元勇者は掌ですべてを語る


元勇者は秘めたる想いを口にしないの過去話です。





* * * *











「アルムフェルト陛下、行って参ります」


「あぁ、死ぬなよ、ナツキ」


「そんな顔をしないでください。……大丈夫、そう簡単には死にません」


「そう、だな。……皆を、頼む」


「お任せを」




 洗練された所作で一礼し、踵を返して謁見の間から去っていくナツキ。

 ピンと伸びた迷いのない背中を見送るのは、何度目だろうか。

 今回もまた、腰まである濡羽色の髪を靡かせながら、屍が折り重なる戦場を駆け抜けるのだろう。

 それを遠くから見つめることもできない自分が、酷く不甲斐ないもののように思えた。






 * * * *






 夜の帳が下り、儚い虫の声と細々とした話し声だけが辺りに木霊する。

 夜明けと共に戦の先陣を切ることになっているナツキは、一足先に会議を抜けて身体を休めていた。

 連日の戦で気が高ぶっているのか、未だ目が冴えたままのナツキは、布を広げただけの簡素な天蓋の下で、ゴロリと寝返りを打つと、自身の手を何気なく見つめる。

 剣を握りすぎた掌は女にしては随分と皮が厚く、指の関節も以前比べ、些か太い。拳を握ると硬くなったタコがざらついて、下手な男よりもよほど男らしい手になってしまっていた。


(これじゃあ昔買った指輪なんかは全滅だろうな)


 ナツキは元の世界に置いてきた指輪のことを思い出しながら苦笑する。

 飾り気のない指はカサついて、所々に小さな傷もある。こんな怪我、傷薬を使うまでもないとついつい放置してしまう為、手にはいくつもの傷痕が残ってしまっていた。


 この掌は、ナツキが歩んできた人生を如実に物語っている。元の世界からこの世界に渡ってきても、変わらず剣を握っているのだと知らしめるように。


「また、人を殺した」


 誰に言うでもなく呟いた言葉は、闇に包まれ静けさが増した陣営では思いの外響き、それを誤魔化すように小さく咳払いをした。

 火の番をしてくれている騎士や兵たちにこんなことは聞かせられない。



 ナツキが神子として召喚されてから既に半年が経っていた。


 召喚されてしばらくはこの世界についての知識を学んだり、元の世界とは似ても似つかない環境に慣れることに時間を費やしていたが、ひと月も過ぎる頃にはこの世界の魔術もある程度使いこなせるようになり、騎士や兵たちと混じって鍛錬に励んだ。


 女が戦に関わることを良しとしない連中が、妨害や嫌がらせまがいのことをしでかしたことはあったが、強くなることへの愚直なまでのストイックさと、誰を前にしてもけして驕ることのない態度に、彼女を罵る戯言は次第に消え、騎士団の面々を始めとして少しずつ神子として認められていった。


 オーランシアの騎士団は、戦闘力のある獣人達が住まう国だけあって戦力も高く、一人一人が非常によく錬られている。魔物討伐だけでなく、人族至上主義を掲げた国からの侵攻も度々ある為、戦場での動きも機敏で、戦況によってはアドリブも利くような粒ぞろいの精鋭が揃っていた。

 そんな彼らと戦場を駆けることになったのは今回で何度目だろう。



 ナツキは見つめていた掌を下ろしながら小さくため息を吐く。


 魔の者を屠り、魔に堕ちた女神サーナの心を救済するた為に喚ばれたはずのナツキが、こうして人族の国であるザクタール帝国と剣を交えることになったのは、魔の者が皇族達をそそのかし、裏で操っているという情報が耳に入ってきたからだ。元々人族至上主義国であったザクタール帝国が、このオーランシアに何もしないわけもなく、案の定兵を率いて侵攻を始めた。


 手を貸しているだろう魔の者としては、国同士が争えばたくさんの命が消え、世界の滅亡にまた一歩近づく。魔王サーナの目的を邪魔する目障りなオーランシアを、ひいては神子の命を戦で潰すことができるのなら尚更よいとでも考えているのだろう。


 女神救済に協力すると言った以上、それに関わる戦闘は避けられないし、アルムフェルトと交わした約束は何があっても守らなければならない。それはナツキがこの世界に居続ける為には必要なことだから。

 ナツキにとって同族が相手であっても、彼女からしたらアムルフェルトが居るオーランシアの方がよほど大切だ。むしろ魔の者に魅入られていいように操られるボンクラ共には早々に退場してもらいたいとさえっている。


 人を斬ることにも躊躇いはない。元の世界でも異世界から来た侵略者を相手に似たようなことをやっていたし、望んでいた日常を手にすることができるなら、手段は選ばないと決めていた。

 けれども剣で相手の身体を貫く度に、その感触が掌を伝わってじわりとナツキの心を侵す。この感触だけは、どれだけこなしたところで一向に慣れなかった。



 この世界でナツキだけの居場所を作ると約束してくれたアルムフェルト、彼の信用を裏切りたくないと思い始めたのはいつ頃だったか。

 勇者と言う責務から解放されても、こうして剣を握り続けているのは、女神を助ける為というだけではない。

 元の世界には無かった温かさを教えてくれたオーランシアの人々。獣人故に強靭な肉体を持ち、自分達の主が規格外の魔力の持ち主であるからか、ナツキに対しても化け物とはけして呼ばなかった。ナツキの人柄が周囲に知られた頃には、気安く声をかけてくれる者も現れ、他愛のない話もできるようになった。

 それだけでどれだけ心が救われただろう。

 いつしか守りたいと思ってしまうようになり、そんな自分に戸惑いながら剣を振るう。そんな日々も悪くはないと思った。


 勇者と呼ばれていたあの頃は、自分以外は皆死ねばいいとさえ思っていたが……随分と丸くなったものだと心の中でごちる。



 物思いに耽っていると、手首を飾っていた鈍色の腕輪が淡い光を放った。

 ナツキは身を起こしてから腕輪に魔力を通すと、腕輪を覆う光がそれに反応するように数度瞬いてから腕輪から離れる。そして耳の辺りにふわりと留まると、聞き馴染んだ声が耳元でナツキの名を呼んだ。



『ナツキ』


「……陛下」



 精悍な容姿に似合う涼やかな声は、腕輪を通しても魅力を損なうことなくナツキの耳にスルリと入る。


「このような時間に私に直接繋ぐなど、どうされたのです?」


『……少し戦況が気になってな。影からの報告だけでなく、前線に出ているナツキから直接話を聞きたいと思ったのだ』


「そうでしたか……。こちらでしたら問題ありません。死者、怪我人共に少なく、未だ士気も高いです。あちらの軍を率いている者の実戦経験が浅いのか、やけに馬鹿正直に攻めてくるおかげで戦況が読みやすいんです。ですから予想よりも遥かに優勢で……順当にいけば、不毛な戦も明日には終るでしょうね」


『そう、か』


 ナツキの言葉に、アルムフェルトはホッと胸を撫で下ろしたような柔らかな声でそう呟く。


「だから安心して玉座でふんぞり返っていてください」


『……はは、そうだな。頼りにしている』


 おどけた物言いのナツキに小さく笑いを零したアルムフェルトだったが、その笑いにはどこか塞ぎ込むような響きを湛えており、不思議に思ったナツキが思わず彼に問いかける。


「陛下?」


 腕輪の向こうから聞こえた僅かな溜息は気のせいなどではなく、彼の精神状態が普段よりも綻んでいることを表していた。


『いやな、そなたにばかり負担をかけさせて、己はこうして城の中に留まることしかできないと言うのが、なんとも歯痒くてな』


「そのようなことは……」


『時折思うのだ。……この力は何の為にこの身に宿ったのかと。畏怖されるような力を持ち得ても、国と民を守る為には、たとえ不死に近い存在とされている私でさえ、己の身を優先せねばならない。完全な不死ではない以上、治癒が追いつかないほどの傷をつけられれば恐らく命を落とす。次代の王になれる器が居ない今、私が死ねば国は傾き、民が無用に傷つき、そして荒れる。だからこそ玉座から離れて戦に出向くことなどできないのだと、そう頭では理解はしている。しかし……感情は別なのだ』


 聞けばアルムフェルトがまだ王太子であった頃、魔物討伐や戦の度に率先して前線に出ていたのだと言う。

 それが先王の突然の逝去によって、転がるように王と言う立場になり、守る側から一転して守られる側へと変わってしまった。

 彼の思う歯痒さは、恐らくそういう経緯があるからだろう。守ることを知る者は、守られることに慣れず、戸惑いを覚えるものだから。


『そなたばかりを戦わせて、玉座に座っていることしかできない自分が恨めしく思う。本当なら、そなたの隣に立ちたかった。共に皆を率いて、女神の救済に少しでも助けになれたら良かった。これだけの力を持ちながらそれができぬのは、なんとも悔しいものよ』



 あぁ、この人は本当に、なんて不器用な人なのだろう。


 言葉の端々に自嘲を滲ませるアルムフェルト。彼の言葉を聞いたナツキは、心の底からじわじわと湧き上がる熱にどうしようもないほど胸が詰まる。

 彼がただ誠実であるだけではないと言うことは知っている。清廉なだけでは国など背負えない。だからこそナツキを送り出し、重要な駒の一つとして戦場に身を置かせた。

 けれども其の実、自分の都合で喚び寄せてしまったナツキを想って憂いてくれていることも知っている。

 優しいが故に苦しみ、非情になりきれないが故に歯痒く思う彼の弱さが、ナツキには好ましかった。


「……ありがとうございます。陛下」


『何故、礼など。私はそなたを人族との戦に利用しているのだぞ?』


「私もこの世界で居場所を作る為に、陛下を、この国を利用しています。それに、この戦は魔の者達によって引き起こされているもので、けして関係ないわけではありませんから」


『そう、なのかもしれないが。そなたはよいのか?』


「私にとって、彼等は同じ形をしていると言うだけ。どんな国かも知らないし、面識がない上に、こうして魔の者にそそのかされるくらい迂闊な者達に、良いも悪いもありません」


『はは、随分と手厳しいな』


 ナツキの言い分に、アルムフェルトは困惑しながらもどこか納得したように笑う。



「私は、あなたが後のちの為に他の貴族の方々を抑えてくれたり、なるべく自由で居られるよう根回しして下さっているのを知っています。種族関係なく、いち個人として扱って下さる、それだけで嬉しくなるような人間なのですよ。私は。……この力が破壊の為だけではなく、何かを守る為にあるのだと誇る日が来るとは思いませんでした。だから、ありがとうございますと、そう言いたかったのです」


『ナツキ……』


「私には私にしかできないことがあるように、陛下には陛下にしかできないことがあります。……案外陛下のお力は、ここに私を召還する為に神から賜ったものかもしれませんよ? だとしたら、陛下のお力は、ちゃんと守る為に使われたということ。必ず生きて帰りますから、陛下は安心して兵を労う準備でもしておいてください」


 ナツキは声にありったけの自信を乗せて、アルムフェルトにそう告げた。


『……あぁ、待っている』




 この時の彼は、一体どんな顔をしていたのだろう。

 人前ではけして弱音など吐けない立場であるアルムフェルトが、こうしてナツキにだけ脆い部分を見せてくれるのは、きっと似通った部分があること心の何処かで感じ取っているからなのだろう。

 虚勢を本物に変える為に、踏ん張るように地に足をつけ、唇を噛み締めながら生きている。

 そうして自分を隠しながら責務を全うしようとする姿は、昔のナツキとよく似ていた。

 違うのは、アルムフェルトの周囲にはごく当たり前の優しさが溢れているということ。

 だから彼は大丈夫、信用するに値する人物だと、そう思えるのだ。



『ナツキ』


「なんでしょうか、陛下」


『私のことは、アルと……そう呼んでほしい』


「へ、陛下……それは」


『呼んでほしいのだ。私の周りには、もう私を名や愛称で呼ぶ者はいない。だから……せめて人が居ない時だけは、アルと』


「……わかりました、アル」


『ありがとう、ナツキ』




 それから軽く言葉を交わしたのちに通信を切ると、身を横たえて目を閉じる。



(アル……かぁ)



 心の中でそう呟くと、少しだけ気恥ずかしさを感じて誤魔化すように寝返りを打つ。

 彼に宣言した結果をもぎ取る為に頑張らなくてはと、頭の中で明日の作戦を思い返しながら、身体を丸めて眠りについた。







 * * * *





「見て!騎士団が戻ってきたわ!」


「神子様ー!おかえりなさーい!」




 王都の通りを凱旋する騎士団の面々。その表情は一様に明るい。

 故郷に帰り着いた安堵と、取り囲む民達の手厚い歓迎に、普段は無愛想な強面揃いの男達も、この時ばかりは終始柔らかな笑みを浮かべていた。

 その中で一際目立っていたのは、上等な馬に跨り、長い黒髪を風に遊ばせているナツキだ。

 彼女は少女らしいあどけない笑顔を作り、周囲に期待に応えるように手を振る。





 数週間かかると思われていたザクタール帝国との戦も、オーランシアの屈強な戦士達を前にあっけなく幕を閉じた。

 あちらは数に物を言わせて侵攻してきたが、こちらは一人一人が精鋭揃いだ。

 先陣を切ったナツキが大量の魔力を注ぎ込んだ剣で一閃し、陣形が崩れたところを一気に畳みかけて、相手の戦力の大半を時間をかけずに削ぎ落とした為、大規模な戦の割にはオーランシア陣営の被害を最小限に留めることができた。



 凱旋を終えて城に到着後、支度もそこそこに騎士団の団長達と共に謁見の間に通された。そして玉座の前で膝を折り、定例に従ったやりとりを終えると、彼等と別れてナツキだけ別室へと移る。

 皮張りのソファーに腰かけて、香りのよい紅茶を楽しみながら時間を潰していると、扉を開けてアルムフェルトが入ってきた。

 彼は立ち上がろうとするナツキを制して向かいのソファーに座り、ふぅと息を吐く。



「ナツキ、改めてご苦労だった。今回も随分と活躍したそうだな」


「いえ、皆の働きがあってこそですよ、陛下」


「……この場ではアルと呼んでほしいのだが」


「うっ、わかりましたよ、アル」



 久々に見るアルムフェルトは、少しばかり疲れている印象を受けるものの、整った容貌は相も変わらず美しい。艶やかな黒髪に埋もれた獣の耳も、ソファーの上で軽く揺れる狼の尾も、別れた時と同じように滑らかな毛艶をしており、身体に不調があるわけではなさそうだ。

 彼はナツキの視線も意に介さず、上から下までじっくりとナツキを見つめると、何の怪我もないことにホッと胸を撫で下ろした。



「怪我はないようだな」


「怪我するほどのことでも無かったですからね……。何と言いますか、あちらの将軍は随分と、その、素直な方だったようで、正直陣形も何もあったものじゃなかったです」


「あぁ、報告は受けている。……どうやらあちらでも色々とあったようでな。実際に軍を率いていたのは金で地位を買った男だ。前の騎士団長は今のところ行方不明らしい。足取りは掴めなかった。……今回の侵攻、どうにもきな臭いな」


「……えぇ」


 アルムフェルトの言葉を聞きながら、ナツキは思案するように持っていたカップに視線を落とす。

 侵攻してきた割には統率も何もあったものではなかった。杜撰ずさんで、行き当たりばったりな穴だらけの侵攻。ナツキ自身も手ごたえの無さにきな臭さを感じていた。もうしばらくは注意が必要だろう。



「しかしそなたが兵力を削いでくれたこともある。ザクタール帝国もしばらく表立って仕掛けてくることはないだろう」


「そうですね……そうだと、いいんですが」



 どこかすっきりとしない結末に、一抹の不安を感じつつもカップに口をつける。少し冷めた紅茶で喉を潤し、沈みかけていた思考を現実へと引き戻した。


「ナツキ、話は変わるが、何か欲しいものはあるか?」


「は……欲しいもの、でございますか?」



 アルムフェルトの言葉に思わず気の抜けた顔をしてしまったナツキは、すぐに取り繕うように咳払いをすると、アルムフェルトの言葉を繰り返す。



「あぁ。そなたには随分と負担をかけているだろう? 衣食住の他に、何か必要なものがあったら言ってほしい。できうる限り用意しよう」


「そんな……そこまでしていただくほど、まだ結果を出せてはいません」


「いや、そなたには受け取ってほしいのだ。そうしなければ他の兵達にも褒美を取らせることができんからな。此度の侵攻を阻止したことで、ひとまずオーランシアの危機は遠ざかったと言えるだろう。オーランシア側の被害は最小限に抑えられ、女神救済に向けて余力を十分に残すことができている。それは立派な功績だと思うが……違うか?」


「……いただきます」


「うむ。では、何が欲しい?」



 突然何が欲しいと言われても、ナツキはそんなことを思いながら頭の中で必死に欲しいものを探す。

 元々それほど物欲があるわけではない。普段は城の一室に滞在しており、そこに用意されているもので身の回りのものは十分事足りている。

 武器や防具は国からきちんと支給されているし、食べ物にしても満足しており、元の世界の食事が恋しいと言うわけでもない。


 ナツキはううんと小さく唸りながら膝の上でなんとはなしに指を遊ばせる。

 年頃の娘にしては飾り気のない手。筋張った指には傷こそあれど、目を惹かれるような装飾は一切ない。


 ナツキの脳裏に、遠征の夜に何気なく思い返したことが過よぎった。



「……指輪……」


「指輪か?」


「あ……いえ、その」


「そういえば、そなたの指には嵌まっていないな」


「元の世界に全て置いてきてしまいましたから」


「……すまない」



 ナツキの言葉に、アルムフェルトはくしゃりと顔を歪めると、心底申し訳なさそうな項垂れる。耳もペタリと下がり、振られていたふさふさの尻尾も、今はソファーの上でだらりとしている。

 こんな顔させたいわけではないのにと、ナツキは慌てて手を振りながら取り繕うように言葉を続ける。



「いえいえ!どうせ持っていたところで入らないんですから、いいんです。ただちょっと、遠征の時にそんなことを思い出してしまっただけで……特に欲しいと言うわけでは」


「遠征の時に?」


「えぇ。アルから連絡をいただいた日ですよ。ただ……自分の手を見て、昔買った指輪はもう入らないんだろうなって、そう思っただけですから」



 そう言いながら膝の上に乗せていた手を開く。お世辞にも綺麗とは言えない掌は、年頃の少女と並べたら圧倒的に劣るだろう。


 ここに来てから傷の治りが異常に早くなったおかげで、手にある傷のほとんどは瘡蓋ばかりだが、前の世界で負った傷痕はそのままだ。爪も邪魔にならないように短く切られ、最低限にしか整えられていない。


 元の世界で剣を握るようになってから、ずっとつけていた指輪を外した。表立っては握る時に邪魔になるという理由からだったが、本当は違う。

 こんな力が発現していなかった頃、本当にごく普通の少女として暮らしていたあの頃の自分と、別れを告げる為だった。



「見せてみろ」


「え?あの……」


「いいから」



 アルムフェルトはナツキの焦るような声を無視して彼女の手を取ると、そっと壊れ物を扱うように優しく触れる。そして開かせた掌に視線を落とし、瘡蓋になっている部分に軽く自身の指を這わせた。そのくすぐったいような感触に背筋がぞわりとして、ナツキは思わずきつく目を瞑る。


 なんだかいけないことをしている気分になるから止めてほしいのだが、彼はナツキが狼狽える姿を楽しむように、彼女の掌で遊ぶ。

 手を振り払うわけにもいかないし、かと言ってこのままで居るのもなんだか恥ずかしい。

 異性に囲まれて生活しているからと言っても、ある程度の耐性があるだけで、けして鈍感と言うわけではないのだ。相手の好意には気が付くし、アルムフェルトと触れ合うことに羞恥心を抱くくらいの女心は持ち合わせている。

 戦いにそんな感情を持ち込まない為に普段から心をセーブしているだけだ。



「ここ、傷ができている」


「もう治りかけてますから……あの、アルに見せるような手ではないですし、恥ずかしいですから、そろそろ離していただけると」


「指輪が欲しいのだろう?」


「そう、だとしても……アルが私の手を握ることとは関係ないですよ、ね……?」


「……チッ」



 彼は小さく舌打ちをすると、スルリとナツキの手を離した。

 ナツキはすぐさま手を引くと、頬の赤みを感じてフイと顔を逸らす。自由になった手で赤みを隠すように頬を擦りながら、ホッと息を吐いた。



「あまりからかわないで下さい。こういうのは慣れてないんです」


「ははは、ナツキもそういう顔をするのだな」


「それはそうですよ。一応女ですからね。忘れてたとは言わせませんよ?」


「わかっているさ。……そなたの手、私は好きだぞ」


「え?」


「それは誰かを守る手だ。努力を怠らない手だ。そして己を律することのできる手だ。……そなたの掌に刻まれたものは、そなたの歩んできた歴史と同じよ。それのどこが恥ずかしい。―――私はその手を美しく思う」



 アルムフェルトの凛とした眼差しが、ナツキを捉える。

 真っ直ぐでいて優しい紺碧の目は、狼のような獰猛さを宿してはおらず、凪の海のように穏やかだ。

 そんな瞳に晒されて、あまつさえ自分の欲しい言葉をくれた彼を、意識しないわけがない。


 けれどもナツキは、スッと彼から視線を外すと、静かに頭を下げる。



「ありがとう、ございます」



 気が付いてはいけない気持ち。これを周囲に知られたらきっと、利用されてしまうから。

 始めに交わした約束がある限り、結ばれることはありえない。これはナツキ自身が選んだことだし、今でも後悔はしていなかった。


 お互いに、弱みは少ない方がいい。

 少なくとも女神を救うまでは、余計な感情ひとつで命を落とす。そんなことになったらきっと、アルムフェルトは自分を責めるだろう。召喚してしまったことを心の底から悔いて、それが彼の弱さになる。


 だから、余計な感情はいらない。


 ナツキは頭を上げ、いつも通りに微笑んだ。



「指輪、楽しみにしています」


「……あぁ」



 アルムフェルトもまた、ナツキの笑みにつられるように人好きのする笑顔を浮かべる。


 年頃の少女の手ではないけれど、それを誇りに思ってくれる人がいるのなら、この掌が刻んできた目を背けたくなるような歴史も、存外に悪くはないと、そう思った。









 END









********


ナツキ


腰まで伸びた黒髪に黒い瞳。背はやや小さめだが、スタイルはそこそこ良い。

猫のようなきつめの目元にはほくろが二つ。

現代に近い世界で勇者をしていた少女。

異世界からの侵略を阻止するために、この世界で少女だけが持つ唯一の力を使い、常に前線に立って戦い続けていた。説得(物理)が得意。


この頃にアルムフェルトへの好意を自覚したが、度重なる戦に加え、女神を救済するための道の険しさから、恋愛感情に現を抜かしている暇はないと、とっとと気持ちを押し込めてしまう。

この頃はまだ自身の身体の変化に気が付いておらず、前より傷の治りが早いなぁ程度に思っている。




アルムフェルト


黒髪に紺碧の瞳。彫刻のような美しさを湛え、王特有の威厳もあって近寄りがたい。

長身でしなやかな肉体を持つ美青年。

オーランシア国の王。正気を失った女神と、彼女によって蹂躙される世界をどうにかしようと、大規模な召喚術を行使し、ナツキを召喚する。

責任感が強く、王でありながら、時に頭を下げることを厭わない実直な性格。

アストリアスを創造したラキュサリア神の眷族、天狼の末裔であり、自身も巨大な漆黒の狼の姿になることができる。

規格外な魔力を持つ為に不老化しており、全盛期の姿から成長していない。傷もすぐに治る為、ほとんど不死に近い存在。


この頃にはすでにナツキに好意を抱いている。異世界から招いた神子という立場から、部下でも民でもないナツキに、ポロポロ弱音を零しては励まされている。王になる前は騎士団とともに魔物討伐やら治安維持やらを積極的に行っていた為、王として行動を制限されてしまうことに歯がゆさを感じている。


ナツキに送った指輪は、シンプルながらも、自分の瞳と同じ紺碧の宝石を埋め込んだ、独占欲丸出しの一品だったりする。

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