。1番の彼女にナイショで、私とこれまで通り恋人として。子どもは三人で育てる。契約を破ったら会社に全部バラす。三人仲良く破滅だね」
「君、それは……」
「そんな、みーちゃん……」
「私は
愛おしくお腹をさすった。
這いつくばってでも幸せになる。
この子と、男共と。
「さあ、どうするの?」
――――『世界で2番目にきみが好き』
世界で2番目にきみがすき サン シカ @sankashikaku
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